八十路の旅

平成20年8月3日、満八十才、傘寿になり、八十路の旅を、徒然なるままに記してみよう。

至福

2018-01-12 16:53:29 | Weblog

<「至福のひととき」が変わる>

  私は無類の風呂好きである。およそ365日、毎日風呂に入った。首まで湯につかり、無念無想をきめこむと、心の底から生きている喜びを感じた。ブログにも、たびたび「至福のひととき」と記している。カゼは引きかけたときに、風呂に入る。でも長風呂はダメ。さっとあがって、体をふく。・・・一日の仕事を終わり、寝る前、10時頃に、風呂に入った。

  風呂は井戸水からポンプで吸い上げ、瞬間湯沸かし器で沸かす。それは家を改築した昭和45年頃から続いている。もちろん、ポンプや湯沸かし器は、何度か新製品に取り換えた。

  井戸水を使っているのは風呂だけで、炊事洗濯など、すべては市の水道水である。離れの倅夫婦の家は、もちろんすべて市水道。まあ、井戸水を使っているのは、わが家の風呂と、前の畑(1号田)などの水やりである。

  さて、風呂に入り「至福のひととき」を味わい始めたのは、無農薬で自給自足の野菜作りを本気でやり始めたときである。古希を過ぎてからだろう。70才台は実によく働いた。手、足、膝、腰などフル回転。そして、風呂に入って、「至福のひとときを」を味わう。80才代は、肉体労働はかなり減少したが、それでも風呂で癒せた。

 ところが米寿を過ぎた頃より、時々長風呂は体に良くないことに気が付いた。夏場はそれほどでもないが、特に冬場は、体温の変化が激しいので、ちょっと体に異常を感じ始めた。

  つい、この間、70才になったばかりの青年(私から見れば)が、風呂から上がり、その場で倒れ、亡くなった。大変身近の話で、無神経な私の頭のシンにピクリときた。「風呂は危険だぞ!」

  それ以後、入浴の際は、家内ともども「ただいまから風呂に入ります」と、申し合わせて、入浴を楽しみ、私は「至福のひととき」を味わった。あまり長風呂になりそうだと、「あなた、生きとってですか?」と、扉を開けて家内が笑った。

  ああ、その笑いは今はない。私が全くの一人で、風呂を沸かし、風呂に入り、温まる間もなく、さっと上がって、さっと着替える。冬の季節の風呂は、脱衣場と風呂の温度が違うので危険との話。・・そうです。年末に、2回ほど、頭がクラクラしたことがあった。

  いまや、風呂で「至福のひととき」を楽しむことはできなくなった。風呂場にタオルを持ち込み、風呂場で体を拭き、脱衣場へでる。暖房はしているが、さっとパジャマに着替えて、そのまま、居間のベッドに横になる。飲み物を飲みながら、テレビをみる。・・いまは、その時が「至福のひととき」といえよう。

  どっこい、生きてるぞ、と感じる瞬間だ。・・寝る前に、もう一度、部屋の隅々、電源、スイッチの点検、水道栓、ガスなど、人差し指で、いちいち「これで良し」と確認して眠りにつく。(そやけど、ストンとは寝られないのだが)

  この人差し指の動作は、何故かプラットホームの駅長さんの姿を連想してならない。


<むちゃくちゃに働いたぞ>

  1月11日、朝から快晴。でも寒さは厳しい。午前8時ごろ、一面に霜がおりていた。

  「よし、今から、ダイコンの保存、ハクサイの収穫をするぞ」、独白。天気予報では、土曜日にかけて寒波襲来、雪害あり、と報道されていた。「天気よし、今のうちや」と思うのは人情。

  老齢、独り身、なんのその。完全武装して田んぼにでた。・・まずは2号田のダイコン20数本。畝の土にいけた。(近所の人に、ダイコン、ハクサイ、カブラなどを献上した。カブラは大好評。)

  午前10時ごろから昼までの、約2時間をダイコン保存。午後2時から午後4時ごろまで、約2時間でハクサイの収穫。納屋に持ち運んだ。

  午後4時ごろ、急に疲れがでたのか、疲労困憊。・・ともかくベッドで横になった。その時は「ムリをしたな」と自嘲。でも爆睡。午後6時ごろ、目を覚ますと、腰の痛みが消失。ともかく寝るこっちゃ、と思いながら、ムリは絶対ダメと自分を戒めるジロ爺さんである。 

☆ダイコン保存用の穴掘り。1月11日、午前10時写。・・上下防水用の作業衣を着用、膝にサッポッターをして、完全武装。スコップと鍬を使用。

 

☆(左)25本のダイコンを穴に寝かせる。葉っぱは5cmぐらい残して切る。(10cmという説もあるが、あまり大差はない)1号田の漬けもの用のダイコンも、一緒に保存。5,6本は近所の人に分ける。11:30写。

☆(右)土をかぶせ、もみ殻を上からかぶせて保存終了。3月までもつ予定。(凍てとスが入るとダメ)もう少しもみ殻をかぶせる必要あり。11:40写。・・午後2時ごろから、隣の寒冷紗のハクサイも、全部収穫した。そしてダウン。

 

☆(左)1月11日、午前9時、霜がおりた庭先のサツキの葉。ちょうど陽が射し、きらめいていたが、撮影に失敗。結晶がうまく取れなかった。深呼吸は十二分に実施。

☆(右)1月11日、午後2時から4時ごろまで、1号田、2号田のハクサイを全部収穫した。40個近くあったと思う。今年のハクサイは、少し小ぶりだが、まあ、こんなものだ。10個ほどは近所に配る。・・そして、体に異常を感じて、這う這うの体で、コタツに入り睡眠。・・・目を覚まして時計を見ると6時過ぎだった。

 

<食生活が生きる基本だ>

  倅夫婦がともに働いているので、毎日は一人暮らしだ。だいぶん慣れてきたが、時としてそっと寂しい風が吹く。仕方がない。

  それにしても、倅の嫁は大変だと思う。朝ごはんの世話をし、掃除洗濯(離れ)を済ませて働きに出る。仕事を済ませて帰宅するのは7時ごろになる。わが家の炊事場で夕食の準備をして、3人で夕食をする。それが月から金までのパターン。兼業主婦というのだろうか。昔から主婦業は大仕事。育児・食事だけでも大変であるが、男性並みの仕事をしながらの主婦の仕事をこなすのは、言葉では表現できないほどの多忙。

  しかし、ここ10年程前から、昼食は「調理済み惣菜」が宅配されるようになって、少しは嫁の負担も減少しただろうか。いまは、私一人が宅配昼食をいただいている。したがって、ご飯ごしらえは、殆どしなくていい。でも、洗濯、食器洗いなど、後かたずけは、私がきっちり実行。

  今から思うと、嫁と姑は犬猿の仲だというが、ウチの場合、二人が言い争った姿を見たことがなかった。何でも、二人で仲良くやっていたようだ。どちらも「えらかった(賢い)」と思う。

  一人になって、やっぱり生きる基本は食生活にあるとしみじみ思う昨今である。

 

☆(左)1月11日、昼食・「宅配惣菜」(豚肉炒めとサラダ)。大根おろしとタクワン漬けは私の料理。ご飯は7分。完食。

☆(右)1月12日、昼食・「宅配惣菜」(八宝菜と春巻き)。大根おろしと左はカブラ漬け(べんりで酢使用)は私の料理。ご飯は7分。勿論、完食。 

  まあ、昼ご飯は、大体こんな調子だ。一人で箸をうごかすのは寂いいぞ。でも、しゃない。(仕方がない)

 

<やっぱり雪が降った>

  1月14日、朝起きると雪が積もっていた。2cm程度。このぐらいの積雪は、田畑にあまり影響はない。雪は午前中に溶けた。朝の内は陽が射したが、午後は曇りで、雪模様。

  1月14日、倅の嫁が作ってくれた朝ごはん(パン、豆乳、リンゴ)を、いただいた。朝食は、退職後、20数年、大体、このような状況。・・・11月14日、朝までは、ほとんど毎日、家内の手作りだった。・・(でも、時々、味噌汁とご飯の場合もあったことを付言)

  午前9時ごろに、新聞を取りに行く。それから、洗濯機を回す。乾燥までは午前中を要する。手間はまったく不要。全自動の おかげ。朝食の後片付け・皿洗いなどを実行。(時々、ヒーターに灯油を入れる)・・パソコンを開いて文書の整理。すぐ、昼になる。結構忙しい。

  午後は必ずチャンバラ劇を観る。午後3時ごろ、余力があれば畑仕事。まあ、今のところ余力はない。ぶらぶら、うろうろしながら、ブログのキイをたたき、晩御飯をいただき、午後7、8時ごろからはテレビを観て、午後10時に、風呂の準備をして、風呂に入り、まあ、午後11時ごろには眠りにつく。・・そんな日がいつまで続くのか?
  できるだけ、ぶらぶら、うろうろすることだけは心がけようと思っている。
   ジロ爺さん!今朝の新聞の見出しに、「一流の老人」という本が出ていますよ。いやあ、ワシや「三流の老人」やがな。・・・近く、山崎武也著「一流の老人」を求めに、本屋に行きますよ。

☆1月14日、午前8時、サッシ窓から積雪の裏庭を撮った。これで3度目かなぁ?  いつもの景色である。

 

☆1月14日の朝ごはん。本日は豆乳・ブドウ入りの食パン・夜間瀬のリンゴ。 黒いのは黒ニンニク(農作業を手伝ってくれるKさん作)。一日、1個~3個いただく。健康食だ。

1月14日、朝9時ごろに作動させた全自動の洗濯機。まったく、スイッチ2回の操作で、洗い、乾燥までしてくれる。勿論、取り入れや、洗濯機のつまりものの掃除などは、ジロ爺さんの仕事。

 

 

 

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回想

2018-01-05 20:38:41 | Weblog

<思い出の抽斗(ひきだし)>

  五木寛之著「孤独のすすめ」に次のような一節があった。

{・・・弱っている人や衰えている人に、「積極的になれ」「前向きにポジティブに生きろ」などというのは、むしろ残酷なことではないかと思ってしまう。・・・だとすれば、後ろを振り返り、ひとり静かに孤独を楽しみながら、思い出を咀嚼したほうがよほどいい。回想は誰にも迷惑をかけないし、お金もかかりません。繰り返し昔の楽しかりし日を回想し、それを習慣にする。そうすると、そのことで錆びついた思い出の抽斗が開くようになり、次から次へと懐かしい記憶がよみがえってくるようになる。はたからは何もしないように見えても、それは実は非常にアクティブな時間ではないでしょうか。
  孤独を楽しみながらの人生は決して捨てたものではありません。それどころか、つきせぬ歓びに満ちた生き生きとした時間でもあるのです。・・・}

  そして「おわり」には、次のように結んでいる。

{・・・だから私は、きぶんが滅入ったときはたくさんある記憶の抽斗を開けて、思い出を引っ張り出すようにしています。そうやって回想して咀嚼しているうちに、立ち直る自分がいる。最終的には、人間とは愛すべきもんだというあたたかい気持ちが戻ってきます。
  誰でも生きていれば、つらいことや、嫌なことは山ほどあります。しかしそういう記憶は、抽斗の中にしまったままにしておいたほうがいい。落ち込んでいる時、弱っている時は、なんともいえないバカバカしい話が逆に力になることがある。賢人の格言より、思想家の名言より、生活の中のどうでもいいような些細な記憶のほうが、案外自分を癒してくれるのです。・・・}
{・・・しかも歳を重ねれば重ねるほど、長年生きた分、そうした思い出の数は増えていくはずです。いわば頭の中に、無限の宝の山を抱えているようなもの。そうして日常生活の中でのちょっとした出会いや思い出を記憶のノートにしっかり記しておいて、ときどき引き出して、「発掘」「発見」するのは、下山の時期を豊かにするためのいい処方箋です。そのためにも、「回想力」をしっかり育てたいものです。・・・} 

***さて、人生89才6カ月を歩むジロ爺さんは、どう考えても下山の時期です。しかし、山に上がるより下山のほうが、はるかに難しい。二階の階段を上るのは、手すりさえあれば何とか上がれる。しかし、下りる時は手すりもあまり役に立たない。腹ばいになって下りるしか方法がない。それでも、最後に一段間違えて転ぶ場合もある。もう、どうしようもない老いの世界である。

***回想の話だが、確かに昔を思い出すことは、歳を重ねるとともに多くなる。・・しかし、最愛の妻に先立たれ、12月31日にやっと四十九日の忌中明けの法要をしたばかりのジロ爺さんにとっては、キイ婆さん(妻)との思い出は、嗚咽の連続であった。人様にみせられない嗚咽の姿であった。・・でも、年が明けて、過ぎ去ったことは、遠い遠い昔の話になりつつある。やっと普通に話ができるようになった。やっぱり、「時」がすべてを洗い流す。時が薬なんだと思う。

***生前の妻は、ブログに載せるときは、必ず了解が必要だった。しかし、今は、額縁におさまった笑顔が、「あなた、好きなように載せなはれ、なんでも好きなようにやりなはれ」と呟いている。「おい、そっちはどうやね?」「いいとこでっせ、痛くも痒くもないとこです」「ほんなら、早よ行くわ」「いや、それは急ぎなさんな。今までのようにうろうろしてなはれ」・・まあ、そんな会話ができるようになった。そして言った。「あなた、今、うち、花をもって走ってんのよ」
  この言葉に、生前の妻の走る姿を見たことがなかっただけに驚いた。***少し落ち着いて世の中を見わたすことができるようになったジロ爺さんである。

<西国霊場巡拝めぐり>

  平成11年(1999年)9月~平成12年(2000年)8月、約1年かけて、西国33ヶ所巡りを実行した。
  思い出せば、結婚40周年の記念行事となった。時にジロ爺さん71才、キイ婆さん63才。(いま、その模様が2冊のアルバムにしっかりと収められていた)
  パラパラめくれば、何とも言えない懐かしさがよみがえってくる。その時の模様を、私の講演・実践記録の集大成「元気が一番」にも、かなり詳しく記載している。
  巡礼の詳細・日程はわが輩の計画。もちろん、宿泊は旅行業者に依頼した。

  平成11年9月4日、巡礼を発願した三田尼寺花山院から出発。納経帳(1000円)、納経掛け軸(25000円)、おいずる袖無し2枚(4000円)の3点セットを携えて巡礼の旅が始まった。西国33ヶ所というが、番外が花山院など3か所、総本山延暦寺、それに、家内が希望した長野県の善光寺で締めくくった。38ヶ所の寺巡りをしたことになった。

  回想すれば、18年前の話。ともかくお互いに元気そのものだった。よいものを残したと自負するジロ爺さんである。  

 

☆(左)、平成12年8月3日、花山院菩提寺へ報告。巡礼軸表装を依頼。・・平成12年10月5日に出来上がる。中央が掛け軸、きれいに朱印が捺印。下に納経帳などをならべている。また、掛け軸の両方に「2枚のおいずる」がある。妻はこの一つを羽織って平成29年11月14日、冥土の旅に出た。大晦日に四十九日が終わった。涙、涙、涙。

☆(右)、平成12年(2000年)8月29日、30日、長野松本方面に一泊旅行。その際、善光寺にお参りしたわけだ。納経を済ませ、数珠など買い物をして、本堂内陣・お戒壇巡りを終え、有名な善光寺の前でツウショット。それにしてもお寺は親切だった。

 「牛にひかれて」の由来を聞くと、親切にも次のような説明があった。

{・・・小諸のとある村に不信心なお婆さんがいました。ある日、お婆さんが川で布を洗っていると、一匹の牛がやってきて、布を角に引っかけて走り去った。お婆さんが牛の後を追っていくと善光寺にたどり着いた。その晩、善光寺に泊まったところ、夢の中に観音様が現れてお告げがあった。
 お婆さんは小諸の村に帰って、お告げの通り村の観音様にお詣りすると、観音様に牛にとられた布がかかっていた。
  それからのお婆さんは信心深い人となったそうだ。めでたし、めでたし。・・・}

<アルバムから抜粋>

 

☆2冊のアルバム(1冊40頁)

☆第16番・清水寺での一コマ。2000年、2月11日(金)(建国記念日)。:コメント:{・・2月11日、12時正午、タクシーで清水の側面から入山。本堂まで3分。それにしても参拝客の多いことにびっくり、がっくり。観光客ばかりで朱印の客は私たちの他、2,3人ぐらいだった。・・}

 

☆第18番・六角堂での一コマ。{・・2月11日、午後3時過ぎ、本日の最終、5番目の六角堂に到着。池坊華道家元だけあって、その周辺のビルにはけだしびっくり。極めつけはトイレが有料。・・鳩が300羽はいるそうだ。私たちの足元にまとわりついてきた瞬間、一斉に飛び立った。瞬間、こんな構図は写せないぞ。・・}       

☆第12番・岩間寺での一コマ。{・・平成12年(2000年)4月16日(日)、今年の桜は遅咲きで、16日が満開となった。当初から桜の咲く頃に岩間寺、石山寺、三井寺の参拝を計画。篠山口、尼崎、大阪、京都、石山JRを利用。石山で下車。岩間寺、石山寺、三井寺を詣でる。あと残るは天台宗総本山比叡山のみとなった。・・}

<粛々と時は流れる>

  新しい年になって、はや7日を過ぎて8日となった。1日は、わが家族5人で普通に雑煮・おせち料理でお祝いをした。人一倍お餅の好きなジロ爺さんは、4つも食べて、みなを驚かせた。それにしても、倅の嫁が、すべてをとり仕切り、帰省中の孫娘が手伝うといったスタイルで、粛々と時は流れる。

  あっという間に7日(人日)となった。わが家の食卓で、みなで七草がゆをいただく。嫁さんが前日から七草を用意してきたそうだ。やっぱり、餅がうまいので、ジロ爺さんは3杯も食べた。「七草、ようわかったのう」「いえ、お母さんから教えてもらっていましたよ」・・夜は「カニすき」。ともかく、キイ婆さんが一番好きなカニだった。ジロ爺さんの述懐には、みな無視。淡々と時は流れる。

  お正月については、毎年、お正月頃のブログに詳述。今回は2年前(平成28年・2016年)のブログを紹介。
{‥参照:2016、1,3「年始模様」<新しい年が始まりました>・・2016,1,8「人日を過ぎて」<七草がゆをいただく>・・}

  寝正月とはいえ、一日中寝ているわけにもいかない。時々は外の畑を見て回る。たまに、カブラ・大根など適当に収穫して、漬物にして、いただいた。
  それに、1号田のエンドウの芽が育っていないので、土と肥料をやり、もみ殻をまいた。結構うろうろしている。

  時に、7日の朝、洗面所とお風呂の壁が、汚れていたので、白ペンキを塗ってきれいにした。これは、生前の家内の願いでもあった。「うん、正月までにはきれいにするよ」・・その言葉はとどかなかった。でも、やっと年の明け7日にできた。「よくできました」キイ婆さんの声がした。

 

☆ペンキ塗る前の手洗い場と風呂場のサッシ窓 ・・1月7日、午前9時写す。

 

☆塗り終わった後の手洗い場と風呂の窓枠。如何にきれいになったかは、一目瞭然。1月7日、午後7時写す。


<わが家の歴史>

  思えば、昭和45年ごろ、茅葺き屋根を取り壊し、青瓦葺きの二階建ての家に改築した。
  当時大阪の万博があった時代だ。全国的に建築ブーム。わが村でも、次々に瓦葺の家に新築されていった。・・私が、結婚して、この村にやってきた昭和35年ごろは、茅葺きの家は、10数軒あった。瓦葺きの屋根にするか、もう一つ流行ったのが、茅葺き屋根をトタンで囲む方式だった。結果、わが村でも、きれいなトタンで屋根を囲んで改築された家が2軒ある。室内は広くて、豊かな間取りに改造
されている。
   
平成30年の現在では、茅葺の家は一軒もない。(京都・美山町に茅葺の里がある。3,4回家内ともども訪れたが、完全に文化財の趣があり、みごとであった。)

  ところで、ジロ爺さんが結婚した当時の家の写真が見当たらなかった。新築の際、撮っておくべきだったが、余裕がなかった。昭和41年に祖父が亡くなってから、4年後、昭和45年に現在の青い瓦葺きの2階建ての家を改築した。もちろん、あらゆるところから借金した。でも、棟梁が祖父の弟だった関係で、持ち山の檜、杉を売ったり、使用したりで、便宜をはかっていただいた。(はっきりと記憶していないが、380万、プラス50万ぐらいで建ったと思う)・・万博時代の400万は大金ですぞ。

  それから、平成元年、定年退職記念に、離れの2階建ての家を改築した。
  その黒瓦の家を、倅夫婦が平成18年ごろ、増改築して現在に至る。

  古い茅葺の家が、写真を整理していると、家内の古い写真アルバムに写っているのを発見。・・懐かしく、珍しいので、ブログに掲載。・・現在のわが家をのせながら、ジロ爺さん、何を考えているのだろうか?

☆昭和30年頃のわが家{祖父と孫娘(妻)}が、暮らしていた家。茅葺の入り口の前に座っているのが祖父であろう。それにしても懐かしい写真だ。左の二階建ての家が、離れで、二階は8畳の座敷と6畳の間取りになっていた。昭和35年、新婚当初は6畳の間に住んでいた。階下は納屋になっており、農業(コメ作り)の用具が置かれていた。
  前の田んぼ(稲田)が、今は減反の畑にした2号田である。
  村では一番大きい茅葺の家だったようで、享保時代には、篠山藩主が、縁で一休みされたといわれている。当時の掛け軸や茶器など、記名入りで残されている。
  蔵の裏に大きな茅の木がそびえていた。この木は平成元年、退職記念に改築した際、専門業者に伐採してもらった。ものすごく大きな木で、だれでも容易に触れない木だったらしい。こわいもの知らずのジロ爺さんだったから、実行できたという話だった。

 

☆現在のわが家。左が離れで、倅夫婦・孫たちが生活している。自動車は軽2台、普通車2台。当然車庫がいる。また、市道路から、入る道も必要。昔の残っているのは、二階建ての蔵だけである。この蔵は30cmの土壌の壁で構築。内部や屋根瓦は、すべて改築して現在に至っている。

  昔の蔵の前の建物は牛舎であった。ジロ爺さんは、スバルに乗っている時代、そこを車庫にしていた。現在は、6m四方の、立派な車庫になっている。


<正直にうれしいと言っておきましょう>

  新年はじめ、泌尿器科の定期検診に行った。昨年、9月頃、PSAの数値が上がり、ホルモン療法をやり始めた。前立腺検査では、実は30年前からやり始めて、最初に数値が13.2を示し、上がったのはそのときだけで、すぐ、1~2におちつき、結局前立肥大ということで、30年経過した。でも、2年前より、標準値は4以下であるが、4~6になり、6~8にあがったりで、その結果、レントゲン検査を、ともかく様子を見ましょうというだった。しかし昨年9月の検査で、12.2を示し、ホルモン療法をやり始めて、12月上旬に血液検査をした。その結果が今年の1月5日に判明した。
  「限りなく0に近くなりました」と、担当医の言葉。「えっ!ほんまでっか?」・・示された数字は0.2。・・びっくりした。4以下が標準の数値で、1や2の時代もあったが、0.2の数値は初めてだった。ほんまに、限りなく0に近くなった。  

・・・でも、「もう、お年ですから、排尿のトラブルは気をつけてください」とは担当医の言葉。PSA検査の数値の結果を、シンから喜べない、複雑な心境。いずれにしろ、現在の医薬学は、病気を少なくし、なかなか死ぬのが難しくなってきた。どんどん高齢者をつくっていく。平均寿命の数字は男性は80才、女性は86才だとか?・・正確にはネットで調べて、再記入を予定。

  でも、今回は正直にうれしいと言っておこう。いつまで元気に歩けるか、畑仕事ができるか、こけないこと、入浴に気をつけること、などなど・・大変な老いの世界が待ちうけている。たいへんだぁ。 

 

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大晦日

2017-12-31 15:57:33 | Weblog

<大晦日>

  平成29年(2017年)12月31日、(日曜日)、午後3時、亡き妻の四十九日の追善法要が、わが家で行われました。すでに満中陰に代わる法事・五七日を12月16日(土)に終わっていたので、菩提寺の住職さんに来ていただいて、わが家の5人で、粛々と四十九日を終わりました。

  生前の家内は、大晦日に四十九日が終わるように、そして、新しい年を、みなで仲良く過ごしてほしいと考えて、11月14日に、81才8カ月の生涯をとじたのでしょうか? ミゴトというほかございません。やっぱり、祖父と孫娘(キイ婆さん)の、つつましく生きてきた人徳の賜物でしょうか?
 
  四十九日が終わった後も、妻のニコッとほほ笑んでいる顔が、わが家の隅々に残っています。衣装棚の上に置かれたキイ婆さんの写真が、じっと私を見つめています。「ワシより早よ死んで、なんやねん」と、呟くわが輩の声も、だんだんか細くなってきました。

  キイ婆さんよ、心配するなよ・・・。今年も、大晦日を迎えて、一人足りないが、わが家の5人が、家の周りの掃除、裏庭の落ち葉拾い、排水溝の掃除などなど、ミゴトにやり遂げましたよ。その経過をちょっと報告しておきましょう。

<裏庭の排水溝を掃除>

  裏庭の排水溝の掃除は、盆と正月、年2回実施してきました。溝にたまった落ち葉、石ころ、泥などを上げるのが大変な作業なんです。でも、それまでに周辺の落ち葉などを掃き除いておかねばなりません。その仕事を、今年は倅夫婦、孫2人の4人が、26日ごろから初めて、29日には溝だけになりました。

  これぐらいはジロ爺さんがやらねばなりますまい。鋤簾(ジョレン)を使用。水切りをして落ち葉を運搬車に積み込みます。休み休み、午前午後1時間ぐらいで、どうにか50mの排水溝をきれいにしました。落ち葉運搬などは、ほとんど男孫がしてくれました。

 

☆(左)溝さらいをしているジロ爺さんです。今年も何とかできました。(後で、ちょっと腰が痛くて、湿布を貼ったことを付言。ナイショ。)10:46写。

☆(右)平成元年、退職記念に設置した間知石と排水溝です。50m近くあります。このおかげで、裏庭に水の浸水はなくなりました。一番、喜んだのは、ここで生まれ育ったキイ婆さんでした。14:30写。


<落ち葉を焼却>

  家の周り、裏庭の山裾の落ち葉など、5号田の焼却場に運ばれました。ものすごい量です。ちょっと困ったのは、落ち葉が湿っていることでした。

  目下、燃やす役は、ジロ爺さんです。これは誰でもというわけにはいきません。かなりな量の木と竹を下に入れておかないと燃えません。いつもは2,3時間で焼却できるはずなんですが、湿った落ち葉は、一気に燃えません。

  30日の午後2時ごろから、燃やし始めて、何とかひと山が燃えた程度。31日の午後3時、四十九日の法事までに、焼却予定でした。

 

☆(左)30日の燃やし始めの落ち葉の山。14:00写。

☆(右)30日、やっと燃え始めました。14:40写。

<燃えた後とわが家前の庭先>

  12月31日、午後3時までに、予定していた落ち葉は燃やしました。3時からのわが家での四十九日の法要を終わりました。わが地域にある菩提寺の住職さんは、昨年から比叡山・延暦寺から家族4人で来られました。新進気鋭のお坊さんで、午後3時の法要に、自家用車できっちり5分前に到着。かっちりしたお坊さんです。誦経の声も一段と高く大きく、何かにつけ、新風です。そうそう、妻の戒名(美静ミセイ)は、できていますが、位牌となると、やっぱり夫婦ともどもが良いというわが輩の発案で、私の戒名もつけてもらいました。仁風(ジンプウ)でした。いろいろ話を聞いて、二郎の二を仁とされていたのにはびっくりです。これで美と二がそろったことになりました。
  まあ、いつ死んでもいいというわけですが、こればっかりは、どうにもなりませんね。かえって長生きしたらどうしようと、ちょっと案じているところです。(笑)

  12月31日、午後3時、わが家の庭先がきれいになりました。ごみ一つ落ちていません。倅夫婦、孫2人で、ガラス拭きから、軒下、天井の蜘蛛の巣まで、すす払いをしてくれました。・・でも、でも、どこを向いても、キイ婆さんの姿はありません。でも、でも、この庭先を眺めて、にっこり微笑んでいるキイ婆さんの姿が浮かんできます。

 

☆(左)5号田の焼却場の燃えた後です。灰の山です。まだ、ほんの少し2つの落ち葉の山が残っています。これは年明けにする予定。

☆(右)きれいになったわが庭先です。手前の家が倅夫婦、孫たちの家(平成元年、退職後に建てた家です。平成16年、倅夫婦が増築)・・青い瓦が突き出た屋根が、応接間。目下、わが輩のPCの場所です。

***いよいよ今年も、「紅白歌合戦」を観ながら、終わりとなりました。でも、ジロ爺さんは違います。紅白の演歌はさておき、手足を動かす体操のような歌には、どうも興味がありません。

  やっぱり、ジロ爺さんとキイ婆さんの「めぐり逢い」写真、金婚式記念写真などで、今年の終わりといたします。

<めぐり逢い>

  人生はめぐり逢いという不可思議な出会いがある。ジロ爺さん27才、キイ婆さん19才、国立篠山病院での療養生活での「同病相哀れむ」というめぐり逢いが出発点。

 

☆昭和34年、晩秋、やっと結婚話が成立。篠山城跡掘り近くでデート。その時のスナップ写真。女性として一番輝く時代だったのかなぁ?・・昭和35年1月22日、キイ婆さんの家で挙式。(前のブログで詳述。結婚は31才と23才)


<船井郡、殿田の河原でのツウーショット>

  この写真はジロ爺さんにとっては、大変貴重な写真の一コマです。当時、ジロ爺さんは国家公務員・法務教官として〇〇少年院に勤務していました。4月退職して、西紀町教育委員会・社会教育主事として勤務することになっていたのですが、少年院の退職が思うように進展しません。・・ところが人生は妙なものです。3月の終わりごろ、突如左膝に激痛がはしり、大阪の北野病院に入院。結果は左膝半月板・全摘手術となったのです。・・ある意味で、それが少年院退職のカギとなったわけです。回復には1カ月を要しました。
  結婚して1か月経っての病気です。誰もが、ジロ爺さんはしまいやなぁと思ったそうです。でも、キイ婆さんは北野病院に寝泊りして、付き添ってくれました。キイ婆さんも病気あがりとはいえ、頑張ってくれました。

  おかげで、正座はムリでしたが、ほとんど歩けるようになりました。(8月ごろには昔の通り、いやそれ以上のスポーツができました。万能選手を取り戻しました)

  写真はその頃、私の実父(昭和38年、70才、没)が開業していた殿田診療所の前の河原で撮ったものです。ある意味で、すごく貴重な一枚です。ここから私の第2の人生が始まるんです。

☆殿田の駅に通じるかなり幅広い川でした。魚釣りの好きな父にとっては、格好の場所。ジロ爺さんはまだ座れません。この写真も左ひざを伸ばして撮っています。セルフタイマーで撮ったものです。
  期日は結婚後3カ月、多分4月20日頃だったと思います。5月1日から、正式に西紀町役場内の西紀町教育委員会、社会教育主事として勤務することが決定していました。


<金婚式出席>

  平成21年5月10日、神戸新聞社主催・金婚夫婦の祝賀会に参列しました。毎年、地域ごとに開催。私たちは丹波地区(篠山市・丹波市)は、柏原町の丹波の森公苑で式典があり、新聞社で記念写真を撮ってもらいました。また、数々の記念品を戴きました。記念写真は、地区ごとの団体写真(20名単位)とカップル写真の二枚を撮っていただきました。
  因みに、三田市は59、篠山市は76、丹波市は86のカップルが招かれました。

  結婚50周年記念写真です。昭和35年(1960年)~平成10年(2010年)のカップルが該当者。私が81才、家内は73才。私たちは8才違いでした。男性の殆どは75才前後が多く、私の後輩ばかりでした。80才を超えていたのは私だけでした。(でも、私が一番元気で若かったようでした。・・自慢になりますが、本当です。・・後輩のみなが寄ってきて、しきりに元気やのう、若いのう、とおだてられました。)

  女性は和服姿と洋服姿が半々でした。家内は和服が大変だから洋服にしました。この写真は、ブログ初公開です。

 

☆平成29年(2017年)も、今日で終わりです。お互いに8年前は、こんなに元気だったんです。自給自足の野菜づくりに精を出しました。私は、生ごみ農法の講演に招かれ、家内はせっせと野菜づくりを実践し、私の話の大半は、家内の野菜づくりの、know-howの受け売りとなりました。
  後の質疑応答で「それでマッカウリの蔓は、いつどのようにしてつみますか?」との質問に、「いやいや、詳しいことは家内に聞いときます」・・大笑いとなりました。

***いやあ、ジロ爺さん、来年の野菜づくりを真剣に考えています。90才の坂道を、どのように下りていくかは、ジロ爺さんにとっては、正真正銘、真剣な課題となりました。しかも、気力・体力の衰えという「老い」の世界に、孤独という厄介なものを背負うことになりました。孤独と言っても、倅夫婦(孫も含めて)がいます。ご飯の世話など、ほとんど倅の嫁がやってくれます。
  夜になって、わが家で一人ぐらしとなった時、孤独を感じます。
  キイ婆さんよ、考えれば、実に良いときに、圏外に去ったものやね。・・今や、膝の痛み、トイレ・風呂の難儀、血圧の心配、心臓のカテーテル、大腸のポリープなど、何の心配も、痛さもなくなったのやろ。介護など、何一つ心配しなくていいのですね。

  12月31日、大晦日、午後3時、四十九日の忌中明け法要も終わりました。安らかにお眠りください。  


 

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幽明

2017-12-23 10:44:44 | Weblog

<幽明(ゆうめい)>

  伊藤佐千夫の「野菊の墓」の最後の頁に、{‥民子は余儀なき結婚をしてついに世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持っていよう。幽明はるけく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。・・}と結んでいる。
  {‥参照:2015,10,11「野菊・慕情」<野菊・慕情>・・}

  幽明って、初めて聞く言葉だったので、印象に残っている。「あの世とこの世」・・「冥土と現世」のことだ。

  妻が逝って、40日が流れた。わが谷あいの山々は、冬山の風景に変化しているが、自然は何らの変化もなしに時を刻む。私は孤独で、一人静かに時を過ごす。独立独歩という言葉があるが、この年になって、独立独歩もあるまいにと思いながら、せっせと、洗濯ものを干し、皿洗いをし、一人で風呂に入り、消灯を一つ一つ、確かめながら、寝床をこしらえて、一人で眠りにつく。だいぶん慣れてきた。
  孤独でも、何かを求めてうろうろすることは極めて大切なことだと思う。

  ところで、幽明の話だが、妻の生存中、よく話した言葉に、「あの世とこの世」があった。私が、哲学の屁理屈・「煩悩の解脱」「色即是空」「安心立命」「無為自然」「則天去私」・・などなど、さも分かったように話し、終わりにはいつも「あの世はあるのか?」と、疑問を投げかけた。

  いつも辛抱して聞いていた妻(キイ婆さん)は、「そりゃ、あなた、死んでみなんだらわからんわね」と言って笑った。「死んで、この世に帰ってきた人はいないのと違う」

   そのキイ婆さんは、この世にいない。でも、わが家の隅々にキイ婆さんの姿がある。そして、私の頭の中(宇宙)に、祖父と仲良く手を取りながら、花畑を歩いている姿が浮かぶ。やっぱり、あの世はあるのかなぁ?・・


<転進中だ>

  「転進」という言葉があった。いやあ、昭和17年、18年頃だ。ほんまに昔の話だ。私が旧制中学校3年生時代、太平洋戦争中、ガダルカナル島の戦いで、日本軍は勇気をもって「転進」したと報じられた。しかし、実際は、完全なる敗北だった。戦いに負けて、撤退・退却したわけだ。・・その時代を知っている人は、少なくなったのと違いますか?

  しかし、今は平和の時代だ。転進はよい意味に使われる。今までの仕事から、新しい道に進むときにも使用される。してみると、私は今や孤独の道に転進中だといえる。「ジロ爺さん、がんばれよ」・・タマの応援歌が聞こえる。そんな意味で、転進中のジロ爺さんの話を展開しよう。

  それにしても、12月18日~23日まで、ここ丹波篠山地方は連日の晴天が続いている。また、あとでその裏がくるのではないかと、ちょっと気をもむ毎日である。


<カブラ漬け・一夜漬けタクワンをつくったぞ!>

  3号田には、カブラが土から頭をもたげた。今年も大収穫である。毎年、今頃は家内が、カブラ漬けをしてくれた。すでに、5,6個は親戚に宅配したが、まだ20個ほど、頭をのぞかせている。
  時に、倅の嫁が、「べんりで酢」に漬けると、「簡単にカブラ漬けができるのではないか」との話。さっそく実行した。

  今一つは、一夜漬けのダイコンである。これは、吾輩の専売特許。毎年つくっているプロだ。
 {・・2012,12,25「老いの坂道」<今年もダイコン一夜漬けタクワンをつくったぞ・・。}に、詳しくレシビなどを書きとめている。そちらを参考にされたい。

 

☆(左)、倅の嫁の紹介の「べんりで酢」です。カブラを刻み込んで、べんりで酢を注ぐだけで、ちょう簡単に「カブラ漬け」の出来上がり。・・昆布、ゴマ、ユズなどを入れると、さらにうまみをます。・・12月18日~23日まで、もう5,6回は作った。酢は2度くらいまで使用できそう?・・。

☆(右)、ダイコンの一夜漬けです。レシビは2012,12,25「老いの坂道」<今年もダイコン一夜漬け・タクワンを作ったぞ>を参考にしてください。・・私は慣れているので、もう目分量です。容器は2リットルを使用。1キロのダイコンを輪切り(2cmぐらい)にして、容器に押し込み、・・ザラメ砂糖約300g、米酢30cc、塩30cc、料理酒30ccを、入れます。・・2,3時間ぐらいで液があがり、半分ぐらいはダイコンが漬かります。一晩で殆ど液が上まであがります。・・簡単、便利、うまい。これも、2回まで液が使用できそうです。・・5,6回は漬けました。
 


<山の裾、下枝刈りをしてもらう>

  12月20日、いつも手助けしてくれるKさんが、来てくれました。勝手知ったKさんは、休む間もなく、裏山の下枝刈りに取り掛かりました。夏にちょっと草刈り機を入れたところ、蜂が出たので、中止していたところです。そのほか、2号田、1号田の畝の後片付けを、スイスイやってくれました。 感謝!

 

☆草刈り機を入れているKさんです。山裾があっという間にきれいになりました。びっくりです。刈り始めと、終わりでは、すごく色彩が違うのはなぜでしょう?・・多分、光線のセイでしょう。技術下手。


<青梗菜おひたしと昼ごはん>

  3号田、カブラの隣にチンゲンサイの種を家内がまきました。すっかり大きくなって、親戚に宅配しても、消化しきれません。結局、吾輩がネットを参考に手料理することになりました。

 

☆(左)、チンゲンサイのおひたし。
  材料:チンゲンサイ3本、ごま油小さじ2、ガラスープの素小匙1、オイスター大匙2
  レシビ:(1)チンゲンサイは葉と茎にわけ、よく洗ってザルに上げる。
      (2)鍋に湯を沸かし、ゴマ油を入れ、茎から湯がきます。1分ほどで葉を入れる。しんなりしたら、
         ザルに上げる。
      (3)ポールにオイスターソース味とガラスープを入れ、水切りしたチンゲンサイを合わせて、お皿に
         盛り付け出来上がり。 

    まあ、結果は今一つだった。味の素などの使用が十分呑み込めない。今度は完ぺきにするぞ。

☆22日の昼ごはん。宅配されたおかず屋さんの、サラダと揚げ物、それに、カブラとチンゲンサイのおひたし。カブラはうまいが、おひたしはいまいち。まあ、食べられないこともなかった。一人でして、一人で食べるって、やっぱり寂しいよなぁ。・・・


<Bスーパー・迎春の横で>

  今年は、30数年やってきた、お正月の「しめ飾りも」2017年で途絶えました。今年は神社関係のコトはご遠慮させてもらいます。お飾りもしません。ここ、5,6年の「しめ飾り」の模様を、ブログに掲載しています。私自身、ブログを開きながら、たいしたもんやったなぁ・・と感慨無量です。

{‥参照:2012,12,18「光陰矢のごとし」<今年も何とか「しめ飾り」をつくったぞ>・・2013,12,18「冬に降る雨」<今年もしめ飾りを完成しました>・・2014、12,18「無為自然」<今年もお飾りのゴンボをつくったぞ>・・2015、12,18「無心に生きる」<今年もついにゴンボ飾りを作りました>・・2016,12,19「老人と仕事3」<今年のしめ飾り・ワラ仕事を終わりました>・・}

  12月21日、久しぶりにBスーパーに行った。店頭に並ぶ「しめ飾り」を眺めながら、ワシのほうがりっぱやったと、ここでも感慨無量。

・・ところで、偶然、もと一緒に「自給菜園」をやってきた仲間3人(男1、女2)に出会った。みな一瞬ハッとした感じだったが、「この前はお世話になりました」との私の明るい言葉に、みな、ホッとして、近くの自由席でお茶を飲んだ。女性の一人は、中学校時代の教え子(女性)で、わが家にもたびたびやってきた間柄。もちろん、葬式にも参列。・・でも、やっぱり、どことなく寂しそうにしていたのかなぁ、話は、いつものようには弾まなかった。別れるとき、すぐ隣の迎春の看板の前で、カメラのシャッターを切ってくれた。

☆ジングルベルがなり、お正月の品々が雑然と積み重ねられた通路で、M、Iさんが、シャッターを切ってくれた。みなで、次は黒豆の館でバイキングしましょうと約束して別れた。「ボカシて撮ってくれ」の私の注文通り、うまく撮れた。ちょっと下着を着こみ過ぎて、ダブダブ感の89才5カ月の記念写真ができた。

・・いやぁ、11月14日以来、どうしようもなく沈み込んで、70才代を自負していた自分だったが、11月14日で、一気に20才年寄り(これが当たり前の90才)になった。精神的にも肉体的にもダメージを受けた。「もうあかん」と、たびたび思った。でも、みな言った。・・「先生、若いですよ」

  この言葉に、もろに喜ぶわけではないが、何とか現状を維持していこうと、心の底で思っている。
  それにしても晴天が続く。24日、時々曇るが晴れ模様だ。

<ぜんざい・大掃除>

  あずきご飯(赤飯)とぜんざいは、吾輩の好物。とりわけ、お餅は大好き。・・結婚当初、昭和37年ごろは、一家そろって、臼や杵で、ぺったんこ、ぺったんこと搗いた。・・でも昭和45年、万博時代から、「餅っこ」という電気で搗く餅つき機ができて、どこの家庭でも、一気にぺったんこ、ぺったんこは消えていった。
  平成29年、今では、隣近所、臼や杵で餅つきをしている家庭は、ほとんどなくなった。しかも、最近では、「餅っこ」もはやらなくなった。・・そうです。スーパーへ行けば、どのような餅も手に入ります。大層な鏡餅など、搗く必要がなくなったのです。

  わが家も、家で餅をつかなくなり5年はくれるでしょうか。女性軍の後片付けが大変なのですって・・。それでも、搗いた餅で、私が丸める「イチゴ大福」は、人気がありました。いまや、過去の話となりました。

  12月23日、午後3時、鍋にぜんざいが残っていました。早速、あたためて、お餅をオーブン・トースターでふくらませて、ぜんざいをつくりました。・・一人でぬくめて食べながら、ふっと、結婚前、アベックで、法善寺横丁の夫婦ぜんざいへ行ったことを思い出していました。・・やっぱり寂しいです。

  12月26日、午前、午後、2回にわたり、猿脅し大砲が5,6回、鳴り響きました。山猿がわが谷間にやってきたようです。
  早速、畑を見て回りました。毎年、やられる玉ねぎは大丈夫でした。これから雪が降り、猿除け網が倒れるのが心配です。
  12月26日、午後2時ごろ、家の周りの掃除をしている物音が、昼寝のわが輩の耳に聞こえました。倅の嫁と孫(男)が、落ち葉などをはいていました。
  寝ておれません。作業着に着かえて、掃除に参加しようとすると、「今夜はおでんをつくります。大根を引いてきてください」との話。・・大根2本を引いて、それから、木々や落ち葉を燃やしました。

 

☆ぜんざいと作業服で両杖を突いた格好で、ダイコン2本を膝に置いて、石段に腰かけているところを、孫(男)がシャッター。ジロ爺さん頑張っています。上の畑で、ごみ類(木々や落ち葉など)を、見事に燃やし終わりました。でも、ちょっと疲れました。


<おでんと雪景色>

  12月26日、夕食は「おでん」。 大根引いてきた意味が分かった。夜、大学1年生の孫娘が姫路から帰郷。孫娘が、おでんを注文したとの話。・・まあ、おでんは、みな好き。冬場には欠かせぬ料理。中でも、うちのダイコンの味は抜群。みんな、「とろけるように美味い」と、絶賛。・・だれが作ったのでしょうか? {誰かしら、この場にいないわね}・・みなの心の内が分かるだけに辛い。

  12月26日、掃き掃除・落ち葉拾い・焼却は大正解。夕方から雨がぽつりぽつり。

  12月27日、朝起きると雪景色。いつものサッシ窓からカメラを向けた。これで2回目かなぁ。これからが正念場。

 

☆26日、午後6時30分、夕食のおでん。孫娘は、午後8時頃帰省。・・久しぶりに、倅夫婦と孫2人、私の5人がそろいました。夕食は、みなでわが家の食堂で食べます。終わると、みな(特に男の方)は、そそくさと離れの自分の部屋に戻ります。女性軍もやがて後片付けをして帰りました。
  わが家は、私一人となります。あっ、猫のタマが二階の屋根裏にいますが、夜は物音一つたてずに、ひたすら眠っている様子。・・私のベッドから5,6mぐらい、壁一つ隔てた寝床にいる筈です。
  冬至を過ぎて、昼が長くなるとはいえ、ほとんどは今が一番夜の長い時期。午後5時頃に暗くなり始めて、翌朝7時頃に夜が明ける感じ。・・いやぁ、約14時間を、タマがいるとはいえ、一人暮らしとなりました。 

☆27日、朝の裏庭の雪景色。これで今年2回目。雪は午前10時頃にはとけます。でも、畑の猿よけ網は、雪の重みで傾く。でも、これくらいの雪ならば、昼過ぎには何とか元に戻ります。しかし、これからが大変ですね。 

  ・・・さて、文章ですが、ブログ開設の平成20年(2008年)当初から、・・である体(常体)にするか、・・です、ます体(敬体)にするか・・かなり迷いました。少なくとも、一つの投稿欄は、どちらかに統一してきました。・・が、しかし、最近は、写真などの説明は敬体にしている場合が多いようです。
  自分の意見を述べるときは、簡潔明瞭な、である体がいいのですが、写真などの説明は、やっぱり、・・です体のほうが、しっくりきます。でも、一つの投稿欄はできるだけ統一しようとは思っています。
 

  それにしても、わが家では、私一人となった。孤独の長い夜がわが家を吹き抜けていく。両手を合わせて、沈思黙考。・・「たしかに、わが家は私一人となった。でも、2世帯住宅のわが家は、孫がそろえば5人暮らしだ。まったくの独りぼっちではない。近所では全くの独りぼっちで20年、30年暮らしてきた女性がいる。もちろん90才を超えた。やっぱり女性はつよい。しんがしっかりしている。「よし、こうなったら、女性のように生きてやるぞ」と、腹をくくり始めたわが輩である。

  

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追憶

2017-12-18 16:05:30 | Weblog

<火打石で祝福>

  昭和61年4月、わが輩は、篠山城跡・西堀の間にある伝統のS中学校の校長を拝命しました。58才、定年退職まで3年です。この学校が、おそらくわが輩の教育の仕事の最終の場所でした。
  とかく問題のある学校でした。教育長はじめ教育委員全員の推薦での人事でした。その時の模様を「元気が一番」という実践記録の本に次のように書いていました。省略しながら紹介します。

{・・少々問題を抱えた学校であった。マスコミにもたびたび取り上げられ、また、教師仲間から「ちょっと荒れてるぜ」と、具体的な事例を示した報告も受けていた。・・辞令交付まで1週間の余裕があった。その間に学校の状況をくまなく集めて、確かな情報を集約した。3月の終わりごろには私は完全にそれまでの小学校の体質を洗い流し、中学校の校長になりきっていた。「よし、やるぜ!」と、胸を張って最初の全職員へのあいさつを考えていた。
  「皆さん、私が〇〇〇〇です。この学校を立て直しにやってきました。みんな私についてきてください」
  私はまさに一国一城の殿様のような気分に酔っていた。しかし、その考えは大変危ないことに気がついた。・・・校長先生がそれほど頑張られるのだったら、かってにやってもらいましょう…という空気が先生たちに流れたら、元の木阿弥になってしまう。ここは一つ、はやる心を静めて、「皆さん、私が〇〇〇〇です。今年も昨年と同様、魅力ある学校づくりに努めましょう。そのためには先生お一人お一人のお力をいただきたいと思います」という、極めて簡単明瞭なあいさつに変更した・・}

  4月1日、いよいよ赴任の当日がやってきました。玄関を出る私に、小走りによってきた家内が、「カチ、カチ」と、胸のとろろで火打石を打ち鳴らして祝福してくれました。私はにっこりとほほ笑みを返し、城に登場する戦国の武将のような気持になっていました。
  以来、3年間無事に勤めを果たし、平成元年3月、定年退職しました。

  やっぱり、過ぎ去ったことに思いをはせています。約32年前、妻の「カチ、カチ」という火打石のしぐさと、笑みが、今なお私の胸元をくすぐります。そして涙です。


<冬野菜・大収穫>

  12月12日、ハクサイ、ダイコン、ショウガ、サトイモなどを育てたキイ婆さんの姿はありません。
  11月14日以来、今一つ、畑に出る元気がありませんでした。今頃は、いつも、キイ婆さんが、よっこらしょ、よっこらしょと、一つずつ軒下に運んでいました。

  でも、大丈夫です。キイ婆さんよ、立派に育った冬野菜を、ボチボチ収穫いしましたよ。

 

☆(左)、12月10日、午前11時30分ごろ、1号田に、ショウガは6本、残っていました。全部掘り出し、裏の井戸端で洗い、発泡スチロールの容器に、濡れた新聞紙を敷いて、収納する運びとなっています。

☆(右)、12月11日、ショウガの続きに植えていた10本のサトイモを、5本収穫しました。ひげなどを取り除き、一応料理できるところまでしました。煮つける前に、茹でて皮を除くのが簡単との情報を得ました。後は、ネットで、詳しい情報を得ています。

 

☆12月12日、孫息子が休みです。朝、8時30分ごろやってきて、「お爺ちゃん、ハクサイ収穫手伝うよ」との言葉。・・嬉しくて、飛び上がりました。「ほんなら、ダイコンも収穫してくれや」

  とりえず、2号田のハクサイとダイコン、1号田から漬物用のダイコンを収穫しました。二人でやると、30分ぐらいで終わりました。・・でも今回は、ほんの少しだけ。畑にはまだ3倍以上のハクサイ、ダイコンが植わっています。ダイコンの保存は、年明けに土に埋めて保存予定。ハクサイは新聞紙にくるんで、蔵で保存予定。

  太いのは青首長ダイコン、細いのが漬物用のダイコン。今のところ、どうするかは未定。‥多分、親戚に宅配する予定ですが、できるでしょうか? 

 

<例年の雪景色始まる>

  12月14日、裏庭の雪景色です。雪が降ったのは2回目でしょうか・・。この景色は当分続きます。そのうちにドカッと20cm~30cmの積雪が、2,3回はやってくるのですよ。
  しかし、今年の雪景色は、私の身体には、どっしりとこたえます。私が平成元年、定年退職の記念に間知石で築いた庭なんです。いつも、この景色をサッシ窓を通して眺めて「やっぱり降りましたね」と、ささやいたキイ婆さんの姿はありません。
  でも、いつまでも感傷に浸っている場合ではありません。ジロ爺さんは、朝から大忙しなんです。

***朝の仕事は、朝ドラ「わろてんか」を見てからになります。一切れの食パン・豆乳・果物が私の朝食です。11月14日の朝までは、30数年家内がやってくれました。15日からは、倅の嫁が、家内の代わりをして職場に出勤します。昼ご飯は、10数年前ごろより、老齢化する私たちのために、倅夫婦が注文した調理済みの惣菜が宅配されてきます。晩の食事は、わが家の食堂で、嫁の手料理でいただきます。少しでも、家内の仕事を助けようとの計らいでした。

  さて、朝食をすますと、食器洗い、洗濯、新聞受け、パソコン、などなど次ぎ次と、仕事をこなします。でも洗濯は便利になりました。電自動で、電源を入れ、洗う乾燥にセットし、洗剤アリエールを入れ、スタートボタンを押すだけで完了。・・まあ、乾燥に時間がかかるので3時間以上を要するのが難点。

  午後は、妻の寝ていた居間のベッドで、テレビ鑑賞と昼寝。テレビを見ているうちにウトウトしています。それでも午後3時ごろには、畑の野菜の収穫、猿除け網の補修、部屋の掃除、また、年金書類の整理などに時間がかかります。・・あっという間に暗くなります。

  夕食後は、まったくの一人です。しみじみ孤独を味わっています。一人で90才の坂道を下りていかねばなりません。街灯を点けに出ても、台所にも、蔵の前にも妻の姿はありません。座敷の枕飾りの回り灯篭に囲まれた妻の写真があるだけです。

  夜の風呂が一番こわくなってきました。一度、ふらついたことがあったので、冬場の風呂は、脱衣場にストーブを入れています。風呂から上がると、一気に体温が冷えるので、危険なんです。

  夜寝るときは、必ず、脈拍を数え、異常がないかを確かめます。それから、鼻呼吸を左右10回して、寝ることにしています。・・さして今までと変わりないのですが、独り身であることは確かです。

  やっと、頑張って生きていこうと思うようになってきました。

 

<タマからジロ爺さんを激励>

  昔のことは、ジロ爺さんはしゃべりづらい様子。・・ジロ爺さんに代わって、猫のタマが話します。

  今、ジロ爺さんの一番気に入っているのは、ジロ爺さん38才、キイ婆さん30才、長女6才、長男3才の時の写真です。当時のジロ爺さんは現像焼き付けなど、一人でこなしていました。その写真です。
  昭和41年のクリスマスの時。今から51年前の写真。そうです。この年の4月に祖父が亡くなったのでした。そして、ジロ爺さんが、丹波篠山へ帰る決心をした年です。

***思い出は、めぐり、めぐり、当時のことを思い出すと、ジロ爺さんの瞼には涙がうるみます。ジロ爺さんに代わって、ちょっと当時の様子をタマが話します。

  一人残された孫娘(キイ婆さん)を、ひとりで育ててきた祖父は、昭和41年(1966年)、春に亡くなりました。謙虚・謙遜・実直・正直、そのものの生き方をしてきた祖父でした。筆舌に尽くしがたい艱難辛苦に耐え忍んできた祖父。まず、長男が結婚してすぐ事故で亡くし、子供宿した妻は、よんどころない事情で、子供を産んですぐに、他家に嫁ぐ・・生まれた女の子(キイ婆さん)は、51才離れた祖父が一人で養育。祖父は酒造の杜氏をしながら、必死に育てます。よくしたもので、その女の子はすくすくと育ち、中学校卒業時、多紀郡(現・篠山市)で一人しかもらえない、大変名誉な青山賞をもらっています。

  

  そんなキイ婆さんとジロ爺さんが、どのようにして結ばれたかを、タマが聞き及んだことを話しましょう。


出会いの不思議>
  しかし、祖父の不幸はまだまだ続きました。キイ婆さんが近くの農業高校2年から3年になるとき、高熱を発して、祖父は大八車で、キイ婆さんを国立篠山病院まで運びます。布団に包まれて、車で村を出るとき、村の人々は「生きて帰れるやろか」と、呟いたそうです。
  その時の主治医が、赴任したばかりの副院長兼院長代理M先生だったんですって・・。M先生は、ジロ爺さんの姉の婿です。ジロ爺さんにとっては義理の兄です。M先生は京大の超有名なK内科出身。結局、肺結核と診断、篠山病院別館(元陸軍病院)に入院。
  ところで、ジロ爺さんは昭和30年、肺結核(かなり重症で、まず助からないといわれた)で、篠山病院別館・いちばん北側の個室入院している。{・・2013,1,18「1円の本が来た」<病は人を強くする>・・2017,3,11「短編小説」生きとし生けるもの・乙女の死に詳述・・}。

  奇しくも、同じ時期に入院して・絶対安静を宣告。・・ジロ爺さんキイ婆さんが知り合ったのは、国立篠山病院、療養病棟が新設され、生死のふちをさまよいながら、奇跡的に回復してきたジロ爺さんが、患者の自治会長をしてからです。昭和32年頃、ジロ爺さんは4人部屋でした。キイ婆さんはよくなっているのに個人部屋でした。二人を急激に近づけたのは、リルケ詩集とヘルマンヘッセでした。「高校生でヘルマンヘッセを読んでいる」・・これだけで、何を語らずや、・・ジロ爺さん29歳、キイ婆さん21才。それから、2年後、昭和35年1月22日、ジロ爺さんが、キイ婆さんのもとに来るということで、やっと話し合いがすんで、結婚式を挙げたわけです。
  その模様は、{・・2011,1,22、「結婚記念日と朝日」に詳述・・}

  ここに至るまでには、幾多の試練があったようです。最後に二人を結ばしめたのは、「同病、相哀れむ。二人で一人、一人前なんだ」という想いでした。これを、縁というのかなぁ、絆というのかなぁ、あかい糸というのかなぁ・・。時に、ジロ爺さん31才6カ月、キイ婆さん23才10カ月でした。その時代では晩婚でした。

  その年の11月に長女が生まれ、3年後には長男が生まれました。・・はじめ、ジロ爺さんは、キイ婆さんは「子供は産めないのと違うか?」と思っていたようです。当時が一番幸せだったのかなぁ、と写真を見ながら、しきりに涙をぬぐうジロ爺さんです。(当時のジロ爺さんは激やせしています。再発の可能性を背負って、戦ってきたといいます。これも、あれも、みな、祖父とキイ婆さんの徳のたまもののお陰です。

  そんな祖父が孫娘が結婚して6年後に急死。脳溢血でした。見送ったのは若干38歳のジロ爺さんです。それから51年、平成29年(2017年)の晩秋11月14日にキイ婆さんは、ジロ爺さんの腕の中で永眠しました。
  ジロ爺さんは、この株内にやってきて、二人を見送ったことになります。もう十分、責任を果たしたといっても過言ではないでしょう。それよりも、病弱なキイ婆さんが、よくぞ二人の子供を育ててくれたもんだと感謝している、ジロ爺さんです。

  祖父は81才、キイ婆さんも81才。ともに、ジロ爺さんの腕に抱かれて永眠しました。ふっと、ジロ爺さんの脳裏をかすめます。難儀しているキイ婆さんを、見るに見かねて、祖父が引き取ったのでしょうか?二人で、にこにこしながら、花の野原を歩いている風景が浮かびます。
  ジロ爺さんはこれを話すと嗚咽になります。言葉にならないのです。
  {・・参照:2014,1,22「嗚呼、54星霜」<54年前のお爺さんとお婆さん>・・}

  でも、ジロ爺さんは、やっぱりタマを大事にしてくれます。そして、90才の坂道を、一人でどのようにして下りていくかを必死に考えています。
  ジロ爺さん、わし、タマのメンドウも見てくれよな。


<孤独の正念場>

  いま、一人でこの家で生活している。
  1970年にかやぶき屋根の家を取り壊し、瓦葺の二階建ての小さい家を新築した。設計図面は、私が線引きをした。家を建てたのは、大工の棟梁をしていた祖父の弟さん(昭和の終わりごろ没)だった。わが家を知り尽くした方で、材木などは、わが山から切り出して使用。以来、妻と子供二人と4人暮らしで、それでも50年近く暮らしてきたことになった。

  平成元年に、離れを改築し、そこで余生(あまり好きな言葉ではない)を送るつもりだったが、現在は倅夫婦と子供二人が暮らしている。しかし子供もみな大学生になり、実際は、11月14日までは、わが夫婦と倅夫婦の4人暮らしだった。

  古いわが家で、いま、私は全くの孤独を味わっている。
  妻に先立たれた男は、案外弱い。これに反して、夫を亡くした女性は、なぜか、しっかり生きている。その理由が分かった気がする。男は生前、衣食住を女に任せているからだ。特に食事となると、ほとんどが女性まかせだった。その点、女性は、衣食住を自分一人で、しかも夫の世話までしてきた。夫が亡くなっても、一人で生きていけるわけだ。

  男は何をしてきたか?衣類など着替えの洗濯をしてきたか。毎度毎度の食事の世話をしてきたか。部屋の掃除など、電気掃除機があるとはいえ、こまめにやってきたか。みな、ノウであろう。少なくとも私はそうだった。

  月給をもって帰るだけだった。でも、60才定年退職して、10年は現職の延長線上にあったが、70才になり、本格的に野菜づくりに励むようになってから、いろいろ、家内の仕事を手伝ってきた。

  90才近くなり、妻に先立たれ、本当に孤独なったとき、コマコマ、マメマメやってきたことが、少々役に立つような気もする。洗濯、部屋の掃除などは、ほとんど機械がやってくれる。皿洗いは目下私の力。
  さあ、困っているのは畑の野菜だ。白菜・大根・里芋・生姜・蕪・青梗菜などなど・・・。土にいけて、もみ殻をかぶせる。ハクサイなどは収穫して、新聞紙にくるんで保存、または寒冷紗のなかで冬を越さす。ショウガは発泡スチロールに入れて、濡れ新聞で保存する。・・でも、ダイコンはりはり漬け、タクワン漬け、カブラ漬け、などなど、少しは食べるほうにも力を入れたい。

  しかし、今はネットを開くと、こまめにレシビが載っている。・・目下、手に合うものを選び、実践中だ。

  孤独の正念場をどう乗り切っていくか?・・気力、体力の衰えに加えて、孤独という厄介なものを克服しなければ生きていけない。その点、ブログはある意味で私の生きがいとなっている。ブログを書くこともそうだが、同じ趣味を持った方々のブログを開くのも、楽しみの一つ。

  そして、そうなんです。いまは料理に凝っています。これからはしばしば、私のブログに手料理を記しますので、皆さん、楽しみにしてください。なんちゃって・・・。

 

 

    

   

  

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寂滅

2017-12-07 09:26:56 | Weblog

<寂また寂>

 1か月ぶりのブログ投稿です。11月6日「晩秋の風物詩」以来です。その終わりの記事に、「11月14日、午後1時30分、身内に不幸があり当分ブログを休みます」と記していました。

  平成29年11月14日、午後1時25分、妻が永眠いたしました。81才7か月の生涯でした。「俺より早く逝ってはならぬ。絶対早く死んではならぬ」・・私の悲痛な叫びもむなしく妻は旅立ちました。

  11月14日、午前11時57分、一緒に昼食をしていて、私がテレビをつけに席を離れたとき、ドシンという音に、食堂に戻ると、床に妻は倒れていました。後にも先にも、それきりでした。

  動転していた私は、かろうじて119を思い出しました。倅夫婦にも連絡しました。妻の意識は全くありません。あっという間に妻の体は冷たくなっていったようでした。救急車で病院に搬送中も、集中治療室での、心臓マッサージ、最後の蘇生法(私たちは病室を出た)も、むなしく、意識も呼吸も回復しませんでした。

  以後の私の行動ははっきりと記憶していません。倅夫婦がすべてを仕切りました。 

  妻がわが家に帰ってきたのは午後3時半ごろだったでしょうか。いつも私が寝室にしていた部屋に、北枕に安置されました。いつもの優しい顔がそこにありました。ニコッとほほ笑んでいるようにも見えました。「おい!起きろ。目を覚ませ!」・・私は心で叫びました。いや、声に出していたようです。・・それほど安らかな顔でした。

  今日は12月7日です。葬儀、二七日、三七日、も過ぎ、心身ともに、どうにかもとに戻りつつある私です。
 「寂また寂」
の毎日でした。現実的には「永遠のわかれ」なんですが、私の心や体のなかには、今もなお妻はずっと生き続けています。

  当分、ブログは過ぎ去った妻の記事が多くなると思います。
  平成20年(2008年)、満80才を記念に開設したブログ「八十路の旅」には、妻のことは、家内とかキイ婆さんとして、たびたび登場しています。 gooブログの書籍化を利用してつくった本(一冊約450頁)も、第12号が、11月27日に宅配されてきました。

<達者でポックリ>

  帯津良一著「達者でポックリ」は、「八十路の旅」に、しばしば記しています。まあ、家内は達者ではなかったとしても、ポックリと逝きました。女性の平均寿命は87才だそうです。それと比較すると81才は少し早いと思われます。でも、家内は死ぬ時期を決めていたように思います。死ぬまで、持って生まれたエネルギーをいっぱいたかめて、一気に息を引き取った感じです。これからの自分の生きざまを、予想していたのかもしれません。

  帯津先生によれは、「ちょうどよい死に時を見つけた」ということになるのでしょうか。

  11月14日、午前11時19分に、私が小豆の選別をしているところを、家内がシャッターを切った写真があります。家内はちょうど庭の草引き、落ち葉拾いをして、家に入ってきたところでした。それから30数分も経たないうちに倒れました。カメラ苦手の妻が、最後に撮った写真です。

  でも、もう少し、元気で長生きしてほしかったと念ずるのは、人としての人情です。今は喪に服しながら、枕飾りの写真をお守りしています。11月16日、葬儀以来、3週間たった今も、弔問に来られる人がいます。全ての応対は今のところ私の役目です。


<「八十路の旅」第12号ができました>

  11月5日に、発注した第12号(437頁)が、11月24日に宅配されてきました。すっかり忘れていました。パラパラとめくると、2017,6、14「初夏の詩」<玉ネギを乾燥中です>に、二人で交互に撮った写真がありました。山猿対策です。

  11月14日にとまった時計も少しずつ時を刻み始めました。

 

 


<愛媛ミカンと信州リンゴが届きました>

  12月5日、午後12時30分、愛媛のミカンが宅配。10月ごろに予約したミカンです。自然農法(EM活性液散布)のミカンです。濃密な一味違うミカンです。

  

☆愛媛ミカンについては、次のブログを参照してください。

{・・参照:2013,12,8「人生いろいろ」<愛媛からミカンが来た>・・2014,12,5「師走を歩く」<今年も愛媛からミカンが来た>・・2015,12,4「静かな師走」<今年も愛媛から有機温州みかん届きました>・・2016,12,6「平穏が一番」<愛媛からミカンが宅配されました>・・}

  12月16日、午後12時30分、今度は信州夜間瀬からリンゴが宅配されてきました。
もともと、リンゴは青森弘前市岩木山の大地で育てられたEMリンゴが届くはずでしたが、ご不幸があり、2014年頃より、夜間瀬のリンゴを送ってもらうことになったんです。 
  この夜間瀬のリンゴも別格です。密度満点です。 

 

☆夜間瀬のリンゴについては、次のブログを参照してください。

{‥参照:2014,11,28「11月最終章」<信州からリンゴが届いた>・・2015,11,28「11月終わりの頁」<信州のから夜間瀬からリンゴが来ました>・・2016,12,12「老人と仕事」<信州・夜間瀬来ました>・・}

  それにしても、ブログ本も、ミカンもリンゴも、二人で眺め、味わい、楽しんだ姿は、今はありません。これが現実なんです。と思うと、何かしら、胸の底からこみあげてくるものがあります。
  嗚咽という言葉があります。ありし日のキイ婆さんの姿を忍ぶと、喉の奥からこみあげてくるものを感じ、言葉を発することができず、同時に瞼のあたりに移動して、目がウルウルします。まさに嗚咽という感じです。

  89才5か月を歩くジロ爺さんではないか? 男ならメソメソするな! 涙を見せるな! と言い聞かせても、どうすることもできないのが現実です。だから、最近では、できるだけ泣けばいい、瞼をぬぐえばいいと、自分自身に言い聞かせています。

  全ては時が解決します。11月14日に止まった時計の針も、ボツボツ動き始めました。
  ジロ爺さん!この心も体も一段と寒い冬を、乗り切ることが、いまジロ爺さんに課せられた使命なんです。


<最後のツウーショット>

  12月10日(日)、午後5時、四七日(よなのか)の追善法要も終わりました。今度の土曜日に五七日(いつなのか)、親族一同を迎えての法事をすることになっています。
  私は、心休まる間もなく、年金、郵貯、農協、銀行などの書類整理・届などに、忙殺されています。でも、少し書類整理・届など、提出の目鼻がつき、ほっとしているところです。・・ ですが、やはり寂しい。

  生きていくのも大変ですが、死んでいくのも難しい時代に、いとも、あっさり家内は逝きました。ミゴトというほかございません。

  10月30日、一緒に撮った写真がありました。そうなんです。このところ20数年、ツウーショットの写真入りの年賀状をつくっていました。
  「そろそろ年賀状のシーズンやなぁ、今年はダイコンを前にして、撮ったらどうやろ?」「ほんまやね、それがいいわ」・・・30日、午前9時ごろに、撮ったツウーショットです。これが、二人の最後の写真になりました。

☆この写真を見ると、またしても目がうるんでくるんです。でも、ギラギラした脂ぎったジロ爺さんに反して、キイ婆さんは、なんとなく弱々しく見えます。この日から14日後に、逝ってしまったんです。
  暦年齢は90才と82才です。満年齢はジロ爺さんが89才5カ月、キイ婆さんは81才7カ月です。

 

<一人で植えた玉ネギ>

  11月11日、注文していた玉ねぎの苗がきました。今年は310本(黄250、赤60)です。植える準備(マルチの穴あけ)は、10日までに完了していました。

  11日、午前11時から、約1時間、一人で250本を植えました。いつもは、何かと手伝ってくれたというより、むしろ主任さんの家内の姿はありません。今から思うと、気はあっても、畑まで行き、腰をかがめての仕事ができなかったと思います。心では泣いていたんだと思います。

  12日、午前9時45分から約30分で、赤玉ネギ60本を、これまた一人で植えました。足腰にできるだけ負担をかけないように、気を配りながら、歯を食いしばりながら、心では泣きながらの、玉ねぎ苗植え付けを終了しました。・・今から考えると、ジロ爺さんより、悔しい思いをしていたのはキイ婆さんだったと思います。

 

☆(左)、準備していた3号田の2畝に、黄玉ネギ(ネオアース)250本を植えました。写真は殆ど植え付け完了したところです。11月11日、9:47写。

☆(右)、1号田に赤玉ネギ60本を植え付け完了したところです。11月12日、11:09写。

・・・11月12日、午後4時ごろ、家内が草引きをしながら、灯篭に頭をぶっけ、額にたんこぶをつくり、倅夫婦が、日曜日診察医療が、医療センターであるのを確認して、診察を受けに家内を連れて行きました。レントゲン・心電図・CTなどの検査を受け、異常なしで帰ってきました。しかし、どこでどうして頭をぶっけたのかには、記憶が曖昧でした。

  その晩、倅の嫁と私の二人がかりで、家内の入浴をしました。ともかく、両膝と腰を痛めた様子です。そのくせ立ったままで、腰をかがめて、草引きや落ち葉拾いは、何時間でもやるんです。今から思うと「しんどい」「えらい」という感覚がうすれていたのかも知れません。

<最後の抱擁>

  11月13日、家内は一日中、暇があれば、草引きと落ち葉拾いをしていました。・・額のこぶも、もと通りになっていました。
  夜、10時ごろ、家内の寝室・居間のベッドに行くと、テレビを見ながら、「今日はウンチもオシッコもうまくいった」と、笑みを見せました。
  近づき、顔を寄せると、私の胸にしがみつきました。「もっと、強く抱けや」というと、両手で私の胸を抱えました。でも、その力は限りなく、かよわく、かぼそいものでした。‥でも、ニコッと笑顔を私に向けました。
  そして、14日の昼を迎えたのです。今から思うと、56年10カ月を寄り添い、13日の夜が、私と妻の最後の抱擁となりました。やっぱり、涙です。

・・「八十路の旅」・開設当初の2008年~2011年のブログに、妻のことは多く載せているようです。第1号から第12号の本をめくりながら、いまさらながら、ようここまで記してきたもんだと自分で感心しています。次のブログを参照してください。特に「結婚記念日と朝日」には、昭和35年1月22日の結婚式模様をつぶさに記しています。

{・・参照:2008,10,10「八十路の旅」・・2009,1,21「金婚を迎えて」・・2009,3,9「究極の恋文」・・2009、5,11「金婚夫婦祝福式典に参列」・・2009,7,7「猿と知恵比べ」・・2009、2-10,5「中秋の名月」・・2011,1,22「結婚記念日と朝日」・・などなど}

  また、次の機会に、結婚に至るまでの模様を話してみたいと思います。できるかなぁ?

 

   

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秋の風物詩

2017-11-06 08:01:28 | Weblog

<秋の風物詩>

  わが里山は、秋の風物詩がたくさんある。とろろ街道・炎のまつりもその一つだ。秋の紅葉、野山の変化、裏山のクヌギ林の様子など、など・・。
  今回はとろろ街道・炎のまつりをつづる。

<とろろ街道・炎のまつり>

  11月5日、恒例(10年目)の、とろろ街道・炎のまつりが、わが家から徒歩5分ぐらいの黒豆の館周辺で催された。パンフレットが各戸に配布。 写真で複写したが内容が不明瞭、再度、説明することにした。

{**あかね空に奏でる「山の芋の詩」**
 晩秋の夕暮時 山の芋畑で収穫後の蔓を燃やします。
 立ち昇る真赤な炎とたなびく煙があかね空に響き合うその姿は
 丹波篠山の晩秋の風物詩と言えます。
 わたし達 篠山市西紀中地区では 山の芋づくりがはじまった「農」を誇りに
 農の風景をみつめなおしたいと「とろろ街道・炎のまつり」を開催いたします。
 「山の芋」をはぐくんできた「農の文化」を 失われつつある「火の文化」を
 どうぞご賞味ください。**}

{・・催し案内・・11:20~バザー、遊具(インフレタブル)、ジオラマ・・
         12:00~15:00、ステージイベント・Jazz Live
                     岡野太鼓、ジャグリング(神戸大学)
                     吹奏楽プリマベーラ、西紀音頭保存会
         15:00~、山の芋のつる燃やし・・}

 

☆案内パンフレット。☆午後、黒豆の館前の広場、ステージイベントの風景。11月5日、14:09写。

 

☆黒豆の館周辺の田んぼに積まれたとろろ芋の蔓。6つほど積まれていた。14:20写。

☆午後3時、端(北)から、順番に火をつけられた。よく乾いていたので、一気に火の手が上がった。

***とろろ街道・炎の祭りは、今までのブログにも、掲載しています。
{・・参照:2010,11,10「とろろ街道。炎の祭り」・・2011,11,17「深秋の風物詩」<とろろ街道・炎の祭り>・・2015,11,7「永久圏外」<とろろ街道・炎の祭り>・・2016,11,5「小春日和」<9年目のとろろ街道・炎の祭り>・・}


<栗ご飯>

  丹波篠山は、山の芋、黒豆が名産だが、丹波栗もあなどれない。貴重な名産品である。
  11月5日、炎の祭りから帰ると、栗ご飯の夕食が並んでいた。これも、私の好物である。また、里芋が煮込まれていた。聞くところによれば、昨年の里芋だそうだ。これがめっちゃうまい。甘くてまろやかで、舌触りが良い。
 完食。午後6時30分に撮った。

☆サラダ、さんま、栗ご飯、ダイコンおろし、サトイモ、味噌汁、ショウガ、サンショ、お茶。栗ご飯はうまいが、膝痛は、依然として完治しない。やっぱり、台風被害の修復作業がこたえたらしい。

 

<平成29年度篠山市退職校長会・秋季研修会>

  11月6日、朝から黒豆の館で、秋季研修会があった。ともかく、歩いて5分ぐらいのところで開催されるのに、欠席するわけにいかない。それに、昼食が黒豆の館の田舎バイキングとくれば、なおさらである。

  研修会の日程が不明瞭で、ちょっと補足する。

**日程

   受付・・(9:30) 昼食代(1,300円)集金
   開会・・(9:50) あいさつ・講師紹介
   研修・・(10:00)講話:「篠山歴史再発見」
                   ~知られざる宮田荘あれこれ~
              講師:久下隆史 氏
                    (園田女子大学非常勤講師)
   昼食・・(11:10)バイキング
   閉会・・(12:40)

  

☆講師の久下さんは地元、宮田出身のかたで、西紀の生き字引といわれるほど、歴史・文化に詳しお方です。私とも知り合いです。多紀郡・西紀町の地理歴史を、パワーポイントを使いながら、詳しく教えていただきました。

 

☆黒豆の館は「田舎バイキング」で有名です。開設されてから、かれこれ7,8年は経っているでしょうか?開設以来、満席です。(火曜日・休日)

☆八角形の館の大広間がバイキングの会場です。中央に、バイキング形式の料理が並べられていて、好きなものを食べることができます。

 

☆本日の私の田舎バイキングの料理ものです。ご飯は黒豆ご飯です。ゴボウや鶏唐揚げなどもあります。サトイモや手作りのこんにゃくなど、田舎でないと味わえません。

☆バイキング会場の風景です。満席でした。・・それにしても、膝の痛みが治りません。

 

<雨よけガレージ修復>

☆台風21号で、雨よけ用ガレージの吹き飛ばされたトタン屋根(ビニール)1枚と、フックが緩んだ2.3枚の屋根が、10月6日の昼、きれいに修復されているのに気が付いた。倅夫婦が三連休の4日に作業したとの話。

  脚立などを用意し、「いつかはジロ爺がやらねばなるまい」と、覚悟していた作業である。うれしかった。心の底から喜びがにじみ出た。そして思った。

   いつも、わがブログで登場の平櫛田中(1872・明治5年~1979・昭和54年:107才没)の「いまやらねばいつできる。わしがやらねばだれがやる」との言葉を、励みに張り切ってきたが、平櫛さんが言える言葉で、ジロ爺さんの言葉ではなかった。やっぱりムリはしないほうがよいと、言葉の修正を考えた。
  「いまやらなくても、いつかはできる。わしがやらなくてもだれかがやる」・・一向に回復しない膝を眺めて、うそぶくジロ爺さんである。

<ダイコンおろし>

  両膝は完治しないが、大根おろしはすれる。11月7日、昼食に食べた大根おろしだ。古希時代に買った銅製のおろし器(わが家の女性群にはあまり人気がない)で、すりおろすと、なんとなく一味違うような気がする。コクがある。みなはジロ爺さんの錯覚だという。

  まあ、自分でおろして、自分でポン酢を入れてご飯にそえれば、うまい。

 

☆すりおろしている実像とすり終わった大根おろしとポン酢。7日、11:30写。

***さて、両膝だが、市内のH外科で、4日はレザーを照射して帰宅。でも、一向に良くならない。
  6日(月)再度、診察(17時ごろ)を受けた。結果、左ひざのたまったミズ(関節液)を、抜いてもらった。初めの麻酔の針がチクリとしたきりで、あとは少しの痛みもなかった。さすが外科医。
  7日(火)17時ごろ、右ひざにも針を入れてもらった。やはり、かなりの関節液がたまっていた。

  8日の朝、少しはよくなった。でも、スタスタとは歩けない。肩を左右にふるエゴエゴ歩きとまではいかないが、そろりそろりと歩ける。・・今少し養生をしようと腹に決めた。
  ジロ爺さんよりも、キイ婆さんの歩きが気になる。婆さんは完全にエゴエゴ歩きだ。まあ、当分、老夫婦でぶらぶらしているに越したことはないようだ。うーん!

 

<ジロ爺さんへの応援歌・タマから>

  時々登場するタマ(猫)です。ジロ爺さん一家に飼われて、かれこれ12年になるのかなぁ? この春大学1年生になったジロ爺さん孫娘が、小学校の2年生の時だったから、12年は経っている勘定になる。

  12才のタマも年をとった。納屋の屋根裏に寝泊りしているが、この頃は、2階の屋根裏に上がるのがしんどくなった。近頃は米搗き機から、戸ノ上に上り、柱伝いに寝床に入る。つまり、2クッションが必要となったのだ。なさけない。タマも年とったのを実感している。

  ところで、最近のジロ爺さんを見ていると、確かに年とった感じで、タマもぐんと寂しくなる。目下、両膝を悪くしている。歩きにくそうだ。樫の木でつくった両杖を、わきに忍ばせて歩いている。だいぶんスタスタと歩くようになってきたが、完治していない。タマの眼には狂いがない。

  ジロ爺さんの悩みは他にもある。最近のキイ婆さんの老化が激しいのだ。ジロ爺さんが、キイ婆さんを支えている姿は、涙物語だ。・・今までしてもらった、身の回りの世話を、一生懸命にこなしている。さだまさしの関白白書ではないが、「俺より早く死んではならぬ・・絶対早く逝ってはならぬ」・・繰り返し心の叫びが聞こえてくる。と言っても、ジロ爺さんは、決して弱音をはかない。気丈にふるまっているからすごい。

  天気の良いときは、必ずタマを外に出してくれる。猫族に連戦連敗のわがタマをかばってくれる。ジロ爺さんがいないと、外には出られない。野良猫族も、そこらはよく承知していて、ジロ爺さんの姿が見える間は、わがタマに近寄ってこない。

  ジロ爺さんの両膝も時間がたつと治るだろう。タマの診断だから、あまりあてにはならないが、前にも、1週間かかったことがあった。タマは(治る、治る)と、ジロ爺さんを応援している。タマの応援歌が聞こえるだろうか?・・ジロ爺さん、頑張ってくれよなぁ。

 

<歯科予約検診の帰路、わが北東にそびえる法蓮峯(ホウレンボー)

  11月10日、3か月に1回、歯科予約検診(午後2時30分)に、家内同伴で行った。安全運転である。わが家を2時10分に出発、診察は午後2時30分~午後3時10分。・・予約とはいえ、今日ほどスムーズにいったのは初めてだ。わが輩の精進がよかったのだ。
  篠山市内のO歯科医院は、かれこれ50年、お世話になっている。昭和62年ごろ、バレーボールが直撃。前歯2本がぐらついた。補強を重ねながら30年もった。よっほど歯性がよかったのだろう。(先生も私も認めた)89才で、持って生まれた歯が、上12本、下13本、計25本。・・80才で20本(80-20)がOK時代に、25本とは、すごいとは、皆さんの感嘆の言葉。

  ところで、O歯科院の二階への階段は、きつくてながい。手すりがなければ上れない。膝の悪い家内は、電動式運び椅子を利用した。もちろん、歯科看護師さんに来ていただいて、作動してもらった。今日が初めての経験だった。おかげで、すべてがスムーズに事が運んだわけだ。

  帰路、わが家の北東にそびえる法蓮峯が、鮮やかに西日に照らされていた。やはり11月である。かなり紅葉が進んで、秋らしい風景となった。これも、また一つの風物詩だ。

☆真向いが法蓮峯、左の白い建物は西紀小学校校舎。10日、15:40写。
  稲刈りが終わったわが稲田は、青い稲が20cmほど伸びていた。山裾に広がる家並みがわが集落。国道丹南三和線沿いに家並みがみえる。わが家は、一段と奥の山裾のあるので、見づらい。・・こうして眺めると、やっぱり山猿にとっては、絶好の場所のようだ。

  電気柵は、いつ頃設置できるのかなぁ?・・でも、もうこれ以上働くのは不可能。最近、特にしんどい。家内の世話にも疲れた。これは老々介護というのかなぁ?。・・社会問題だといって、簡単に済みそうな問題ではない。・・今後、どのように解決していけばいいのか、他人ごとではなくなった。

***身内に不幸があり、しばらくブログを休みます。14日、午後1時30分 。

 

 

 

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晴と雨

2017-10-28 14:54:51 | Weblog

<晴と雨>

  10月26日、27日秋晴れが続いたが、28日はまた朝から雨。しかも台風22号が発生した。台風進路予想図は、21号と同じように、沖縄あたりから90度方向転換して、日本を狙っている。21号よりは南の海上を進むようだが、もううんざりである。


<村の農業品評会・大根の部で一位入賞>

  10月28日(土)、平成29年度、村の農業品評会があり大根を出品した。28日は朝7時に起きた。外は雨が降っている。ウワーと叫びながら、合羽をつけて2号田からダイコン5本を引いてきた。
  家内が水洗い。よさそうな3本をまとめて倅の名で出品した。見事1位に入賞した。
  今回の入賞は、とりわけうれしい。8月28日に村から配布の青首長ダイコンの種をまき、追肥、モグラ・害虫対策(椿の油粕液肥)の殆どの仕事を、ジロ爺さんがやったからだ。

☆品評会のスケジュールは次の通り。
  10:15~10:45 出品物の審査。黒大豆、山の芋、大根
  11:00~12:00 昼食
  13:00~14:00 品評会総評・成績発表及び反省会 

*倅が役員をしているので、私は不参加。大根出品は倅の名前。品評会では例によって、倅が「丹精を込めてつくりました」と言って、大笑い。
  昨年の平成28年度は、モグラに入られて出品は不能であっただけに、今年の品評会1位入賞は、ことのほかうれしい。過去3年間の成績は、平成26年度はダイコン3位入賞。平成27年度は1位入賞。平成29年度は1位入賞。

*写真は入賞の大根、1位賞状、副賞として味の素ギフト商品。28日、午後3時ごろ撮った。倅が帰るのを待ちかねてシャッターをきった。何べんでも言う。うれしい。

*それから、もう一つうれしい話を倅が持って帰ってきた。かねてより申請していた、猿対策の電気柵の補助が、篠山市から許可されたそうだ。日程は未定だが、村の役員をしている倅が関与してくれるそうだ。うれしい。
  これから忙しくなるぞ!寝てばかりはおれない。まあ、ジロ爺さんは采配だけだが、謙虚・謙遜・愚直が大切。・・この言葉は、ちょっと、今の政治に揶揄を入れた言葉。

  *大根に関するこれまでのブログ記事を記します。参照してください。バックナンバーで開いてください。
{‥参照:2011、10,29「先客万来」<久しぶりにダイコン第1位>・・2014,11,1「釣瓶落とし」<品評会ダイコン入賞、つるし柿の様子>・・2015,10,28「10月下旬・続」<村の農業品評会、大根の部・第1位入賞>・・201511,1「霜月雑感」<文化の日・思い出>・・}

<28日の夕食です>

  「お食事です」・・声がかかり、ごろ寝の部屋から食卓に足を運ぶ。今日は土曜日。倅夫婦はお休みの日。倅は朝から村の役員の仕事(品評会など)、嫁は部屋の掃除、洗濯、夕食の世話。家内は洗濯機をまわす。ジロ爺さんは早起きのせいで眠たくてたまらぬ。

  午後6時の夕食です。「ご馳走やなぁ」というと、「今日は入賞のお祝いです」との言葉。・・すっかり、ぺろりと平らげました。

☆エビとブリのつくりがメイン。ジャガイモサラダ、トン汁、ショウガ、サンショ、タクワンなどなど。・・・早速、トン汁やつくりにわが家のダイコンを使用。・・これからどんどんダイコンのおろしを食べるぞ。

<小豆の収穫を始める>

  10月30日、やっと小豆の収穫を始めた。 こんなことは初めてだ。毎年、10月中頃には、収穫を終わり、20日頃には乾燥を終わり、莢から小豆をとりだし完成していた。・・それが、今年は10月終わりになっても、葉も莢も枯れてこない。・・完全に日照不足と長雨のせいである。・・みなから「あれは黒豆ですか」と言われた小豆である。

  台風22号も去り、関東では29日、30日、台風一過、晴天との話。丹波篠山地方は、29日も、雨は降らないが、風が強く、今一つはっきりしない天気だった。

  30日、やっと晴れ間が見えた。「よし、今から小豆を収穫するぞ」と、起き上がった際、右肩とわき腹が痛い。ふと、悪い予感がよぎった。「猿除け網の修復作業のムリが出たのではないか?」

  しかし、朝食を済ませ、肩を回しながら、朝刊を取りに歩いた。起きたときの痛みはうすれた。ムリしなければ小豆ぐらいの収穫はできるぞ!・・ひとり合点、午前、午後、約1時間ぐらいで、第1次の収穫を終えた。

  31日、快晴である。一日中乾燥した。ベリーグッド。大納言小豆の収穫の喜びが胸をあつくした。

 

☆30日、収穫の様子。セルフタイマー10秒、台車に腰かけられなかった。午前11時40分にシャッター。

☆31日、快晴。車庫で朝から、小豆をお日様にあてた。午前10時に撮った。やっぱり、自然の力はすごい。・・そうそう、昨夜30日、歎異抄をやっていた。自然をジネンと呼んでいた。回心(エシン)の話もあった。でもね、話はなんとなく分かるが、自力とか他力とか、・・でも結局、南無阿弥陀仏ですよね。

**これまでの小豆に関するブログを紹介します。
{‥参照:2009,10,31「小豆の収穫」・・2012,10,17「秋の雨」・・2014,10,11「寒露を過ぎて」<収穫した小豆です>・・2015、10,20「良い加減」<小豆の収穫を終わりました>・・2016,10,14「 秋涼の候・続」<小豆の収穫を完了>・・}

<玉ねぎの畝づくり>

  11月1日、午前中、依頼していたKさんが、玉ねぎの畝づくりにきてくださった。修理した管理機で、あっという間に、3号田の2畝と、1号田の1畝を仕上げてくれた。感謝!感激!

 

☆3号田のと後ハウスの西側の2畝だ。管理機で耕し、元肥(牛糞・焼灰・EMボカシ)を入れ、土寄せをして、マルチをかぶせて完成。・・一口に言うと簡単だが、今のわが輩には不可能。
  写真は鍬で土寄せしているKさん。1日、9:30。
  マルチを張り畔敷きを敷いて、完了した2畝。1日、11:00。

 

☆1号田の1畝、仕事中のKさん。1日、11:00.
 出来上がった畝の様子。1日、11:50分。・・ありがとうございました。


<小豆を乾燥・莢外し・箕に取りだす>

  11月1日、朝から晴天である。秋晴れで一点の雲もない状況。午前中は、Kさんのお手伝い。午後、昼寝を終えて、小豆を莢から取り出した。莢の上から軽くそっと踏むと、小豆がはじけてた。ペキ、ペキという何とも言えない音である。莢のついた小豆のふた山は、午後5時ごろには小豆となった。でも、あとの一山は、寝転びながら莢をはずした。「そんなことして小豆を収穫した人はありません」・・みなの心の内です。
  でも、秋の日は短い。西空に夕日が沈み、陰りゆく紺碧の空に、飛行機雲がたなびき、その横を朱色の光を発しながら、ジェット機(?)が飛んでいた。

 

 ☆手前の山がふた山目の小豆。ひと山目は、ほとんど莢から取り出した。14:40写。
 寝転んでの仕事は、ジロ爺さんの専売特許でしょう。座布団を敷いていますよ。暖かくてぽかぽかの陽気です。15:09写。

 

☆1日、午後4時40分ごろには、何とか、小豆を二つの箕にとりだしました。ここまでくれば、もう、あとは家の中で、じっくり選別するだけです。

☆1日、午後5時ごろ、西空に夕日が沈み、たなびく飛行機雲と、飛んでいる飛行雲が、朱色に照らされていました。きれい。

<十三夜だった>

     西空の飛行機雲から、ふと、東空に目をやると、白い月が五葉松の上にでていた。
  10月4日の中秋の名月・十五夜の後にめぐってくる十三夜である。まん丸と違って、ちょっとくすねているのが、風情があっていいと、月をめでる人は言う。
    石に腰かけて、飽きずに眺めた。写真は1日、午後5時5分ごろ撮った。  

 

☆十三夜については、2015,10,25「10月の下旬」<十三夜>に、詳しく記している。{・・河岸の柳の行きずりに ふと見合わせる顔と顔・・}榎本美佐江さんが有名。プロ野球の投手金田正一と浮名をはせた方で、昭和一桁生まれの人は、特に、みな知っている。


<一応、小豆の選別を終わる>

  11月2日、秋晴れである。これで3日続いたことになる。ぽかぽか陽気。11月2日、午前11時ごろ、箕でふるって、小豆をとりだす。昼までには、何とか収穫の小豆を選別にこぎつけた。
  小豆はあまり日に当てない方がよいそうだ。日に焼けて黒くなるとは、プロの話。日陰において、猫などにオシッコをかけられないように工夫して保存。最終選別はまたの日。

 

☆箕でのふるい方は、かなり上手になった。と言って、私は、吹いて莢をのける主義ですねん。でも、まあ、大体きれいになりますよ。箕をもってふるう姿は2日、午前11時ごろ撮った。

☆ピンク模様のザルに入れたのは午前11時30分。

**11月2日、午後2時ごろから、裏の5号田の焼却場で、サツマイモの蔓などを燃やした。・・やり過ぎですねん。体中の節々が痛くて、部屋でごろ寝をしながら、サッシ窓を通して、燃える状況を観察。日がとっぷりと落ちた午後6時ごろには、ほとんど燃えた。それにしても、秋の落日は早い。釣瓶落とし。

 

<慢性の膝故障>

  11月3日、朝から膝が痛い。歩行がいつものようにスイスイと運ばない。両膝を出して、しげしげと見つめる。「いや、左ひざが、やっぱり、少しふくれている。少しミズがたまった感じだが、養生するに越したことはない。ムリをしないことだ。歩けるときは、少しは歩いてならすことだ。と自己診断する。

  ぽかぽか陽気も11月3日(文化の日)午後から下り坂らしい。町の文化祭にちょっと顔を出す予定だったが、中止して、腰掛台車で、小豆をもいだ。「これくらいの仕事をしないで、なんとする」と自分自身を激励する。
 
  10月4日(土)、朝から小雨模様。「おい!どうや、昨日の小豆もぎ大正解やろ」と、誰に言うともなく叫んだ。「よし、土曜日だが、H外科は半日診療だ。診てもらってくるわ」と、身支度して軽自動車を市内に走らせた。・・大体、待つのが苦手のわが輩。・・市内のスーパーで、頼まれていた用事を済ませた。

  午前11時ごろ、診察を受けた。「ちょっとたまっているけど、抜くほどのこともないようです。レーザーを当てましょう」・・ひとまず安心。帰宅は12時を少し過ぎた。ムリすれば何とか普通に歩けるような感じになった。・・過去のブログを開くと、1年ごとにミズ抜きをしてもらっていた。

  仕事は、一休みも二休みもする予定。

 

 

 

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深秋

2017-10-21 16:43:08 | Weblog

<深秋の候>

  10月下旬から11月上旬にかけて、まさに秋の深まりを感じる時期に、「深秋の候、ますますご健勝の段、お慶び申し上げます」と、手紙の書き出しに使った経験がある。

  10月21日、朝から雨模様。わが里山の姿も、一年のうちでいちばんもの悲しく感じられる季節となった。秋の深まりは、これからが本番である。それにしても、この時節に、必ず口ずさむ詩がある。ポール・ヴェルレーヌの「落ち葉」一般には「秋の歌」、上田敏訳の日本版である。

{・・秋の日のヴィオロンのためいきの 身にしみて
   ひたぶるに うら悲し
   鐘のおとに 胸ふたぎ 色かえて 涙ぐむ
   すぎしひの おもいでや げにわれは
       うらぶれて ここかしこ さだめなく
     とびちろう 落ち葉かな・・} 

  毎年、今頃に何らかの形でブログに、したためている。いちばん詳細に記しているのは、次のブログ。参照してくだされば幸甚。{・・2012,10,9「秋の日のためいき」・・}

<古轍(こてつ)>

  テレビ「相棒」の署長室にある額に「古轍」とある。前から気になっていた言葉。古い轍(ふるいわだち)と読むと、「古い車の通ったあと」と解釈できる。

  昔の自慢話を一つ。旧制中学校3年生(15才)の時、国語に時間、きれいな字を書く国語の先生が、黒板に「轍」という字を書いた。見事な筆跡である。先生は顔を斜めにして(誰か読めるか?)と、無言の合図。

  私は、ちょっと手を挙げて、「わだち」と答えた。教室は一瞬、シーンとなった。先生はうなずいて、それから解説。ちょっと鼻の高くなる話だが本当のことだ。

  志賀直哉かどうか、はっきり確証は持てないが、小説を読んだとき、{・・白い雪の上を、バスが通った。くっきりと雪の上に轍を残した・・}という文章を読んだことを覚えていた。轍に「ワダチ」とフリガナがついていた。それを覚えていただけの話。・・だからと言って、国語の点数が良かったわけではない。普通より少し良かったぐらいかな? むしろ英語、数学のほうが点数が良かったのを記憶している。

  さて、テレビの相棒の「古轍」の額の話。「車輪が通って道に残した跡」から・・古人が歩んだ足跡。釈迦が仏法を極めるために辿った道、真実への道。(ネット調べ)・・中国の曹洞宗の初祖である洞山良介禅師(807~869)が作った「宝鏡三昧」の中にある一句。・・古轍という意味は「古人の歩んだ足跡に合わせたいならば、必ず自分の過去を顧みて反省しなければならない」と解説されていた。

  テレビ「相棒」の署長室の額から、一つ勉強した。それにしても、最近の「相棒」は、今一つ内容が不明瞭。むかし頭のご老人には、悪と善がはっきりしていた方が、納得しやすい。「暴れん坊将軍・吉宗」のように、最後は必ず、悪を成敗する。・・それにしても吉宗は強すぎる。ぜったい死なない。「当たり前やわ、死んだらテレビが観られへんわ」・・家内の言葉。みなで、笑った。

<期日前投票>

  10月22日、衆議院選挙の日だ。いつも不思議でならない。解散宣言で、一斉に万歳する国会議員の姿に、「何が万歳やねん」と首をかしげる。もう選挙はうんざりである。「おい、今回はもう棄権しようか?」「ほんまやね、でも、やっぱりいった方がよい」「台風がきてるぞ」「22日までに、期日前投票にいきましょう」

  ジロ爺さんとキイ婆さんの会話。話がまとまり、22日は避けて、車で5分ぐらいの西紀支所で、期日前投票(18日)を済ませた。

  政治経済は語りたくない。誰を選ぼうと、頭のよい官僚さんが、この国をにぎっている。「官僚打破」を叫んで政権を握った政党がでたときは、国民は諸手を挙げて期待した。しかし、長く続かなかった。空中分解して、現在の姿となった。一人、ほくそ笑んだのは官僚さんでしょう。

  超少子高齢化社会の解決法はあるのか、超限界集落に救いの手はあるのか、答えは「なし」であろう。選挙の結果は、新聞・テレビの予想通りになる公算大。・・昔から、爺さんの選んだ人が当選したことは記憶にない。・・無駄だから棄権しようと思うが、国民の義務だと言われれば、仕方がない。

  10月18日、午前10時ごろ、二人で期日前投票を終えた。最近、とりわけ足膝が悪くなった家内の手を引いて、二人で仲良く(?)、指示に従って、2回も投票箱に紙を入れた。なんとなく、むなしい気持ちでいっぱいである。

  気分転換に、二人で買い物に出かけて、昼前に無事帰宅。やっこらしょ、どっこいしょ。 

☆期日前投票受付中の案内板の前で、久しぶりのジーパンスタイルでのわが輩。写真は、偶然通りかかった、かっての後輩、支所長さんに撮ってもらった。18日、10:30写。


<イノシシ出没>

  10月に入り、山裾が急に何かに荒らされた跡が目についた。イノシシ出没だ。山裾には金網のフェンスが設置されているはずなんだが、時々、それを超えて、わが里に侵入してくる。

  今回、一番被害を受けたのは、隣の家の畑であった。猿除け網を張り巡らされて、完ぺきだったはずなんだが、防獣網の裾の破れ目から、侵入して畑(10mx5m)をズタズタにした。畑の下の道も、掘り起こした。お盆の棚経にお坊さんが通られる道である。

  もちろん、山裾のわが畑(6号田)、山椒の木2本、梅の木3本、柿木1本を植えている減反の田んぼも、イノシシに掘り起こされた。ミミズを取りにやってきたらしい。

  目下、イノシシの解禁の日(11月15日)を待つしか手段はない。シカも時々出る。シカは跳躍力がすごい。2mは軽く跳躍する。わが、6号田にも時々現れる。わが家のサッシ窓から、20m先にシカを見たときはびっくりした。

  このような過疎の村の対策は、中央官僚の世界の人にはわからないと思う。残念!地方の役所のお方も、わかちゃいるけど、お上からのお達しがない。地方創生という。役所の好きな言葉は「自分たちの村は自分たちで守る」であろう。上手に逃げられては、手の打ちようがない。

 

☆(左)隣の家の山道。この道は上の家からの下り道。ミミズを掘り起こしたらしい。この道の左の土手の上の畑に、イノシシが入って、小豆などをズタズタにした。

☆(右)わが家の6号田。満開の野菊の花を踏みつけて、やっぱりミミズが目当ての様子。この畑は、かってお米を作っていた稲田であった。減反により、山椒の木・梅の木などを植えた。昭和50年(1975年)ごろだから、40数年も前の話である。


<テレビ・選挙開票発表と台風21号が同時進行>

  10月22日夕刻から23日早朝にかけて、不気味な夜を過ごした。大型の台風21号が和歌山串本町の潮岬沖合を進行中と、パソコンは知らせてくれた。
  午後10時過ぎ、潮岬からはるか離れた丹波篠山地方も、風と雨が激しかった。特に、風が瓦をゆするように、時々、ぴゅうぴゅうと音をたてた。
  平時なら、テレビは台風の進路や被害の状況などが、細かく報じられるところだが、選挙開票の結果報告が優先した。時間が変わるたびに、少しは台風状況を知らせてくれたが、主役は選挙の結果の知らせばかり。顔を映して「バンザイ!バンザイ!」である。

  当選した人のバンザイの姿の上を台風状況の文字が流れた。午後11時になって就寝。戸外の風の音や、物が転がる音がした。寝付かれなかった。うとうとして、トイレに行こうと、電気をつけたが停電の様子。あたりは暗闇である。幸いトイレに小型の懐中電灯をおいていた。

  家内を起こしたが、一向に反応なし。起こすのもメンドウ、一人で、懐中電灯などを準備して停電に備えた。一向に電気は点かなかった。停電は長く続いた。午前3時ごろだった。寝るしか方法はない。電気はいつ点いたかはっきりした確証はない。午前6時ごろに、目を覚ました時には、電気はついていた。それから、安心して、再び眠りにおちた。

  目を覚ましたのは午前8時30分。またしても、朝ドラ「わろてんか」を観そこなった。いや、それどころではないだろう。
  台風の被害状況を見て回った。予想通り、猿除け網が倒れていた。排水溝に落ち葉が詰まって、道が冠水。・・そのほか5号田のゴーヤの支柱が倒れた。自動車のガレージのトタンが一枚はがれていた。それから、6号田の田んぼに折れた枝葉が落ちていた。・・ざっと見て回った被害の状況だ。

  あゝ、また、このご老体に、ムリな仕事がふえたなぁ、・・・身にしみて、ひたぶるに、うらかなし。


<台風21号の被害>

**排水溝つまり冠水そして除水

   10月23日、午前8時30分。ガレージの横の排水溝に、落ち葉などが詰まって、道が冠水していた。下の土管の入り口から、少し水が流れていた。
  朝食後、下の土管の入り口を草刈りをして、落ち葉を除くと、一気に水が引いた。周辺の草刈りを数分。その後、被害状況の確認。・・1号田の猿除け網などは、一気にはできないことを再確認。
   

 

☆(左)排水溝の冠水状況。23日、9:34写。

☆(右)下の土管に詰まった落ち葉を取り除くと、ゴオッと音を立てて、一気に水が流れた。前よりもきれいな排水溝になった。23日、10:49写。 


**1号田、2号田の猿除け網が半壊

 

☆(左)家の前の1号田の猿除け網の倒壊状況。上にめぐらせた網を下げておけばよかった。後の祭り。この修復は1両日ではできない。材料もかなり要りそうだ。

☆(右)2号田の猿除け網の半壊状況。こちらは、上に網を張り巡らせていなかったので、支柱から網がずり落ちた感じ。これも、脚立を使用して、網を張る必要がある。これも一朝一夕ではできない。何とか10月中に、復旧できれば最高だ。ご老体、できますか?
・・俺がやらねば誰がやる。今やらねばいつできる・・。まあ、無理すんなよ!

**ガレージの屋根はがれる**裏の5号田、ゴーヤ支柱倒れる。

 

☆車2台が収納できるガレージのトタン(ビニール)が、一枚はがれた。トタンを止めるフックがあるので、簡単に修復できるが、倅夫婦がやると言っているのでお任せ。23日、10:50写。

  {・・このガレージは、平成元年、定年退職した際、ホームセンターで、組み立て材料を手に入れ、組み立て資料を参考に、わが輩一人の手作りのものだ。当時、「元気だったなぁ」といまさらびっくり。クラウンの駐車場として活用した。しかし、70才(古希)を境に、公職から身を引き、軽自動車(新車)を購入してからは、家の車庫を使用した。現在は、倅の嫁の車庫である。・・}

☆5号田のゴーヤの支柱が倒れた。これは別に困らない。近日中に取り壊す予定だった。焼却場の西側のヤーコンも支柱にもたれて倒れかかっていたが、いずれ、収穫し、種イモを保存して、来年に備える予定。23日、11:00写。

 

<久しぶりに快晴・1号田の猿除け網修復完成>

  10月26日、27日、久しぶりに快晴。秋晴れである。仕事は山ほどある。ともかく台風で半壊した猿除け網の修復しなければならぬ。それがそれ、「俺がやらねば誰がやる」と強がってみても、一気にはできない。

  むかし、「三百六十五歩のマーチ」という歌が流行った。昭和43年頃だったから、中学校の教師時代だ。{・・三歩進んで二歩下がる・・}ともかく生徒たちと腕を組んでダンスした。しきりに昔の風景がよみがえってくる。

  しかし、50年前の話であった。90才近くを歩むジロ爺さんには、10分の仕事で60分休憩する現状だ。午前中30分の仕事で、3時間は休むことになる。午後も同じ。すると、一日1時間の仕事で、あとは殆ど、休憩かごろ寝。PCに向き合う時間もある。・・猿除け網の修復ができないはずである。ちょっと、後かたずけをするときもあり、PCで麻雀して遊ぶ時間もある。

  でも、コツコツと体力・気力に合わせて網の修復をして、27日、午前中にとりあえず1号田の猿除け網の修復ができた。自分で自分をほめてやりたい。

☆10月27日、午前11時15分、どうにか1号田修復が完成した。(冬の雪が心配だが、上の防護網を下す計画に組み立てた。さて、どうなるでしょうか?) 

☆10月27日、午後1時30分、わが家の前、1号田から北向きに撮った。雲一つなき真っ青な空が広がる。裏山の木々の紅葉はこれからだろう。クヌギ林は12月末に落葉する。うーん!その時は、もう正月やないかい。おい、おい。

<平穏無事が一番>

  前に、「順番がめでたい」と書いたが、世の中はそう順番にうまく事が運ぶとは限らない。昔から、お爺さん、お婆さん、お父さん、お母さん、息子、娘という順番で、逝くのは、最高におめでたいことだが、人生はそうは問屋がおろさない。現実は厳しい。

  89才を歩むわが輩も、体力、気力の老化を味わいながらも、何とか無事に生きている。でも、家族となると話は少々変わる。家の誰かが風邪をひくと、一家の平穏無事は、あとかたなくついえる。歯車が元に戻るのには時間を要する。何といっても平穏無事が一番である。

  この間、2,3日家内が体調を崩した。わが輩の身の回りの一切の世話をしていた主任さんが、できなくなると、洗濯、朝ごはん、着かえなど、日常生活は大いに狂った。
  日ごろ老化とかアンチエイジングとか、叫んでいても、それは勝手な老人のたわごとであると悟った。一人暮らしの老人の、孤独で生きる姿を垣間見る感じがした。

  わが輩は、勝手な話だが、さだまさしの「関白宣言」を一人口ずさんだ。男の勝手な歌とか、女性を軽蔑した歌とかの批判もあったが、わが輩は、この歌が好きだ。
{‥子供が育って年をとったら 俺より先に死んではいけない 例えわずか一日でもいい 俺より早く逝ってはいけない 何もいらない俺の手を握り 涙のしずくふたつ以上こぼせ お前のお陰でいい人生だったと俺が言うから必ず言うから・・}
 

  10月27日、やっと小康状態、平穏無事の生活にもどってきた。夕食後、家のみんなの言葉。

 「明日、土曜日、村の収穫品評会ですよ」「今年はダイコン出品中止ですか」「えらいこっちゃ、明日朝早く、ワシが引いてくる」「出品するぞ」・・かくて27日の夜はふけた。

 

 

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秋冷

2017-10-14 17:05:22 | Weblog

<秋冷の候>

  10月14日、急に肌寒くなりました。3、4日、夏日が続き、再び、下着を冬物に着かえました。気候の変化に、体を合わせるのも大変です。

  この季節には、「秋冷の候、お変わりなくお過ごしのことと存じ上げます。」という書きだしで、手紙のやり取りをしていたことを思い出しました。少なくとも、昭和35年ごろは、伝達手段は手紙だけだったように思います。電話も、今ほど各家庭になかったと思います。平成29年の現在では、携帯電話や、スマホなど写真入りで、交流できる世の中になっています。

  急に涼しい、いや冷たく感じる秋になり、秋冷という言葉を使いました。

  天気予報は、丹波篠山は、14日、15日、曇り時々雨の予報でした。14日、朝、今にも振り出しそうな雲行きでしたが、家のみな(ジロ爺さん、キイ婆さん、倅の嫁)が、「今なら、サツマイモを収穫できそうです」と、意見が一致して、3人で、3号田一畝のサツマイモを収穫しました。

<サツマイモ収穫>

  10月14日、午前9時30分から約1時間で、3号田のサツマイモ収穫を終わりました。山猿侵入の防護のために、防獣網(1mx20m)を、張っていましたので、掘る状態にするのが一仕事でした。倅の嫁とジロ爺さんの二人で、網とサツマイモの葉と蔓を回収し、5号田の燃やし場まで、運びました。
  サツマイモ掘りは、ほとんどキイ婆さんがやりました。終了は午前10時40分でした。幸い、一滴の雨も落ちてきませんでした。むしろ、天気は快方に向かっていました。でも、夕方から雨模様となり、15日は朝から雨がふりました。「よい間やったね」とは、みなの言葉。

  

☆収穫したサツマイモと掘り終わったあとの畝。左の2筋の畝は完成済み。右の2筋は、10月終わりまでに、元肥を入れ、玉ねぎ定植の畝にする予定。11:30写。


<今年もユズがなった>

  10月14日、午前11時ごろ、3号田の北側のユズの木を見ました。
  毎年50個(時々100個)は実をつけます。今年もかなりおおきくなってきました。50個以上、なっています。お正月前には黄色く色づき、使用可となります。ユズの木の針は鋭く、大変危険です。かなり徒長した枝ぶりとなり、剪定が大変です。

 

☆徒長したユズの木と、なっている状況です。14日、11:30写。


<引っ付き虫・2例>

  10月14日、サツマイモ収穫終了後、ユズのなっている状況を見に行った際、ズボンが「引っ付き虫」だらけとなっていました。ユズの下は、草ぼうぼうの世界です。何とか草刈りをと思いながら、できないのが現実。

  草をかき分けて足を運んだ時に、付着したものです。一つはひし形でもう一つは米粒模様です。ヌスビトハギとは、婆さんの話。でも、今一つ要領を得ません。(ネットで調べましたが、どうでしょうか?)

***ヌスビトハギ

  ヌスビトハギは「泥棒草」と呼ばれ、マメ科の表面にかぎ状の毛があり、人の衣服などにくっつく。

 

☆今一つうまく撮れませんでした。そばを歩くと、必ずひし形模様の実がいっぱい衣服にくっつきます。なかなかとれません。14日、11:30写。

***フジカンゾウ(藤甘草)

  花がフジに似ていて、葉がマメ科の甘草(カンゾウ:著名な漢方薬)に似ているところからの命名。細長い穂状の花序をつける。果樹には毛が密生しておりマジックテープのように衣服にくっつく「ひっつき虫」です。(ネットにはそのように載っていますが、今一つ不明)

 

☆何故かうまく撮れません。接写に失敗です。14日、11:35写。


<3号田のカブラなど>

  10月14日、午後4時ごろ、3号田の後片付けの際、カブラ・チンゲンサイ・ホーレンソーの間引きをしました。例年通り、まずまずの成長状況です。

☆1週間前(10月9日ごろ)に、ちょっと虫がついていましたが、椿油粕液をかけました。元に戻りました。
14日、16:10写。

<わが家の黒枝豆を茹であげる>

  10月16日、一日中雨模様。急に肌寒くなって、チョッキを羽織る有様。
  16日、午前11時ごろ、雨が上がったのを待ちかねて、 わが家、4号田の黒枝前を2,3本引いて、葉を取り除き、早速ゆで上げました。黒枝豆はゆで上げて、食べるのが一番手っ取りばやい。

  今年は、黒枝豆のゆで上げは、わが輩の役目になりました。いやぁ、一度ゆで上げたら、非常にうまくいって、みなから「お上手、お上手」と、ほめあげられて、やる気満々のジロ爺さんです。

 

☆(左)4号田の黒豆です。16日、午前11時ごろ撮りました。
 3本の黒枝豆を引いて、葉をむしり、さや付き豆にしました。午前中の仕事。

☆(右)16日、午後5時ごろ、黒枝豆をゆで上げました。ちょうど、よい具合にゆであがりました。自画自賛。      

**わが輩流のゆで方は次の通りです。

{・・約1kの豆(さやつき)を、水洗いし、ボールに入れ、塩をふり入れて、両手で、ギュッギュッと、もんで毛をとる。鍋に入れてゆでる。約15分ぐらいゆでる。食べてみて、薄味なら少々塩を入れる。ゆで過ぎないようにするコツが難しい。頃合いを見て、ザルに上げ、水をかけ、一気に冷やす。自分の舌で加減するのが、一番手っ取り早い。・・}・・まあ、そんなところです。

**みな、「おいしい」「うまい」とは言ってくれるが、あんまり食べないね。一番高齢のジロ爺さんだけが、パクパクと食べる。なんでやろね。


<サツマイモ収納(保存)>

  10月17日、午前9時30分ごろ、土間で乾燥したサツマイモを蔵に収納・保存しました。
  大きな段ボールに、サツマイモを入れながら、もみ殻をかぶせます。コンバイン袋(60x80cm)のもみ
殻、約一袋を使いました。・・その結果、わが家のもみ殻はなくなりました。おい、おい、もみ殻をもらって、運ばねばならんぞ!

 

 

☆段ボールのサツマイモに、もみ殻をかぶせました。17日、9:30写。

☆大きな段ボールでしたが、もみ殻で、サツマイモはおおわれました。箱のふたを閉め、蔵に運んで収納、保存の完了です。17日、午前10時30分に終了。

 

<もみ殻を運ぶ>

  10月18日、午前10時30分~午前11時30分、稲刈りをしていただいた、親戚の方の倉庫のもみ殻をコンバイン袋などに入れて、わが軽自動車で、わが家まで運び込みました。

  「おい、おい、90才近い人のする仕事ではないぞ」と自問自答。
  「そんなら、だれがやってくれるんや?」・・そして、しまいには「いまやらねばいつできる。わしがやらねばだれがやる」・・平櫛田中さんの言葉を、わが輩に言って聞かせました。
{・・平櫛田中(ひらぐしでんちゅう):彫刻家:1872年・明治5年~1979・昭和52年・・107才没・・}わがブログにもしばしば登場。

 

☆倉庫のもみ殻です。その量、半端ではない。一軒の家がすっぽり収まるだけの倉庫に山積みです。すくい取るたびに、サラサラと、もみ殻が落ちてきます。壮観。

☆わが軽自動車の裏座席を倒して、もみ殻を積み込みました。コンバイン袋が8個、今一つは大きなナイロンのコンバイン袋です。これで2年は保つでしょう。

 

☆わが家のガレージ:肥料置き場に運び込みました。軽自動車を、おろす位置までバックさせ、うまくおろせました。勝手知ったものだからできるんです。

☆軽自動車を車庫に運び、後部座席を元に戻し、すべて完了です。11:30写。家内がシャッター。「わしがやらねばだれがやる」・・よくできました。疲れは出ませんか?・・そりゃ、わからん。でもね、ちょっとは、ムリをする気力も大切ですぞ。

 

 

 

 

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