八十路の旅

平成20年8月3日、満八十才、傘寿になり、八十路の旅を、徒然なるままに記してみよう。

昔物語

2017-03-20 16:22:29 | Weblog

<ジンジャーの後片付け>

  3月20日、秋分の日です。勤めの人は3連休になります。毎日が日曜日、米寿を歩む私には、あまり関係のない話。いつものように、体調とにらめっこしながら、畑仕事をします。

  でも、雪で倒れたジンジャーの後片付け、運搬車で運ぶ姿が、あまりにも哀れです。100mを12秒台で走った面影は全くありません。昔物語、自慢話は後でするとして、3号田の雪害で倒れたジンジャーの後片付けの様子を綴ります。

 

☆(左)3月19日、雪害で倒れた3号田ジンジャーの姿。15:40写。ジンジャーは背丈をはるか越えて成長していました。みごとに根元から折れました。

☆(右)3月20日、午前10時ごろ、後片付けを始めました。休み休みで、何とか午前中に倒れたジンジャーを片付けました。

 

☆3月20日 、午前中に何とか、収納袋(1m四方)に一杯分を、裏の5号田焼却場まで運びました。それが、今のわが輩にとって、かなり重労働なんです。11:40写。
  午後、昼寝時、うつらうつらの頭の中に、遠い遠い昔のことを思い出していました。


<昭和18年、全国体力章検定で上級>

  昔の話をし始めると、お年が解ると申します。昔が懐かしく夢のように大きくふくれてきます。しばらく自慢話とおつきあいください。

  昭和18年だったと思います。全国体力章検定が実施され、当時中学校2年生(15才)の私は、見事、上級にパスして、襟章につけるバッジを獲得しました。上級って、えらいことなんです。

  上級の運動能力検査6種目は次の通りでした。。
{・・100m14秒以内・・懸垂12回以上・・手榴弾投げ45m以上・・60キロ土嚢(俵)
運搬50m14秒以内・・2000m走7分30秒以内・・走り幅跳び4m80以上・・でした。}
  中級、初級の記録は、はっきり覚えていません。

  ただ、2年生の終わりごろ、3年生になる直前に獲得して、3年生になって、学生服の襟に、確か朝日の輝きがモザイクされた上級のバッジが燦然と光を放ち、羨望の眼差しを浴びたことを覚えています。3年生で上級は私一人でした。

  上級にパスした私の記録は次の通りでした。
{・・100m13秒・・懸垂15回・・手榴弾投げ62m・・60キロ土嚢運搬走13秒・・2000m6分50秒・・幅跳び5m80・・}でした。文句なしの上級です。

  当時の中学生の一番不得意だったのは、手榴弾投げと60キロ運搬走でした。当時、2,3年生で、手榴弾投げは15m~20mがやっとでした。60キロ土嚢運搬走は、第一60キロの俵が担げませんでした。

  {・・手榴弾投げでは、当時滝川中学校・別所投手(1922~1999)が72mを投げたとか・・、甲陽中学校の別当投手(1920~1999)が70mを投げたとかの話が、口コミで伝えられていました。・・}


<中学校4年生で柔道2段>

  今少し、自慢話をします。中学1,2年生は甲子園めざし野球部で活躍。しかし、昭和18年、敵国のスポーツということで、全国的に野球が廃止されました。甲子園大会も、戦後復活するまで空白。今となっては考えられない時代でした。
  私は中学3年からは柔道部に入りました。ところが柔道が性にあったのか、3年代表の選手5人に選ばれ、主将をつとめました。まあ、一番強かったのです。負けたことがありませんでした。得意技は腰投げです。内股のような技です。右手の握力が抜群で、相手のふところに入るのではなく、右手で相手を私の腰に引きずり込んで、投げるのです。

  柔道部の顧問の先生(5段)から、すごくかわいがられ、3年の終わりには初段(黒帯)をとり、4年の中頃に2段を推薦されました。(2段の免許状は空襲で焼失)
  4年生時代は、殆ど学徒動員で、阪神間の軍需工場の寮生活の合間に柔道を練習しました。戦時下とは言え、柔道や剣道は盛んでした。でも、4年生の終わりごろ(昭和20年3月ごろ)は、京都を除き、東京、大阪、神戸など、など、日本の都市は、大空襲で焼野原となりました。70年も昔の話なんですね。

☆昭和18年、中学3年(15才)、柔道初段、黒帯姿の私です。当時の貴重な写真の一枚です。昭和19年、中学4年は、学徒動員により、親元を離れて、西宮の軍需工場で旋盤を回していました。寮生活4人部屋。ともかく、田舎と違ってお米のご飯は全くなく、腹が減って仕方がなかったことを覚えています。 紫電、零戦、戦闘機の脚を作っていたようです。でも、19年の終わりごろには、鉄の材料もなく、旋盤のベルトが回らなかったことなど、かすかに覚えています。


<天気晴朗なれども波高し>

  3月20日だったか、私にとっては、今ひとつはっきりしません。いつもの通り、昼寝どき、ふっとテレビで声がしました。「天気晴朗なれども波高し」。。言葉の主は、証人喚問とかで出頭のI氏の言葉でした。
  何となく違和感を感じました。そりゃないだろう。この言葉はあまりにも有名で、とりわけ大正、昭和始め生まれの人は、誰でも知っている話。・・日露戦争(1904年・明治37年)の日本海海戦で、ロシヤのバルチック艦隊を迎え撃った時の、東郷平八郎の参謀・秋山真之が打った電文の一節。もう一つ。「皇国の興廃、この一戦にあり、各員一層奮励努力せよ」・・東郷平八郎・旗艦三笠に掲げられた言葉も、秋山参謀の発案。・・ですが、東郷平八郎元帥だけが、軍神とあがめられ、あの有名な東郷ターンが、クローズアップ。日露戦争に大勝利をおさめました。しかし、歴史は、日清戦争、日露戦争の大勝利から、日中戦争、太平洋戦争と発展し、昭和20年8月15日の敗戦と歴史は綴っています。

  このように考えてくると、「天気晴朗なれども波高し」と茶化してすますわけにもいきますまい。言葉のひらがなすら忘れた人の発言とも思えませんでした。

  こちらは、昼寝から覚めると、よい天気なれども、遅々として進まぬ畑仕事がまっています。


<ジャガイモ種植えの準備>

  3月21日、午前中、ジャガイモ種植えの準備にとりかかりました。

  ジャガイモの種芋は、キタアカリ、メークインの2種類。ともに農協に注文したもの。どちらも5kg(約35個ぐらい)・・・2号田で3月4日、5日、6日の3日をかけて畝づくりをしてきたモノ。{・・ブログ参照:2017,3,5「轍を踏むな」<ジャガイモの畝づくり>・・}
  2号田の4畝(一畝、約1mx8m)に、3月25日(土)午前中に植える予定。

  (1)芽を付けた種芋を2つに切ります。キタアカリ85個、メークイン85個。合計170個に切り分けます。(この仕事は家内)
  (2)切ったジャガイモを活性液のペラ容器に漬ける。活性液はEM1号1000倍希釈したもの。
  (3)容器に浸すのは約30分。すぐ取り出して新聞紙の上に並べて乾かします。
  (4)少し乾いた時点で、乾燥用トレーに移しかえます。植える予定の25日まで陰干しをして、ジャガイモ植えの準備完了といったところです。
 

 

☆(1)種芋を芽をつけて二等分。写真はメークイン。21日、午後10時ごろ写す。上記の通り、キタアカリ85個、メークイン85個。合計170個。
☆(2)活性液に浸けているメークイン85個です。隣の容器には、キタアカリを浸す予定。午前10:40写。

 

☆(3)希釈容器に浸けた種芋を、新聞紙で乾燥しているところです。11:00写。

☆(4)乾燥用トレーに移し替え、植える25日まで陰干しします。11:30写。準備完了です。

 

<3号田・猿除け網の入口を作り変える>

  3月21日、午後2時ごろから、3号田の入口を作り変えようと決めて、休み休みで作業開始。この仕事は、ずっと前からの課題。やっと、実現しました。・・昨年のブログを開いてびっくりしました。いやぁ、昨年は3月19日ごろから4月終わりまで、右肩の痛みで、病院通いをして、悪戦苦闘していることを綴っていました。
{・・参照:2016,3,22「老化と老い」<みんなでジャガイモを植えました>・・2016,4,2「柔らかい心」<年寄りの冷や水>・・2014,2,27「攻めの養生」<猿除け網の補修>・・}

  したがって、細心の注意を払っての仕事ぶりです。おかげで、何とか、無事です。

 

☆(左)3月21日、午後3時30分ごろ、3号田猿除け網の入口を全面的に作り変えました。二本の支柱(高さ2m50)を、巾2m30に設定し、防獣網を取り付けました。この仕事を車庫でしているところです。

☆(右)3月21日、午後4時30分ごろ、前の入口の網を取り外し、新設の網を取り付けました。これで、入口を、簡単に開いて入ることができるようになりました。


<Happy Baithday>

  3月24日、お婆さんの誕生日です。満81歳。最近、すっかり年よりじみてきました。何かにつけて動作が緩慢になってきました。昔から、そう、きびきびした方ではなく、「スローのきみ」と呼ばれていました。それが、それ、ゆっくりと歩くので、私が「10m5分のおんな」と、心ひそかに命名しています。本当は、それほどでもありません。

  24日の夕食、お祝いのパーティは、一家6人で、すき焼きでした。みんな、爽快な食いっぷりでした。もちろん最高級の和牛です。(写真をとる暇がありませんでした)・・私も少々食べ過ぎで、食後のいちご大福など、手がとどきませんでした。 

 

☆3月24日、午前11時ごろ、六甲に住む娘夫婦から、お祝いの花束が、市内の花屋さんから届けられました。便利になったものです。ネットで注文、宅配です。24日、13:00写。

☆いつものようにお祝いのメッセージが、居間の入口に飾られました。倅の嫁と孫娘の二人の合作。今は、パソコンで何でもできるのです。両手をひろげているのが主役のお婆さんで、隣が孫娘です。24日、18:00写。

 

☆倅夫婦からのお祝いの花束とスエーター(普段着)と孫からのお菓子など・・。24日、20:00写。

 

<今年もジャガイモ植えを完了しました>

  3月5日、6日、2号田のジャガイモの畝づくりを完了。殆どKさんの作業。{・・参照:2017,3,5「轍を踏むな」<ジャガイモの畝づくり>・・}

  3月24日、午後3時ごろ、私がマルチに穴あけ、3月25日、予定通り、倅を除いて、5人(私、家内、倅の嫁、孫2人)で、一斉にジャガイモ種うえをしました。いやぁ、びっくりしました。午前9時から初めて、終わったのは9時30分でした。30分で完了です。

  これも、上述の<ジャガイモ種植えの準備>のおかげです。家内の世話のたまものでしょう。

  

☆マルチ穴あけ器(カッター)です。使用し始めて10年ぐらいは経過したでしょうか。このカッターを手に入れてから、マルチ穴あけが、簡単にできるよぅになりました。ミルク缶などを使用していた時とは、昔日の感があります。
  西(写真では左)から数えて1,2,3,4畝、千鳥植えの穴を開けました。
{・・1畝42,2畝44,3畝45、4畝45・・}1,2畝はキタアカリ86個・・3,4畝はメークイン、90個の穴を開けました。カッターの刃渡りは10㎝を使用。間隔は35cmで千鳥植えです。合計176個。

 

☆(左)今年はわが輩も参加(昨年は肩を痛めて寝込んでいた)、参加証明にとジェスチャー。9:36写。バケツの黒いのは培養土。黄色いのはモミガラ。種芋を植え込み、培養土で押さえ、モミガラを被せて終了。

☆(右)手前から家内、孫(男)、道路側が、倅の嫁と孫(娘)の4人の姿。11:40写。

 

☆(左)植え終わった田んぼ。道路側(南)から撮りました。10:00写。

☆(右)植え終わった田んぼ。家の側(北)から撮りました。10:03写。

 

 

  

 

 

 

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早春譜

2017-03-13 15:47:34 | Weblog

<春は名のみ>

  3月13日、午前10時、市役所支所で税の確定申告を無事済ませました。一安心です。ルンルン気分で帰宅。応接間でPCを開き、テレビをつけると、{・・春は名のみの風の寒さや・・}が聞こえてきました。久しぶりに、うーんとうなりました。やっぱりすごい歌ですね。「おーい、早春譜が流れているぞ。知っとるか?」と、家内に言うと、早速、1番をこともなげに呟きました。やっぱり、ここでもうーんとうなりました。

  それにしても、よい歌詞です。{・・春は名のみの風の寒さや。谷の鶯歌は思えど、時にあらずと声も立てず。 時にあらずと声も立てず。・・氷解け去り葦は角ぐむ。 さては時ぞと 思うあやにく 今日もきのうも 雪の空。今日もきのうも 雪の空。・・春と聞かねば知らであるしを。聞けば急かるる 胸の思いを いかにせよとの この頃か。いかにせよとの この頃か。・・}

  前のブログで、私の短編小説、{・・生きとし生けるもの「乙女の死」仁川忍著・・}を、載せました。何とか一つの投稿欄でおさまって、ホッとしています。約、1万語はあったと思います。途中で、オーバーの表示が出ないかと案じながら、キーを打ちました。10日からはじめて13日の午後2時ごろ終了しました。まあ、4日ほど費やしました。

  その間、日ごろの記事が載せられませんでした。色々なことがありました。日にちは前後するかもしれませんが、今回は、それを補充します。


<丹波新聞に「八十路の旅」10号が載りました>

  新年早々だったか、丹波新聞の記者にお出会いしたことがありました。「元気け」「お世話になっています」「まあ、生きとります」「ブログ、どうですか」「今度10号ができました」「また、取材に行きますわ」・・そんな会話のやり取りがあり、3月12日、丹波新聞日曜版に載りました。・・わずかの会話でしたが、さすが記者です。ブログ「八十路の旅」10号をキッショにして、まとめて記されていました。T記者に感謝。

 

☆毎度のことながら、写真記事をうまく取り込めません。記事の内容を抜粋します。

{・・80歳代の今つづり10号・・ブログまとめて本に・・篠山市打坂の川崎二郎さん(88)は、インターネット上に日々の出来事をつづるブログ制作を楽しんでいる。記事が一定量に達すると本にしているが、このほど、節目となる第10号を刊行した。タイトルは、ブログと同じ「八十路の旅」。80歳の「傘寿の記念に」とブログを始めて以来、農業や地域行事、社会情勢、自然や健康、思い出話など多岐にわたる内容を、豊富な写真と併せてつづっている。川崎さんは、「ブログは生きがい。この先90歳になっても「卒寿の旅」と題名を変えて続けていくことが目標かなぁ」とほほ笑んでいる。}
{・・ブログ本は、B6版フルカラーで450頁程度。第1号は、2012年2月に第2号と同時刊行、08年10月~11年9月にブログに書いた記事をおさめている。無農薬にこだわって栽培している野菜や果物の成長記録、たびたび出没し被害をこうむっているサルのこと、東日本大震災などについてつづっている。最新第10号は、16年5月~同年10月までのブログ記事を掲載。農業や季節のことを中心にしながら、老いや病気をテーマにした項目が増えてきたという。川崎さんは「80歳代は老化への挑戦の歴史と言っても過言ではない」と言い、「耕運機を動かせない。草刈りを思うようにできない。ともかく、動くと必ずひざと腰が痛くなる」「最近どうも寝つきが悪い。就寝して1時ごろまで眠りが浅い。とりとめのない夢のような思いの中にいる」などと老いの自覚を記している。川崎さんは元中学校長。小説家を志したこともあり、文章で日々の出来事を記録しようとブログを始めた。「ブログや本を読み返すと、これまでやってきたことがよく分かり、これから先の生き方のヒントにもなっている。おこがましい言い方だが、90歳近くなっても挑戦できるのだと、高齢者のみなさんの励みになれば幸いです」と話している。現在も週2回のペースでブログを更新中。・・}


<いちご大福>

  いちご大福は丹波の名物でもある。旬のモノで、日持ちが短いのが欠点。しかし、実に絶妙の味。わたしだけかなぁ?
でも、わが家の皆がうまいというから、私だけではないようだ。

 

☆3月9日、15時30分、孫が買ってきたいちご大福。もう一枚は3月11日、午前10時、国鉄篠山口近くの諏訪園(いちご大福などの名店)でのポーズ。 昔、中学校で教えた子が、店を経営している。彼女が撮ってくれた。


<布団干しと深呼吸>

  3月12日、朝から快晴。久しぶりに布団を干した。でも、外はまだ寒い。布団干しも一仕事である。同時に、朝の光を浴びて、深呼吸。この姿が滑稽だとみなが申しました。

 

☆布団を干した後で、両杖をついてのポーズ。孫の撮影。午前11時15分。

☆布団干しの隣で、朝日に向かって、杖を両肘に抱え込み、両手を合わせて、深呼吸。得意のポーズです。鼻から吸って口から吐き出します。「そんな写真、載せんといて」とは、みなの言葉? でも、これが今のわが輩の真骨頂なのです。 


<猫柳>

  3月13日、裏庭(蔵の横)に咲く猫柳。倅の嫁の実家から10年前ごろ、もらい受けた木。2,3年前にちょっと枯れ始めたが、剪定して、少し持ち直した感じ。毎年今頃に猫の尻尾のような実をつけます。それが猫柳という名がつけられた由来。 早春で肌寒いが、春の訪れを実感。
  ここは、ひとつ猫柳について書き記した0先生(退職後、ともにM女子短大講師・10年前に故人)の著書・「花の散歩」から抜粋引用します。

{・・柳は種類が多く、世界に約4百種、日本に約九十種あり、全般になじみ深い植物である。
  柳にちなむ諺(ことわざ)をのべてみると、(1)柳に風ー適当に相手をあしらうこと(2)蒲柳(ほりゅう)の質ー蒲柳とはカワヤナギのことで、大木がなく、体の弱い人を指さす(3)柳に雪折れ無しー柔軟性の有ること(4)柳は緑花は紅ー天地自然の姿(5)柳暗花明ー春の景色の美しいこと(6)好いた水仙好かれた柳ーそうし相愛相愛の男女の仲(7)(7)柳が歩めば花が物言うー柳腰美人が歩いたり、もの言うこと。さらに、柳髪(美しい髪)、柳眉(女性の眉)と続き、日本人の美意識の高さを物語っている。
  ネコヤナギは、柳の仲間では、いち早く花をつける。冬の寒気から身を守るようにかぶっていた帽子(苞)
を脱ぎ、長楕円形の花穂を出す。銀ねずみ色の絹毛がネコを連想させるところから、この名がある。
  「猫柳湖畔の春はととのはず」(五十嵐播水)・・ともあれ、春待つ心はうれしい。春の光に輝く絹毛。・・}

 

☆猫柳の実をつけた木。13日、16:15写。

☆拡大写真、14日、9:30写。


<ピンクの梅>

 3月13日、午後4時30分、裏山のくぬぎばやしの下に咲いた梅木。手がとどかぬほど成長。・・毎年、バケツに2杯は収穫できます。もぐのが大変。長竹で落とし拾って収穫します。花はピンクで、今が満開。「馥郁たる梅の香り」は、卒業式の式辞の定番でした。馥郁(ふくいく)。

 

☆梅の木の一部を写しました。13日の午後4時30分にシャッター。ちょっと薄暗くて、全体がぼけました。

☆梅の拡大写真。14日、午前9時30分に撮りました。今度はピンクが色鮮やかに写せた模様。


<2号田・猿除け網の補修完了>

  2月中旬頃から取り組んだ猿除け網の補修が、3月14日、午後4時から午後5時まで、1時間、孫二人に手伝ってもらって、何とか完了しました。約1か月かかりました。
  これで、ジャガイモ種まきができます。予定は3月25日ごろ。

 

☆補修完了の2号田の全景。防獣網(1mx20mx2)を、上の部分に取り付けました。幸い、冬休みの2人の孫が、約1時間手伝ってくれたおかげです。14日、16:50写。

☆2号田の入口、最後の網掛けは私がやりました。お年寄りは、脚立での事故が多いと聞いているので、細心の注意を払っての仕事でした。14日、17:00写。

<風邪気味>

  3月16日、17日、18日、どうも風邪気味で、今ひとつ心身がすっきりしません。
  直接の原因は15日の空模様のせいです。15日、朝から曇り空でした。が、9時ごろ急に雨が降り出し、雨が雪に変わり、すぐ止み、それから陽が差し、曇り空がしばらく続くと、雨が降り出し、小雨の中に陽が射すといった状態が、一日中続きました。そのような天気に、猿除け網の補修作業をしました。

  16日、朝起きると、なんとなく体がすっきりしません。頭が重くて、どうも風邪をひいた感じです。それでも寝込むほどではないので、天気の良いときに、ごく短時間、畑仕事をしました。

 17日、やっぱり体がすっきりしません。コタツのお守りの時間が多くなりました。

  18日、少しよくなった感じで、午後2時ごろから、1号田の猿除け網の補修をしました。でも、それがムリ。やっぱりしんどくなり、4時ごろに爆睡。

  まあ、そんな感じで、風邪気味の毎日が続いています。風邪って、いまだに解決できない病気です。こんなに医薬学が発達した現在、風邪の病原菌は分かっていません。もし、風邪のウイルスが突き止められれば、まさに、ノーベル賞間違いなしですがね。

  風邪は万病のモトと言われています。風邪で死ぬ人は無いらしいですが、風邪から肺炎に罹り亡くなる人は、非常に多いそうです。

  5、6年前にひどい風邪を引いて、お医者さんに注射や薬のご厄介になってから、風邪には特別の注意をしてきました。よく、扁桃腺を悪くしました。鼻風邪もひきました。一度、風邪をひくと、風邪ウイルスは喉や鼻をぐるぐるまわるようでした。・・鼻呼吸をし始めてから、扁桃腺が腫れることはなくなりました。・・いや、いや、あまり風邪の話はしないほうがよろしい。いままで、風邪をひかないと豪語していた人が、あっさり、肺炎を起こして亡くなった例があります。

  風邪気味の時が一番大切です。ともかく、身を休めることです。コタツのお守りの時間を増やすことです。と言って、あまり寝てばかりで、そのまま寝たきり老人になっては困ります。

  まあ、風邪気味の時は、少し厚着をして、用心しながらの毎日です。ご飯はしっかり食べます。風呂にも入ります。短時間畑仕事もします。ブログも綴ります。でも、畑仕事が、体にこたえる日々の暮らしではあります。


<Slanket(スランケット)がよい>

  Slanketとは着る毛布のことです。コタツに足をいれると、どうしても上半身が寒くなります。寒く感じます。
  ある日、新聞で着る毛布が載っていました。早速取り寄せ、着用して10年は経つでしょうか?
 特に秋から冬になる時期、冬から春になる時期に重宝です。

 

☆(左)愛用しているスランケットです。

☆(右)スランケットを前から腕を通して着用、上半身はすっぽりと毛布でおおわれた感じです。(「そんな写真、載せんとき」と言いながら家内がシャッターを切りました)19日、13:00写。
  日曜日、昼寝しながら、
NHK昼の番組、のど自慢を観たり聞いたり、うつらうつらしているところです。まあ、いつものパターンです。加湿器と灯油ストーブ、左にはテレビがあります。この部屋で30年も40年も暮らしてきたのです。夏は涼しいですが、冬はめっぽう寒いです。寝るときは、コタツははずします。(笑い)

<3号田補修と昼ご飯>

  3月18日(土)、倅夫婦は朝早くから留守。(孫娘のK医療福祉大学の入寮手続きに3人で出発)
  問題は、爺さん婆さんの昼飯である。このような場合、いつも食材屋さんに、おかずを依頼している。便利なものですね。お昼には、きっちりおかずが届けられます。
  18日の午前中、3号田、網の補修の準備をしました。いやぁ、実はこの準備が大変なんです。支柱を立て直し、上から防獣網(1.5
mx40m)を被せます。ともかく今年は雪害被害甚大。1,2,3号田みな、防獣網で補修しました。
  お年寄り、頑張っています。

 

☆(左)、3月18日、午前10時から昼まで、休み休みで約2時間、3号田の支柱などを立て直しました。杖を片手に、3号田の入口で、カケヤと片手カケヤを持っているところを撮りました。

☆(右)、3月18日の昼ご飯です。食材屋さんの料理です。肉じゃがと天ぷらです。サンショとタクワンとカブラの酢漬けです。完食。立派です。
  でも、この後がいけなかったんです。午後2時~4時、杭打ちがこたえました。ホウホウの体で、寝床の飛び込み、爆睡と相成りました。


<3号田補修終了と夕日>

  3月19日、昼食後午睡。午後2時から、本格的に3号田の補修にかかりました。孫(男)が手伝ってくれました。が、若いもんと同じように、ついつい動きます。それがやり過ぎなんです。午後4時にはすべて終了しました。
  午後4時ごろから5時半ごろまで、コタツのお守りをしました。午後5時半ごろ、部屋に西日が射しこんできました。早速、跳ね起きて、デジカメで裏の石段から撮りました。
  風邪気味、心配していましたが、無事通過。・・気温も上がり、ちょっと過ごしやすくなりました。

 

☆3月19日、午後4時、3号田の猿除け網を、支柱上部に張り巡らしました。完成です。16:40写。

☆3月19日、午後5時30分、柿の木の枝越しに沈む夕日です。いつもの光景です。17:30写。

 

 

 

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短編小説

2017-03-11 17:15:11 | Weblog

  前のブログで記したように、今回は私が27歳の時に書いた短編小説{生きとし生けるもの「乙女の死」}を載せます。ペンネームは仁川忍です。

              1

  私が金魚を買ったのは、いわば偶然の機会である。
  灰色の個室の白い布で包まれたベッドで、一日中、仰向けに寝ていると、いろいろな思いが、泉のように湧き上がってくる。それらの思いの中で、ことのほか私の脳裏にこびりついて離れなかったのは、生きとし生けるものの「いのち」についてであった。
  これ程、はかないものはなかった。また、これ程、尊いものもこの世の中にはあり得ないような気もした。事実、私が入院してから、まだ2か月も経っていないのに、すでに3人の人が「あの世」とやらに逝ってしまったのである。
  その中の1人・・40才ぐらいの気の強い女の人が、肺切除の後で、付き添いのない悲しい状況もあって、夜トイレへ行こうと、一人で立ち上がって、その場で倒れ、意識不明のまま、あっという間に、息をひきとった。全く「いのち」なんてたわいもないものいである。
  しかし、この病院には数十人の人々が、明日の命も知らぬまにまに、また未来が漠然とした闇につつまれているにも拘わらず、刻々時々を大切にしながら息づいていることを思へば、生まれいづる悩みもまた、何らかの意味で解決してゆきたいと思うのは一人私だけではないようである。・・それにつけても、どんな小さいものでもよい、この世で私と同じように呼吸しつづけている「いのち」あるものが、私の横にいてくれるなら、どれほど私の、魂を慰め、明日への望みに胸をふくらませてくれるだろうか・・・。

  丸い形をした桶の中で水を唯一のたよりに生きている大小さまざま、色とりどりの金魚を目にした私は瞬間、この弱々しい美しい「いきもの」を私の枕元にはべらせようと思い描いた。朝、目を覚ました時、彼女たちはきっと微笑みを投げかけてくれるに違いない。すると、私の青ざめた魂は、にわかにえもいわれぬ息吹で活気づいてくるに違いない。夜、灯りを消して、ふかい、あてのない闇に包まれた時、少なくとも私と生死をともにしてくれる彼女たちがいることは、何という強味であることか。・・あゝ、きっと、すばらしい毎日の生活の糧になってくれるはずである。このような私の気持ちは、溺れる者が藁をつかむかのように、はかないものでもあった。また、飢え渇いた者が、春の泉に口をつけた時のように新鮮なものでもあった。(そうだ!そうしよう。彼女たちをかってみよう!)

  しかし、私は、はずむ胸を開かないで「金魚売り」・・頬がげっそりと落ち込んだ、ナッパ服に身を包んだ、人生の峠を越した、いわゆる生活の風雪にひどく痛みつけられた矮小なオッサンに尋ねた。
  「・・・飼っても世話が大変だろう? 1匹いくらくらいするのだい?」
  この一言で、私が買うとにらんだ行商人は、急に目を顔の奥に細めて、
  「こんな世話のいらぬものはないよ。餌はいらんし、水を一週間に一回、とりかえてやったらいいだけや、兄さん!どうや? 安くしとくぜ」と言いながら、埃をかぶった古ぼけた自転車から、うす汚れた風呂敷包みを取り下ろした。結び目から藁の入った金魚鉢がのぞいている。
  私は腰をかがめて水槽に目を落とした。黒い出目金は何となくグロテスクだ。動作も緩慢だ。私は金魚を彼女と呼んだが、この黒い出目金だけは、どうにも彼女と呼べそうにない。
  「仁川さん!金魚飼ったって、すぐ死ぬわよ。」
  看護婦の沢さんが、血色のよい赤ら顔で、私の後ろから、肩越しに忠告してくれた。
  「病院の水はカルキーが多量に含まれているでしょう。だから直ぐ死んじゃうのよ。淡水でないと駄目よ。水道の水だったら、2日も、もたないわよ。きっと」
  「そんなことはない。」と、今度は金魚行商人がやり返した。
  「水道の水でも、10分も経てばカルキーはなくなるよ。大丈夫です。兄さん!そんな弱い金魚を持って来ちゃおらんです。病院への奉仕ですばい。」
  何のための奉仕なのか、彼の心のうちは知る由もない。多分、社会から脱落した私たちへの憐れみの言葉なのだろう。しかし、そんなことはどうでもよかった。
  「ともかく、ひとつ飼ってみようかな。いったい、いくらくらいするのだい?」
  「はい、はい、この黒が一番高くて1匹50円や。」
  例のグロテスクな出目金を指さして、彼は一段と声を高めた。
  「この尾ひれのあるのが30円から40円、この和金が20円・・。」
  「なんだ、みな値段が違うのか。やれやれ…。」
  「仁川さん!これにしとき、これがきれいだわ。これもきれい。」
  沢さんにまで熱をいれられては、私は金魚を買わざるを得なくなった。いや、本当は渇望してやまなかったのだが・・・。
  「金魚鉢はね、口の大きい方がいいのよ。小さかったら空気の接触が少ないでしょう。だから早く死んじゃうのよ。」
  沢さんの言葉の真実のほどは飼ってみないと断定は出来ないが、そのように言われてみると、そのような気もしてきた。

  私は金魚鉢は沢さんに選んでもらって、金魚は矮小なオッサンに任せることにした。素人の私には、どの金魚が長生きしそうなのか、皆目分からなかったのである。

               

  すり鉢のような形をした、地上に落としたらコッパミジンに砕け散るであろう脆くて弱そうなガラス鉢の中で、3匹の金魚が、横臥した私の目の前で静かに身を沈めている。珍しかったせいでもあろう。私は行商人から買った金魚を、早速枕元に備えたのだった。
  1匹は黒の出目金である。顔面を見ていると全く蝦蟇のように醜怪であるが、尾ひれだけは非常に優美である。私は私流に彼を「黒太郎」と名づけた。また1匹は全身橙色の見るからに、乙女というにふさわしい金魚で、私は彼女を「金姫」と呼び、残る1匹を「雪姫」と呼ぶことにした。何故なら、顔から背筋にかけて深紅の炎を流しているほかは、全身淡雪をちりばめたように白かったからだ。
  3匹の中で雪姫が一番大柄で、多分年もとっているのであろう。何かしら落ち着いた感じであった。時々、ガラス越しに指で音波を伝えても、悠々として涼しい瞳を私に向けている。「馬鹿なことおしでないよ。」と、私をたしなめているようでもあった。(ああ、そうだ!このような瞳に一度どこかで出会ったことがあった。)

  私は古くさびれゆく記憶のなかで、人妻だった京子を思い描いていた。
  その頃、中学生だった私は、戦争がもたらした学徒動員によって、生まれて初めて親の膝元を離れて、ベルトの回転する旋盤工場で油と汗にもまれながら、不安な毎日を暮らしていた。京子は私の前で、手慣れた手つきで旋盤を操っていた。少なくとも私にとって、京子はエンジェルだった。
  しかし、爆撃機B29、戦闘機グラマンが、ひっきりなしの来襲に、最初は近くの防空壕に避難していたが、安全ではないとの知らせで、山へ方へ逃げるようになった。空襲警報が解除になっても、私たちはすぐさま工場には戻らなかった。それほど空襲は激しかった。逃げまどうある日、私は京子と2人きりになった。山奥の木陰で身を寄せながら、私はおどおどして、震えながら、小声で彼女の名を口にした。その度に、京子はむっちりした頬をよせて、短いが、愛情のあるキッスをしてくれた。有頂天になった私が,もっともっととせがむのを、きまって、「馬鹿なことおしでないよ」と、目を斜にして、それでも枝がからみつくように、体を押しつけてきた。京子は私より三つか四つ年上だった。私は京子を姉のように慕っていた。京子もまた私をともすれば弟以上の感覚で私の胸を湿らし、いつも和やかな清らかな瞳で、私の心と体を抱きとめてくれた。私の心は、すでにドン底の現実から飛翔して、天国にいるような気持ちだった。

  雪姫を眺めていると、何故か京子を連想してならない。何よりも涼しい瞳がよく似ていた。私はにわかに胸が苦しくなってきた。一度思い出した京子の体は、雪姫の暗示作用で、私の脳裏から容易に消え去らないのである。

  開け放した窓から、春の宵闇が迫り、春の大気の中に私はなまめかしい脂粉の香りを感じた。京子は既に過ぎ去った女性だ。忘れかねるが、忘れ去るべき女なのだ。私の夢の中に、いつまでもロマンチックに残しておくべきなのだ。
  水底深く身を沈めた雪姫も、私の胸の内を感じたのか、静かに、そして涼しい目を私に向けたままなのだ。突然、彼女の瞳が私に笑いかけてくるように感じた。、私は取り乱して目をそらした。

  雪姫にくらべると、金姫はすこし小柄だが、若い娘のようにピチピチしている。しかし、物音にはきわめて敏感で、廊下を歩く人の足音にも、気を配っているように思えた。私が首をめぐらした時の枕のきしむ音でさえ、そわそあと何となく落ち着かない。また、私が顔を金魚鉢のガラス越しに近づけるやいなや、一目散に藻のなかに身をひそめて、黒いつぶらな瞳で、様子をうかがっている。私が目を遠ざけて、それとなく眺めていると、「もう鬼はおらんかな」とでも言うように、あたりを見回した後、狭いが深い水の中を元気よく泳ぎ出すのだった。金姫が一番若くて元気で長生きしそうだった。ともかく、金姫は可憐そのものであった。金姫を眺めるたびに、私の顔は自然にほころんでくるのである。

  金姫に反して、黒太郎は横着だった。金姫のように怖気づいたところもなければ、雪姫のように静かに澄ましているわけでもなかった。たえず、水面に浮かび上がってきては、水をなめるのである。私が顔を近づけようと、ガラス越しに指先で小突こうと、一向におかまいなしなのだ。その上、水をなめるのに音を立てるのである。水面に浮かび上がって、いわゆるアップアップする時に、ペチャペチャと音をたてるのである。
  やがて、次第に私の聴覚を侵し始めたのも無理はない。何故って、目ざまし時計のカチカチという音にも、神経がとがって眠れない私なのだから・・・。

  私は黒太郎を目の敵のように嫌悪しはじめた。腹が立ってたまらなくなった。灯りを消した静寂な1人部屋で、私が眠りにつこうとすると、耳元でペチャペチャと不気味な音をたてる。そのたびに、私は何回も灯りをつけて、浮かび上がった黒太郎の頭を小突いて、激しく黒太郎を水面から沈めた。しかし、すぐ浮かび上がってくる。また、コツンとやる。こんなことを繰り返しているうちに、私自身が情けなくなってきた。
  私は飼ったその夜から、不眠にとりつかれた。まだ一日も経っていないのに、飼ったことを非常に後悔して、何が何でも明朝早く、黒太郎を殺してしまおうとまで思うようになってしまった。(ずぶといたってありはしない!金姫も雪姫も静かに身を沈めているのに・・・。)
  しかし、今夜一晩中、音を立てられては、こちらがまいってしまう。そうは言っても、起き上がって金魚鉢を何処か遠くに移しかえるほどの気力も体力もなかった。仕方なしに当面の問題を解決するため、私は水面いっぱいに紙片を浮かべた。

  暫時、静かだった。やれ、やれ、これで眠れるとほっとしたのも束の間、今度は前よりもいっそう大きい音で私は完全に睡魔をこわされてしまった。灯りをつけて、よく見ると、黒太郎は水面に向かってジャンプしているのである。身を沈めては、その反動で浮かび上がってきて、紙を押しのけると、チュッ、チュッとすすっているのだ。何のことはない。私に嫌がらせをやっているとしか思えない。その上、今まで静かだった金姫や雪姫まで、黒太郎の悪癖を真似はじめていた。さすが、黒太郎ほどのずぶとさはなかったが、それでもかすかに音を立てている。私は完全に兜を脱がざるを得なかった。愛情を抱きはじめていた金姫や雪姫にまで裏切られては、飼った甲斐がないというものだ。

             3

  「仁川さん! お熱は?・・・」
  誰かの声が聞こえてくる・・・。私の頭はもうろうとしている。昨夜は寝そびれて、熱なんか計ってもいない。
  「うーん、5度5分、58回、1回と6回・・。」うわごとのように呟いている。
  「仁川さん!眠たい?どうしたの?金魚、生きてる?」
  女の顔が私の額越しに金魚鉢をのぞこうとしている。看護婦の沢さんだ。
  「だめ、だめ。・・」と、私は目を閉じたまま答えた。
  「死んだ方がましだよ。キッスの音がやかましくて眠れなかったんだ。」

  私からことの顛末を聞き終えた沢さんは、「キッスのおとねぇ・・」と、言葉尻をひっぱって、またしてもひとしきり笑い転げた。
  私は無言で首をめぐらし、黒太郎を見つめた。
  彼は昨夜とはうって変わって、静かに水の底に身をひそめていた。飛び出した目はしっかりと開いているが、ぴくりともしない。雪姫も黒太郎の横で、いつもの落ち着いた涼しい瞳を私に向けたまま、時々尾ひれと口を動かしている。(いったい、これはどうしたと言うのだろう?」
  しかし、金姫だけは水面近くに浮かび上がってきて、たえず動いている。そのうちに、彼女はどのように思ったのだろうか、いきなり、ぐっと水面に浮いてくると、例のアップ、アップをやりはじめた。
  「ほらね、」と私はひとりごちた。「彼女はまだ上品だけど、黒がこれをやってみ、ものすごい音をたてるんだ。いや、本当にキッスしてるみたいなんだ。」
  「それほど、大きい音をたてるんだったら、あたしに黒ちゃんをくれる? あたしならうまく飼ってみせる。」
  (だが待てよ。黒太郎は今は静かだ。昨夜はきっと虫のいどころが悪かったのかもしれない。ひょっとすると、今日あたりから、おとなしくなるのではなかろうか?)
  「いいや、いいよ。もう少し置いてみよう。」 私は憮然として沢さんに言った。「きのう、買ったばかりだからな。」
  実際、黒太郎は生まれ変わったように静かだ。死んだのではないかと心配になるほどだ。

  沢さんの足音が板張りの廊下に響き、やがて聞こえなくなった後で、私は鉛筆の先を金魚鉢に突き立てて、黒太郎をじかにゆさぶってみた。彼はさもうるさい奴だと言わんばかりに、一回転して私に尻を見せた。私は口をゆがめて、にっこりすると、朝のまどろみにおちこんでいった。

・・・夢かうつつか、幻なのだろうか、金魚はいつ眠るのだろうかと考えている。そう言えば、黒太郎はもちろん雪姫や金姫たちが、瞼を閉じるのを見たことがなかった。金魚は眠らないのだと思ったが、生きとし生けるもの、睡眠なしに、どのようにして生きていくことが出来るのだろうか? いや、いや、金魚は人間のように一時的にしろ、自己を忘却の淵へと追いやる眠りを必要としないのかもしれない。ただ、藻のかげで、少し休息するだけで充分なのだろうか? してみると先ほどの黒太郎はちょうど眠っていたのだろうか?きっとそうだ。おとなしかったのもそのためだ。眠りから覚めると必ずペチャペチャとやりはじめるに違いない。いや、既にペチャペチャと音が聞こえてくる・・・。

  私がうつろな眼差しで、頸をめぐらした時、昨夜のとおり黒太郎は水面に浮かび上がって、悠々として水をなめているのである。音も立てている。雪姫は眠っているのか、私に背中を見せた姿で微動だにしない。金姫は何故かせわしそうに中程をぐるぐると泳ぎ回っている。時には頭をふり、また、ある時は手足(ひれ)を交互にふり、ヒラヒラと尾ひれを打ち振りながら、水面に口を差しだし、2,3度ぱくついた後で、あわてて急降下していく。あたかも水面の空気を盗んでいるような仕草でいじらしい。
  私は「そりゃ、そうよ。金魚だって空気がほしいのよ。空気と接触している水面の方が、酸素が多いから、浮かび上がろうとするのよ。」と言った沢さんの言葉を思い出した。なるほど、これは科学的な考えかもしれない。しかし、魚類は空気には弱いはずではないか? 鮎なんか、空気にふれただけで、息たえてしまうではないか。金魚だって、そのほかの魚だって、大同小異だ。それなのに、自分の生命を損なう空気を欲するなんて・・・。私は金魚の生態を何一つ知ってはいないのだ。金魚も私たち人間と同じような仕組みで生きていると思っているのだから・・・。どうしても肺で呼吸して生きているのだと思えてならないのである。私の頭はよくよく科学的には出来ていないらしい。金魚にしろ、はては私自身、なぜ生きているのかと、すぐ考えてしまう。すると、私はいつの間にか神秘のベールにとりまかれ、限りのない、瞑想に耽っているのだ。生と死の谷間を彷徨する私が、再び哀れに思えて仕方がない。そういうセンチメンタルな考えは、きれいさっぱりと割り切った積りだったが、私の思考は、ちょっとした重さにもどちらかに傾いてしまう天秤のように、ある時は死におもむき、ある時は生の賛美に酔ってしまう。私の割り切り方は、なんと、はかない、浅薄なものなのだろうか。病気になるまでは、死というものを、ただ何となく憧れに似た気持ちで、遠くにながめていたのに、何一つ一人前の仕事ができない今は、生が異様なまでに私にのしかかってくる。いのちある限り、楽しく生きていきたいと思うのだ。一輪の野辺の花にも、生命ありと感じて、落涙したこともあった。また、「金がなんだ」、「職業がなんだ」、「人間は生きるために食ているのであって、食うために生きているのではない」、「いや、いや、人はパンのみにて生きるものにあらず」、などと激論をかわしたものだった。
  しかし、世の中の必死で働いている人たちに接していくうちに、人生は財力であり、男と女であり、「人はパンのみにて生きるものにあらず」は真理のように思えるが、所詮、人はパンなくしては生きていけないのだと、思うようになってしまった。青春の若々しい官能は冷めきり、血潮はだんだんと、どす黒く濁っていく。私の人生観は晩秋の木枯らしにはためく裸木のようにうらぶれていく。まだ、26才という若さで、人生はこれからだと言うのに、初老のような考えを抱くというのは、何という寂しさであろうか・・・。私が金魚を飼ったのも、人生の峠を越えた、盆栽をいじる老人の如く、何かしら寂寥を慰める一つの抵抗のなせる技なのだろうか・・・。

            4

  2,3日は無事に過ぎた。無事にというのは、変化がないということだ。黒太郎は依然としてペチャペチャとやっているし、雪姫も金姫もときどき浮かび上がって、水面をなめているのである。私は飼ったその晩から、既にかれらに興味を感じなくなっていた。腹立たしいことばかりで、愛情などあとかたもなく消えふせていた。黒太郎は沢さんに呉れてやろうかとも思ったが、もし黒太郎がいなくなったら、余計に彼女たちの吸水が目障りになるやもしれない。彼女たちにそこはかとない愛情を寄せていただけに、これ以上、私が少しでも心に宿してロマンが、打ち消されていくのは耐えられなかった。その点、黒太郎は目障りになるが、雪姫や金姫を引き立たせる役を演じてくれる。このように思い直して、そのまま私の枕元にほっておいた。

  少しの間にしろ愛情を寄せたものに裏切られた私は、最初は腹の中がにえくりかえり凄惨きわまりのない憎しみを覚えたものだった。しかし、時が経つにつれ、愛情も薄れてくると、黒太郎の「キッスの音」さえ、気にならなくなってきたのである。
  窓の外の、ものうい春の風を感じながら、一人もの思いにふけっている時間が多くなった。イヤホーンをつけてラジオのダイヤルを回す。春の高校選抜野球をやっている。野球放送を聞くのは胸が痛い。大学時代に甲子園で白球を追っていた自分が重なってくるからだ。つい、この間のことなのに・・・。絶対安静の身には遠い絵空事として映ってくるからだ。イヤホーンをはずして再び瞑想にふける。
  金魚のことは、とみに無頓着になっていった。餌を与えない。新しい水に入れ替えない。完全に金魚は私から忘れ去られた状態となっていった。それに、餌を与えないでも、けっこう元気にペチャペチャとやっているし、水を変えるにしても、水道の水はカルキーが多量に含まれているから、直ぐ死ぬと、沢さんから忠告されている。だから、天然の水を貯えた、つるべのある井戸まで足を運ぶには、絶対安静の私には無理なのだ。これ以上、沢さんにばかり汲んできてもらうわけにはいかない。

  私は水の汚れるのを汚れるにまかせていた。最初、透明であった水もどんよりと濁ってきた。その上、金魚たちは黒い紐状の排泄物を、下腹部から垂らしはじめ、私は「金魚飼いはもう真っ平ごめんだ」と、心底思った。
  選抜野球もだんだんと盛り上がってきていた。こころなしか、金魚たちも底深く沈み込んで、野球放送に聞き入っているようだった。3匹のうち、不思議なことに金姫だけが静かに身を落ち着けていた。反対に雪姫がせかせかとして、何となく落ち着きを失っているように見えた。黒太郎の吸水の様子も、前よりは動作がにぶいように思えた。(ざまみろ!)と私は叫んだ。それらの様子が、金魚の断末魔だとは、私は露ほども思っていなかった。私の愛情を裏切った罰だと少し依怙地になっていた。
  〇〇高校に紫紺の優勝旗が輝いた日の暮れ方、配膳にきた沢さんが、驚いた表情で言った。
  「仁川さん! 死んでるわよ。金魚!」 
  一瞬、ハッとしながらも、そんな馬鹿なことがあるものか、枕元に備えて、いくらぼんやりしていても、死んだら解るだろう、と思いながら金魚を凝視する。
  黒太郎も雪姫も口を動かしているが生気がなかった。金姫はぴたりと底に腹をつけたままだった。どうやら朝からずっと同じ状態を保っているようだった。目は開いているが、口は動かしていない。私は身を乗り出して金姫に目を近づけた。
  その時、かすかに金姫は口を開いた。
  「3匹とも死ぬわよ。早く水を取り替えて・・。そうね、2病棟の池の水がいいわ。で、なかったら、池にそのまま放してやったら。きっと、元気になるやも知れないわ。・・・でも、この赤いのは駄目ね。」

  私も金姫は駄目だと思った。沢さんの言うように池の水を汲みに行こうかとも思ったが、どういう訳か、私は金姫をこのまま静かに死なせてやりたい気がした。今はの際に、できるだけ動揺を少なくして、せめて安楽に死なせてやるのが、私に残された唯一のつとめのような気がした。

  私は動かない金姫から目を離さなかった。息をする間隔はだんだんと長く時を刻んでいく。・・・10秒に1回、30秒に1回、60秒に1回・・・。時々、思い出したように、パクパクとやるだけで・・・。それもやがてしなくなった。金姫は化石となった如く動かなかった。いつ最後の息を引き取ったのか、私には解らなかった。それほど静かな死であり、苦痛のない死であり、神秘な死であった。世の中の汚塵にも染まることなく、無垢の乙女が、長い間、肺を患ったあとで、何の苦しみもなく息をひきとったときのようだった。おそらく乙女は夢幻の淵をたどっていたのだろう。そして今は神の手に身をゆだねて、安らかな永遠の眠りについているのだろう。私はいつの間にか、金姫の死が誘う、乙女のはっきりしたイメージに耽っているのだった。

・・・その時、果たして私はいくつだっただろうか?
  小学校に通っていたようにも思える。いや、もっと小さい時だったかも知れない。モミジの葉が私のポケットにあったので、秋、それも、晩秋だったに違いない。すきとおるまでに白い顔の美少女が、私の前に横になっている。長い睫毛、憂愁を帯びた漆黒の瞳。美少女はじっと私を見つめている。私は窓辺に立って乙女を見下ろしていた。背後から差し込む斜陽が、彼女の頬を染めた。心なしか彼女の顔に生気がみなぎり、かすかに彼女は微笑む。何処からか虫の鳴く声が聞こえてくる。その声のしじまをぬって、乙女の声が、私の胸に響いてきた。
 {・・アノネ、アタシネ、深イ、深イ、山ノ中デ、白イ白イ雪ニツツマレテ死ヌノ・・モウ、手マデ冷タクナッテキタノ・・・ホラネ・・}
  乙女は白い細い腕を伸ばして、私の手をまさぐる。そっと彼女の胸に引き寄せる。ひやりとした冷たさが私の指先に伝わってくる。成熟しきらないチンマリした乳首にふれる。私はハッとして彼女の胸元から手を引っ込めよぅとする。彼女は清純な瞳で私を穴のあくほど見つめて、頸を横にふる。私は乙女の胸元でこぎざみに震えている・・・。いつ日が沈んだのか知らない。あたりは夕暮れが影を落としはじめ、乙女は、紅葉ちりそむ花のベッドで、静かに静かに横たわっている。彼女の胸は限りなく冷たい谷間の清水のように冷たくなっていく。いつ息を引き取ったのか、私は知らない。墨絵のような夜のとばりの中で、私はいつまでも乙女の胸をゆさぶっているのだった・・・。

  これは実際私が体験したことだったのだろうか、と私は今でも不思議に思っている。でも、乙女の顔だけは、しっかりと私の脳裏に焼き付いている。私の過去には乙女との出会いはない。乙女はいったい何処にいたというのだ。乙女は何のために私の前に姿を見せたのだろうか。私は何のために乙女の前にいたというのだ・・・。乙女は所詮私の幻想にすぎないのだろうか? いや、いや、と私は頸を振る。なるほど、乙女はこの世に実在しないかも知れない。しかし、おそらく私はこれに類した場面にきっと何処かで出会ったことがあるのに違いない。私が幼少の頃、池にはまって溺れかけたこと、また、足をくじいてギブスをしていたことなど、母や姉からよく聞かされたものであるが、私には実体験としての感覚はまったくない。それと同じように、私はこのような乙女の死に、どこかで出会ったことがあるのかも知れない。そして、それらが少しは誇張されて、私の過去の人生の一断面として、私の心をえぐるのかもしれない・・・。永遠の処女があるとするならば、おそらくこのような乙女であり、このような乙女をこそ私は永遠に憧憬し続けるのである・・・。

  金姫の死がもたらした乙女の死は、ひときわ私の魂をゆさぶった。
  私の枕元では依然として、金姫は生きていた時とおなじ姿で息をつめているのである。黒太郎も雪姫も、金姫の死を悲しんでいるのであろうか?

  私は・・・生きたいと再び思った。青春はこれからだと改めて考えてみたりもする。私だって、気の持ち方ひとつで人生を楽しく過ごすことができるのだ。
  金姫は死んでしまったが、黒太郎や雪姫はこれから生きていくことが出来るに違いない。
  「2病棟の池に放したら、きっと生きるかもしれないわ。」
  沢さんの言葉が、私の心にひびき、私は私自身にたちかえった。
  他の部屋よりも一段と日の暮れをはやく告げる私の病室は、既に薄暮が迫ってきていた。

            5

   私は身を起こすと、金魚鉢を抱えて2病棟の中庭にある池へ足を運んだ。旧陸軍の兵舎であった建物の木製の廊下は、頑丈そうだが、妙にギシギシと音を立てる。途中で沢さんに出会った。
  「とうとう死んだ。残る2匹を、やっぱり池に放してやることにした。」
  私は悪びれずに言った。沢さんは目でうなづくと、金魚鉢を私の手から取り上げた。(私が金魚鉢を持ったげる。貴方にはまだ無理なのよ。)

  私は沢さんの後に従っていった。
  池の中には緋鯉とまがう大きな金魚が数匹泳いでいた。蛇口からふきだす噴水のしたたりが水面に波紋を投げかけ、その近くに泳いでくる金魚たちは、お化けのように、うるんで見えた。
  「まったく・・・」と、私は金魚鉢を持ち直して言った。「あんまり金魚の大きいのは、いやらしいようだな。」
  「放す時は、これくらいだったそうよ。」
  沢さんは金魚鉢と私を、とみこうして続けた。「2年ばかし前に、ここに放したんだって・・・。山本さんがそう言ってた。」
  山本さんは沢さんよりずっと年輩のベテランのナースである。沢さんは高校を卒業したばかりで、この病院に勤めて日は浅い。
  「2年ぐらいで、こんなに大きくなるとは僕は思えないな。比べてみろよ。まるで月とスッポンじゃないか。」
  私は金魚鉢を沢さんの目の前にかざした。そう言えば、そうね、と大げさに身をくねらして、笑いながら二度三度うなづいた。
  黒太郎も雪姫の命も、今や私の手中にあるのと同然だった。鉢をゆする度に、湖に浮かぶ木の葉のように、左右にゆらめいている。殺そうと生かそうと、私の気まぐれによって、いつその運命が変わるかも知れない。私は気が変わらいうちに、二匹を放そうと思った。
  まず、黒太郎が私の手を離れた。次に雪姫が・・・。二匹は尾ひれを振ってはいるが、前へ進まない。何かとまどったように見える。放したところにぽつねんと身を落ち着けていた。それにしても、このちっぽけな新参者は、この池の主たちと比べて、あるかなしかの存在だった。あまりにも見劣りがした。でも、黒太郎はこの住家でも、私に示した横着さで生き続けていくだろう。また、雪姫は私の元を離れた方がきっと幸せになるだろう・・・。京子のように、そのうち良い連れ合いを見つけて幸せになってくれるに違いない。
  濁った金魚鉢の中には、金姫だけが残っていた。私は金姫をつまみだし、築山の草むらに捨てようとして、ふと迷った。死後の生命を信じるわけではないが、少なくとも私の心のふるさとを揺さぶった金姫を、せめてきれいに葬ってやろうと想い描いた。
  私は池のほとりに立つ石灯籠の傍らに穴を掘って、金姫をそこに埋けた。

  春といってもまだ寒い。顔を上げると、グリーンのしたたり落ちる山裾野に、山桜がちりばめられているのを見た。そのあたりから、どうやら霧がまいてきたらしい。
  いつの間にか、黒太郎も雪姫も見えなくなった。
  呆然とただずむ私の横から沢さんが嫣然と笑いかけてきた。
  沢さんの顔がうすれ、薄暮の中に、私は乙女の姿をみとめた。    終わり
   

<後記>昭和30年1月13日、国立篠山病院に入院。 同年4月7日から、4月25日まで、仰臥と横臥の状態で、この小冊子を記した。 昭和30年5月7日。満26才9ヶ月。数え27才。

 

 

 

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轍を踏むな

2017-03-05 17:36:19 | Weblog

<轍を踏む>

 「轍を踏む(てつをふむ)」は、当用漢字ではないが、戦前(昭和20年以前)生まれの70過ぎの人は、みな知っている言葉だと思う。轍を踏むとは、転倒した前の車のわだちをたどって、同じように転倒することをいう。

  昔の話。昭和16年ごろ(旧制中学校1年生)、馬車のわだちの跡をたどって、あっという間に、自転車もろとも田んぼに投げ出された経験がある。頭から田んぼに突っ込んだが、幸いかすり傷一つ受けなかった。もし、下に石でもあれば、即死だったに違いない。これは目撃者無し、誰にも言っていないので、私一人の胸にしまいこんでいた。

  昭和16年12月8日は、太平洋戦争勃発の年、そのころは自動車はほとんど通らなかった。一日に3回、乗り合いバスが走っていたが、木炭車で故障も多かった。そんな時、乗っている皆でバスを押したことを覚えている。バスは山奥から駅まで3里の道を走る。・・大体が自転車、それに木材を積んだ馬車や、田んぼを耕す牛が、その一本道を歩く。・・今では到底想像すらできない時代だった。


<轍を踏むな>

  さて、話を「轍を踏むな」に戻す。轍を踏むの否定だから、前と同じ失敗を繰り返すなという意味になる。

  昨年、3月のブログを開いて、今更ながら、生々しい現実を知った。特に、3月19日の杭打ちの姿を写真入りのブログを開き、われながら思い出して冷や汗。これが引き金で痛めた右肩は、4月終わりごろになって、ようやく治ったことを記していた。いま、しきりにその時のつらい有様を思い出した。「中山式快癒器を患部に当てて、しのいできました」と書いてる。{・・参照:2016,4,2「柔らかい心」<年寄りの冷や水>・・}

  昨年の「轍を踏むな」とは、まさに今の私に課せられた言葉である。一年の歳月が流れる間に、少しづつ忘却の彼方へと流れる。いくらかはそれでいいとしても・・いや、いや、やっぱりダメ。昨年の3月、4月のつらい状態は繰り返したくない。同じ失敗を繰り返してはならない。
  しかし、88才を歩む私に、老化と老いは、情け容赦なく降りかかってくる。それに反して、自給菜園は十年一日のごとく、たんたんとして、私の目の前に広がる。ジャガイモの畝づくり、春野菜の畑づくりなどなど、年を重ねるごとに重荷となってくる。あせる、なだめる、はむかう、あきらめるの繰り返しとなる。・・前のブログ「
初心」にも記している通りである。長時間の立ち仕事はできない。重いものをもって運ぶことはムリ。でも、チリも積もれば山となるの例え通り、10分でできる仕事を、一日をかけてでもできる。それで十分だと、自己満足のこの頃だ。

  昨年の3月、4月のブログの参照。画面左の各月のバックナンバーで検索すると早い。
{・・参照:2016,3,6「啓蟄の前後」<積雪の3月1日><2号田・ジャガイモの畝づくり><2号田・ジャガイモ畑・畝づくり終わる>・・2016,3,10「一茎雨情」<3号田の補修を終わりました>・・2016,3,18「頭寒足熱」<2号田・倒れた猿網の修理をしました>・・2016、3,22「老化と老い」<老化現象と老いの美学>・・}


<ジャガイモの畝づくり>

  3月になって、一番気をもんでいたのは、ジャガイモの畝づくりである。3年ほど、マルチを重ねてジャガイモと黒豆を連作してきたので、やり直す時期がきていた。もちろん、私の力ではできない。幸い、いつも世話になっているKさんに依頼した。でも、それまでの細かい仕事は、もちろん私の仕事である。

  3月4日、5日、6日、三日かけてのジャガイモ畝づくり奮闘記を写真入りで記す。

 

☆3月4日、2号田のジャガイモ畑の整理にとりかかる。4畝に張ったマルチを取り外す。マルチ止めを抜き、マルチをはずし、畦敷きをはずす。なかなか、大変な仕事。午前10時から始めて、休み休みで、午後5時ごろに何とか、耕せる状況に仕上げた。11:15写。

 

☆5日、午前9時から昼までの半日、忙しい合い間をぬって、kさんが来てくれた。・・5日の昼までなら、何とか都合をつけるとの承諾を得ていたのである。
  管理機で中を耕し、元肥を入れる。元肥は生ごみ(乾燥器で仕上げたモノ)と、モミ入りヌカぼかしを入れた。写真は乾燥した生ごみを入れたところを撮った。9:50写。

 

☆5日、元肥を入れた畝を、再度管理機で中耕し、鍬で土をよせ、畝づくりをした。畝づくりはもちろん私も鍬を入れた。午前11時ごろから昼までかかった。・・あとはマルチを張るだけとなった。11:50写。

 

☆6日、午前9時ごろ、kさんからテル。「今からマルチ張りに行きます」・・昨日、予定していたマルチ張りが出来なかったのが気になったということだった。6日から7日に予定していたが、どうも天気があやしく、畝の出来上がりは10日ごろになると予測していただけに、嬉しかった。肩の荷がおりた。
  マルチを張って、畦敷きを敷いて、ジャガイモ畝の完成は、6日、午前10時30分だった。

  マルチを嫌う人もあるが、除草剤をまくよりは、ずっと安全で、おいしい野菜がとれるのは必定。マルチは冬暖かくて、夏は意外と涼しい。それに有用微生物を絡めているので、鬼に金棒である。

  夕陽の写真は4日、5時29分に撮った。5日も良い天気を知らせている夕焼けだった。

 
<ちょっぴり春>

  3月8日、午睡から覚めて、ブラブラしていると、家内が言った。
  「知っとってん? 午後、眼科の検診ですよ」
  「いやぁ、すっかり忘れとったわ」

  3か月に一度の眼科検診である。カレンダーを見ると確かに記入し〇で囲んでいた。最近は検診の予約も3か月1回となり、ついつい忘れがちだ。ある意味で結構なことだと思っている。
  しかし、寒くなって、コタツを使用するようになってから、なんとなく体中がむずがゆい。時々皮膚科で診察を受ける。正月過ぎた頃、お腹のあたりに、蕁麻疹のようなものができたが、かゆみ止めの注射と軟膏で、赤みもなくなった。「老人性の乾燥肌ですか?」「薬のせいですか?」「コタツのせいですか?」「体力の低下ですか?」「厚着のせいですか?」・・お医者さんは、いっさいノーコメント。もう、一切質問はしない。そのうち、暖かくなり、汗をかくようになれば、自然と治るのだろう。・・痒みも少しおさまってきた感じだ。・・・それに、野や山に、ちょっぴり春を感じるようになってきた。

  さて、3月8日、午後4時予約の眼科検診。待合室のテレビ掲示板に4字熟語が映った。あわてて、ノートに書きとめようとしたとき、名前を呼ばれた。診察のための視力検査だ。4字熟語は2題。一つは「欣〇雀〇」もう一つは「参〇錯〇」だった。最初は欣喜雀躍と一発回答。あとが困った。全く不明。どう映っていたか判然としない。「参〇錯〇」という4字熟語が、いともあやしくなってきた。

  帰宅して、ネットで調べて、やっと回答できた。参差錯落(しんしさくらく)が答え。さまざまのものが入り混じっているという意味。さらに調べると、森鴎外の「妄想」にしっかりと載っていた。びっくり。今更ながら、森鴎外の知識の深さを実感した。

 

<鴎外の「妄想」から>

  ネットで「妄想」を読んだ。鴎外は1862年(文久2年)~1922年(大正11年)を生き人物。文字通り明治・大正を生きた人である。医者(軍医)であり、文筆家であり、思想家である。ショウペンンハウエル、ニイチェ、ハルトマン、ゲーテなどが、しばしば登場して、久しぶりに昔の心をゆさぶられた。

  「参差錯落」が、書かれた文章を抜粋する。
  {・・東京では都会改造の議論が盛んになってゐて、アメリカのAとかBとかの何号町かにある、独逸人の謂うWolkenkratzer(ラルケンクラツツエル)のような家を建てたいと、ハイカラ連が云ってゐた。その時自分は「都会というものは、狭い地面に多く人が住むだけ人死(ひとじに)がおおい、殊に子供が多く死ぬる、今まで横に並んでゐた家を、竪に積み重ねるよりは、上水や下水でも改良するが好かろう」と云った。又建築に制裁を加えようとする委員が出来てゐて、東京の家の軒の高さを一定して、整然たる外観の美を成そうと云ってゐた。その時、自分は「そんな兵隊の並んだやうな町は美しくは無い、強いて西洋風にしたいなら、むしろ反対に軒の高さどころか,あらゆる建築の様式を一軒づつ別にさせて、ヴェネチアの町のように参差錯落たる美観を造るやうにでも心掛けたら好かろう」と云った。
  食物改良の議論もあった。米を食うことを廃めて、沢山牛肉を食わせたいと云うのであった。その時自分は「米も魚もひどく消化の好いものだから、日本人の食物は昔の儘が好かろう、尤も牧畜を盛んにして、牛肉も食べるようにするのは勝手だ」と云った。・・}

  含蓄に富んだ言葉が並び、改めて鴎外の学識の豊かさを学んだ。
  もし、鴎外が現在に生きていたとするなら、この世相を、政治・経済・外交などを、どのように評論するか、興味深々たるものを感じた。

<生きとし生けるもの>

  大切にしてしまっている手文庫の中に{・・生きとし生きるもの・・「乙女の死」・・仁川忍}という、私が27歳に書いた短編小説がある。もちろん未発表のもので、60年近く私と共にある。字数を調べると、1万語近くある。ペンネームは仁川忍である。原稿用紙400頁を、還暦を過ぎた頃、パソコンでA4に打ち直し、コピーして冊子にした。

  文章の上手下手は別にして、27歳の私の生きざまを綴っている。・・ともかく27歳の若さで肺結核に罹り、文字通り生死をさまよう体験からうまれた小説である。機会があれば、何とかブログに残しておきたいと考えている。

  私が入院した様子は、2013,1,3「1円の本が来た」<病は人を強くする>のブログに若干綴っている。参照されたい。・・また、拙著「元気が一番」の{病は人を強くする}に、かなり詳しく載せている。・・今回は、私が一人で風呂敷をもって、入院する様子を、抜粋して、次の小説{生きとし生きるもの・「乙女の死」}のつなぎとしたい。

<病は人を強くする>

  まだまだ若い27歳の私が肺を患い、体も心も打ちひしがれて、国立篠山病院に入院したのは、昭和30年1月13日であった。

  山陰本線の園部駅から国鉄バスにゆられて、午前9時過ぎに国鉄本篠山のバスの停留所に着いた。私は当面の着替えを入れた風呂敷包みを片手にぶら下げて、とぼとぼと北に向かって歩いた。当時の道路は今のように完全に舗装されてはいなかった。いたるところに窪みがあり、水がたまり、凍てつき、つるつるになっていて、何度となく足を取られ、転びそうになった。
  私は篠山の町の商店街を通り抜け、元陸軍の兵舎、国立篠山病院の別館内科病棟をめざした。今や、中学時代の柔道2段、大学時代の野球選手の面影はさらさらなかった。青ざめた白い顔、見るからにひ弱そうな姿がそこにあった。それ以上に悪かったのは、生きていこうとする希望がなかったことだ。
  その朝は特に寒かった。30分ぐらいは歩いたと思う。そのころになって一面の靄がようやく朝の光にといけこんできた。病院らしい建物が私の視野に広がってきたのはそのころである。歩いたおかげで体のシンまでぽかぽかしていた。しかし、私の体力はもう限界であった。石の門のところで、何度も激しく咳き込み、息が出来ないほど苦しかった。やっとたどり着いた受付らしい建物の前で名を告げると、連絡が行き届いていたのか、すぐに看護婦さんがやってきて、ぎしぎしきしむ長い木造の廊下を渡り、私を一番はずれの西の個室にと案内した。そのベッドはペンキで汚れていた。見るからにきたなかった。病に苦しんだ人々の歴史がそこに刻み込まれているようだった。
  私は真っ白の病衣に着替えさせてもらって、そのベッドに身を横たえて、入院完了と相成ったのである。それから3ヶ月程、絶対安静を宣告され、ストレプト・マイシン(抗生物質)を、臀部に注射された。確実ではないが、マイシンには10万単位とか30万単位とかの種類があって、病状によって使用されていたようである。今から思うと、昭和20年に敗戦となり、アメリカからこのマイシンやペニシリンが入ってこなかったら、現在の私は存在しなかったに違いない。それはまさに特効薬だった。
  入院当初は私の右の肺が侵されていることは、レントゲンにはっきりと写っていて、お医者さんからしてきされなくても、認めざるを得なかった。それが、わずか3ヶ月で信じられないほど著しく私のレントゲン写真は好転したのである。お医者さんも頸をかしげるほど、マイシンはよく利いた。でも、マイシンには副作用があって、耳が聞こえなくなる兆候がでると、マイシンの単位を少なくするか、中止する必要があった。難聴を訴えた人も多かった。幸い私にはその兆候は出なかった。最初に入室した灰色の個室で、トイレにいくときに身を起こすぐらいで、殆ど寝たきりの状態で3ヶ月を暮らした。(あとで分かったのだが、個室は私の個室を含めて4室あった。私の他に3人が療養していたが、かなり重症で、みな、なくなってしまった。)

・・ここで登場してくるのが、{「乙女の死」生きとし生けるもの}という私の文集である。・・何とか、このブログで発表したいと思うが、一度には無理だと思う。2日か3日に分けて、投稿の最初を利用して掲載予定。・・もちろん、毎日の記事なども併せて記したい。

<2号田・猿除け網の修理終わる>

  1月中旬の雪害で壊れた猿除け網の補修が、3月10日、午後5時ごろ、何とか終わった。もちろん完璧とは言えない。

  午前10時ごろ、市の獣害対策担当の方が、巡回して来られて、「いま、山猿A軍が矢代にいます。明日あたり、山を越えてやってきそうです」との話。頸にチップをつけた猿がいて、動向がわかる。猿の動向だけではなく、何とか山猿を追い払ってくださいというのが、村のみんなの意見。・・まあ、いまやってきても、畑には何もない。いや、タマネギの苗が成長しているところだ。そう、そう、毎年、タマネギをひかれている。・・今年は、早めに防獣網で囲ったので、少し安心。でも、油断はできない。

  それにしても2号田の補修完了は、よい時期だったと、ちょっと安心。

 

☆10日、午前11時30分ごろ、郵便配達の赤い単車がやって来た。「書留です。受け取りのサインが要ります」「ここでサインするので、郵便はポストへ入れといて」「分かりました」「ときに、ちょっとシャッターきってくれへんか?」「わかりました。押すだけやね」・・このようなやり取りの末、郵便配達の人に、シャッターを押してもらった。猿除け網の一番難しいところの修理中。

☆10日、午後5時30分、西空に夕日が沈む。今日の天気は大体が曇り空。でも、時に日が差し、そこに小雨が降るといった天候。夕方は曇り空。夕日は墨色の雲から、顔を出して、山の端に沈んでいく。いつもの光景だが、だいぶん日が長くなってきた感じだ。

 

 

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初心

2017-03-01 18:21:30 | Weblog

  弥生3月となった。

 「弥生(いやおい)」が変化したものとされる。「弥(いや)」は、「いよいよ」「ますます」
などの意味。「生(おい)は、「生い茂る」と使われるように草木が芽吹くことを意味する。草木がだんだん芽吹く月であることから、弥生となった。(ネット調べより)
  平成28学年度の最終の月、官公庁・学校など学年度末で一番慌ただしい月でもある。
  しかし、毎日が日曜日の、米寿を歩むわが輩にとっては、何の変哲もない暮らしが続く。変哲もないと言えば、聞こえはいいが、ちょっと仕事をすれば、足腰が痛くなり、寒いと言ってはコタツのお守りをする有様だ。
  そうは言っても、春の野菜の土づくりは、草木も芽吹く弥生3月が、よい時期なんだ。分かってはいるが、昔のようにできないのが現実。老化と老いが、わが輩の前に、どっかと腰を下ろしてすましている。あせる、なだめる、はむかう、あきらめる・・の繰り返しの毎日、やっと一日が過ぎた。それでいいのだと、自分に言い聞かせて自己満足。

  そんな毎日の暮らしの中で、ふと、平成15年(2003年)5月に初版を出した「土が変わる人が変わる」という私が書いた冊子を読む機会があった。びっくりした。久しぶりに初心に戻ることができた。この冊子は、人口5万の丹波地方ではベストセラーとなった。いくら増刷りしても追いつかなかった記憶がある。因みに2003年5月を皮切りに、増刷りの月日を記載すると次のごとくだ。
{2003年10月、2004年5月、2005年7月、2007年5月、2008年7月、2008年9月、2008年12月、2009年10月、2010年4月、2010年7月、2011年4月・・}約100冊単位で印刷。原本は私のPCの手書きのコピーである。・・2011年4月以降は、印刷所が変わり、最近まで、コピー印刷で本を作った。値段はあってなきがごとく、殆ど無料で進呈した。

<初心を抜粋・土が変わる人が変わるより>

  大根だけでなく、トマト、ナス、ピーマンなどいつもの年よりは、粒がそろい、大きくて、しかもなんとなく甘いようでした。とりわけピーマンは、晩秋の霜がおりてきても、いっこうに枯れることなく実をつけていました。これには、さしもの家内も「やっぱり生ごみ堆肥のおかげやろか」と首を斜めにしながら、うなずかざるを得ないようでた。

  戦後50数年が経ちました。私には難しいことはわかりませんが、日本の農業について考えても、農薬と化学肥料と大型農機具の開発など、科学の力でコントロールされてきたように思えてしかたありません。たしかに、それの力によって農業が躍進したことは事実です。しかし、それらの躍進にかげりが生じてきていることもまた疑いのない真実です。

   それでも夢をもう一度というわけでしょうか。もっと大型の機会を入れよう、もっとよい農薬や化学肥料を使おう、そして金を儲けよう、という考え方は誰でも当たり前のことで、科学の力のコントロールは溶けようもありません。悲しい現象です。そのようなしくみで私たちは育ってきたのです。教育が人をつくるものであるとするならば、今更ながら教育のおそろしさを、かいま見る思いがいたします。(省略)

  たしかに、私の回りの畑は土が変わってきました。土いじりがこれほどおもしろいものだとは、これまで味わったことがありませんでした。天気のよいときは、努めて外に出て、畑を耕しました。雨が降ると、家の中で本を読んだりパソコンいじりをしました。晴耕雨読とはよくいったものです。しかし今日では読書よりはどうもパソコンいじりに費やす時間のほうが多いようですが、のめり込むとあまりよくありませんので、時間を決めて楽しむことにしています。

  それにもまして、土いじりの後で、草むらで仰向けになって空を見上げたり、木陰で樹に背をもたれて世の中の流れに思いを寄せることは、なにか自分の内面が見えてくるようで、なんともすがすがしいものです。今の社会のしくみから離れていけばいくほど、世の中が見えてくるから不思議です。私が変わってきたのでしょうか。それとも世の中が変化しているのでしょうか。土にぬかずくことによって、たしかに私は私自身が自然のふところにいだかれたように感じました。人は人としての思いあがりを捨てなければならない時代がきたように思いました。

  私は今後も「土が変わる、人が変わる」の言葉を胸にひめて、野菜づくりなどをしながら、私からあなたへと輪をひろげてまいりたいと思っています。

  

☆本の表紙と本裏の目次の頁。表紙の挿絵は2,3回変えています。裏目次に上述の増刷の月日を掲載。・・2011,4月以降、2014年まで、要望によって増刷りをコピーした。

  2017年3月になって、ふと読み返す機会があり、60代、70代は元気だったことを実感。それにしても、自然のふところにいだかれ、人は人としての思い上がりを捨てなければならない時代 がきた思いを呼び起された。

  いま、88才を歩む私は、なにか頬を撫でられたような気がして初心に戻った。

  でも、現実は極めてきびしい。弥生3月である。荒れ果てた山裾野、ジャガイモ畑の準備、タマネギ、エンドウ、イチゴの追肥などが目白押しに私に迫ってくる。

  ここはひとつ、御年94才を歩む佐藤愛子さんの言葉で結んでおこう。
{・・これからの老人は老いの孤独に耐え、肉体の衰えや病の苦痛に耐え、死にたくてもなかなか死なせてくれない現代医学にも耐え、人に迷惑をかけていることの情けなさ、申しわけなさにも耐え、そのすべてを恨まず悲しまず受け入れる心構えを作っておかなければならないのである。どういう事態になろうとも悪あがきせずに死を迎えることが出来るように、これからが人生最後の修業の時である。いかに上手に枯れて、ありのままに運命を受け入れるか。楽しい老後など追及している暇は私にはない。・・}


<タマネギなどの追肥>

  タマネギの追肥は3月までに実施するのが原則。今年は、思わぬ大雪(積雪40cm)のため、畑仕事がすべて遅れた。2号田、3号田のタマネギ追肥は、家内が一人でコツコツとやった。

  2月28日、午前9時ごろ、「1号田のタマネギ追肥はまだです」と家内の言葉。やらざるを得ない。牛糞、ぼかし、活性液など、朝のうちに準備完了。

  午前11時ごろから始めて、午後5時には終了した。1号田のエンドウ、イチゴも同時に実施。私は叫んだ。
  「どうや!2月中にタマネギの追肥を完了したぞ」・・「どうぞ、お疲れの出ませんように」とは家内の言葉。

 

☆2月28日、午前11時30分、1号田のタマネギに追肥してるところを、孫娘が撮ってくれた。1mの網を寄せているのをはずして、牛糞、ぼかし、活性液をやった。一畝3本仕立てで植えているので、それぞれの中に追肥。もちろん、マルチのなかに、移植ごてを入れた。作業時間は30分ぐらい。午前中に終了。

☆防獣網を、元に戻したのは午後5時ごろ。もどす前に、もう一度、活性液をかけた。

 

☆2月28日、タマネギに追肥中、隣のエンドウ、イチゴにも追肥した。こちらは防獣網(1mx20m)をかけていないので、追肥の労力は半分で済んだ。時間は午後2時ごろ~午後3時ごろまで。28日、17:00写。

☆2月28日、1号田に追肥中、仕事の合間に、通用門入口の活性液・ペットボトル(2ℓ)の整理をした。ペットボトルは30個。・・60ℓの活性液(青色の30ℓ入り容器を2つ)を仕込んでいるが、野菜づくりには欠かすことのできないもう一つの肥料である。(空になった散らばったペットボトルの写真は27日、午後4時ごろ撮ったモノ)


<活性液づくり>

  仕込んでいた活性液を、整理して並べた30本のペットボトルに入れているところ。注入は電動式灯油ポンプを使用。便利で作業がはかどる。空になった青色の容器2つには、終わった時点で、再び活性液を仕込む。次の使用までに十分発酵できる。

 

☆ 2月28日、15時20分ごろ、電動式灯油ポンプから2ℓのペットボトルに注入しているところ。作業は30分ぐらいはかかったと思う。腰かけているので、作業はしやすい。15:30写、家内。

☆活性液のPH(ペーハー)は3.2。 EM活性液としては最高値。昔は、この値がなかなか出なかった。前は、いくら頑張っても、4.0だった記憶がある。

  

☆テスト用紙。pH3.2~5.6。黄色の3.2が最高値。以下、3.6、4.0、4.2、4.4、4.5、4.8、5.2、5.6となる。酸性、アルカリ性を示す数値である。しかし、数値については、今ひとつ理解不明瞭。ただ、黄色の3.2が、活性液としては最高値だと聞いている。

☆2個の青い容器から2ℓペットボトル30個に入れ替えた。60ℓの活性液を作っていることになる。青い容器には、次に使用する活性液を仕込んだ。写真は3月1日、午前10時に撮った。

 

<裏の山裾野・6号田後片付け>

  3月2日、曇り空ながら、雨は落ちてこない。いつも世話になっているKさんから電話があった。
  「10時ごろから昼まで、裏山の後片付けをしましょう」

  1月中旬の雪害、特に裏山の木が倒れて、6号田がめちゃめちゃになったことを知らせていた。彼は山仕事が本職。あちらこちらから依頼を受けて、木を切る仕事をやっている。もちろん米づくりや野菜づくりなども手掛けている。

  午前10時にチェンソー持参で来てくれた。早い、早い、アッというまに、裂け折れた樫木や、竹などを切って、後片付けまでしてくれた。私が一年かかってもできない仕事を、2時間で、きれいさっぱり、後片付けの完了である。感謝!

 

☆裏山の樫木。すごい成長。根元は両手で抱えられるぐらい。左はくぬぎばやし。写真には写っていない。
2日,10:00写。

☆樫木の中頃の枝が、雪の重みで、張り裂けた。中頃の張り裂けたあとが見える。かなり高いところから、張り裂けて地上に落ちた。2日、10:10写。

 

☆地面に裂け落ちた樫木をチェンソーで切り込むKさんの姿。2日1、10:30写。

☆樫木や竹などを切って、後片付け。当分燃やす木や竹に不足はない。竹は物干しに使用予定。11:30写。

 

 

 

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老いへの挑戦

2017-02-23 14:11:28 | Weblog

<この世とあの世?>

  あゝ、また一人の友が亡くなった。今年、年賀状が来なかったので気になっていた。几帳面な性格を知っていただけに、何か身に異変があったのではないかと、ちょっと気をもんでいた。

  つい、2,3日前連絡網で訃報が知らされた。びっくりした。やっぱり病気だったんだ。同じ中学校で教師として勤めた仲間であった。私が篠山城跡の西堀にある中学校(現在は移転して、大駐車場)の校長、彼は篠山城跡の東堀にある小学校の校長として、平成元年に定年退職した。

  彼は几帳面で真面目人間を絵に描いたような人物だった。かって一緒に机を並べたことがあった。机はいつも整頓されていて、古ぼけた筆箱があるだけ、削られたえんぴつがいつも2本はいっていた。
  それに反して、わが机の上や周辺は、答案用紙などが散らかされて、野球のバットがあるわ、ボールやグラブが散乱しており、よい加減を地でいくありさま。

  そんな彼が妙に私に興味があったのか、私が彼の真面目さに魅かれたのか、どうかは知る由もないが、時々私と城下町を散策した。散策というと聞こえはいいが、夜の繁華街を飲み歩いた。仲間という感じだった。

  退職後は、晴耕雨読を実践し、時々、新聞の読者欄に投稿していた。しかし、このところ5,6年は出会っていなかった。元気で野菜づくりをしているとの情報は入っていたが、米寿などのお祝いの席には来なかった。体調があまりすぐれないとは聞いていたが、こう急に逝かれると、私の心も穏やかではない。
  彼の葬儀には列席したが、心身ともに凍るように寒かった。・・昨年から5人も同じ年代の者が亡くなってしまった。何とも言えず、複雑な気持ちになるのも不思議ではなかろう。

  みな、どこへいってしまったんだろう。あの世って、どんな世界なのだろう? いったものが、誰一人帰ってきたためしはないので不明。

  100才の精神科医、高橋幸枝先生は、次のように言っている。
{・・年齢を重ねて、死生観について問われることが多くなりました。ズバリとお答えしたいところなのですが。死についてはよくわかりません。実際にあの世を見てきたわけではないですし、仕方がありませんね。・・}

  その点、老子は面白いことを言っている。
{・・人はこの世に生まれ出て、死の世界へ入る・・}
  この世を生きていると思っているが、実はあの世を生きているんだと、解釈すれば、逆説的な言い方だが面白いし気が楽になる。

  東京に住む孫が贈ってくれた五井昌久著「老子講義」を、時々ひもとくと終わりには「無為自然」に到着する。常に、「いつ自分に死が訪れても不思議ではない」と覚悟を決めて、ことさら生に執着することなく、その日いちにちを楽しみなさい。それが、かえって生を長らえることにつながるんだよ・・と、老子の死生観。  

  友の死をまえにして、この世とあの世に思いをはせた。

  しかし、現実の世界は、寒風吹きすさび、毎日雪が降り、猿除け網、防鳥網の補修に明け暮れる毎日が続く。2月とはいえ実に寒い毎日だ。

 

<3日連続して雪景色>

   2月18日、柏原厄除大祭にお参りしてから、19日、20日、21日の3日間雪景色の朝を迎えた。2㎝ぐらいの積雪で、午前10時ごろには溶けた。でも、日中も時々小雪が舞った。もちろん積るほどではない。また陽が射すこともあったが、風がきつかった。

  毎日、猿除け網と防鳥網の補修をした。また、2号田の冬野菜寒冷紗の後片付けをした。時間は30分ぐらい。

  ともかく風邪をひかないように、膝を痛めないように、細心の注意を払っての仕事だ。

 

☆2月20日、午前10時50分ごろ、2号田の冬野菜・寒冷紗が雪と凍てによって破り裂かれた。寒冷紗の後片付けをして、レタス、キャベツなど収穫。

 

☆2月21日、午前8時30分、裏の雪景色を、部屋のサッシ窓から撮った。19日、20日、21日と3日間、同じような雪景色が広がった。
  それにしても、18日の柏原厄除大祭は、「よいまでした」とは皆の言葉。「精進がよいからや」とは、わが輩の言葉。

 

☆2月21日、午前8時30分、積雪3cm、小雪の舞う中、孫が撮ってくれた。この雪も午前10時ごろには、田んぼの中の一部を残し、殆ど溶けた。


<青春の詩・老いへの挑戦>

  気が滅入ると、いつも口ずさむ詩がある。サミエル・ウルマンのYouth(青春)の言葉だ。
{・・参照:2010,12,20「How to stay young」にも掲載・・}

  人は信念と共に若く、疑惑と共に老いる
  人は自信と共に若く、恐怖と共に朽ちる
  希望ある限り若く、失望と共に老い朽ちる  

 {・・you are young as your faith,as old as doubt:as young as your self-confidence,as old as your fear,
    as young as your hope,as old as your despair.}

  もちろん、原文はもっと長い。マッカーサー元帥が座右の銘としていたと言われる。

  まあ、たいへん読みやすい英語だから、この部分だけ、丸暗記している。
  でも、90才近くなって、今更、How to stay young?(どうやって若さを保つか)は、少々おこがましい感じもする。

  しかし、私にとって、60才代は、退職したといっても、現役の延長であった。年とったとはほとんど感じなかった。
  70歳、古稀になっても、古代稀は昔の話しだったとうそぶいた。無農薬の自給菜園を実践し、「土が変わる人が変わる」の冊子を記し、77歳(喜寿)には「元気が一番」を出版した。80才(傘寿)には、「不耕起栽培の世界」と題した野菜づくりの記録を出版。その間、講演活動にも励んだ。
  80才を越えてから、始めて体力の衰えを感じるようになった。ともかく、よく転んだ。それから、畑仕事の量が減った。そして、82才に宴会の席上で、急に足が痛くなって、救急車で運ばれた。原因、病名ともに不明。しいていえば、エコノミ症候群との話(自己診断)だった。
  85才の暮れに不整脈を発症した。一時的なもので、その後不整脈は発症しない。また、急激な足痛も起こらない。しかし、体力の衰えを身をもって感じるようになった。
  いま、88才の米寿を歩む私にとって、老化と老いをどのようにして克服していくかが、キーポイントとなる。換言すれば、80年代は、限りなき老いへの挑戦の歴史であり、80才から始めたブログはそれらを記してきたと言っても過言ではないだろう。
  80年代も、あと1年と5か月になった。106才を歩む日野原重明先生の言葉を借りれば、「老化は生物的な概念、老いは人間的な概念であるから、今後は老いに注目する必要がある」とのことだ。
  従って、今回の題目を「老いへの挑戦」としたわけである。

  「老い」に関しては、次のブログなどを参照してください。
{・・参照:2016、3,22「老化と老い」<老化現象と老いの美学>・・2016,7,23「老いに挑戦」<和顔施><忘己利他>・・2016,10,30「老いと病と死」・・}


<中学校・校長OB会に出席>

  2月25日(土)S中学校・退職OB会(昼食会・12:00~15:00)に出席した。

  平成元年3月、S中学校校長を退職してから、28年が過ぎた。今年は平成29年だから、この3月で28年が過ぎたことになる。

  さて、28年間で、私と現職を含めて10人が校長を務めた。OB会はその集まりである。しかし、参加者は私の後の校長は亡くなり、次の校長も体調不良で不参加、それに退職して、現在パリーの日本人学校の校長をしているMさんは不参加。結局、OB会の参加者は7名となった。

  ところが、誰の発案かは、大体想像がつくが、0B会が、今回は私の米寿のお祝いの会にしようということになった。OB会に出席してびっくり。米寿お祝いのこけしと花束贈呈となった。かなり、辞退したが、後の祭り。元教育長のTさんから手渡されては、どうしようもなかった。

  毎年2回ぐらいは開催されるが、このOB会ほど、肩の凝らない会はない。・・何の気兼ねもなしに、誰に遠慮するわけでもなく、言いたいことを、好きなように言う会合は、他にない。みな、かって教師時代に机を並べた仲間なのだ。

  私が6人との現職時代の深いつながりを話すのをキッカケとして、積もる話に花が咲いた。私は、今日ほど縁を感じたことはなかった。誼を味わったことがなかった。人と人とのつながり、運命的な出会いを肌で感じた。ある意味で、これが教育というものなんだと、しみじみと思った。

 

☆2月25日、午前11時40分,OB会にわが家を出発する私のいでたちを孫が撮ってくれた。 

☆2月25日、午後12時10分、Sさんより手渡された米寿お祝いの花束とこけし。夕方、帰宅して撮った。

 

<お祝い・パーティ>

  2月24日、孫娘が高校を卒業し、4月から神戸医療福祉大学(全寮制)へ入学する。
  2月25日、午後6時30分、みなで、卒業お祝いパーティを開いた。とはいえ、殆どはお母さんの発案と世話によるものだ。今回は手巻きずしでお祝いとなった。

  もちろん、卒業お祝い、入学お祝いは、わが貴重な年金から引き出している。それにしても「4月からさびしくなるなぁ」とは、爺さん婆さんの心の言葉だ。

 

☆お母さんがpcから印刷した卒業お祝いメッセージ。いつものことながら、わが家のお祝いのメッセージは、食卓から居間の敷居に掲示される。メッセージの写真は、孫の好きな Hey Say Jampの有岡大貴くんだそうだ。もちろん、お爺さんは知らない。

☆手巻きずし。ご飯と海苔が用意され、好きなものを海苔に巻いてたべる。お爺さんはまことに苦手。お婆さんと、お母さんと孫娘が、かわるがわる適当に巻きこんで、私の皿にのせてくれた。ただ、食べるだけ。しかし、めっぽううまかった。

 

 

  

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柏原厄除大祭

2017-02-18 15:00:21 | Weblog

<柏原厄除大祭(かいばらやくよけたいさい)に参拝>  

  2月18日、午前8時30分ごろ、いつになくソワソワしている私に家内が言いました。
  「どうしたったん?えらい落ち着きがないわね」
  「うーん、決めた。今から厄神さんに行ってくるぞ!」

   天気は曇天なれど、丹波地方の空模様は、午後から晴れになるとの予報。今年は絶対お詣りするぞと心に決めていただけに、朝から胸が騒ぐのもムリない話。
  2013年1月にお参りして以来、3年間、体調不良により参拝不能。ともかく150もある石段を上がらなければ、本殿に到着できません。2,3年は気分で負けていました。今年は体に気を配りながらも、心は前向きでした。

  2月18日、体操服(軽い仕事着)に着替えて、木の杖をたずさえ、午前9時、軽自動車のハンドルを握りました。出発です。お詣りの実況を写真で記します。

  

☆午前9時30分、神社の入口境内の大ケヤキ「木の根橋」に到着。自動車は県総合庁舎に駐車。母校・柏原高校の近くで、勝手知った土地勘があります。木の根橋まで徒歩10分。この木の根橋は樹齢千年とも推定される大ケヤキの根が、幅8mの奥村川をまたいでいて自然の橋をかたちづくっています。昭和45年に県の天然記念物に指定されています。(柏原町の資料より抜粋)9:30写。

☆大鳥居をくぐると、石段の始まりです。その石垣にみごとな提灯の行列です。みな、商店の名が刻まれているので、多分寄付金で成り立っていると思われます。9:32写。

 

☆石段は普通の石組でなく、少し歩いて一つの石段を上るといった様。ずっと昔、讃岐の金比羅さんの石段を思い出しました。おかげで木の杖は役に立ちました。中央に縄の手すりが設けられていました。上りは、もっぱら左の石の手すりを使用しました。9:38写。

☆石段を半分上ると、途中に休憩所があり、古いお札を収める箱があり、門をくぐるとトイレがありました。写真は休憩所の曲がり角です。あと少しです。9:42写。

 

 

☆柏原八幡宮(本殿)に到着しました。まだ、少し早かったせいか、人影はまだら。ゆっくり参拝することが出来ました。あと、30分もすれば参道の石段には5列の人並で満たされました。9:50写。

☆参拝後、左に設けられた「神符授与所」でお札を購入。10:00写。
  この場所もあっという間に満員になっていました。

 

 

☆三重塔の石段前に、甘酒接待所がありました。テントの中には囲炉裏もあり、ゆっくり甘酒を楽しみました。もちろん隣の人との会話を交えながらです。甘酒はノンアルコールの酒を使用されていて、飲酒運転には絶対ならないそうです。それにしても、うまかったです。ショウガが入っていて風味満点。10:10写

☆三重塔の前に鐘楼があります。つくには並ばねばなりません。長蛇の列です。後ろから合掌し、三重の塔にお参りをしました。この鐘は、慶応元年(1389)と天文12年(1543)の二つの年号が刻まれた銅鐘があり、秀吉が大砲に鋳なおすために集めたものの一つで、兵庫県指定の重要文化財です。(柏原町の資料より)因みに三重塔も兵庫県指定の重要文化財です。10:15写

 

☆いよいよ参拝を済ませて帰りです。わずか30分ほどの間に、本殿の石段には長蛇の列です。拝む鈴鳴らしが5つあるので、「これより先は5列でお願いします」の看板もうなづけます。10:20写

 

☆参道の列を東側から撮りました。完全に5列の隊列です。みなさん、行儀よく並ばれています。隊列を乱す人は一人もございません。

☆隊列の右側にお払いの式場があります。厄年のお方が魔除けの矢を納めて、ドドンと太鼓がなり、巫女さんがお払いの儀式を舞います。30秒ぐらいでしょうか。太鼓と鈴の音の余韻を残して、演舞はすぐ終わります。10:20写。

 

☆いよいよお詣りを済ませて、大鳥居をくぐって、石段を下ります。ちょうど曲がり角に、監視のお巡りさんが2人立っておられました。私がカメラのシャッターをお願いすると、「いいですよ」と、快く押してくださいました。(あとで、まあ、お巡りさんを使うのは私だけでしょうと、ちょっと後悔。)・・10:22写。

☆参詣の石段は、来る人、帰る人で、込み合ってきました。上るより、下りのほうが、難しいのを知りました。おそらく下りは2倍の時間を要した感じです。中央に張られた綱が唯一の手すりでしたから・・。左手に木の杖、右手で綱をもって、何とか石段を下りることが出来ました。たいそうに書いていますが、それほどでもなかったのですよ。10:30写。

・・あと、案内書で資料をいただき、いちご大福を買って、総合庁舎駐車場を出発したのは、午前11時でした。
  帰宅は午前11時30分。・・前々からの念願が叶った喜びは、筆舌に尽くしがたい思いでした。・・ちょっと、言いすぎかな?・・でも、ともかく、万歳! 万歳!

 

☆購入してきたお札です。それと下の境内の案内室売り場の「いちご大福」です。今日のお土産です。 

{・・参照:2010,2,17「柏原厄除大祭」・・2012「雪景色の雨水」・・}


<厄神さんへの思い入れ>

  ずっと前から、柏原の厄神さん(柏原厄除大祭)については、特別な思い入れがあります。上の参照のブログにも記入していますが、再度、思いつくままに綴ります。

(1)氷上郡柏原町(現・丹波市柏原町)は、もともと丹波市の中心の町でした。県立柏原中学校(現・柏原高等学校)があり、私の母校でした。昭和16年4月1日、1年生入学。昭和20年3月、4年生で卒業〈5年卒が普通)、5年生と4年生が、一度に卒業。少しでも早く戦争に送り出すための国政。

(2)中学1,2年は野球部。3,4年は柔道部。昭和18年、野球は敵国のモノということで全国的に廃止。全国中学校野球甲子園大会も敗戦までの2年間はブランク。

(3)八幡さんの石段は、当時の中学生の足腰を鍛える場所。歯を食いしばって駆け上がり、駆け下りたことをおぼろに覚えています。だから、懐かしい。

(4)柏原は織田信長ゆかりの城下町なんです。私たち同窓が集まると、必ず合唱する校歌があります。
{・・麻の如くに乱れつる 世をば鎮めし織田公の 威烈残りて山水の 姿うるわし柏原 偉人の霊をなつかしみ 自然の精に交らいて 教えの園に高潔の 精神養う楽しさよ あゝ幸多きわが健児 あゝ幸多きわが健児・・}
  大合唱になるから不思議です。みな覚えているんです。

(5)毎年2月17日、18日に実施される厄除大祭(厄神さん)には、柏原の城下町がお祭り一色に染め上がるのです。三たん随一のお祭りですから、汽車もバスも超満員でした。(三たんというのは、丹波、但馬、丹後を指します。地理的には北近畿というところです)

・・まあ、今日はこの辺で終わります。

 

<一転して雪模様>

  2月19日、夜中にトイレにいき、小窓を開けると雪が降っていました。夕方、小雨が降りかけたのは知っていました。まさか、雪になるとは思ってもいません。
  朝起きると、やっぱり一面雪化粧です。2~3cmの着雪でしょうか。雪は、午前10時ごろには殆ど溶けました。でも、1,2,3号田の防鳥網は、畑に落ち込んでいました。
  本にしたブログを開くと、毎年3月中頃までは雪が降った光景を描いています。まだまだ、これから先は長いぞと腕を組んでいます。
  「それにしても、厄神さん、よいまやったまねぇ」・・みなの言葉でした。

☆2月19日、午前9時30分、2号田の猿除け網・防鳥網の様子です。防鳥網が畑に垂れ下がっています。これは中心部を竹で持ち上げれば、復旧します。畑や土手に雪が残っています。でも、これくらいで済めば上等。9:40写。


<恒例の黒豆の味噌づくり>

  2月19日、日曜日、学校も休みです。わが家の女性3人組が、朝から黒豆の味噌づくりをしました。黒豆の皮をむく作業などは、ほとんど家内がしていた様子。
  豆と麹と塩を入れて、こねあげて、容器に入れて、あとは蔵で保存。出来上がりは夏ごろだとか・・。大変です。でも黒豆の味噌は一味違うのです。

  尚、味噌づくりについては次のブログをぜひ参照してください。かなり詳細にレシビなどを添えて説明しています。
{・・参照:2012,2,3「この冬は小鳥が少ない」<黒豆で味噌づくり>・・}

 

☆2月19日、午前9時50分、女性3人組が、仲良くやっています。ゆでて黒豆の皮をむいたモノを、ねりつぶして、容器に入れているところです。 

 

 

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快晴と曇天

2017-02-16 18:38:30 | Weblog

  2月16日、久しぶりの快晴です。今日をかぎりなれば、春の息吹と言いたいところですが、そうはいきますまい。まだ2月です。朝夕は肌寒く、霜が降りる日がつづきます。

  今日の一日を記します。

<所得税の確定申告のこと>

  毎年2月になると所得税の確定申告の書類がきます。2,3日前から、平成28年分の所得税申告書類の整理をはじめました。毎年のことながら、農業所得収支内訳書と確定申告書第二表を済ませ、最後の確定申告書の第一表に記入しかけたのですが、毎年記入する配偶者特別控除の説明文が見当たりません。昨年27年度の手引書には、しっかりと金額が記されていました。今年28年度分の手引書に、その文面がないのです。
  たまたま、市内に行く用事があり、市役所に立ち寄って尋ねると、私の手引書の読み落としだったのです。毎年、手引書の様式が少しずつ変わったいて、今年は前のページの一番終わりに記されていたんです。
  老人特別控除対象配偶者は・・{昭和22年1月1日以前に生まれた方(年齢が70歳以上の方)}と後のページに載っていました。問題解決。マイナンバーの証明コピー作成を残してすべて完了しました。
  それにしても、毎年手引書の様式が少しずつ変わるので、なかなかお年寄りにはついていけませんね。

☆確定申告の手引書の一般控除対象配偶者と老人控除対象配偶者の控除額の金額を示した頁の表です。しっかり丸印をつけました。


<麹を購入>

  2月16日、市役所からの帰路、家内からの依頼の黒豆でミソをつくる麹を、地域の活性化センターM館で購入しました。黒豆のみそづくりには、欠かすこと出来ないモノです。あゝ、またみそづくりが始まる時期になりました。

☆家内の依頼文を見ると、1袋1000gなら2袋、1袋500gなら3袋と記入。・・M館に並んだ麹は1000gと600gでした。どれにするか迷った挙句、600g入りを3袋購入しました。正解でした。

  黒豆みそづくりは、例年より1週間遅いのですが、2月19日が日曜日で、この日にやろうと、みなで相談していたようです。 

 

<エンドウ支柱の修復>

  2月16日は午後も晴天です。午後、3時ごろ、久しぶりに外仕事をしました。一番気になっていたエンドウ支柱の修復をしたのです。一番上の折れた竹の支柱を取り換えればいいのですが、意外と手間がかかりそうで、一本の竹を用意して、継ぎ足しました。午後3時ごろから始めて、それでも約1時間かかりました。

 

☆カケヤと竹をもって、1号田に向かうところです。やっぱり膝にはサッポータをつけています。安定するんです。

☆1号田のエンドウ支柱の修復をしているところです。何しろ足元が悪く、踏ん張れません。すでにのり網を張っているので、仕事はしにくいわけ・・。ついでにエンドウ誘引の竹枝を立てて終了です。15:30写。


<ミツマタを起こす>

  2月16日、午後3時半、1号田の横に植えていたミツマタが、雪に埋もれて、やっと身を起こしたところです。支柱の杭がみな倒れており、ミツマタの花は地面に這ったままでした。
  新しい杭を打ち、枝を持ち上げて、どうにかミツマタの形を作りました。一時しのぎで、再度補強が必要ですが、これで何とかミツマタの形はできました。
  ミツマタに関するブログは、2016.3,18「頭寒足熱」<家の前に咲くミツマタです>に、かなり詳細に記載しています。参照してください。

 

☆起こしたミツマタの枝ぶりと、拡大写真です。雪害により、かなりミツマタの枝が折れています。3つのまたになった枝ぶりは、ごくわずかです。拡大は左手で持ち上げて、花を上に向けて撮りました。16日、16:30写。

<フキノトウとみそ和え>

  16日、午後4時30分ごろ、東山裾の溝のあたりに、フキノトウが顔をのぞかせていました。例年今頃に出ます。春の訪れを知らせる最初の使者です。
  「おーい!フキノトウが出てるやんか」と叫ぶと「取ってきて」と家内の返事。見渡しと、あちらこちら、合計30個ほど、もぎました。

 

☆(左)溝に顔を出すフキノトウ。16日、午後4時40分に撮りました。

☆(右)フキノトウの味噌和えです。午後5時半ごろ、家内の手料理。これが珍味とくるから、たまらない。ご飯がうまい。

フキノトウの味噌和えづくりは次のブログを開いてください。かなり詳しく記しています。
{・・参照:2016,2,3「節分・立春を過ぎる」<ふきのとう味噌づくり・実習しました>・・}


<イタドリの一年>

  2月16日、午後4時40分、わが家の東の山裾に、この間まで、枯れ枝として残っていたイタドリの枝が、今回の雪害によって、見事に途中から落とされているのを見ました。フキノトウ発見と同じ時刻です。

  この枯れ落ちたイタドリの姿を見て、なんとなく物寂しく、哀れを感じました。そこで、このイタドリを発見してからの1年の様子をたどることにしました。 

☆2月16日、午後4時40分、イタドリの枯れ落ちた姿です。 

 

☆2016年、5月21日、午前10時09分のイタドリの姿です。最初、あまりにも大きくて、イタドリであることが判明しませんでした。調べてみると大イタドリだと分かりました。

☆2016年、9月12日、一斉に白い花を咲かせました。見事です。午前9時30分に撮りました。

 

☆9月12日に咲いた白い花を拡大して撮りました。

☆2016年、11月29日、咲き誇っていた白い花は、すべて散り落ちていました。一気に散ったのではないとは思います。葉も枯れ果てました。でも、すっくと立っているからすごい。・・しかし、2017年2月16日の大雪に途中から倒れ折れたわけです。・・この後、もう少し観察を続ける予定です。

<雨天・曇天>

  2月17日、朝から雨降りです。16日の天気は嘘のようです。

  予定が大いに狂いました。17日は「三たん随一の厄神さん」として親しまれている「柏原厄除大祭」の初日でした。今年は、心ひそかにお参りすると決めていただけに、残念ながら、雨降りでは行けそうにありません。・・でも、厄神さんは17日、18日と、2日開催されるので、明日の天気次第では、体の調子具合ではお詣りできるぞと、心ひそかに期待していたんです。

 18日は曇天なれど、雨は落ちてこない。厄神さんお詣りを実行しました。これは次のブログに記載。 

 

  

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無茶苦茶

2017-02-08 20:47:33 | Weblog

  「もう無茶苦茶でござりまするわ」漫才師アチャコのセリフです。

  1月中旬に降った大雪は、家の北側に雪を残しています。1月終わりごろから2月8日ごろまで、老体に鞭打ってやっと、猿除け網などの修復作業を終えました。もちろん完ぺきではありません。細かい仕事は残っています。まあ、雪害前の畑に8割ぐらいは回復したでしょうか・・。

  ところが8日の夕方の天気予報は「9日から12日ごろにかけて、冬型の気圧配置が強まったため、日本海側では西日本を中心に大雪となる見込み」なんです。

  2月9日の朝、雪降りです。これ以上の積雪なら、「もう無茶苦茶でござりまするわ」と、手を回して叫ぶのも、お分かりいただけるでしょう。

  2月7日、8日の仕事ぶりを記します。

<2月7日>

  寒い。でもまずまず天気。午前11時~12時、猿除け網の支柱(鋼管メッキ)の購入に農業資材Kスーパーに車を走らせました。5.5mの鋼管メッキのパイプを2つにカット。つまり2.75mを軽自動車に積み込むわけです。ピッタシ。余裕は1cmもありません。4本購入しての帰路、右窓に映った盃山の雪を頂いた姿を撮りました。盃山については、2015,12,9「盃山情趣」<盃山と法連峯です>を参照してください。

  2月7日の午後3時ごろ、1号田のタマネギに防獣網を被せました。2号田の猿除け網の補修は後回し。何といっても、山猿に侵入されてせっかくのタマネギを引き抜かれてはとの思いが先決。午後3時ごろ30分で終了。 

 

☆盃山の雪景色と1号田のタマネギの防獣網(1mx20m)を被せた写真です。これで、一応1,2,3号田のタマネギの防護は完了です。


<2月8日>

  8日は朝から天気。何とか2号田の猿除け網を修復せねばと思うものの、気ばかりで、体が思うように動きません。昨年も杭打つ作業で右肩を痛めました。1か月も治らなかった苦い経験があります。・・(昨年のブログを見てびっくり。やっぱり猿除け網が雪の中に埋没していました。また、補修で杭を打っている姿をブログしています。)
{・・参照:2016、2,7「積雪無残」<積雪無残><残雪風情とわが家の畑>・・2016,2,13「心は二つ身は一つ」<心身一如の世界>・・}

  1年前と全く同じ光景です。丹波篠山は霧と雪の土地柄なんです。霧は黒豆を作りますが、雪は何の利益もありません。毎年雪による被害は甚大です。

  でも、いかに年とったとはいえ、何とか手足を使うことができます。ムリの限界は、百も承知しているんですが、それはそれ、自分の体調と相談しながら、カケヤで杭を打ちます。支柱を立て、網を張ります。

 100才の精神科医、高橋幸枝先生が、「こころのさじ加減」に、次のような言葉を書いておられます。
{・・年齢を重ねて、死生観について問われることが多くなりました。
  ズバリとお答えしたいところなのですが、死についてはよくわかりません。実際にあの世を見てきたわけではないですし、仕方ありませんね。
  とりたてて信仰などがあるわけでもありません。お恥ずかしいのですが、私の死生観は「体調次第でコロコロ変わる」というのが実際のところなのです。
  私は元気なときには「老齢だからいつ死んでもよい」と威勢よく話しています。
  でも、「長生きなんてしなくていい」「死ぬことなんて怖くない」などと言いながら、血圧の薬をきちんと飲んだりしているのですから矛盾していますね。
  やはり、私にも「できるだけ死を遠ざけたい」という気持ちは、無意識下では強くあるようです。
 「私にも生きることへの執着が強くあるのだな」と実感するのは、体調を崩したときです。
  たとえば、風邪や発熱に見舞われたときは「大丈夫かしら」と不安になります。
  歳を重ねるにつれ、そのような時間はおのずと増えるようになりました。そして「生きることとは、不安と共生しているようなものだ」とつくづく思うようにもなりました。
  私は「不安」という気持ちがでてきたとき、それがまるで生き物であるかのように感じます。そして「不安をうまく飼いならし、手なずけていければいいなぁ」ととらえています。・・}

  高橋先生は100才ですよ。これほど当たり前のことを、当たり前にすらすらと書かれており、共感を覚えるのですから不思議です。 

 

☆杭とカケヤを持って歩いています。2号田の猿除け網の状況です。側溝にねかせていた竹が腐り、畑側に折れて落ちていました。その上の残雪も6日にとけたところです。2月8日、10:30写。

 

☆竹を取り出し、網を取り外し、杭を打ち、支柱を立て、再度、網(2mx8m)を張りなおして終了です。8日、午前10時30分~午後4時ごろまで、かかりました。でも、何とか立て直し完了です。

 <大雪情報つづく>

  2月10日、朝、雪景色です。それでも2、3㎝は積っているでしょうか。このくらいの積雪ならば、何とか猿除け網も持ちこたえます。20㎝、30㎝の積雪になると、ちょっとやばい。50㎝では、完全に防鳥網は畑に埋没し、支柱は倒れます。
  予報は11日、12日、西日本沿岸地域は大雪との話。丹波篠山地方も、いたって厳しい。湿雪,乾雪のマークがついています。12日はとりわけ雪だるまの姿は大きくなっています。

  畑仕事は、後片付けがわんさと残っています。でも、これ以上雪が降れば、してもしなくても同じことです。迷いながらも、やっぱり性分ですね。木切れの一つ、二つ抱えて持ち運びました。力仕事はそれくらいです。久しぶりに、体を休めました。

  2月10日、午後5時20分、西空を夕日が茜色に染めていました。どうやら、明日も雪が降りそうな夕焼けです。同時に1号田の猿除け網に凍り付いた雪模様を撮りました。

☆2月10日、午後5時20分の西空です。いかにも雪が降ってきそうな雲行きです。

 

☆西空を撮った同じ場所から、東の1号田を写しました。棒でたたきましたが、網の着雪はすでに氷の塊になって、落ちません。タマネギの防護網に雪が積もっています。これ以上降ると、かなりやばいですね。

 <無茶苦茶の話・つづき>

  私の少年時代、まあ、昭和16年頃でしょうか、漫才といえば、エンタツ・アチャコが、圧倒的な人気を博していました。ラジオで聞くか、映画で見るか、興業舞台で本物を見るかの、3つの方法がありました。とりわけ映画でお目にかかる場面が多かったように思います。ほんまもんの「お笑い芸人」でした。(最近のテレビで観るお笑い番組には、少し嫌気がしています。あまりにもギャクにこり、ギャラを稼ごうとしている様が見え見えなんです。そんなもんで飯が食えるかと言いたいです)

  当時の喜劇俳優にエノケンがいました。また英国では映画俳優・映画監督・コメディアンのチャップリンが一世を風靡していました。4人の年代をネットで調べると、殆ど同世代を生きてきた人でした。・・{エンタツは1896年~1971年、アチャコは1897年~1974年、エノケンは1904年~1970年、チャップリンは1889年~1977年・・}でした。

  太平洋戦争が始まった年は1941年です。昭和16年12月8日です。私は中学1年生でした。彼らが活躍したのは戦時下です。小学校の講堂や、時としてお宮さんの境内で映画が開催されました。風でスクリーンが飛んだことがりました。時として、坊主頭がスクリーンに映っており、それがスクリーンの後ろ、つまり部屋からお坊さん一家が鑑賞されている姿と分かり、ひときり笑い話として持ちきりだった思い出があります。

<何とか無茶苦茶を逃れました>

  2月11日、12日、丹波篠山地方は何とか雪の被害をまぬがれました。「もう無茶苦茶でござりますわ」のセリフを言わなくてすみました。

  全く雪が降らなかったということではなく、11日、12日とも、朝は同じくらいの積雪(5cmぐらい)があり、時々雪が舞いましたが、ともかく積るほどではありません。昼過ぎには道路の雪も溶けました。しかし、同じ兵庫県でも日本海側沿岸地方は、50㎝~70cmの積雪があり、テレビで何度も映像が流れました。

<12日のわが家の畑の様子を記します>

*1号田と2号田です。

  

☆(左)1号田を東からわが家に向けて撮りました。家の北側や畑にはところどころ雪が残っています。猿除け網も何とか無事に立っていますが、老朽化はまぬがれません。12日、10:19写。

☆(右)2号田の様子。11日、12日の雪(5cm~10cm)では、被害は殆どありませんが、30cm以上の積雪では、防鳥網などは畑に埋没し、また支柱などは倒れます。12日、10:21写。 

 *3号田です。

☆3号田です。西側から、わが家に向かって撮りました。トマトハウスの支柱は健在。ですが、トマト支柱(竹)などはみな、ロープが切れて修理が必要。でも、これは暖かくなってから、トマトの苗植え(5月初め)に間に合えばいいのですが、それにしても、冬とはいえ、草がぎっしり敷き詰められています。今年は草引きのあと、マルチを敷く予定。

  やらねばならぬ仕事を横眼で眺めながら、じっと腕組みをして休養しているところです。こういうと、60才や70才ごろの自分の姿と重なってくるようですが、ほんとうは、寄る年波を肌で感じているところです。 

 

 

 

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岸壁の母

2017-02-03 19:16:56 | Weblog

  今回は「元気が一番」より、<嗚呼、後川峠><50代スキーに挑戦>に続き、<岸壁の母>を記します。

<岸壁の母>

  平成11年(1999年)篠山地区の老人大学の講師として招かれたときの出来事である。
  いつものように話が終わり、いよいよ、「岸壁の母」の歌詞を掲示し、おもむろに尺八を取り出して、楽譜の前に歩を運んだ時のことだった。
  一人の老紳士が、つかつかと私のそばにやってきて、掲示した歌詞を指さして、
 「岸壁の母を吹かれるのですね。このセリフを言わせてください」と、神妙なお顔でおっしゃった。はじめ何のことか分からなかったが、どうやら歌詞の中のセリフを言わせてほしいという気持ちを察することができた。
  「どうぞ、どうぞ」・・・二つ返事で、私は尺八を吹いた。一番が終わり、尺八を唇に当てたまま、目で合図を送ると、老紳士は心得たように、うなずいて口ずさんだ。
{・・また引き揚げ船が帰って来たのに、今度もあの子は帰らない。この岸壁で待っている私の姿が見えんのか、港の名前は舞鶴なのに、何故飛んで来てはくれぬのじゃ、帰れないなら大きな声で、お願い、せめて、せめて一言・・}
  老紳士の名調子が会場に響いた。私の尺八の音色も、いつもにもまして、調子が出てきた。
{・・あれから十年、あの子はどうしているじゃろう。雪と風のシベリヤは寒いじゃろう。つらかったじゃろうと命の限り抱きしめて、この肌で温めてやりたい、その日の来るまで死にはせん、いつまでも待っている・・}
  3番の歌詞が終わり、最後のセリフ・・{・・あゝ、風よ、心あらば伝えてよ、愛し子待ちて今日も又、怒涛砕くる岸壁に立つ、母の姿を・・}は、子守唄を連想した私の自作の尺八のリズムを伴奏して幕を引いた。
  会場は大いに盛り上がり、拍手喝采が鳴り響いた。それ以来、講演に出かけて終わりの「岸壁の母」の尺八演奏のセリフのところは、会場の皆さんに応援
してもらうことになった。

  老紳士はNさんといった。驚いたことに、Nさんは「岸壁の母」の主人公「端野新二(ハセノシンジ)」さんと、同じ部隊にいて、昭和20年8月10日頃に、牡丹江の東方に位置する馬頭石に侵攻するソ連の戦車部隊との激しい戦闘中に、8月15日の玉音放送を傍受されたようである。これはNさんの「奇跡に生きて」という手記に綴られている。その手記の終わりの頁を紹介する。

 {・・・演歌で有名な「岸壁の母」の主人公「端野新二」は我が教育隊の候補生で、荒木連隊に属し、馬頭石の激戦で昭和20年8月15日戦死(広報は昭和22年)となっているが、戦後、田川誠一代議士が中国の杭州へ旅された時、話はしていないが、ビッコを引いた端野新二と出会ったと、証言された。後日帰国を促すため、再度杭州へ行ったが、行先不明であった。小生のきくところによればソ連で生存していると言う噂もある。戦陣訓の「生きて捕虜のはづかしめをうくることなかれ」を真実とし捕虜(又は満州の激戦地で負傷、中国人に助けられ保護された者)となった者は、残留孤児として、生存している者もあると思う。母親の「いせ」さんは昭和20年から35年間一人息子の「新二」を舞鶴港で待ち侘びている姿が目に浮かぶが、56年7月1日死去された。ご冥福をお祈りする・・・}

  この記事のように「岸壁の母」のセリフはNさんにとっては、特別な思いが込められていたのである。
  Nさんは大正6年(1917年)生まれであるので、今年(平成11年)で82才におなりである。とても82才とは思えないほど矍鑠として元気である。岸壁の母がとりもつ縁で、それ以来、時々Nさんにお目にかかる機会があり、貴重な体験記録「奇跡に生きて」という冊子を進呈していただいた。その生々しい手記を読んで、感無量、しばし声が出なかった。

{・・・私は昭和20年8月15日を境にして、形勢は逆転、満州の荒野を逃げまどった末、ソ連軍の捕虜となり、シベリヤに抑留されて、祖国の土をふむことができたのは、昭和22年10月28日であった。ナホトカに到着し帰還船で舞鶴港が見えたときの感動は筆舌に尽くせぬものであった。・・・・}と、手記にも記されていた。

  手記、最後の章を転載する。

{・・・11月末、国立篠山病院に就職(厚生事務官として)、以降国立福知山病院、国立姫路病院、国立鯖江病院、国立加古川療養所、国立舞鶴病院と、30年近く国家公務員として勤務、定年により退職したが、暗き時代の青春の終着駅である舞鶴(捕虜から解放され、ソ連のナホトカ港より引き揚げ、祖国日本へ帰着した港)と、現役の終着駅、国立舞鶴病院が奇しくも同地であるとは、何かの因縁か、それとも我に与えられた運命か?さもなくば踏破奇跡の余韻か?不思議を禁じ得ない。・・・}

  Nさんの手記は、いつ読んでも鬼気迫る感じがする。終戦は1945年で、今年は1999年だから、実に戦後54年が経過した今日では、どうも戦争当時の悲惨な状況は、いつの間にか忘れ去られ、風化していくような感じがする。ましてや、生々しい戦争を体験した人々は、年を重ねるごとに少なくなっていく。しかも、近年、地球上では再び血なまぐさい戦争が勃発し始めた。湾岸戦争の時は私たち古稀を過ぎた者たちは、みな一様にドキッとした。戦争の悲惨さを如実に体験しているからだ。でも、歴史は再び繰り返されようとしている。それが人類なのだろうか?日本はいったい何を選択すべきなのだろうか。しかし、戦争が人類を不幸にすることだけは真実であると私は思っている。

  ところで、私がお話の後で吹く尺八の「岸壁の母」は、高齢者に圧倒的な人気を得た。いつも大合唱となった。これは演奏する私にとって百万人の味方を得たような気分になった。嬉しかった。しかも、戦争体験の話は、Nさんだけではなかった。演奏終了後とか、また後の懇親会の席上で、戦争体験の話を涙ながら話をされた方は十数人はくだらない。みな歴戦の勇士なのである。私はいつも頭の下がる思いで、その話を聞いた。

  まさに岸壁の母がとりもつ縁で、Nさんを始め、多くの方から貴重な体験談を聞いて、いつかまたそれらをまとめて、後世に伝えたいと思っている。

 

☆講演の後、尺八で「岸壁の母」をふく一コマ。「岸壁の母」のセリフを朗読するNさん。どちらも、私が古稀(70才)時代の思い出の写真。 

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  以上、私の喜寿(77才)記念に出版した「元気が一番」(A4版・225頁)から、<岸壁の母>を転載しました。爾来、もうはや10年は経ちました。当時82才のNさんも、10年前、92才でお亡くなりになりました。

  私も、今や尺八は人様の前で吹くのはちょっとムリ。息が続きません。まあ、こっそり家で楽しむ程度です。

****以上で、<岸壁の母>は終わり、毎日の記事に戻します。


<大雪被害の様子と鼻談義>


   1月中頃に降った大雪は、日が経つにつれ、被害の実態が明らかになってきました。樋の修理はプロにお任せするとして、猿除け網の補修とタマネギの防護くらいは、わが家でやるのが当たり前です。

  ですが、その当たり前の仕事が、私にとっては大変なんです。一日を分刻みで切り取りながらの作業です。長時間はムリ。10分しては30分休憩。そのような働きぶりで、仕事の量は知れています。なかなか出来ないのです。

  そんなに力を入れていないのですが、ともかく手先を使う仕事が多くて、いつの間にか、親指の付け根あたりに痛みを感じ始めました。腰や膝は、シップを張って、寝転んでコタツのお守りをすれば、事なきを得るんですが、指先は使わないわけにはいきません。何とかPCは打つことが出来ます。でも、長時間はムリ。・・ムリ、ムリの連続です。

  こうなると、ついつい、気が短くなって、すぐ腹をたてます。修養が足りないのです。両手を組み合わせて、胸に当てて、祈るようなしぐさで、ボケっとしています。

  やっと2月4日の朝を迎えました。久しぶりの快晴です。朝日に向かって、深呼吸20回。腹式呼吸。息を鼻からへそまで吸って、唇をとがらせて吐き出す。吸うよりも倍の時間をかける。

  鼻が呼吸にとって、きわめて大切な器官だと知ったのは80才になってからでしょうか?いや、鼻は匂いをかぐ器官だとばかり思っていて、あまり大切に扱っていなかったように思います。 鼻から息を吸うと、空気清浄機の役目をして、よい空気が入り、口から出します。・・でも、毎日の暮らしでは、殆ど口呼吸の感じです。無意識で口から息を吸って口から息を吐き出しています。・・しかし、2月4日、今朝のような朝日に接すると、意識して鼻呼吸を実践します。その、おかげかどうかは判明しませんが、風邪をひかなくなりました。扁桃腺を痛めなくなりました。片頭痛もなくなりました。高齢者で風邪を引くと命取りになります。・・まあ、鼻談義はこのくらいにしておきます。

 
<猿除け網の修理とタマネギの防護>

  2月4日、やっと猿除け網の補修の目鼻がつきました。1号田を除いて、2、3号田の支柱を立て直し(完全ではない)畑に入れるようにしました。雪も殆ど解けました。

  ところが、一つ問題が生じました。山猿が、しきりにタマネギを狙っています。猿除け網の補修は完ぺきではありません。山猿にとっては侵入可能です。どうしても、タマネギに防獣網を被せるほうが先決となりました。
  「先にタマネギを守りましょう」と、家内の言葉です。「今からやりましょう。うちも手伝います」・・妙にやる気満々です。かくして、2号田、3号田のタマネギに防獣網(1mx20m)を被せました。

☆2月1日、午後3時30分ごろ、2号田の猿除け網の折れた支柱を取り換え、雪で埋没していた防鳥網を、あげているところです。何とか、入れるようにしました。ところが山猿も侵入可能です。
  私の後ろのタマネギの畝を、山猿がねらっています。タマネギの苗を引いても、食べるものは何もないのです。にもかかわらず、苗をちょんぎって、捨てるからタチが悪いのです。

  2月4日に防獣網(1mx20m)を被せたわけです。

 

☆(左)2月4日、午前11時~午前11時30分ごろまで、3号田のタマネギに防獣網を被せました。丸支柱は14本使用。網の裾を洗濯バサミで止めました。

☆(右)2月4日、午後4時~午後4時30分ごろまで、2号田のタマネギに防獣網を被せました。周囲の猿除け網の修理が残っています。・・何とかお爺とお婆の二人で、エッチらコッチらと、足を運びながら、仕事完了です。


<雪と節分>

  2月2日、朝起きると、一面の雪景色です。もう雪は要らんと言っても、おかまいなしに、裏山を雪化粧です。でも、2,3㎝ぐらいで、昼までに溶けました。

  2月3日、節分です。豆と巻きずしをいただきました。今年の恵方は北北西だそうです。何故か「北北西に進路を取れ」というヒチコックの映画を思い出しました。みなは「知らん」と言いました。
  豆まき、福は内、鬼は外と家じゅうで節分を味わっていたのは、遠い昔の出来事となっていくようです。

 

☆2月2日、午前9時、サッシ窓を通して見える裏庭の雪景色。昼までに雪は解けました。(溶けるが正しいかも?)

☆2月3日、午後7時、わが輩の夕食。節分の巻きずしと豆。右は茶碗蒸し。上はみそ汁と節分の豆。もちろん完食。豆は五色豆でうまい。奥歯でカリッと噛めるから上等。そりゃ80-24ですからね。

  これまで節分行事をブログに掲載した記事を、わかっている分だけ記します。かなり詳しく載せています。参照してください。バックナンバーで開くと早いです。
{・・参照:2011,2,4 「節分と立春」・・2012,2,3「この冬は小鳥が少ない」<恒例のわが家の節分行事>・・2013,2,4「如月です」<福は内、猿も内、鬼は外>・・2015,1,30「真冬に耐える」<節分の星祭リ><わが家の節分>・・2016,2,3「節分・立春を過ぎる」<わが家の節分,いや、わが輩の節分>・・}


<手づくりの黒ニンニク>

  2月5日、久しぶりにKさんが来訪。いつも畑仕事を手伝ってもらっている方です。お互いに有機農業で野菜づくりを実践しています。もう少し詳しく説明すると、かれこれ10年ほど前に、私の「楽しい野菜づくり」の話しを聞いてから、今日まで、微生物(EM・土着菌)を利用して無農薬の農業を展開しているわけです。

  Kさんの来訪の今ひとつの目的は、猿除け網や畑の様子を確認することだったのです。さて、その時持参してくれたのが、Kさん手づくりの「黒ニンニク」でした。焼きニンニクよりはるかに食べやすく、匂いもしない、栄養価満点のしなものです。家内の愛用の一つでもあります。(かって、私も実践したことがありますが、ニンニク卵黄と同様、その臭いと手間にさじを投げました)

  彼の「黒ニンニク」は、店屋で見かけるモノよりはるかに上等です。彼はごく親しい人の注文で、炊飯器で日にちをかけて作っています。感謝!

<小雨とみぞれと休養と>

  2月6日、丹波篠山地方の天気予報は、曇り時々小雨、夕方みぞれとのこと。ピンポイントの天気予報はピッタリ。午前中は曇り、午後小雨、夕方は雨にミゾレがまじって落ちてきました。

  予定のスケジュールは午前中、猿除け網の補修の杭、洗濯バサミの購入。午後は時代劇テレビ鑑賞、午後2時ごろから2号田の猿除け網の補修・・まあ、こんな具合に一日を描いていました。(指先が痛いのにムリだぞと思いながら・・)

  午前中、スーパーで、ぱったりとMさんに出会いました。MさんもKさん同様に、わが野菜づくりの講習会に参加して、それ以来、無農薬・自給菜園の仲間の一人です。KさんもMさんもT中学校の卒業生です。特にMさんは生徒の一人でした。つまり教え子というわけです。そんなこんなで特に親しいわけです。

  出会うと、決まって、お茶を飲みながら、野菜づくりなどの話をします。気兼ねのない話が続き、指先や膝の痛さも忘れ、至福のひと時になります。

  午後、昼寝をしながら、時代劇テレビ鑑賞。午後2時ごろ起きて、杭を運び、猿除け網の補修を始めると、待っていたように雨が降り出しました。それでも合羽を着て、やろうとすると、そばから、家内が「アカン、アカン、絶対ダメ。こんな日にやったら、風邪をひくだけや」と、必死の忠告。
  従って、防獣網(1mx20m)の整理に変更しましたが、みぞれ模様となり、すぐ中止して、家に入ってパソコンと向き合いました。やっぱり休養が大切ですね。

 

 

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