オ気楽ナ・・・毎日

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主に、山口県内。たいして珍しいものはないかも・・・

若山城址

2013-12-15 23:48:41 | 山口県の史跡関係

国道2号線を防府方面から周南市中心部に向かっていますと

このような標識が目につきます。

また、ずいぶん看板を立てたものですが・・・。
ここから曲がると、室町時代の守護大名、大内氏の重臣である、陶氏の居城『富田若山城』址に行けるらしい。
ま、居城といっても、普段住んでいた屋敷は少し離れていて、今の永源山近くにあったらしいですが・・・。

ちなみに、国道の反対側の車線からは曲がれませんのでご注意を。

何はともあれ、城址まで行ってみましょう。

細いけれどもしっかりと舗装された道。
道沿いには、黒塗りの板に白い文字で俳句なんかが書かれたものが、やたらぶら下げてあったな。
桜の木がたくさんあったので、春は花見に訪れる人も多いんじゃないでしょうか。

車で2kmぐらい上っていきましたら、展望の開けた広場のような場所に到着しました。

城の見取り図で確認すると、ここは城の「三の丸」であったらしい。

なかなかの景色ですが、この日はあいにくの天気で、少し霞んじゃってるな。

見取り図の看板があった場所からは、山頂の「本丸」へと続く遊歩道が伸びています。

よく整備された道ですが、だんだん勾配がきつくなり

息絶え絶えになりつつ、石の鳥居をくぐった先が「本丸」跡。

意外に狭く、小ぢんまりとしたものでした。
普通の家2~3軒ぶんぐらいの広さかな?
中央部分に、小さな祠がありました。

さきほどの「三の丸」よりも、さらに展望はよろしいですな。

ここで、陶氏と若山城について簡単に説明を。

陶氏は、大内氏の一族で、代々周防守護代職をまかされた重臣でした。
よく知られているのが、主君である「大内義隆」を謀反(大寧寺の変)によって自害させた「陶晴賢」。
その後、「義隆」の養子である「大内晴英」を当主として擁立し、大内氏の実権を握りますが、「毛利元就」との戦いに敗れて滅亡します。

主君に謀反を働いたということで、悪人とイメージしてしまいがちですが・・・。
それを言ったら、戦国期の大名のほとんどは、主君を滅ぼして成りあがっているわけで、「陶晴賢」だけが特別なわけではりません。
領内の政(まつりごと)をおろそかにして学芸や茶会に没頭する主君を追いだすことは、ある意味では正義だったわけです。
実は「毛利元就」もこの謀反には手を貸していたりするのですね。

「若山城」は、石見国の吉見氏との戦いに備えて、「晴賢」の2代前の当主「陶弘護」によって築城されたと推測されているとのこと。
その後「晴賢」が大規模な改修を加えて、この地で謀反の挙兵を行います。
「晴賢」が厳島の戦いで毛利軍に敗れて自害した後、一族が守っていた「若山城」も攻め落とされて、廃城となりました。

北側斜面には「畝状空掘群(竪堀)」なるものがあるそうなので、ちょっと北側に降りてみます。

説明を読んで、理屈がわかるような・・・わからないような・・・?

たぶん、この溝がそうなんだろうな・・・たぶん。


再び頂上に戻って、うろうろしてたら

こんな碑を見つけました。
「徳山要港境域標」と書いてあります。

裏には、「海軍省」の文字。
戦前、徳山港が軍港として使われていた頃の標識らしい。
ひょっとして、この場所に監視所のようなものがあったのかもしれませんね。


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2 コメント

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Unknown (fuji)
2013-12-18 05:54:34
毛利元就の小説を読んで、近くを通る度にずっと気になって
いる若山城跡、楽しく拝見しました。目の前は度々通過
しますが、なかなか立ち寄れないでおります。

本丸跡からの眺望、良さそうですね。
こんばんわ (じんじん)
2013-12-19 23:12:20
せっかくコメントいただいたのに、気づくのが遅くなってごめんなさいです。

たしかに、この若山城址。
案内の看板も目立つように立ててあるのに、なかなか時間作って行ってみようという気にまではならないのですよねぇ。
ワタシも、何年も気になっていたのですが、ようやく訪問を果たした次第です。
と、いっても、そんなに時間がなくて、駆け足で回っただけですが・・・・。

「本丸跡」の先には、「西の丸跡」や「屋敷跡」なるものも存在しているようです
石垣の跡などもあるみたいなので、そちらまで足を延ばすと、また違った面が見られるのかもしれません。

あと、桜の木がたくさん植えてありますから、春には花見も兼ねて行ってみるのも、いいかもしれませんね。

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