飛んでイスタンブーガルー

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キアロスタミのサブジアン、ペドロ・コスタのヴェントゥーラ

2008-06-14 01:26:45 | 映画にカンパーイ
■特集上映 映画監督アッバス・キアロスタミ@ユーロスペースより
 『友だちのうちはどこ?』
 『そして人生はつづく』
 『クローズアップ』
 『10話』
 『パンと裏通り』
 『トラベラー』

『友だちのうちはどこ?』を初めて観たのは、高校生の頃だっただろうか、1度目の大学生の頃だっただろうか。今回、映画のパンフレットを購入した後、昔買ったらしい同じものを本棚から発見したので、少なくとも、大学生の頃には観ているような気がする。そして、最後にキアロスタミを劇場で観たのは、確か『桜桃の味』だった。するってえと、キアロスタミに劇場で会うのは、ほとんど10年ぶりぐらいということになる。会いたかったよ、キアロスタミ。再会して、感動のあまり涙したよ、愛おしきアッバス。



おそらくダッシュボードの上に2台設置しただけだろうデジタルビデオカメラから撮られた映像のみから作られた『10話』(初見)は、映画を構成するショットの種類を数えれば片手で十分なほど単純なつくりなのに、しかも、映画に登場する舞台は車の中の運転席と助手席のみという極めて限定的な空間であるのに、そこで撮られた女性たちと子どもの人生の表情のなんと豊かなことか!映画のある部分の選択肢を極端に限定しても(キアロスタミの映画においては、車とは常にそこから何かが始まる移動装置だったが、無駄なものを排したら始原の場所ともいうべき車だけが残るのだとすれば、『10話』の舞台が車であることにもなるほど首肯できる)、あんなに豊かな映画ができるなんて、凡人には到底考えもつかない。考えついてもやらないし、できない。しかし、単純な撮り方であったとしても、映画の豊かさを引き出したのは、紛れもなくキアロスタミなのだ。



そして、既に何度か観た、そして愛した『友だちのうちはどこ?』とその兄弟である『そして人生はつづく』は、やはり2作あわせて観て初めて、キアロスタミの底意地の悪さと映画作家としての優れた知性を甚く味わうことができる。『友だちのうちはどこ?』において間違えて持って帰ってしまったノートを返しに友だちのうちを探しに行く少年が辿ったのと相似形の行程を、『そして人生はつづく』では数年後に地震にあったその村まで主人公の少年の安否を確かめに行く映画監督とその息子が再び辿る。おとなにとっても子どもにとっても、人探しが大変なのは変わらない。しかし、所詮よそ者の野次馬に過ぎない映画監督は、遠慮ない質問を被災者に投げかけ、息子のわがままな振る舞いには見て見ぬふり(村では、あれだけ年長者が子どもを厳しくしつけていたのに!)。映画を撮る側と撮られる側とは、当たり前だが同じではないのだ。そう、『そして人生はつづく』は、『友だちのうちはどこ?』と重ねてこれら2作の間に横たわるズレをしかと見ることによって、映画の映画たる何ものかが炙り出されるかのようだ。また、映画の出演者である老人が、映画スタッフゥーに水を入れるお椀を要求し、それに答えるスタッフゥーの声までマイクに拾うことにより、映画はつくられたものでしかないが、とはいえ完全なつくりものではないほんとうを豊かに蓄えたものであることを、遠慮がちに、しかしこれ見よがしに示す。ああ、映画を撮る側と撮られる側とが交わってしまったよ。ふたつのものは分けられずに、つながっているのだ。このつながっている感じは、『そして人生はつづく』のラストで画面の外までつづく坂道のあのつながっている感じと同じかもしれない。

キアロスタミの人を見る目は忍耐強く優しいが、その忍耐強さとは意地悪の裏返しでもある。キアロスタミが映画を扱う手つきは、驚くほど大胆でありながら、やわらかい襞を確かめ撫でるような繊細さも併せ持つ。キアロスタミ(に限らないが)の映画には、つくられたこととほんとうのことが互いを包み込みあいながら共存している。キアロスタミの映画は、撮られた人々や風景の中へと沈みこみながら、一方で撮られていない外側にも向かう。長編処女作である『トラベラー』においても既に、テヘランにサッカーの試合を見に行くための金策としてサッカー好きの少年が壊れたカメラで子どもたちを撮影(するふりを)して小銭をとるというシーンで、撮影(するふりを)する少年と撮影される子どもたちとが撮られている(カメラに撮影される子どもたちの表情は、少年のカメラに向けられたものか、キアロスタミのカメラに向けられたものか、判然としない。ところで、撮影する「ふり」というのも、なんともキアロスタミ的だ)。キアロスタミは、あくまで優れた知性をもって、自己言及的な映画を撮り、映画によって自己言及する。
キアロスタミの映画が豊かだと感じられるのは、あれかこれかの対立する両極の価値の存在が示しつつその間に揺らぐことで、そこに確かにそれとしてあるもの(それはほんとうのものだ)を「分ける」(二元化と言ってもよいかもしれない)ということは虚構でありつくりものでしかないことを暴く(そこでは、あたかも互いを追いかけるうちに溶けてバターになってしまったトラのように、両価性は溶けてしまう)と同時に、優れた自己言及的手法によって撮られたものだけでなく撮る者をも括弧に入れてしまうからだろう。



そのキアロスタミの真骨頂が『クローズアップ』だろう。今回初めて観たが、これは最高に素晴らしい作品だ。翌日の朝にはテストがあったにもかかわらず、映画への愛がカウパー氏腺液の如く溢れ出して、テスト勉強が手につかなかったよ。
映画好きの男サブジアンがバスで隣り合わせた老婦人に映画監督マフマルバフに間違われたのがきっかけでその一家に映画監督として出入りするようになり、映画を作るということにもなり、その家族の息子を主役にしてリハーサルなんかまでしたが、結局嘘がバレて詐欺罪で告訴された、という実話にほぼ完全に基づき、しかも実際の人物に演じさせた再現映像とドキュメンタリー映像との組み合わせによってつくられた本作では、ドキュメンタリー部分の法廷でキアロスタミや被害者からサブジアンに対して問われる「なぜ映画監督の役を演じたのか」「今は反省している人間の役を演じているだけではないのか」といった「私はいったい何者なのか」という自己言及的問いと、ドキュメンタリーと再現映像、うそとまことといった、ひっくりかえされて溶け合い用をなさなくなる両価性とが、奇跡的なレベルで結晶している。ドキュメンタリー部分らしいラストシーンで、謝罪のためにマフマルバフと連れだって一家を訪れたサブジアンが、玄関のドアの前で自らの名を名乗るも応対に出た婦人にわかってもらえなかったからだろう、思わず決して名乗ってはならない「マフマルバフ」と名乗ってしまう(隣に本物のマフマルバフがいるのに!)爆笑シーンは、自己言及を巡る戦いと両価性を巡る戦いが共倒れして自分でも自分が誰なのだかわからなくなった奇跡的瞬間をとらえたものだった。
まさにミラクルとしか言いようがない。そのような出来事があるとも知らずに、しかし潜在的に待っていたキアロスタミのもとに、映画の材料としてこの出来事が転がり込んできた奇跡。キアロスタミに、サブジアンに、映画に、幸多かれ。


<もう終わってしまったけど、公式ホームページ>
http://www.eurospace.co.jp/detail.html?no=147

『クローズアップ』はこちら↓
http://www.eurospace.co.jp/d_detail.html?no=12

ちなみに、
「魔術師の手招きーーアッバス・キアロスタミ『10話』」(蓮實重彦)
http://www.mube.jp/pages/critique_18.html


■ペドロ・コスタ『コロッサル・ユース』

したたかに寝てしまった。ペドロ・コスタ、長尺、寝不足、(授業を受けた後にじわじわ増す)疲労、(老いからくるのだろうか)易疲労感、(30年以上にわたって蓄積してなおも体を満たす)全身倦怠感、などなどによって、観る前から予想された上映中の居眠り。たぶん、気を失ったのは10分ぐらいだっただろうか、寝始めたときにヴァンダの部屋にいたヴェントゥーラは、起きてもまだヴァンダの部屋にいたかもしれない(彼らには話すことがたくさんあるのだ)。少なくとも、寝始めたときにイメージフォーラムの地下の劇場にいた私は、起きてもまだイメージフォーラムの地下の劇場にいた。その劇場のシートで遠のく意識の外から、何度も耳に囁きかける「愛しき妻へ 今度会えれば30年は幸せに暮らせるだろう。お前のそばにいれば力も湧いてくる。土産は10万本のタバコと・・・」、未だ出されることのないヴェントゥーラのラブレター。繰り返されたあの詩のようなことばは、私に向けられたものだったのだろうか。いや、そんなはずはない。が、容易に催眠される頭には、ヴェントゥーラの愛の文言は呪文のように木霊する。



冒頭、暗闇ににょきと生えたようなアパートの窓から投げ落とされた家具と地面に叩きつけられた時の衝撃音、そしてそれに続く、やはり暗闇からにょきと生えたようでいてただならぬ気配を漂わせたおばちゃんが吐く愛想をつかした言葉。そして、目に眩しい白い壁の建物に囲まれてヴァンダの名を呼ぶ途方に暮れたヴェントゥーラ。その後は、グラスゴウ・コウマ・スケエルにして何点とスコアされるのだろうかわからない意識消失とも相俟って、何がどうなっているのかわからなくなった。ひとびとの会話を理解する以前に、字幕を読むのが難しい(彼らはいったい何を話していたのだろうか?そもそもヴェントゥーラらに限らず、同級生であっても近所の人であっても、他の人が何を話しているのかなんて私にはいつもわからないのだ)。あるひとの顔を別のシーンでもそのひとの顔だと認めるのが難しい。ヴェントゥーラはいつも途方に暮れている。ヴェントゥーラと今しゃべっているそのひとは誰だ?そのヴェントゥーラはいつ時代のヴェントゥーラなのか?
切断されたシーンの数々を矛盾なくひとまとまりのおはなしとして理解することもできないまま、それでもやはり腰を抜かしそうな信じ難いほど研ぎ澄まされたショット、部屋の中の話し声と部屋の外から聞こえてくる子供たちの遊ぶ声やら物音とが形作るサウンドスケープ(あれは、まさに音が空間を風景を作っているとしか言いようのないものだ)、ひとびとが立つ地面とひとびとの生活する場を作る壁(ときにドア)とによって囲まれた空間、そこで歩き、座り、話し、生きるひとびと、それらの鮮烈なイメージだけがただ眼と耳に焼きつく。
他人の生活がどんなものなのかは、知らないし、知ったとしてもおもしろいとは限らない。しかし、他人が、人がそこにいる、人が生活している場所がある、ということは、それだけで何にも増して圧倒的だ。それにしても、他人であるはずのヴェントゥーラが、何故、たまさか映画を観にきただけの、それどころかこともあろうに居眠りによって観ることを一時的にサボタージュした不届き千万な私に向って、愛の言葉を何度も囁くのだろうか。ヴェントゥーラの顔と佇まいと声と言葉は、もう忘れられなくなってしまったよ。はたしてヴェントゥーラは私にとって何者なのだろうか?


<公式ホームページ>
http://www.cinematrix.jp/colossalyouth/
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