飛んでイスタンブーガルー

旧・大人は構ってくれない→空気吸うだけ(仮)→
奥義!悶絶!!どんでん返し返し!!!→(今)

『インビクタス 負けざる者たち』

2010-02-07 23:37:48 | 映画にカンパーイ


なんだろう、この高揚感。ひたすら興奮し、ひたすらおもしろい。

流れるように映画は進み、時間が経つのも忘れて何も考えずにただ身を委ねればいい。イーストウッドの近年の諸作のような傑作然とした佇まいはしていないが、紛れもない傑作。イーストウッドはきっと映画の秘密を知っているから、何を撮っても圧倒的な傑作になってしまうのだろうけど、こんなスケールのでかい映画を苦もなく撮れる人が他にいるだろうか。

老人たちがおれたちはまだまだおまえらには負けないぜと若造を蹴散らす『スペース・カウボーイ』で幕を開けた2000年代のイーストウッドは、その後、暗く重く深い感動をもたらす傑作を次々にものしてきたが、2009年、老人は若者に言葉だけを与え、あとはただ見守るだけの、詩と音楽のもつ力とスポーツの肉体的な興奮、そしてひとりひとり顔をもったモブの圧倒的な熱狂がひとつになった、超最高に悦ばしい映画を作ってしまった。

イーストウッドの2010年代がとても楽しみだ(将来が楽しみな79歳ってイーストウッドを置いて他にいないでしょ!)。
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マタギ問題など

2010-01-20 19:55:52 | 理解されなかったことばの小辞典
やばい、またマタギのこと、考えてる!

このままでは頭の中をマタギに占拠されて廃人になってしまう!

去年の12月の後半ぐらいからだろうか、どうもヴァイタリティが低下しているというか、やらなきゃいけないのにやる気が出ないというか、疲れやすくてダルい感じが続いて、何も手につかないのだ。その傾向は年が変わってますます強くなっていたのだが、疲れたこころとからだにマタギの妄念が取り憑いたら、もうわたしはいけなくなっちゃうんじゃないか!そもそもマタギの妄念に取り憑かれたから、こんなんになっちゃったんじゃないか?

そういう危機感を感じたわたしは、現在のクリティカルな状況を脱するには、まず現状の自己分析をして問題を把握する必要があるだろう、そして、問題を解決するまでには至らないかもしれないが、「わたしはこれこれのことが問題だと考えている」と文字に書き起こしてみれば、少しはきもちが落ち着くのではないか、何かについて文章にして書いてみると、当初感じたり考えたりしていたことと微妙に違う形に表現されてしまうことは往々にしてあるものの、文章という輪郭を与えることでひと安心できるということもあるだろう、そう思って、まず手始めにマタギ問題に取り組むことにした。

まじめに問題に取り組む必要があるので、文体は「ですます調」ではなく、「だである調」の方が好ましいと考え、「だである調」で書くことにする。完全に自分のためだけに、セラピーとして書こう。


(1)マタギ問題

気がつくと、今日もマタギのことを考えていた。

去年の暮れ、オーチャードホールでの菊地成孔ダブセクステットのコンサートに行った。途中からUAさんがヴォーカルで加わった。最高の演奏、最高の歌だった。

昔、J-WAVEの深夜に成さんがやっていたラジオ番組を好んでいたわたしは、成さんのおしゃべりが好きなので、わたしにとっては成さんのMCもコンサートの楽しみのひとつなのだけれども、もちろんこの日も成さんのMCはあった。

例年、成さんのバンドによるコンサートホールでのライブでは、男女共にドレスアップすることになっており、幕間に供されるワインとあわせて、オーディエンスが一方的に音楽だけを楽しむのではなく、きれいな格好をして酒に酔いながら音楽が鳴る空間をオーディエンスとプレーヤーが共に楽しむというのが、成さんのコンサートに対するよい臨み方であった。だから、わたしはもちろんきれいな格好をしていたし、この年はドレスアップ率が低かった気がするものの、ふさふさのファーなどを襟に巻いてきれいにドレスアップしている女性も多かった。

しかし、この日は雨であった。成さんは晴れ男であるにもかかわらず、UAさんが雨女である故の雨のようであった。以上のような状況設定において、MCで成さんが「ファーをまとってきた女性の方々は、雨に濡れてマタギのようになってしまいますね」という旨の発言をされたのだ。

その日から、わたしの頭にはマタギというキーワードがブックマーク登録され、しばしばマタギのことを考え、マタギについて言及するようになった。

そしてまた別のある日、もう完全に別件なのだけれども、マタギを祖父にもつ女性がバイアスロンのオリンピック代表に選ばれたというニュースを目にした。その選手は鈴木芙由子選手という20歳の自衛隊所属の女性の方だった。バイアスロンというのは、クロスカントリースキーとライフル射撃を組み合わせた2種競技で、まさに冬山で狩猟するマタギの血を引く者にとってはうってつけの競技と言えるだろう。マタギの孫がバイアスロン。このニュースに触れて、わたしのマタギ熱は更に高まることになった。

冬は真冬になりつつあった。外は寒い。寒いとあったかい恰好をする人が多くなる。街に出ると、ファーのついた上着を着ている人を見る。そのたびに、あ、マタギだ、と思うようになった。寒くなると、ファーのついた上着を着ている人は増えるので、あ、マタギだ、と思う機会は日に日に増えていった。成人式の日など、テレビのニュースで成人式の模様が報道されると、もう映像の中にはマタギだらけで、ちょっとしたパニックになるほどだった。かくのごとく、冬という季節がら、視覚刺激によって内なるマタギ問題が惹起されるというカスケードが頻繁に繰り返されるのだった。

そして、今では2日に1度はマタギのことを考えるようになっている。一度マタギのことを考え始めるとマタギから離れることが難しく、しかし考えてもしようがないから、インターネットでマタギについて調べたりする。そして、今のところ、次のようなことがわかった。

・マタギについてインターネットで調べても、詳しい情報は得られない。
・その中で、『森の狩人・マタギ』というホームページにわりとまとまった情報が載っている。
http://www3.ocn.ne.jp/~ohana/
・マタギに関する書籍は幾つか出ており、比較的安価に入手できる。
・マタギに関しては暗黙知が多いらしく、その全貌を外部の人間が把握するのは難しそうだ。
・マタギとは、単なるハンターではなく、森や動植物といった自然の中で自然と共に生きるひとつの人間のあり方である。
・マタギはマタギ言葉を話すが、それがいかなる言葉かは秘されている。
・環境保護団体の運動により、マタギの生きる白神山地での狩猟が禁止された(クジラ、イルカのことも含めて、環境保護団体は文化破壊団体である)。
http://travel-lab.info/tech/pblog/article.php?id=60
https://my-mai.mainichi.co.jp/mymai/modules/manafuji21/details.php?blog_id=1

これらのことがわかっても、逆にわからないことが増えるばかりで、わたしの苛立ちは募る一方だった。しかし、現時点では心脳問題といっしょでこれ以上の問題解決は望むべくもないので、上記のようなステータスを文字に起こして書いてみたということで、いったんは問題を横に置いてみることにしよう。いわゆるプロブレム・リストというやつである。


(2)オザワ問題

しかし、マタギ問題がいったん棚上げになって、ああ、すっきりした、というわけにはいかない。そもそもわたしの頭の中を占拠しているのはマタギ問題だけではなかった。マタギ問題は2日に1度浮上する程度だったが、今年に入って毎日のようにわたしの頭を悩ませるのは、むしろオザワ問題だった。

オザワ問題と書いた。しかし、本当はオザワ問題、すなわち小沢一郎問題ではなく、検察問題とマスゴミ問題だ。このところの検察とマスゴミを見ていると、ひょっとして戦時中の軍部と新聞はこんなんだったんじゃないか、と思う。政治によるブレーキが効かない検察は暴走する旧日本軍のように見えるし、小沢一郎下ろし・民主党下ろしに躍起になって検察の暴挙というか愚挙を指摘しないマスゴミは、戦争万歳で軍部ヨイショの戦時中の新聞と同じように見える。野党もマスゴミも選挙のことしか考えてないし、彼らがほんとうに闘うべきは与党ではなくて検察なのに。
そういうことを考えながら、こんなの↓を見たりして、僅かに溜飲を下げたりしていた。
http://www.videonews.com/interviews/001999/001329.php
しかしわたしがどうこうできる問題ではないので、このオザワ問題も横に置いておこう、そう思った矢先のことだった。

第2のオザワ問題が浮上したのだ。
http://hihumiyo.net/

やっと第1のオザワ問題がが落ち着いたのに、別のオザワ問題が火を噴いた。90年代が生んだ日本を代表するソウルシンガー、小沢健二。かのオザケンが"LIFE"期のナンバーを中心に、当時のメンバーでバンドを編成してライブをするのだ。こうなると胸が躍ってしまう。

わたしは踊りっぱなしの胸を一通り躍らせて疲れさせて休憩すべく、オザケンの旧譜を立て続けにプレイした。"LIFE"と"刹那"は、そのハッピー・ヴァイブレーションに乗れるか不安だったのでとりあえずお預けにして、"毎日の環境学"から"球体の奏でる音楽"、"Eclectic"、そして"犬は吠えるがキャラバンは進む"へ。"天使たちのシーン"は、歌詞カードを見ながら13分間歌った。そして、少しだけ、落ち着いた。第2のオザワ問題も、一旦横に置いておこう。


(3)コタツ問題

しかし、わたしの抱えている問題は、マタギ問題やオザワ問題といった、思考に関わる、いわばソフトウェアの問題だけなのだろうか。そうしたソフトウェアが起動しやすい環境、すなわちハードウェアの問題があるのではなかろうか。

そう考えて思い至ったのが、わたしの家の環境だった。わたしは家に帰ると、手を洗ってうがいをしたら、まずソファーにすわる。ソファーから2.5mほど離れた場所にはテレビが置いてあり、1m離れた場所にはコンポが置いてあり、30cm離れた場所にはPCが置いてあり、周囲にぐるりと教科書・小説など各種の書籍が置いてあり、足元にはヒーターがふたつ置いてある。わたしはいったんソファーにすわる、というかごろり横になってくつろぐと、その場所から離れなくていいのだ。ずっとくつろげる。すべてがソファーの上で解決する。タオルケットを横になった自分とふたつのヒーターの上にかけると、とてもあったかい。ダラダラしてしまう。そして、その日が終わってしまう。

わたしは、これってアレだ、と思い当たった。『のだめカンタービレ』で、のだめが千秋の家にコタツを持ちこんだら、のだめたちだけでなくあのストイックな千秋までも怠惰な生活に陥った、というやつだ。いくら自分に厳しく、自分を律することができる人間でも、コタツの誘惑には負けてしまう。

千秋はこのことに気がついて、コタツを粗大ゴミに出すという解決を図った。私もこのことに気がついた。だから、ソファーから離れよう。今、こうして書いている文章が書き終わったら、ソファーから離れよう。そうだ今すぐ離れよう。
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エリック・ロメール死去

2010-01-12 21:44:07 | 映画にカンパーイ
好きな外国の映画監督を5人挙げよと言われたらば必ずその中に入れるだろう、エリック・ロメール。

映画の最も豊饒な果実を心ゆくまで堪能させてくれる、エリック・ロメール。

人生のありふれたしかし真実の一瞬を映画という贅沢な結晶へと変える魔法を知っていた、エリック・ロメール。

ぎりぎりエロに陥る寸前の官能をあれほど優雅に、そしてある種のサスペンスとして描いた映画作家が他にいただろうか?いませんよ。いないでしょ。

私はどのロメール作品もほぼ等しく愛しておりますが、『我が至上の愛 アストレとセラドン』という、陽光においても肌の露出度においても男女の抱擁においても最も眩しく、ゴージャスなまでに「あられもない」傑作を最後の作品として見ることができたなんて、ファン冥利に尽きます。二人の女が抱擁し合っていると、次第に片方の女の内に眠っていた男性がむくむく起き上がり男に変身、そして男女の抱擁へと変わってしまう、そんな映画でなければ見ることのできない魔術的な瞬間が、他の映画にありましたか?ありませんよ。ないでしょ。

というわけで、2010年1月12日より自宅にてエリック・ロメール追悼上映会を行います。
私がご冥福を祈らなくてもロメールの死後の幸福は間違いなさそうですが、やはりご冥福を祈りましょう。
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『(500)日のサマー』

2010-01-10 22:00:45 | 映画にカンパーイ
もし超かわいい女子から「私もThe Smiths好き」と声をかけられたら(しかもヘッドフォンで"There Is A Light That Never Goes Out"を聴いているときに!)、その女子は自分に気がある、それどころか彼女は自分の運命の人だと思うだろう人、挙手願います。

The Smithsを愛する30歳代の男子100人を対象にそういう調査をしたとしたら、たぶん90人ぐらいは挙手するでしょう。そしてThe Smithsのところを、PixiesとかBelle&SebastianとかThe Clashとかに置き換えたとしても、せいぜい20人ぐらい挙手する程度なもんで、これほど高い確率にはならないでしょう。「私もThe Smiths好き」っちゅうのは、それぐらいの威力をもつマジック・センテンスなんです。

ロッキング・オン的なアレですが、The Smithsというバンドは、「ボクとキミVS世界(=ボクとキミ以外のすべて)」という構図で、キミとの連帯、というより「ボク+キミ=ボクたち」という存在のかたまりを2つの個人に分かつことがもはや不可能になってしまうぐらいのキミとの一体化と、そして世界との対決・世界の中での孤立を歌いました。"Hand In Glove"というデビュー曲で、手に手をとって世界に宣戦布告をしたモリッシーとジョニー・マー。おそらく多くのThe Smithsのファンは、その二人の手に自分の手を重ね、「ボクたちVS世界」における「ボクたち」の中に自らも連なったはずです。かくいう私もその一人でした。

PixiesでもBelle&SebastianでもThe Clashでもなく、なぜThe Smithsだけがマジックをもたらすのか。それはこの「ボクたち」に秘密があります。作中に出てきたグリーティング・カードに"I Love US"というメッセージがありましたが、まさにその"US"です。主人公トムが"US"というとき、それはThe Smithsにおける「ボクたち」と同じ意味であって、そこではボクとキミとが不可分にして一体化した存在になっています。是即ち、他者性の欠如とイコールです。The Smithsのファン(てゆうか例えば在りし日の私)は、自分以外の他人に他者性を見出すことに困難を覚えるからこそ「キミ」と一体化し、たくさんいる他人を「ボクたち以外の世界」なんて無茶なひと括り・ひと絡げしてしまうのです。The Smithsのファンであり、サマーに恋するトムも、上に同じ。彼がサマーを運命の人だと感じたそのとき、彼には他者としてのサマーは存在せず、単にボクの延長上のボクたちであるところのサマーに恋した、即ち自分に恋してるのと同じだったのです。

映画の最終盤、サマーと出会ってから500日目、いくつもの建築物が見えるお気に入りの場所で再会するトムとサマー。
そこでトムは、自分が運命だと思っていたサマーとの出会いが、サマーにとってはそうではなかったことを知ります。自分がそう思っていた、そして記憶していた出来事や日々が、彼女にとってはそうではなかった。おそらくこのとき初めて、トムはサマーに他者性を見出したはずです。逆にいえば、この他者性への気づきに至るまでは、トムにはサマーが見えてなかった、自分の鏡像しか見えない盲目だった、とも言えます。こうしてThe Smithsからの卒業、自己愛からの卒業。恋して成長してよかったね、という話。



という長い前置きの後でアレなんですが、私はこの映画、ズーイー・デシャネルちゃん目当てで見に行ったのです。『イエスマン』の彼女、全盛期のメグ・ライアンに匹敵するぐらいに超かわいくて。しかし、サマーをやってるズーイー・デシャネルちゃんは、あんまりかわいくなかったように感じました。しかも、依然として不思議ちゃん系ではあるのだけど、「私もThe Smiths好き」とか言えば、言われた男子が勘違いするだろうことも織り込み済みでそうゆうこと言ってる感がありましたし。その計算が見えるので、天然不思議ちゃんのかわいさを減じていたのだろうか。何故なんだろう?

ここで私は、菊地成孔による『女は女である』のアンナ・カリーナはブサイクである、そしてその理由はゴダールがアンナたんにベタ惚れし過ぎていた故に逆にまともに女優アンナ・カリーナを見ることができなかった・撮れなかったという説を即座に想起しました。ひょっとしてアレと同じなんじゃないかと。トムはサマーにベタ惚れ、監督のマーク・ウェブという人もズーイーちゃんにベタ惚れ。だから盲になって女優を綺麗に撮れなかった。女優が写ったカットにも、他者性の欠如、自己愛が満ち満ちていたんじゃないか、という。そうかもね。
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出ました大吉

2010-01-05 20:59:03 | 理解されなかったことばの小辞典
ベッドでの朝のまどろみの中、私の人生初の直腸診は夢の中でのできごとでした。

それは基本に忠実な、そして濃密な直腸診でした。

まず診察のために肛門の中に指を入れさせていただく旨説明し、脱衣をお願い&お手伝いし、肛門周囲の視診と触診(圧痛・熱感の有無も確かめたよ!)、そしてリラックス・プリーズ、まずはDIP関節まで挿入してぐるり一回転、つづいてPIP関節ぐらいまでディープリー挿入してぐるり一回転、前立腺もちゃんと触って、指に付着した便の性状もチェック。

かくのごとく手順は基本に忠実でしたが、残念なことに私に与えられたのは、全ての指と手掌・手背をしっかり覆う(のはあたりまえなんだけども)感染防御用手袋ではなく、辛うじてひとさし指のPIP関節すなわち第2関節までが隠れるかどうかという程度の、寸足らずの指サックだったのです!
であるからして、いちばん奥深くまで指を挿入したとき、私の指の第2関節付近は被検者の肛門にダイレクト・タッチ&フィットしていました。しくじった!

というような次第で直腸診を終了した後、おもむろに覚醒・起床した私は、手も洗わずに朝食のパンとバナナを食べたのでした。

ウンがついたよ、幸先のよい1年のスタートだ!
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