バルカンの古都ブラショフ便り

ルーマニアのブラショフ市へ国際親善・文化交流のために駐在することに。日本では馴染みの薄い東欧での見聞・体験を紹介します。

ルーマニアその後

2014年06月21日 12時13分41秒 | プロローグ
もうルーマニアを後にして3年が経ちました。
その後も思い出してはすこしづつ更新してきましたが、未だに本ブログを覗きに来て下さる方が多くおられるのは有難いことだと思っています。

私のいた頃のルーマニアはEUからの経済支援が盛んで、街の様相もどんどん綺麗になって行く状況で、ブラショフ市長も鼻高々でした。しかし、その盛況ぶりは、外国からの支援依存によるもので、支援が続いている間に経済が自立できるようにならないと意味がないなと案じていました。昨今西欧の金融危機によりEUからの支援が急減しルーマニアも危機に陥ったと聞きます。

危機に関しては鈍感なラテン民族の性格、旧共産党時代の硬直した体制派の隠然たる勢力、政治腐敗、汚職体質。これらに愛想を尽かした優秀な若い人材の海外流出。重荷になってきたロマ対策。マイナス要因を挙げれば尽きませんが、早くこの国が着実な前進の道を進むことを願って止みません。

2012年7月15日記


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ルーマニアから帰国したあと中国へ行き、2012年10月に日本へ帰国しました。
中国時代およびその後の日本生活は以下にアップしていますので関心のある方は見て下さい。

武蔵野つれづれ http://blog.goo.ne.jp/chansha 

2014年6月21日記

望郷の東欧

2010年12月06日 22時19分26秒 | ルーマニア以外の国
今夜、上海でハンガリーの風景をTVで見て、ブラショフの街を思い出しました。

懐かしいなあ。石作りのどっしりとした重みのある街。山の懐に抱かれた落ち着きのある街。
そうか、今の中国は活気はあるが、このシットリ感がない。人は多いが、何か個性がない。

ブラショフに住んでいた時には感じられなかった欧州の落ち着きが、無性に懐かしいです。


 中国便り http://blog.goo.ne.jp/chansha/

帰国 ・・・ そして中国へ

2010年08月09日 01時21分13秒 | プロローグ

 本ブログは、2年半のルーマニア滞在の体験を基に90回に渡って書いて参りました。掲載した写真は400枚超。自分でもよく続いたなと思っています。

 「ルーマニアってどんな所?」と皆さんに帰国毎に聞かれるので、同じ事ばかり答えるのも能がない、いっそのこと写真入りでまとめて報告すれば一度で済むのでは考えたのが動機です。 
 そのうち、「どうすれば体験談を有効に紹介できるか」を考えることが面白くなって来ました。他人に伝えるとなると自分本位の感動だけでは駄目だ。読者目線の客観性が求められる訳で、そのためには少しは勉強もしなければ。また写真を撮るにしても、一目で分かる写真にするにはどう撮れば良いか、といった工夫も必要 ・・・ と言う具合に、ブログを作ることを中心にいろいろ考えるようになりました。

 ガイドブックにあるような、通り一遍の記事では面白くない。自分なりに感じた事、考えた事を率直に表現したい。若者のお気軽ブログとは異なり、それなりの年なのだから、それなりの見識は盛込みたい。偏見は極力持たないように、しかし独断はあっても構わない。むしろ独断観を持つべきだ。そんな気持ちで書いてきました。

 お陰様で、「面白い見方だ。」とか「写真が迫力あるよ。」とか言って下さる方がおられ、そういうことが励みになってこれまで続いてきたように思います。 2009年2月に日本へ帰国してからも書きたいことが沢山あったので、書き続けて参りました。更新頻度が減ったにも拘わらず、辛抱強く読み続けて下さった読者に感謝します。

  思えば、約30年間、機械メーカで海外事業に従事し多様な体験を積んできましたが、今回のルーマニア駐在は文化交流というビジネスを離れた事業であり、自然院にとっては目新しい仕事でした。貴重な経験をさせて頂けたことに感謝しています。

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 帰国後は、「仕事は終った! さあ趣味三昧に生きるぞ! テニス・謡曲・仕舞・書道・ギター・・・・」と思っていたら、中国の大手機械メーカで経営指導をしてみないかとのお誘いがあり、半年でまたビジネスマンに逆戻りしてしまいました。63歳にして、これで5つ目の就職先。(日本メーカ、外資系企業、国立大学、市委嘱職員、そして今回の中国メーカ) 今は上海に駐在しています。

 上海は万国博開催中。日の出の勢いの中国にあって変化の最も激しい街です。おそらく今の世界で一番面白い街かと。中国での生活は次のブログで紹介していますので、引き続きご愛読下さい。

 中国便り http://blog.goo.ne.jp/chansha/


ルーマニア革命

2010年05月10日 00時30分11秒 | ルーマニア事情

 ブログの最終回を書くつもりでしたが、その前にルーマニア革命について一つ書いておきたい事情ができたので最終回はひとつ延期します。その事情とは次の二つです。

1.ルーマニア革命を扱った小説「百年の予言」を書いた高城のぶ子さんが、先月、川端康成文学賞を受けられたとの報に接したこと。(受賞対象は別の作品ではあるが)
2.NHK「仕組まれたルーマニア革命」の放映を見たこと。

 ルーマニア革命の概要: 
 1989年、ベルリンの壁崩壊に象徴される東欧革命により東欧諸国では次々に共産党政権が崩壊していったが、最後に残ったのが強力な独裁で民衆を弾圧してきたルーマニアのチャウシェスク政権であった。そのルーマニアでもハンガリーに近い辺境の街ティミショアラから発した反政府運動はあっという間に全国に飛び火し、一週間後にはデモ隊が首都ブカレストを包囲するまでになった。
 これに対しチャウシェスクは群衆を前に型通りの大政翼賛演説を行い事態の収拾を図ろうとしたが、逆に民衆からの大ブーイングを突きつけられ党本部に逃げ込んだ。そしてヘリで逃亡したが、数日後捕らえられ人民裁判にかけられ即処刑された。

 まさに弾圧された民衆が1000名の犠牲を出しながら一致団結して独裁者を倒したという勇気ある民衆革命として世に喧伝された。

 以上はルーマニア革命について当時TVニュースで伝えられた概要で、自然院も見ていたし前知識として持ってルーマニアに来たのだが、ルーマニア人とこの話題について話をすると、どうもしっくりしないというか、次の2点が疑問として残るのを感じていた。

疑問1:密告制度が完璧に張巡らされた社会にあって、なぜかくも短期間に組織的な民衆蜂起が可能であったのか? 
疑問2:民衆の力が独裁政権に勝利した見事な事例だと言われるが、当のルーマニア人たちはあまり達成感を持っていないのは何故か?  

 つまり、ルーマニア人に「どのようにして秘密裏に武装蜂起したのか?」と聞くと「いつの間にかリーダが現れ、気がついたら銃を握っていた」というような事を言う。「いつの間にかやっちゃっていた。」という感じで「俺たちはやったぞ」という感じではない。
 この違和感については、当ブログで以前(2007年4月17日付)に紹介しましたが、先日のNHK番組を見て、見事に謎が解けました。やはりCIAが関与していたのです。

  NHK「仕組まれたルーマニア革命」の概要:
 当時の米ブッシュ(父親の方)政権は、欧州東西統合後に主導権を握る事を目指してした。一方ソ連ゴルバチョフはペレストロイカを推進したかった。ここにおいて東西の首脳は、チャウシェスクは障害であるという点で一致した。そこでCIAが暗躍し、ルーマニア内の反体制派を煽ったというのが真相である。 CIA元工作員が、その手口を明かしていた。

●外交官を装うCIAが反体制派に接触する。
(「百年の予言」では日本の外交官がブラショフの黒の教会で、秘密警察の目をかいくぐってレジスタンスと接触する場面がある。小説はフィクションではあるが、同じようなことが行われていた。さすが高城のぶ子は着眼が鋭い。)
●自由欧州放送(ドイツから発信されるルーマニア向けラジオ放送)に米が資金提供し、反体制派を煽り、イエリスクを英雄扱いして次期リーダとする機運へ誘導する。
●発端となったティミショアラはハンガリー系住民が多い街である。そこで「チャウシェスクがハンガリー系村落を大量破壊している」とプロパガンダし危機感を煽る。
●武器・銃弾を支給する。
●チャウシェスクには「民衆の前で貴方の力を見せるべきです」とおだて、最後の演説をさせる。一方民衆からのブーイングも、唖然とするチャウシェスクの映像が世界に流れることも計算にいれておく。

 当時、「ルーマニア革命は自然発生的に起こった。」と報じられたが、実はこのような舞台裏があったことが20年経った今明らかにされた。本来、政治(特に外交)には機密がまつわる事も、また国益を考えるとそういう裏事情は当分の間は公表出来ないという事もある程度やむを得ないことだろう。一定の期間を経て、このような舞台裏も白日の下に曝され、その是非が歴史的評価に委ねられるという条件なら、手段を選ばぬ裏工作も一時的には容認されるべきかも知れない。 欧米の政治機密を許容する考え方は、概ね以上のようなものであろうし、それはバランスの取れた考え方であるように思う。
 一方日本では、このようなバランスで処理しようとする考えは醸造されていないように思う。例えば、米原潜の核持込み問題でも、当時の首相が「持込んでない」と答弁したからといって40年経っても「持込んでない」と頑張るのは滑稽に思える。持ち込んだ事を潔く認めた上で、当時日米秘密協定に則り嘘の答弁した事は結果的に国益に叶っていたと正当性を訴え、その歴史的評価を仰ぐ方がよっぽど理にかなった大人のやり方だと思うのだが。
(米では秘密文書が残っているのに、日本では廃棄されて歴史的評価の機会が失われたのは残念。日本人は潔癖過ぎるのか?一度ついた嘘は最後まで守る、守れなければ切腹するという感じかな。「嘘も結果が良ければ歴史的に許される。」くらいの度量を持たないと虚々実々の外交には耐えられないと思う。)

 話が飛んでしまい、また長文になって申し訳ありませんが、ルーマニア滞在中に気に掛かっていたテーマなので、書きました。 なお、2007年4月17日のブログは、下記からもリンクできます。
  http://blog.goo.ne.jp/jinenin/m/200704 旧共産党本部とルーマニア革命

 


世界遺産

2010年03月01日 21時12分13秒 | プロローグ
 先日NHKで「世界遺産ベスト30」を放送していました。世界遺産は全部で851カ所あるらしいのですが、その中から視聴者が行きたいと思う上位30位を紹介していました。この中で自然院が行ったことのある遺産を数えてみると17か所でした。私的には、いろいろ旅行する機会に恵まれたと思っていましたが、まだ半分残っています。

1.「世界遺産ベスト30」で行った所(17か所)

 ・第2位「モン・サン・ミシェル」フランス
 ・第3位「ピラミッド群」エジプト
 ・第5位「アンコール遺跡群」カンボジア
 ・第6位「ペトラ」ヨルダン
 ・第7位「アルハンブラ宮殿」スペイン
 ・第9位「バチカン市国」バチカン市国
 ・第10位「フィレンツェ」 イタリア
 ・第11位「ベネチア」イタリア
 ・第17位「カッパドキア」トルコ
 ・第18位「ウルル(エアーズ・ロック)」オーストラリア
 ・第19位「イスタンブール」トルコ
 ・第23位「ベルサイユ宮殿」フランス
 ・第24位「シェーンブルン宮殿」オーストリア
 ・第26位「ポンペイ」イタリア
 ・第27位「グランド・キャニオン」アメリカ
 ・第29位「プラハ」チェコ
 ・第30位「テーベ(ルクソール)」エジプト

2.「世界遺産ベスト30」で行っていない所(13か所)

 ・第1位「マチュピチュ」ペルー
 ・第4位「九寨溝」中国
 ・第8位「カナイマ国立公園」ベネズエラ
 ・第12位「ナスカ地上絵」ペルー
 ・第13位「タージ・マハル」インド
 ・第14位「イグアス国立公園」アルゼンチン・ブラジル
 ・第15位「ダージリン・ヒマラヤ鉄道」インド
 ・第16位「ラパ・ヌイ(イースター島)」チリ
 ・第20位「屋久島」 日本
 ・第21位「ガラパゴス諸島」エクアドル
 ・第22位「黄龍」中国
 ・第25位「ルウェンゾリ山地」ウガンダ
 ・第28位「知床」日本

 残っている世界遺産の中で、中国の2カ所は次の駐在地が中国だから何とかなるでしょう。日本の2カ所が残っているというのは、ちょっと笑ってしまいました。やっぱり灯台下暗しってあるのですね。あとは大部分が南半球なので。ちょっと大変。
体力を鍛えて、絶対30カ所踏破するぞ!!!!



次は、いよいよ最終回です。

続編ブログ「中国便り」もご愛読下さい。
 http://blog.goo.ne.jp/jinenin/

日本文化紹介の方法についての1考察 

2010年02月11日 22時23分52秒 | プロローグ

 実は自然院は2009年2月に日本へ帰国しました。帰国後もルーマニアについて紹介したいことが一杯あったので、本ブログを書き続けています。(あと1-2回かな)

 帰国後の日本では趣味三昧の生活を送っていましたが、ふとした縁で中国企業から経営指導をしないかとのお誘いがあり、10月に中国へ赴任しました。
 急激な成長を遂げる中国の実態を新たなブログで報告しますので、これまで同様ご愛読下されば嬉しい限りです。よろしくお願いします。  

  ブログ:中国便り(三国志ゆかりの長沙と万国博の上海から) 
  http://blog.goo.ne.jp/chansha/

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 それでは、最終章に近づいたところで、久しぶりに仕事に関する記事を書きます。

 ルーマニアでは、各地で日本語を教える教師が年に一度集まり日本語教育に関するセミナーが開かれています。各教師から発表される講演内容は講演集として国際交流基金から発行されます。自然院もブラショフでの文化交流体験を基に、異文化交流について考えるところを纏めて寄稿しました。少し長くなり恐縮ですが、ブラショフで2年半にわたる文化交流活動の集大成でもありますので、以下に転載させて頂きます。

 

論題: 日本文化紹介の方法についての1考察

1.はじめに

 私たちの文化交流センターでは、ブラショフ市民を対象に日本語のほか書道、茶道、漫画、絵手紙、折り紙などの教室を開き、さらに市民や子供の各施設にこれらの出前教室なども行っています。また市民団体に日本文化についての講演を依頼されることもあります。 これらの紹介活動はそれぞれのTPOに応じて試行錯誤を行ってきましたが、実践を重ねるにつれてその方法についての考え方も序々に定まってきたかに思えますので、これらを整理して今回発表させて頂きたいと思います。日本の文化紹介に携わっておられる方々に少しでも参考になれば、望外の幸甚です。

 本論の結論は、文化紹介が成功するか、不成功に終わるかは「相手の目線で話せたかどうか」で決まるということです。このことについて以下述べさせて頂きます。

2.聞き手のメリットを話す

 文化紹介をする際、私は「貴方が日本文化を学ぶと、こんなメリットがありますよ。」ということを、冒頭に話すことにしています。日本文化は特殊性があって水準が高いことを強調して、例えば、次のような言い方をします。「ルーマニアの人にとっては、ドイツやフランスの文化を学ぶことは機会も多く容易でしょうが、それよりも思い切って異質な日本文化を学んでみませんか。目新しい発見が多いと思いますし、学び甲斐のある奥深い文化ですよ。」

(2-1) 日本文化の特殊性
 私は、日本は文化面ではガラパゴスと言っていいのではないかと思っています。ご存じのように、ガラパゴス島は他の大陸とは隔たっていたために動植物は他の地域に見られない種の進化を遂げました。日本は、西欧列強が世界中を植民地化した時代に、鎖国により外国との交流を断ちましたので、結果的に西欧文化の直接の影響を受けずに独自の文化が発展するという稀有の国となりました。

(2-2) 日本文化の水準の高さ
 日本の学校では、「日本は明治維新後、欧州文化を取り入れて急速な近代化に成功した。」という風に習います。しかしこれでは、まるで「江戸時代までの日本文化は遅れていたが、明治時代に急成長して西欧に追いついた。」かのような錯覚を起こします。これは、明治時代以降、西欧中心の史観(西欧がローマ時代から一貫して世界をリードしてきたかのように考える史観)を無批判に直輸入してきた日本の文部科学省の姿勢によるものだと思います。
 日本の江戸時代までの文化水準は、既に世界的にもトップクラスにあったということを日本人自身がもっと自覚すべきだと思います。源氏物語が世界最初の長編小説であることは知られています。西欧の中世は王侯間の抗争に明け暮れる無知と貧困の時代で、文化として見るものがない状況(藤原正彦2005)でした。
 一方、日本はこの時代に既に高度に洗練された文学を持っていました。源氏物語のほか、古今集・徒然草・・・と切りがありません。中世において全欧州で生まれた文学作品より日本一国が生んだ文学作品の方が質・量ともに勝るといわれています。
 近代物理学はニュートンの微積分から始まったとされていますが、江戸時代の関孝和はニュートンよりも先に微積分を考案しています。織田信長は戦国武将として知られていますが、武勲よりも楽市・楽座を行ったことは、もっと評価されて良いと思われます。楽市・楽座は経済を活性化する流通革命で、世界に先駆けてこのような近代流通制度を敷いた信長の慧眼は天才的なものと思います。
 「鉄砲は種子島を通じて日本に伝えられた。」と学校で習います。しかし本家の欧州ではネジ切りなどの工作技術が低かったため少量生産しかできませんでした。一方、日本では刀鍛冶に見られるように高い加工技術があり、鉄砲の実効価値が認識されると大量生産に成功し、生産量はたちまち世界一になりました。「もし信長がもっと長生きしていたら、産業革命はイギリスより先に日本で起こっていたかも知れない。」という歴史学者もいる程です。
 江戸は当時44km2の面積がありロンドン(9 km2)、ローマ(15km2)を遥かに凌ぐ大都会でした。しかも識字率もダントツで、多くの庶民までもが漢文や物語を読み、瓦版という大衆メディアが繁盛するという世界有数の文化都市でした。このような事実から当時の文化水準の高さが窺われる訳ですが、このことが日本人にもあまり認識されていないのは不思議で寂しい気がします。

3.日本文化の特徴

 (3-1) 外国文化を受容し昇華させた文化
 日本文化は元々「骨を持たない軟体動物のような文化(中根千枝1997)」ともいわれます。すなわち日本固有の原則思想があってそれを展開させたのではなく、中国や西欧から文化導入して発展させてきた訳ですが、その導入に際して自主的な取捨選択が強く働いたということが、他の国では見られない特徴として挙げられます。
 例えば7-8世紀に遣隋使・遣唐使が命がけで大陸に渡り当時の先進国中国から熱心に文化を取り入れたのですが、不思議なことに中国の特徴である宦官制度や科挙制度を採用しませんでした。これは同じ中国の影響を受けた他のアジア圏では見られない現象です。(小松左京1997) 中国からの文化の取り入れに熱中する時期が過ぎると、消化不良を起こしましたので、暫く国を閉じて時間をかけて醸造し、日本独特の高次元な文化に昇華させて行きました。
 明治になって西欧文明・文化を吸収しましたが、この場合は列強の脅威が迫っており、7-8世紀に中国から学んだように悠長に時間をかける余裕はありませんでした。そこで明治人が行ったことは、国の近代化や科学技術習得に必要な外国用語をことごとく漢字で作ってしまうことでした。例えば「自由」「平等」「民主主義」といった思想用語、「水素」「酸素」といった自然科学用語、「野球」のようなスポーツ用語などです。こうして明治時代に作られた和製新漢語は実に20万語に及ぶそうです。そういう先人たちの努力があったからこそ、日本では大学教育まで日本語で受けることができるようになりました。もし外国用語の漢字化が行われなかったならば、後進国並みに他国の用語をそのまま使うか、英語などの先進国の言語で学ぶしかありませんでした。(この便利さが、現在の日本人の英語下手に繋がっている要因の一つでもありますが。)新語を大量生産すること自体日本人の適応能力を示す大事業ですが、これによって日本人の誰もが母国語を使って西欧文明を取り入れる機会ができるようになり、それを消化し改良することも広範囲に行われるようになりました。
 孫文は、和製漢語のひとつに「革命」という言葉があるのを知り「日本は素晴らしい言葉を作ってくれた。わが中国にとって今最も必要なのは、この革命である。」と感動し辛亥革命を行いました。孫文は「中国革命の父」と呼ばれています。現在の中国の指導者たちが大好きな言葉「人民」「共和国」「社会」「主義」なども、このころ作られた和製漢語です。蒋介石、周恩来ら日本留学生たちは近代化の手本として「日本に学べ」を合言葉に、和製漢語のほか、莫大な日本語書籍を輸入しました。嘗て中国に学んだ日本は、1000年後に中国の近代化に協力することで恩返しをしたことになります。
 では、なぜ漢字の本家である中国では、日本のような新しい漢語が生まれなかったのでしょうか? それは、当時の中国では相変わらず科挙制度が採られていたからです。科挙に合格するには四書五経の丸暗記が必要で、そんな古めかしい知識に拘る秀才たちには新用語を作る発想もエネルギーもなかったのでしょう。1000年前に科挙を採用した国と、採用しなかった国とで明暗を分ける結果になりました。

 (3-2) ホモジニアス社会が高度な精神活動を可能にした。
 日本人社会の特徴のひとつは、単一民族・単一言語・単一宗教という世界にも稀なホモジニアス(均一)社会であるということです。基本的な信条・価値観・行動規準がほとんど同一なためコンテクスト度が高く、少ない言語量で容易にコミュニケーションを行うことが可能です。
 このハイコンテクストという社会情勢と、多彩な自然に恵まれたという環境があいまって、高度な精神活動を可能にし日本文化創造の原動力になったと考えられます。すなわち、自然に対する研ぎ澄まされた感受性が育くまれ、悠久の自然と儚い人生の対比に思いを致し、無常観が生まれる。それが儚いものに美を感ずるという「もののあわれ」という情緒や、弱者へのいたわり(惻隠)を旨とする武士道という行動規範につながるという日本独自の文化です。(藤原正彦2005) 
 コンテクストを極度に高度化すると果してどんな文化が生まれるか、その生きた実験が日本文化だと考えて、これを研究するというだけでも興味が尽きないのではないでしょうか。
 

 しかし、ハイコンテクスト社会は内部の人間にとっては、いわゆる「以心伝心」で通じる心地良さがある訳ですが、外国人にとっては理解し難い要因ともなっています。我々のように海外との接点に立つ者にとって、日本文化の良さを温存しながら、外国人にとっても分かりやすい文化紹介をどう行うか、これは今後とも大きな課題と言えます。

(3-3) 「こころ」を描写する。
 日本は中国の漢字を取り入れて万葉仮名を作り万葉集を作りました。万葉集で扱われている内容はほとんどが、旅・恋・死のいずれかです。つまり「こころ」がテーマです。ところが元になった中国の漢詩集はいわば風俗大辞典と言うような内容で、例えば長安の都はどういう配置になっていて人々はどういう服装をしてどこに遊びに行ったかなどがわかります。万葉集をいくら読んでも、平城京の様子などは分かりません。「こころ」しか描いていないのですから。(井上靖1997)
 これは絵画でも同じで、日本画では例えば花鳥風月とか山水とかは恰好の画材ですが、この場合花鳥を写実的に描いてはいません。その花鳥をどのように見ているかという自分の心を描くことに画家は腐心し、他は省略してしまいます。フランス印象派のように、雲から森から犬から見えるもの全てを描くといったことをしません。
 能・歌舞伎など演劇でも同じで、心の表現以外は極端に省略してしまいます。日本人の間ではコミュニケーションに手間がかからない分、心の奥を掘り下げようという方向にエネルギーが集中して、このような文化が花開いたのだと思います。

(3-4) 日本の受容体質は世界を救う。
 日本は軟体動物のように原則思想を持たずに外国文化を「自主的に取捨選択」しながら消化し発展させてきたことは、前述しました。このような「いいとこ取り」をすることができたのは、ホモジニアス社会であったため日本に馴染むものとそうでないものを言わずもがなの感覚でごく自然に選択することが容易であったというほかに、日本が島国であったため、こちらから望まない限り外国の影響を受けなくても済むという特殊事情もあったと考えられます。諸外国の場合は、外国文明の圧倒的戦略・征服という形で伝播が繰り返されました。
 これまで世界を動かしてきた思想(主義、原理、イズムとも呼ばれるもの。ここでは宗教や共産主義といった教義重視の思想のほか、現在世界を跋扈している民主主義や市場主義、論理・合理主義やアメリカ式グローバリズムなども含む)は、全て出発点となる基本原理を設定し、ここから演繹して体系化するというものでした。従って、その思想内では完全であるけれども、外部に対しては排他的であるという大きな欠点があります。これを文化文明の基礎としていると、より広い地域を統合してゆく上で熱狂的にお互いを潰し合うという不幸な事態を招くことになるのは歴史が証明しています。
 サミュエル・ハンティントンは、21世紀は文明の衝突が起こる時代と言っています。東西対立が去った今、現にキリスト教とイスラム教がそれぞれ原理主義化し対立を深めています。しかし、いずれは人類社会全体がこうした文化衝突を避けて、それぞれの良いところを取り入れていくような穏やかな文化交流によって、かっての原理主義から徐々に抜けてゆき、新しい調和と統合の時代に向かうようであって欲しいと思います。ドグマ臭さに陥ることなく外国文明を受容・消化してきた日本の伝統的なやりかたが、そのためのヒントになれば素晴らしいと思っています。

 4.実際の文化紹介

 「私は、日本文化の○○を習いました。すばらしい文化なので是非外国の人にも教えたい。」と、当センターに言って来られる方が時々おられます。こういう人は、とかく自分が習った方法で教えようとします。そうすると上手くいきません。なぜなら日本で習った教授法は日本人同士で通じあえる共通のFOR(フレーム・オブ・レファレンス。人がものごとを知覚し、感じ、思考し、行動を導出するそのような内的仕組み)の上で成り立っているもので、FORが異なる外国人には通用しないからです。先ずは、FORの共通化または調整化を図ることから始める必要があります。
実例で説明しましょう。40余年尺八を習っておられるK氏が当センターに来られましたので、是非尺八の演奏をして頂きたいとお願いをしました。そのさい、聴衆の皆さんには尺八の音を聞いただけでも東洋的な神秘の世界を感じてもらうことはできるでしょうが、さらに理解を深めるにはどうすれば良いかについて、事前にK氏に話を聞きました。話の中で興味を引いたのは、尺八とはもともと一尺八寸の意味だが、長さは必ずしも一定ではないとのことでした。つまり自然の中に生えている竹を「使わして頂く」ので、取れる長さや太さは人間の思い通りにはならない。従って個々の笛のキーや響き・音色はそれぞれ異なるということです。(今は製管技術が発達したのでキーを標準音程に調整することができるとのことです。)これは東西の文化差を象徴する面白い話です。
 西洋音楽では、まず楽譜ありきで楽器はそれを実現するためのツールですから、楽譜通りのキーを出せない楽器なんてとんでもない話です。一方、日本では自然が優先します。演奏が終わると、尺八を押し頂いて「吹かして頂いて有難う御座います」との気持ちを込めて礼をします。自然や楽器に対してこういう考え方の違いがあるということが分かりましたので、演奏に先立ってそのことを聴衆に説明してから、演奏をして頂きました。これは、前ページ図の「意識の共通化・調整」FORの調整に当たります。
 一方で、失敗もありました。日本画のワークショップでのことです。日本人インストラクターが「月はこう描きます。竹はこう描きます。」と言って、いきなり筆の使い方から入ったのでルーマニア人の参加者は戸惑ってしまいました。このような場合には、前述のような印象派洋画と日本画との違いを説明するなど、FORの調整をしてから画法説明に入るべきでした。その時はインストラクターと事前の打ち合わせの時間がなくて、こうなってしまったのですが。

5.どの文化を紹介するか

 これはジレンマのある問題です。すなわち、海外で受けている文化とそうでない文化を層別してみると、下表にあるように「海外でも普及すること」と「日本らしさ」が相反する傾向が見られるからです。
 
 例えば、スポーツで見ると、柔道は国際化に成功しました。しかし、それはポイント制や柔道着の色とか日本らしさを犠牲にして「普通の格闘技」とすることで勝ち得た成果とも言えます。剣道がそれほど国際的になれないのは、防具の調達などもあるでしょうが、やはり日本らしさに拘っているからでしょう。相撲に至っては、さすがに国技ですから日本らしさを死守しようとします。(このことが外人力士との摩擦要因ともなっていますが。)
 マンガは今後積極的に普及を図るべきでしょう。長編のしっかりとしたストーリー性を持ち迫力ある描写力で描くマンガは、日本発の誇るべき文化です。当センターにもマンガ・アニメをきっかけとして日本語と日本文化に触れるようになったと言う学生も大勢います。アキバについてマニアックな質問をしてくるオタクもいます。(この面に疎い当方としては対応に苦慮するのですが。)マンガ・シンポジウムを行うと、いつもセンター外からも多くの若者たちが集まり、満員盛況となります。

 6.最後に

 「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ。」という鉄血宰相ビスマルクの言葉があります。私はさらに加えて「愚者は経験に学び、賢者は歴史と異文化に学ぶ。」と唱えたいと思います。視野を広げ考え方を多彩にすることに喜びを感じるために、文化交流があるのだと思います。

 参考文献:
1.藤原正彦(2005)『国家の品格』新潮新書。
2.中根千枝(1997)「国際社会の日本文化」『英語で話す日本文化』講談社。
3.井上靖(1997)「心の文化」『英語で話す日本文化』講談社。
4.小松左京(1997)「日本文化の選択原理」『英語で話す日本文化』講談社。
5.サミュエル・P・ハンティントン(2000)『文明の衝突』集英社

以上。

 


ルーマニアの山村

2009年12月28日 23時48分44秒 | ルーマニア事情

 ルーマニアの山村は長閑で好きである。しかし、そこで住んでいる人たちの生活は大変なようだ。国全体が市場経済へ移行してゆく中にあって、農業だけでは現金収入が少なすぎる。そこで若者たちは、ほとんどが街へ出てしまう。過疎化は相当にひどく、村には年寄りしか見あたらないし、空き屋になった家々が朽ちるに委されているという光景が、あちこちに見られる。教会も来る人がいなくなって放置されたものも多い。あと5年10年たったら完全にゴースト・ビレッジとなるのだろうか。

 
写真:廃墟となった村と教会

 トランシルバニア地方は昔からトルコ軍その他と戦って来た土地だけあって、有名・無名とりまぜて多くの砦跡などが残っている。たいていは周囲を見渡せる山の頂上にある。石を運び井戸を掘り・・・・作る時は相当苦労しただろうと思われるが、今は崩れるにまかすという状態である。有名な砦なら改修して観光収入をということもあり得るだろうが、それほどでないなら、仕方がないか。

 まわりで羊飼いが番をしていたりする。それを見ると、自然院もここに生まれていたら、あんな風に終日羊を追っているのかなあと思ったりする。経済大国に生まれ常に何かに追いまくられるような人生を送って来た身には、それでは退屈極まりない生活のように思われるのだが、案外あれはあれで幸せなのかなあとか・・・・・訳の分からない思考に入り込んだりしてしまうので、この辺にしておこう。

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 実は自然院は2009年2月に日本へ帰国しました。帰国後もルーマニアについて紹介したいことが一杯あったので、本ブログを書き続けています。(あと2-3回かな)

 帰国後の日本では趣味三昧の生活を送っていましたが、ふとした縁で中国企業から経営指導をしないかとのお誘いがあり、10月に中国へ赴任しました。
 急激な成長を遂げる中国の実態を新たなブログで報告しますので、これまで同様ご愛読下されば嬉しい限りです。よろしくお願いします。  

  ブログ:中国便り(三国志ゆかりの長沙と万国博の上海から) 
  http://blog.goo.ne.jp/chansha/


ヨーロッパ鉄道の旅

2009年12月06日 14時58分28秒 | ルーマニア事情

 ルーマニアは5カ国に囲まれている。陸続きなのでいろんな国へ鉄道で行ける。ウィーンまで12時間、ブダペスト(ハンガリーの首都)まで9時間、ソフィア(ブルガリアの首都)まで6時間というふうに、夜乗れば朝には到着という距離にあるので便利である。しかも安い。例えばブダペストまで寝台車(2人部屋)で往復しても14,000円(400レイ)。日本のブルートレインの1/3くらい。ただ、深夜に国境を越えるので、寝付いた頃に起こされるのが難点だが。

 ということで、周辺国への旅行には鉄道も随分利用したが、国内の鉄道旅ものんびりしていて捨て難い情緒がある。自然院が子供の頃は、汽車といえば蒸気機関車やディーゼル機関車に牽引されるタイプであったが、いつの間にか全て電車型(各車両に動力がついているタイプ)に変わってしまった。どういうわけか欧州の列車は今でも機関車に牽引されるタイプである。客車には動力部がないので、その分静かである。ゴトンゴトンという線路音だけがノンビリ響いて来るのが嬉しい。

 ノスタルジーをもう一つ。ルーマニアのローカル線では、今でも厚紙に手書きの切符を発行してくれる。薄紙にプリンター刻字される現在の切符に比べて、何となく人の暖か味が感じられる。いつまで続くかなあ。

 ルーマニアに限らず欧州の鉄道で解せないのは、プラットホームが低すぎることである。乗車するにはかなり急角度のハシゴをヨジ登らねばならない。これは老人や、荷物を持った人には大変である。なぜ日本のようにプラットホームを車体床面と同じ高さに揃えないのか?福祉に優しい筈の欧州で疑問の一つである。

 

 
これでも特急が止まる地方駅。狭く低いプラットホーム(と言えるかどうかだが)。単線なので、右側の列車が停車している間に左側の反対車線に列車が入線してくる。挟まれる感じで怖!

首都ブカレスト駅でも、この有様。乗り込むのに一苦労。


(右上)厚紙に手書きされた切符
(右下)夜のブラショフ駅。暗い!!列車から漏れ出す僅かの照明が頼り。目をこらさないと人の顔が見えない。

 


源氏物語とルーマニア

2009年11月23日 00時42分44秒 | 活動
 意外に思われるかも知れないが、源氏物語はルーマニアの若者の間でもよく読まれている。それは日英バイリンガルのマンガの貢献によるものである。大和和紀著「あさきゆめみし」。日本で一時ブームとなり、若者を古典に親しませたという評価もあるが、ある30代の女性によると「原作を読まなくなるからという理由で高校では禁書となりました。」心の狭い教師もいるものだ。


♪ 光る源氏の夜遊びを 
  いみじゅうおかしと言うけれど
  俺たちゃちっとも おかしかねえ
  いやな古文を やめちまえ

自然院の高校の時(45年も前になるが)、学校でアングラ的に流行った歌である。「ごんべさんの赤ちゃんが風邪ひいた・・・・」のメロディで歌うとよく合う。(試しに歌って下さい。)
学校で強制的に古文を習わされると、若者の常として反抗してみたくなり、こんな自虐歌を歌って溜飲を下げたりした。この歌は全科目にあり、例えば、

♪ 三角形の一辺が 
  他の二辺の総和より
  短かろうが長かろうが
  俺は知らない 幾何やめろ

 しかし、還暦を過ぎたこの年になると、何故か「自発的に」源氏物語を読んで見たくなる。だから高校の時に古典を無理矢理に読ませるというのも、意味があるのかも知れない。

 今回は与謝野晶子の現代訳を読んだ。血筋も良く(天皇の子)、歌舞管弦でも和歌の道でも並ぶ者がないほどの才能があり、全ての女をウットリさせる美貌を持つ男なんて、あまりに出来すぎで、何がおもしろいものかと最初は思った。しかし、読んでゆくうちに少し考えが変わっていった。確かに、どんな女もイチコロというのでは、「いかに女を落とすか」という男の視点から見ればこんなに都合の良すぎる(従って、つまらない)小説はない。しかし、視点を変え、主人公は源氏ではなく周りの女たちであると考えたらどうであろうか?そうすると源氏は単に女達を繋ぐ共通項に過すぎないことになる。そう考えると、女性たちが生き生きと個性的に描かれていて、なかなかおもしろい。作者が女であることを考えると当たり前のことかもしれないが、その当たり前のことに気づくまで恥ずかしながら少々時間を要した。

 それにしても大胆なストーリーである。母親似の女性を熱烈に恋慕うマザコンあり、ロリコンもあり、少女拉致あり、家宅侵入は頻繁にあり、強姦すれすれの和姦あり、これらの罪を権力で押さえつけるというパワハラもある。父帝の側室を寝取ってしまい、その大不倫で生まれた子が後に天皇となる。兄帝の側室も寝取ってしまうが、兄帝は側室に「朕より源氏の方が魅力ある男なのだから、源氏にに惹かれるのも無理はない」などと理解を示すのだから、何とも情けない天皇である。・・・ フィクションとはいえ、こんなワルのストーリーが、天皇の権威を失墜させると問題にならなかったのだろうか? この小説が明治時代に書かれていたなら、紫式部はおそらく不敬罪になっていたのではないか。そう考えると、天皇も含め貴族達が喜んで回し読みしたという平安時代は、摩訶不思議。当時の貴族は余程暇だったのだろうか? こんな大らかな男女関係を認める社会は世界に類を見ないのではないか。中国や韓国では宦官制度だから、こんな宮廷ラブストーリーはあり得ない。日本独特。いみじゅうおかし。
 源氏物語の後半は源氏が死んでからの話になるが、この部分はやや退屈である。源氏物語は長いから、これから読まれる方は先ず前半の玉鬘十帖くらいまでに挑戦されることをお勧めします。


時代を超え国を超えて、勝手気ままに想像を巡らしながら楽しむのが自然院流の読書です。気まぐれな読後感に付き合って頂き感謝します。 

ジプシーについて

2009年11月01日 22時38分57秒 | ルーマニア事情
 ヨーロッパではジプシーを見かけることが多いが、ルーマニアでは特に多い。公式にはジプシー人口は全国民の4%くらいとなっているが、実際は、その倍くらい居るのではないかといわれている。何しろ戸籍登録しないので正確な数字がつかめていないというのが実態である。
ジプシーというと流浪の民ということで、日本人には何かロマンチックなイメージを持つ人もいるが、ジプシーの実態は、そんなものではない。

 彼らは、個人の所有権を求めない。つまり「お前の物は俺の物、俺の物は俺の物」である。田舎においては、農繁期には農作業手助けをするなど一般村人と協調する行動をとるもあるが、畑泥棒と化すこともよくある。都会においては、普段は物乞いをするが、スキあらば窃盗と化す。ごみ箱を漁り散らかし、金属など金になる物を集める。バスや列車に乗り込んで来ると(もちろんタダ乗り)すさまじい異臭を放つので、他の乗客は鼻をつまんだり離れた場所に移動する。
とにかく、一般の社会規範からかけ離れた価値観を持つ人種である。彼らをどうやって社会に調和させるか?これはルーマニア社会にとって大きな課題となっている。2007年にルーマニアがEUに加盟する条件として、ジプシーの人権を尊重することという条項が入っている。このため政府としては、ジプシーに対し戸籍登録し子供を学校へ行かせれば奨励金を支給するなど、定住促進策を図っているが、どうなることか。


 村を歩くジプシー。男は帽子を被り、女は独特の原色サイケ模様の衣裳を纏っているので、すぐにそれと分かる。ジプシーはインドからヨーロッッパへ移動してきた人種で、肌も浅黒く顔形も白人とは明らかに異なる。

(注)「ジプシー」は差別用語であるので、代わりに「ロマ」を使おうという動きがある。筆者はこの考えには与みしないので、敢えて本文中で「ジプシー」としました。

ルーマニアの冬支度

2009年10月11日 00時13分07秒 | ルーマニア事情

 ブラショフは緯度的には、北海道の最北部にあたる。しかも標高600mの所にあるから、冬は長く厳しい。
 夏の間はトマト・キューリなど日本よりずっと美味しかった野菜も、秋が深まるにつれて近農物から、トルコやイタリア・スペインなどからの輸入品に変わって行き、目に見えて鮮度と味が落ちてゆく。(このあたりは、一年中いつも同じ野菜が店頭にならぶ日本と違って、本来の季節感が味わえると言えるのかも知れない。)

 だからルーマニアの人達にとって、長い冬の間、野菜をどう摂取するかは大問題で、いろいろの工夫がなされている。最も一般的な方法は、秋に大量の野菜を仕込んでピクルス化してしまうことである。レストランでも、冬は野菜サラダを頼むとピクルスが出てくる。大きなピクルス用ガラス瓶が並び、ちょっとした秋冬風物となる。
 

  茄子などは、各家庭でも塩漬けにして冷蔵庫に大量に貯蔵する。
 

酒は家で作る人が多い。市販のリキュールに付近でとれたブルーベリーなどで味付けする人もいるし、ブドウを樽に仕込んでワインを作る人もいる。下の写真は、当センターの学生宅で、地下室に発酵用樽や圧搾機を備えて本格的に醸造している。昨年12月初めに試飲させて頂いたが、まだワインとしては若く、クリスマス頃に美味くなるとのことである。

 

ルーマニアの家に招待されると、たいていは自慢の自家酒を振る舞ってくれる。もちろんルーマニア名物ツイカは最も一般的である。日本では、漬物も酒も自家製を作ることは既にすたれてしまったが、この国のように、それぞれの家が伝来の製法と味を守っているのを見ると、なぜか心が和む。


ルーマニアの美女たち

2009年09月22日 16時45分06秒 | ルーマニア事情

 ルーマニアの女性は綺麗だと言われる。確かに欧州の中でも、ドイツ・オランダその他と比べて美人が多いといえる。もっとも、美人比率などという信頼できる統計は存在しないから、全く主観的な判断ではあるが。  
 「ルーマニアの女性の顔が美しく見えるのは、適度な妍があるから」と言った人がいたが、蓋し名言だと思う。妍は刺身の山葵のようなもので、適度にあると生臭い物を引き立ててこの上ない美味を醸し出す。砂糖のように甘ったるいばかりでは、深い味わいは出てこない。顔ばかりでなく、ルーマニア女性は足が長くスタイルが良い。

 しかし、美しいのは15歳くらいから18・19歳くらいまでである。20歳を過ぎると、加齢による経年変化が如実に現れてくる。「山高ければ、谷深し。」 この点、日本女性は、アップダウンがなだらかで賞味期限も長いから、神は平等に人間を創りたもうたのかなと思ったりする。以下の写真は、我がセンターに通ってくる学生たちである。ほとんどが、女子高生・女子大生だから最も旬な時期である。

           

 ルーマニア社会は完全に女性上位である。いろんな夫婦を観察してみても、たいがいは妻がリードしているようである。オフィスでも、たいてい女性の方が数が多い。聞くところによると裁判官でさえ女性の方が多いらしい。それでは、男は何の仕事をしているのかというと、建設現場などが男の独壇場である。つまり知的仕事は女性、力仕事は男性という風に、別れているらしい。
  妻が家にいる場合は、職場からしょっちゅう家に電話するか、さもまければ妻から1日何回も電話を受ける夫の姿がよく見受けられる。(日本でそんなことをしたら私用電話禁止ということになるが、ルーマニアでは公私のけじめは曖昧である。)先日乗ったタクシーでは、走行中に運転手に奥さんから電話が掛かってきた。愛を確かめるために毎日数回掛かってくるのだと言う。「浮気していないかのチェックじゃないの?」と聞いたら、「無論それもあるが、それは自分を愛してくれている証拠だ。彼女は俺のエンジェルだよ。」と堂々とのたまわったのには恐れ入った。

 若いカップルでは、さらに女性優位である。例えば、デートの約束をしていても、女性には随時ドタキャンの権利があるらしい。気が向かなくなったら平気でドタキャンするし、謝る必要もないという。女から電話を掛ける時は一旦ワン切りし、相手から掛かってくるのを待つということも極普通だという。つまり電話代は男に払わせて当然という考え方らしい。
 冬なら女性がコートを着ようとすれば、男は素早く立って手助けすることが求められるし、ルーマニアの男は気の毒な気がする。
日本男児で良かった。 (^ー^)


マイケル・ジャックソンとルーマニア

2009年08月23日 15時06分43秒 | ルーマニア事情

 最近日本のレコードショップのマイケル・ジャックソン追悼コーナでDVD「マイケル・ジャックソン・イン・ブカレスト」が山積みされているのを目にした。1992年、マイケルジャックソンは欧州一巡ライブ・ツアを行い350万人の聴衆を集めた。その中でもブカレストで行ったライブは伝説に残る最高の出来で、その後もこれを超えるライブはないとされる。 
 ルーマニアではチャウシェスク独裁政権が倒れて3年目で西側音楽を熱狂的に受け入るという下地があったし、マイケルもアーティストとして最盛期であった。有名監督が指揮し14台のカメラを駆使して収録されたライブが全米放送された時、視聴率は史上最高の34%を記録し放映権料もワンステージ2000万ドルと史上最高に達したという。

 ところで、マイケルジャックソンのブカレスト訪問には面白いエピソードも残っている。チャウシェスクが権威を内外に誇示するために、国民の生活を犠牲にして豪華な国民の館を建設した話は、前のブログ(2007-1-27版  http://blog.goo.ne.jp/jinenin/e/acb7f5f74b573f35141c7bb7a57e10c8 )に書いた。ここのベランダはチャウシェスクが大演説をするために作られた。しかしチャウシェスク以外に、このベランダに立った男がいる。それがライブのためブカレストを訪問したマイケル・ジャックソンであった。
 彼は熱狂する大群衆を前に「ハロー・ブカレスト!」と叫ぶ予定だった。 ・・・・・ が、何を間違ったのか「ハロー・ブダペスト!」とやってしまったという。しかし、ブカレスト市民は彼を暖かく迎え、帰国し他後も「マイケルにノーベル平和賞を!」と要求するデモが繰り返されたという。

 
シャンゼリゼ通りを模した「統一通り」。通りの奥に国民の館がそびえる。


国民の館のベランダから統一通りを望む。ここからはマイケル大群衆に向かって叫んだ「ハロー ・・・・・・」

 ブカレスト・コンサートで体力を使い果たしたマイケルは欧州ツアーを突如中断し、その後は体力にもアーティストの力量も衰退していった。


ルーマニア紹介の講演会

2009年07月28日 14時53分05秒 | プロローグ
 先日、私の住むM市でルーマニア紹介の講演会を行いました。(教育委員会、老荘連合会からの依頼)
当日は朝から、この夏一番の猛暑。私自身も正直、講師でなければ出かけたくないと思うようなバカ暑さでした。それでも150名くらいの方が集まって下さり熱心に聞いて頂けたので、嬉しく思いました。



次のような要旨でお話をいたしました。

★ 日本人は、西欧が一貫して世界をリードしてきたかの如き史観に洗脳されている。しかし、中世においては東欧の方が西欧より進んでいた時代もある。西欧が優位に立つのは産業革命以降であるが、西欧が富を蓄積していたころ、東欧はトルコから西欧を守るための防人の役割も果たした。このような東欧の役割も視野に入れることにより、欧州文明がより立体的に理解される。

★ ルーマニアをはじめ東欧には世界遺産に指定されている歴史的文化財が多く、また手付かずの自然も温存されており、訪問する価値がある。

★ 東欧革命(1989年)により、共産党の一党独裁から自由主義に移行したが、政治・経済面では、まだまだ混乱があり、健全な民主主義・市場経済が根付いたと言える状態ではない。近年はEU加盟により西欧からの援助で7%前後の経済成長が続いていたが、昨年からの世界不況で援助が急減しており困難な局面に入っている。 

★ 実際にルーマニアで生活してみると、貧しいながらも助け合って生きているといった、一昔前の日本のような人情味のある生活を思い起こされることがある。

★ その他、文化交流活動について。


世界遺産 スローライフ村 マラムレシュ

2009年06月19日 16時20分10秒 | プロローグ

 ルーマニアの北辺、ウクライナと国境を接するあたりに民俗学的にも注目されている地方がある。マラムレシュと呼ばれるその地は、カルパチア山脈に囲まれ冬は雪深いため、共産党時代の近代化推進の波にも取り残された。このため昔ながらの生活と伝統が残っている。数年前までは民族衣装で野良仕事をする光景が見られたらしい。

 日本でも近年「秘境」として注目され、TVタレントの体験ルポなどが放映されたり、観光ツアも企画されている。しかし、つつましい村落なので、大型バスなどで乗り付たりして欲しくないところである。
 交通は不便であるので、今回はブラショフからタクシーをチャーターして周った。(旅程としては前回報告の修道院の旅の続き)

 村に着くと、まず木彫りの門が目につく。大きな家には大きな門。やはり門は家格を表す。彫り物は、かなり手が込んでおり、太陽・大地の恵みを象徴したり、魔除けのために神格化された狼をデザインしてあるという。
 

 民家の屋根は檜皮葺きで、日本人には親しみを覚える。


 この村では、自給自足の伝統が息づいている。庭に植えた麻のような植物の繊維を使って織り、普段の服としている。
  
(写真左)麻のような植物を干して織物の材料として使う。(写真右)機織り機
 
自給自足で作った衣類

  民家だけでなく、教会も完全木造で作られている例は欧州では珍しい。1999年世界遺産に指定された。これだけの規模の建物を、樫や樅などの材木で雨露を防ぐ密閉構造に作るのは相当の技術を要するらしい。ルーマニア・ゴシック技法と呼ばれ受け継がれて来た。村人は生まれるとすぐに、この教会で洗礼を受け、結婚式、葬式もここで行う。親も祖父母も皆そうしてきたというから、村民にとっては将に墳墓の地である。

 
朝日に輝く木造教会。
 
燕尾形の木造瓦を重ねて屋根や壁を耐水構造にする。
 
材木をキッチリ組み込むルーマニア・ゴシック。