ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.113レポート

2017-05-06 08:32:50 | Weblog
春4月、厳しい冬の寒さに耐え続けた植物が一斉に芽吹く喜びと、様々な彩りが街中にあふれ出す季節。日本の大概の企業や事業所、学校、法人などは4月から新年度が始まるところが多い。ジネンカフェを共に行っているNPO法人くれよんBOXさんも、この月から平成29年度が始まった。しかし、まちの縁側育くみ隊の新年度は5月から。つまり4月は平成28年度の最終月となるわけである。ということで、今月のゲストは年度末に相応しいかどうかは解らないけれど、まちの縁側育くみ隊の前事務局長で、現在はご自分の建築設計事務所を立ち上げている古池弘幸建築設計事務所の古池弘幸氏だ。お話のタイトルは『人の佇まいをまちに落としこんでいきたい−小さな設計事務所の考え』

【最初のターニングポイント】
古池弘幸氏は1981年、生まれも育ちも愛知県の現在35歳。小学校から中学校にかけては極々普通の公立に通っていたそうだ。しかし、中学3年生の時に古池氏にとって最初のターニングポイントが来る。愛知県では5段階評価というものがあり、成績がオール5なら旭が丘などの進学校に行け、オール3をクリア出来ると公立の高校に行ける。それ以下の成績の進学希望者は私立高校を勧められるボーダーラインがある。古池氏の場合、進路指導の教師から工業高校を勧められたという。古池氏も勉強がそれほど好きではなかったので、「工業高校でもいいか」という気持ちで名古屋市の千種区にある愛工大名電の電子科に入学した。愛工大名電と言えば高校球界では有名な高校で、メジャーリーガーのイチローや、現・福岡ソフトバンクホークスの工藤公康監督などを輩出している。電子科というところは、PCを使ってワープロ検定を取ったり、アニメーションを作ったりすることを勉強する学科だそうだが、電気科や機械科と一緒の授業もあり、電気科では電気配線とか電気関係のことを学び、機械科ではアルミの丸い棒を削って四角い棒にするという地味な作業を学んだそうだ。

【健康診断で発覚した色神異常から建築の道へ】
第二のターニングポイントは、名電時代の健康診断だった。高校二年生の健康診断の時に色覚検査もあり、その検査で色神異常(色を判別する機能の障害)が発覚したのだ。工業高校で色神異常が発覚することは致命的で、この障害がと電気関係の仕事には就職出来ないという。それは電気回路の中に色で判断するものがあるためで、それが判断出来ずに間違えて配線したりすると、ケーブルが燃えたりするトラブルが発生するのだ。古池氏の父親が電気工事の仕事をされていたので、電気工事の仕事には何の抵抗もなかったが、どうやらその道は行けないらしいということが発覚したのである。そこでどうしょうかと悩んだ末、なんとなく「建築」を学んでみようと思いたったのだという。

【建築学生の迷い】
建築を学ぶに際して専門学校に行く手もあったが、大学にも建築学科があるのを知り、取りあえず推薦で受験してみようかと思って愛工大と中部大を受けたのだ。その結果、中部大に推薦で入学できた。運良く中部大の建築学部に入学することが出来た古池氏だが、学んでゆくにつれて迷いが出てきたのだという。授業などでよく「建築物をデザインして下さい」と言われて、最初の頃は楽しいので〈こういう形の建物はどうだろう〉といろいろと創ってゆくのだが、途中から〈格好いい建物を創っても何の意味も成さない〉つまり自己満足に過ぎないのではないか? この建物が何の役に立つのだろう? と感じ始めたのが大学二年生の終わりぐらいだったそうだ。

【まちづくりとの出会い】
三年生になると「マンション」とか「オフィス」をデザインする課題が出たが、格好いいデザインを考えても面白くないので、せっかくならひととひとが繋がれる建物を創ろうということで、SOHO-個人で新しく仕事を立ち上げた人たちが横に繋がりあえるようなマンションをデザインしたり、会社内における縦の上下関係の風通しをよくするには? というテーマをそのまま空間に反映させたオフィスビルのデザインを提案したりと、形だけではなく使い方やコンセプト重視の意味のある建築を造りたいと思っていたのだ。そうして悩んでいた大学三年の中盤頃にとある建築設計事務所へインターンシップに行くことになった。そこで後々影響を受けることになる坪井俊和氏と出会った。上司とインターン学生という関係である。そこで坪井氏がまちづくりをしているという話を聴き、何日か後に「こういうイベントがあるから来てみない?」と誘われた。「それじゃ行ってみます」そんな軽いノリで参加したのが一宮だったか名古屋のイベントだったか憶えていないが、それから間もなく私(大久保)とも出会ったのだ。

【まちづくりの世界へ】
同じ大学の二年先輩・渡邊丈紀氏もその建築設計事務所でアルバイトをしながら、坪井氏と同じ団体でまちづくり活動をしていたこともあり、身近なモデルケースを眺めつつも、自分もこうなれるのかな? こういう動き方も面白いなと思われてきたのだそうだ。その建築設計事務所でのインターンは二ヶ月で終了したのだが、その後も大学で建築を学びつつ、坪井氏を筆頭に活動していたまちづくりグループの手伝いをするようになる。

【NPO法人まちの縁側育くみ隊設立パーティー】
その後、そのグループは延藤安弘氏とNPO法人を立ち上げることになった。まちの縁側育くみ隊の誕生である。2003年のことだ。その春5月に橦木館を借り切り、延藤安弘氏の教え子や知人なども全国から招いて盛大に設立パーティーを催すことになった。その手伝いに、古池氏も参加したのである。


【三代目事務局長への就任】
大学を卒業した古池氏は、坪井氏のいた建築設計事務所で1年間アルバイトをしていて、NPOの事務局には週1の割合で手伝いに来ていたのだが、NPOが軌道に乗り始めた3期目か4期目ぐらいに、初代・藤原貴代氏、二代目・渡邊丈紀氏の後を受けて、三代目の事務局長に就任する。その当時は法人の活動としては軌道に乗り始めてはいたのだが、それは初期の頃から関わってくれていた若い人たちが就職したり、個人的な事情からNPOの活動から離れ始めた時期と重なり、それと共に理事さんたちも本業や家庭があるため、一時期のことを想うと事務局に顔を出す回数が減ったり、自主事業よりも委託事業が増えてきた時期でもあった。

【自分の将来像を見失う】
そんな中、組織の中枢にいて古池氏は自分の将来像が全く見えて来ない状態に焦りを感じていた。NPOの理事やスタッフなどは、本業は別で大学の先生だったり、会社の社長や幹部だったりする。しかし、自分は別に大学教授になりたいわけでも、会社の幹部になりたいわけでもない。つまり学生の頃に〈こうなれるのかな?〉〈こういう動き方も面白いな〉と感じていたモデルケースを、古池氏は見失ってしまったわけである。若者は自分だけ。後は社会的に地位のある人たちばかり…。当時の古池氏からみたら、そんな感じだったろうか?

【再度建築の道へ】
この時期を境に、古池氏はまちづくりから遠ざかってゆくことになる。まちの縁側育くみ隊の事務局長を辞め、もう一度〈建築〉に戻ろうと思って、育くみ隊の理事で建築設計事務所を経営している森登氏の事務所で居候をさせてもらいながら、再度建築を勉強することにしたのだ。毎日通っていたのは森氏の事務所の方で、まちの縁側MOMOには時々顔を出す程度であった。この時古池氏は26歳であったという。

【お姉さんの家を建てる】
古池氏には三歳年上のお姉さんがいる。そのお姉さんがご結婚をされ、子どもさんが生まれるので家を建てたいと言うので、建築を学んでいる弟としては、一肌脱ぐことにした。二級建築士の資格を取得し、これが初めて自分の名前で設計して建てた物件であった。

【そして独立へ】
建築設計事務所というところは、継ぎ目なく仕事があるわけではない。仕事が入る時には立て続けに入ることもあれば、入らない時もある。水ものなのだ。森氏の事務所の仕事も一段落したので、別の建築設計事務所に行くことになり、そこで勉強を重ねて一級建築士の資格も取得し、32歳の時に仕事があったわけではなく、見切り発車的に独立したのだった。

【ニューショップ浜松】
浜松市に興味深いビルがある。そのビルは地元の不動産屋さんがひとつのビルを買って改修し、志がある若者に貸して、設計事務所であったり、ギャラリーであったり、カフェであったり、本屋であったりといっぱい出店しているところなのだが、そこで行われた写真家の作品展を観に行く機会があったという。そのビルの一階に『ニューショップ浜松』というところがあった。そこは何をしている店なのかといえば、〈まちのデパートメント〉というコンセプトで、出店したい人(革細工とか、クラフト製品など)に貸して、いわば〈チャレンジショップ〉のようなことをしている店だったのだ。古池氏はそこに魅力を感じて、自分も何か出店したいと思った。しかし、設計事務所には何も売るものがない。その『ニューショップ浜松』の店長と話をする中で、「何か持って帰れるものがいいですよ」と言われ、考えた末に空想上の家の間取りに、その家にはこんなイメージで住んでみたら面白いのではないですか? という提案を小冊子にしたのだそうだ。いままで〈まちづくり〉と〈建築〉をやってきたということもあり、まちに関わるものでもよいかなと思っていたのだ。一年間出店して50部ぐらい持って行ってもらったという。家の模型も作って展示しておいていたこともあり、近くの子どもが通ってきて、模型の家の屋根を開けて遊んでいたそうで、一年間の展示期間を終える時にその模型は、その子どもに持って行ってもらったそうだ。実質的には宣伝効果的にはゼロだったが、それはそれで自分の営業ツールが出来たのでよかったと思っているという。

【フリーペーパーは面白い!】
そんな経験を通して、古池氏は〈フリーペーパー〉の面白さに目覚めてゆく。一昨年に長野県の上田市でフリーペーパーを発行している人たちが集まるトークイベントがあり、一時期はブームになっていたフリーペーパーだが、最近はあまり流行っていないらしい。それでも発行している人も結構いて、例えば山梨県出身の人は、山梨に住みながら街々をまわっては山梨の魅力を伝える冊子を作っていろいろなところに置いてもらうようにしているのだ。山梨の魅力を発信するツールであり、結果的にこういうものを作れますよという自分の営業ツールにもなったことで、仕事の依頼が入るようになったという。その小冊子は何万部と印刷をされていて、印刷費が30万~40万円ぐらい掛かってる。個人で発行されていて、どこからも資金の提供を受けていないそうだ。

【まちと暮らしをほんの少し…考える ROOF】
古池氏は、自分もそういう冊子を作れればよいなあ~と思った。発信するものは設計事務所なので、ネット上にあげて「自分のところのウリはこうですよ」と知ってもらうよりも、ピンポイントでちょっと興味を持って取った方にクッと伝えるメディアの方が向いているのではないかという感覚もあり、作ってみたいなと思って『まちと暮らしをほんの少し…考える ROOF』というタイトルの一冊を作ってみたという。その中身は古池氏の考える空想の間取りに、空想の物語を描いて、〈こういう住まい方はどうですか?〉という提案であり、要するに家を媒体にして人とまちとが繋がる出来事を物語の形にまとめたものなのだ。
その小冊子は24ページ物で、200部刷って4万円ぐらいだったそうだ。

【採算が取れなくても、二冊目を作ります】
フリーペーパーが廃れて行った背景には、大半のフリーペーパーは全く採算が取れないし、そうなると続けてゆくことも難しいからだと思われる。名古屋の千種に『シマウマ書房』という古本屋さんがあるが、そこの店長さんも「一時期はたくさん出ていたけれど、いまはそんなにない」と話していたという。それならそれで逆に注目されやすいし、珍しがってくれるのではないかと古池氏は思って置いていただいているそうだ。いまのところは何の反響もなく仕事に繋がったこともないが、感想を下さる方はチラホラといらっしゃるとか。いま二号目を作っている最中だそうだ。一冊目を置いて下さったところにまた二冊目も置いてもらって、そうして関係性を作ってゆくことで、仕事に繋げてゆけたらいいなと思っているという。

【古池氏の考えるまちづくり】
基本的に〈まちづくり〉というものに興味を持っているひとは少なく、どちらかと言えば〈公共〉というイメージが強く、それだけで興味をそいでもいけないので、そういう切り口ではなくて「こういう住まい方をしていたら」それって〈まちづくり〉だよというアプローチの仕方。物語の中には、直接〈まちづくり〉という言葉は出て来ない。「こんな住まい方もたのしいですよ」という提案をさせてもらう形。欲を言えばそこにピンと来て下さる方がいれば、古池氏としては嬉しいという。古池氏の考える〈まちづくり〉とは、例えば住宅街があって〈お隣の猫がよくうちの庭に来るんだけど…。うちの庭を通り道にしているようなんだけど…〉みたいな現状があるとしたら、お隣との境のブロック塀をちょっと低くしてあげるとか、一部を削って通りやすくしてあげる…。それでお隣の猫がウロウロしていて、家の中からでも猫が見られて幸せ…みたいな感じ。それだけでも〈まちづくり〉にならないかなと思っている。そう言った小さなことを物語に詰め込んで発信して行きたいという。

【街の中に人影や動きを】
猫に限ったことではなく、住宅街というのはどこでも殺風景で日中は人通りも少ないから、桜は手入れが大変だから考えものだけれど、比較的手入れが簡単で花の咲く木を植えて散歩のコースに使ってもらえるかなと思ったり、そうすればちょっとは人通りが増えるかなとか。街灯が少ない住宅街であれば、遮光カーテンで家の中の光が漏れないように覆ってしまうのではなく、光の透けるカーテンをしておいてくれたら外まで明るくなるので、多少人影もみえて何となく動きも見える。だからなに? と言われてしまえばそれまでなのだが、少しでも人影とか動きを、車のほかに街に出したいのだと、古池氏はいう。

【大久保的まとめ】
古池氏の記憶によれば、古池氏と私との出会いは14年ぐらい前に遡る。場所はおそらく橦木館か金城学院高校だったと思う。当時の私はもう電動車いすを使っていたらしく、古池氏にとって私との出会いは衝撃的だったという。それまでの人生の中でチェアウォーカーに出会ったのはそれが初めてだったし、なによりも言語障害のために言葉がよく聞き取れなかったからだ。私は私で彼が坪井氏の知りあいだとは聞いていたが、まさかインターン生で坪井氏の下で研修をしている人だとは知らずにいろいろと話しかけていた憶えがある。その後、NPOの事務局長となった彼と一緒に仕事をしたり、HPづくりを手伝ってもらったり、ジネンカフェの立ち上げの時に関わってもらったり…。いろいろと関わりは浅からぬものはある。夜のミーティング終了後、よく事務局近くのラーメン屋に夜食を食べに行ったものだ。そんな古池氏がNPOを卒業し、知りあいの設計事務所で建築を学び直しながら建築士の資格を取得し、お姉さんの家を建てたり、独立して自分の名前を冠した建築設計事務所を構えた。古池氏がフリーペーパーを発行する際、依頼されて文章の添削をさせてもらった。古池氏は学生時代から私たちとまち育て活動を共にして、それを建築に活かそうとされている。閑散としたまちの中に、ひとの存在を感じさせる家。ひとと、そのひとの暮らしと、まちとを繋ぐ建築。そういう建築を指向し、広めようとされている。それが古池氏流のまちづくりの形なのだろう。古池氏の健闘を祈りたい。
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