ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.107レポート

2016-10-08 09:32:13 | Weblog
秋には様々な冠かかぶせらることが多い。芸術の秋、読書の秋、食欲の秋、スポーツの秋、月見の秋、夜長の秋…。ほかの季節にはこれほど豊富な言い回しはない。それは四季の中で気候的になにを嗜むにしても、「秋」が一番適した季節だからであろう。でも、9月は秋というよりは、まだ夏の名残を感じさせる頃合いである。そんな9月初旬に行ったジネンカフェVOL.107は、いつもとは異なり、ライブハウス感覚で行った。ゲストは鍵盤弾き語りアーティストの袈裟丸祐介さん。袈裟丸さんは名古屋圏のインディーズ界でも知られているアーティストさんだが、気さくでサービス精神旺盛な方で、ライブハウスとか音楽祭とか単独ライブなどなど、多方面から声がかかって活躍されている方だ。しかし、普段のライブとは違って、自作曲やカバー曲の弾き語りあり、弥富のコーラスグループとのコラボレーションあり、生まれた時からいままでの振り返りあり、その他にも楽しい企画もあってご本人も楽しんでいただけたようだ。タイトルも『袈裟丸祐介とハピネスな音楽会~僕は音楽と歩いてゆく』

【飛騨古川町】
鍵盤弾き語りアーティスト袈裟丸祐介さんは、岐阜県の飛騨古川町のご出身。袈裟丸といのは本名ではなく、古川町に〈袈裟丸〉という地名があり、そこからつけたのだそうだ。〈祐介〉という名前の方は本名である。飛騨を代表する観光地に〈高山〉があるが、その高山の隣町が古川町で、袈裟丸さんはその町で生まれ育った。高山には観光で行ったことがあっても、古川町にまで足を伸ばすひとは少ないだろう。私(大久保)もそのひとりだが、どんな町なのかはガイドブック等で見て知っている。白壁の土蔵と瀬戸川の堀合いが町中を巡る美しい佇まいの街並みで、高山と並んで「飛騨の小京都」と称されている。小京都と呼ばれるだけあってお寺も多く、冬二月に行われる三寺参りは有名だ。町中にある三箇所のお寺を巡る、ただそれだけのイベントなのだが、道々の真ん中に雪造りの蝋燭が建てられていて、その中に本物の蝋燭が灯されているのである。それが幻想的な光景として知られているのだ。また、春四月に催される古川祭りも、お越し太鼓という巨大な太鼓をドンドンと叩きながら練り歩くお祭りとして知られている。袈裟丸さんは、そんな古川に高校を卒業するまで住んでいた。

【音楽との出会いは…】
驚くべきことだが、鍵盤弾き語りアーティストとして活躍されているにも関わらず、袈裟丸さんは譜面が読めないという。正確に言うとドレミはわかるのだが、それを指でわざわざ辿らなければ読めないのだ。つまり袈裟丸さんには俗に言う絶対音感があるのだろう。お父様もそうだったらしく、譜面が読めなくてもギターやピアノを弾いていたという。遺伝なのだろう。お父様がそういう人だったので、家にピアノやギターがあったのだ。そんな父親の姿を見ていた袈裟丸さんが、手遊びに楽器を弾くのは当然の流れであった。小学校6年生の頃には、はじめての曲を作った記憶があるという。その時に作った曲というのは歌詞がなく、勝手に「スーパーマリオの曲だよ」とか言っては、適当に演奏していたそうだ。適当だろうが何だろうが、それを曲として成立させてしまうところが袈裟丸さんの才能だろう。

【曲は作るのだけれど…】
中学校に入っても「作曲」に対する意欲は増すばかりで、曲はどんどん作るのだが、歌いたいとは全く思ってなかったという。ピアノを弾いて曲が出来る。それでもう満足だったのだ。相変わらず歌詞もついていなければ、歌うわけでもない。クラスで合唱する際にも袈裟丸さんはピアノ伴奏したり、指揮者として参加していた。そんな中学校時代だったそうだ。

【コンプレックスの氷解】
袈裟丸さんはそれまで、自分の声にコンプレックスを持っていたのだ。周りの男友だちは声変わりして低い声を出しているのに、自分は高い声のままなのではないかと思い、人前で歌を唄うなんてとても出来なかったのである。しかし、高校に入ると歌の巧い幼なじみの女の子がいて、幼なじみ同士でカラオケに行く機会もあった。その時お互いに「歌が巧いねえ~」などと言いあっていて、その頃から《歌を唄う》ことを意識するようになったという。「コンプレックス」という言葉には、もともと《複雑》とか《複合》という意味がある。憶測するに袈裟丸さんのコンプレックスの裏側には、人前で恥を掻きたくないというプライドがあり、袈裟丸さんの中でその両者が拮抗していたのだ。しかし、幼なじみの女の子から褒められることによってプライドが勝利を収め、袈裟丸さんのコンプレックスは氷解していったのだろう。

【はじめての歌詞付きの曲】
はじめての歌詞付きの曲を作ったのも、その幼なじみの女の子の言葉がきっかけだった。高校の中で唯一その子だけが袈裟丸さんの特技を知っていたので、「何か歌を作ってよ」と頼まれたのである。そう、その幼なじみの女の子がいなければ、いまの鍵盤弾き語りアーティスト・袈裟丸祐介さんは存在していなかったのかも知れない。もちろん当時はその子のキーにあわせていたので高音の曲を作っていたのだが、歌詞を入れ、メロディーを入れてひとつのテーマを作るということに興味を覚え、そこから作詞・作曲という活動をするようになったという。そうはいうものの、その高校は進学校だったので音大を目指すわけではなく、名古屋の一般的な大学を目指して受験し、合格したのだ。

【大学時代―軽音部に入部するも…】
お父様が英語の教師ということもあり、袈裟丸さんも英語教師を目指して大学に進学したものの、大学生活といえばいろいろと誘惑がつきものである。その最たるものがサークル活動で、入学式の時に各サークルがビラを配ったり、デモンストレーションをして、何とか新入生に入部してもらおうと勧誘している光景かみられるが、袈裟丸さんがサークルを探していたら、ある教室で軽音楽部がディープ・パープルの『バーン』を演奏していた。知らない人のために画いておくと、ディープ・パープルとはイギリスのロックバンドで、『バーン』は一時期、タマホームの宣伝に使われていた曲である。その曲の演奏を聴いて袈裟丸さんは衝撃を受けた。それまで聴いていた曲はポップスが多く、バンドが生演奏をしているところを見るのはこれがはじめてだったからだ。特にドラマーの方のスティックさばきが格好よくて、すぐに入部を決心した。古川町から名古屋に出てきて、ひとり暮らしを始めたばかりで、周りに友だちもいなく不安もいっぱいあったけれど、自分の殻を破ろうと思い勇気を出して軽音部に入部の手続きに行ったという。しかし、その時に対応してくれた先輩の感じの悪さに一気に熱が冷め、入部希望に氏名は書いたものの、先方からも次の活動日を教えられなかったこともあり、軽音部には結局入らなかったのだ。中学・高校とバレーボールをしていたこともあって、一年生の時のサークルはバレーボール部に入ったものの、勉強やバイトなどで忙しく辞めてしまった。

【再度、軽音部へ】
二年生になって、仲のよい友だちも出来た。その友だちとカラオケに行く中で、再度音楽への情熱が湧き上がってきた。偶然にもその友だちが、袈裟丸さんが一年生の時に入部しようとしていた軽音サークルに所属していて、誘われたこともあり、その軽音部に再入部することになったのだ。一年生の時に対応してくれた先輩とも再会し、当初はぎこちない雰囲気だったが、サークル内での交友が深まるに連れ、酒の席などで「一年生の時に僕が入らなかったのは、あなたのせいですよ」と笑い話に出来るような関係になれたという。袈裟丸さんの大学時代は、勉強も大変だったが、軽音部の活動を優先して行うようになっていった。一年生の時にその演奏を見て入部したいと思わせたドラマーの人とも仲よくなり、当時はあまり外に向けて発信しようとかではなく、みんなで和気あいあいとバンド活動が出来ればよいかなという感じだった。

【バンドで有名になりたい!】
しかし、三年生も終わりに近づくに連れ、周りが就職活動とか騒がしくなるタイミングで、自分はどうしようかと思った時に、中学生からやってきた音楽というものが身に染みついているのと、バンドの楽しさが辞められなくて、バンドで有名になりたいとしか考えられなかった。だから就職活動もしていないし、教職を取っていたので一応教育実習には行っていて、免許は取る予定なのでそうしたらゆくゆくは英語教師になるのだろうとは思っていたが、やはり音楽が頭から離れない。そういう状況で実家に帰り、両親から「これからどうするんだ」と尋ねられた時に、「就職活動もしていないし、いま音楽活動をしていていてそれが楽しいし、これを自分の武器にして頑張ってゆきたいと思っている」と正直に話したところ、ご両親から激昂されたという。それまで音楽のことなど一言も話したことがなかったので、袈裟丸さんのご両親としては「寝耳に水」だったのだろう。そこからはもう修羅場だったという。お父さんと言いあい、つかみ合いの状態になり、最終的には「ときん必ずしてくれ。音楽は趣味でやってくれ」とお父さんから言われて、大学生活を終えたのであった。

【慣れない立ち位置とバンドの解散】
大学を卒業した袈裟丸さんは就職をしながらバンド活動を続けていたのだが、学生時代に思い描いていた理想はそれほど簡単に実現する筈もなく、ステージに立って演奏する機会さえなかった。ライブをすれば緊張はするし、不安だらけで演奏も下手だったので最初の頃はファンもつくわけがなく、ライブハウスの人に怒られて、ダメ出しをされたことが何度もあったという。その時は学生時代の延長で、袈裟丸さんはギターでボーカルを務めていたらしい。子どもの頃から鍵盤をずっと弾いてきた袈裟丸さんにとって、その立ち位置での演奏は非常に難しく、思いに任せられないまま、大学を卒業して一年が過ぎた。その後、バンドは鳴かず飛ばずで、解散することになってしまった。

【バンド活動、再び】
袈裟丸さんはその後、前回の反省からギターからピアノに楽器を変えて、あとはギター、ベース、ドラムという編成のバンドを組むことになる。この二度目のバンドのメンバーは志が高かったこともあり、少しずつお客さんも増えて行った。驚くことに路上ライブもしていたという。二人組ユニットの〈ゆず〉とか〈コブクロ〉なども路上ライブをしていたことで知られているが、バンドが路上ライブをすること自体珍しい。アコースティックギターやクラシックピアノとは違い、電子楽器はアンプに繋いで音を増幅させなければならないが、アンプを使うには電源がなければならないからだ。その問題もメンバーの家に折良くお祭りの屋台が使うような発電機があったのでそれにアンプをつなぎ、大音量で路上ライブをしていたそうだ。バンドが路上ライブを行うには広さの問題もあり、よく栄の噴水広場で演奏していたそうだが、広い通りに面していて人通りも多いところでもあるので結構足を止めて聴いてくれる人も多く、その時の繋がりが現在も続いていて、ソロになった現在もライブに来ていただける方もいらっしゃるとか…。

【周りの環境と巡り合わせの中で】
そのバンドは東京の方の事務所から声を掛けられて、一度CDも全国リリースしたが、いろいろとあってバンドとしての活動は休止になってしまったという。しかし、その時に経験したことは現在にも繋がっていて活かせているし、とてもよい経験だったと袈裟丸さんは思っている。袈裟丸さんは言う。現在の自分がこうして音楽活動が出来ているのも、大学の軽音サークルに二年生ながら入部出来たおかけだし、もちろんそれで両親を困らせたり、迷惑を沢山かけしまったけれど、現在ソロになっても続けられていられるのは、本当に周りの環境がよいからで感謝しなければいけないし、自分もそうした巡り合わせの中で生きていたのかなと思っている、と…。

【袈裟丸祐介という名前を広めて行きたい】
そして現在、袈裟丸さんは鍵盤弾き語りアーティストとして「袈裟丸祐介」という名前をもっと多くの人々に広めて行けるように活動をして行こうと思っている。ライブで出会ったひと、繋がっているひと、これから出会うだろうひと、歌も、歌詞も、曲も、それぞれ好きになって下さるポイントはあると思うけれど、何でもよいのでまたお会い出来たら嬉しいと思っているという。


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