ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.103レポート

2016-06-02 12:13:42 | Weblog
梅雨の走りのように続いた雨がやみ、初夏の爽やかさを通り越した気候に恵まれた5月の第二土曜日。VOL.103のゲストは、社会福祉法人あさみどりの会の職員の丹下靖さん。あさみどりの会自体が発足してもう40年ほどという、名古屋では老舗の社会福祉法人である。私も風穴一座時代、この法人が主催するボランティア講座にゲスト講師のひとりとして招かれ、参加者のみなさんに活動紹介をプレゼンしたことがあった。丹下靖さんは1962年、神奈川県横浜市生まれ。小学生で名古屋に来てから引っ越すこと10回以上、現在北名古屋市在住。高校時代に障がいのある子どもたち、障がいのある方たちの書いた詩(歌)に出会い、ボランティア活動をはじめたことが「福祉」や障がいのある人と関わりの始まりだという。わたぼうしコンサート、大阪・応援センターなどの活動を経て、大学時代はアルバイト、地域の療育活動、福祉コンサート「なないろコンサート」をはじめとして全国各地でのボランティア活動をしてきている。仕事は、名古屋手をつなぐ親の会「ちくさ小規模作業所」(現在の若水授産所)を皮切りに、師勝町社会福祉協議会「師勝町心身障害者小規模作業所(現在のセルプしかつ)」、愛光園「知多地域障害者就業・生活支援センター」の立ち上げと運営と地域における就労支援の分野で仕事をしてきた後、現在の法人本部の共同生活援助事業所総合管理責任者として勤めている。お話のタイトルは『とりとめもなく語ります、うた、ボランティア、就労・生活支援…。』

【あさみどりの会とは?】
丹下靖さん自身はその法人に勤めて5年目なのだそうだが、冒頭にも触れたように『あさみどりの会』は〈心身に障害のある人とのかかわりを通して、ボランティアの心を育み、すべての人々が共に良い人生を送れる社会づくりを行う〉ことを基本理念に、44年前に法人格を取得して事業をされている社会福祉法人である。それ以前、59年前からボランティア団体として活動していたそうで、丹下さんや私が生まれる前から障がい者支援活動をしてきているということになる。現在は名古屋市中村区と、千種区、愛西市、三好市に施設(作業所・グループホーム・入所施設)を構えている。グループホームが17軒あり、94名の方が生活をされている。丹下さんはそのグループホーム全体を統括する責任者をされているのだ。

【福祉、障がいをもつ人たちとの出会い】
丹下さんが福祉・障がいをもつ人たちと出会ったのは高校二年の秋、現在職員をされている『あさみどりの会』の発達障がい児母子通園施設〈さわらび園〉の運動会にボランティアとして参加した時のことだった。当時、青春真っ只中の丹下青年には好きな女の子がいた。その子をデートに誘ったのだが、何も返答がなく空いた時間をどうしょうかと思っていたところ、友だちから誘われて〈さわらび園〉のボランティアに行ったのだそうだ。そこには障がいのある子どもや卒園して大きくなった子どもたちが30人ほどいて、多少怖さも感じながらも運動会の旗を持ったり、白線を引いたり、誘導したりしているうちに、気がついたら丹下さんは涙をボロボロこぼしながら大泣きしていたそうだ。

【自分は、あんなふうに一生懸命走ったりしたことがあったろうか…?】
丹下さんは、それまで一度も障がい者を見たことがなかったわけではないという。当時は小・中学校の普通クラスにも体の不自由な子どもや知的・発達障がいをもった子どもたちがいたらしい。丹下さんはしかし、その子たちを虐めていた方だったのだ。それが突然こみ上げて来た感動による号泣である。障がいを持った子どもたちが徒競走で10メートルか20メートルの距離をお母さんに名前を呼ばれながら走る場面があり、それを見ているだけで自然と泣けてきたという。「自分はこんなふうに一生懸命走ったり、歩いたりしたことがあるのだろうか?」その頃は自分がなぜそんなにも感動しているのか解らなかったが、いまにして思えばそういうことだったらしい。ちょうどその頃、丹下さんは父親を亡くしている。思春期特有の「悲劇のヒーローシンドローム」に陥っていたこともあって、その子どもたちに自分を重ねて見ていたということもあったろう。こみ上げる衝動に押されるまま昼休憩に〈さわらび園〉の二階の事務所へ駆け上り、当時〈さわらび園〉が事務局をしていた『わたぼうしコンサート』のボランティアをかって出たのであった。

【初めてのわたぼうしコンサートで…】
〈わたぼうしコンサート〉とは、奈良の〈たんぽぽの家〉から発祥して、全国各地で広がりをみせている福祉コンサートである。障がいのある人から寄せられた詩に曲をつけ歌い、語りも入れたりして障がい者への理解を促す目的で催され、昨年50周年を迎えた。丹下さんはそこで山本公三さんという車いすの青年が足でタイプを打って綴った「夢」というタイトルの詞に出会う。そこには生きていれば誰もが想う異性と恋がしたい。デートがしたい。でも、車いすに乗っている自分にデートが出来るだろうか? そんなことを言ったら笑われるのではないか? だとしたら自分は車いすなんて要らない。好きな女の子と青空の下、手をつなぎ思いきり走ってみたい。緑の芝生の上でふたり仲良く寝そべってみたい…。そんな微笑ましくも素直な気持ちが綴られていたのだ。初めて大きな福祉コンサートの手伝いに関われた感動もあったが、その時に丹下さんが感じたのは「可哀想」という同情とか哀れみの感情などではなく、「自分と一緒だ」という〈共感〉であったという。自分もこの詞の作者も同じ若者で、恋人がほしい、デートがしたいと望んでいる。そう思うのは、人として当たり前のことなんだ!

【私は週休7日】
同じ頃、こんな詞にも出会った。週休7日、週休7日、楽しいなー。テレビは見放題、漫画も読み放題。だって私は学校に通ってないんだもん。テストで頭痛めることもないんだもん。毎日私は好きなことが出来る。仕事に追われることもないし、上司に気を遣うこともない。だって仕事をしてないんだもん。通勤電車に悩まされることないんだもん。だけど時々思うの。学校に通ってみたいな。友だちと勉強してみたいな、土曜日の夜のときめきを感じたいな、日曜のありがたさを味わってみたいなー。週休7日、週休7日、つまらないな…。当時はまだ就学免除の時代で、義務教育であったにも関わらず、障がいのある子どもは学校に行かなくていいと、国から体の良い〈就学免除〉を受けていた時代だった。実は私(大久保)も、一年間就学を見合わせている。私は早生まれなので本来なら同級生たちより一年早く就学している筈なのだが、いろいろな事情から一年遅らせて名古屋養護学校小学部に入学している。この詞の背景にもそういうことがあったのだろう。作者は岩井なおみさんという、現在も〈たんぽぽの家〉で語り部活動をされている方だそうだ。その後、肢体不自由児、知的障がい児の父母が運動して、どんな重い障がいがあっても教育を受けることが可能になったのだ。いまの若い人には考えられないような時代であった。

【大阪へー障害者応援センターとの出会い】
1981年、丹下さんが大学一年の時、「完全参加と平等」というテーマを掲げた『国際障害者年』がスタートした。日本もそれを契機に障害者福祉の充実に向けて大きく動き出した年でもある。その少し前に日本テレビの『24時間テレビ』がはじまり、肢体不自由児・者がぼつぼつと街やテレビに出てきた頃であった。丹下さんはと言えば、高校二年の時にお父さんが亡くなったこともあり、1年間だけ大阪に引っ越した。大阪の『障害者応援センター』や、その団体の運動と出会い、高校に通いながらここでグラフィックデザイナーの牧口一二さんらと共にボランティア活動をされていた。この団体との出会いがまた面白い。大阪は千日前の雑踏の中を歩いていた丹下さんは、募金活動をしていた一団を見かけて声をかける。「僕にも何か手伝わせて下さい」すると「いいですよ。それじゃあ来週来られる?」という返答が…。何をするんだろうとドキドキしながら指定された場所に行ってみると、そこには手動車いすが置いてあり、「今日一日、車いすに乗って下さい。何があっても絶対に降りたり、足で動かしたりしてはいけません」そうして丹下さんはこの団体で、車いすの方たちに対する生活介助のボランティアをされていたという。やがてこの『応援センター』を足がかりに『大阪ボランティア協会』や、奈良に通って〈わたぼうしコンサート〉のボランティアもするようになる。

【当時のバリアフリー事情―街に挑んだ者たち】
当時の街はまだバリアフリーなどほど遠く、街に出ようとしても段差だらけで、公共交通機関の駅でも階段しかない時代であった。そんな中で車いすのまま街に出てゆくのは、今以上に生命がけの行為であった。『応援センター』の方々も駅に行って電車に乗ろうとすると、先ず階段の下で「どなたか車いすを上げて下さい!」と叫ぶのだ。しかし、その言葉に耳を貸す人は滅多にいない。でも、階段を上らなければ電車に乗れない訳だから、一時間でも二時間でも声をかけ続ける。やっと階段をあげてもらい、改札を通ってホームまで辿りつく。丹下さんはボランティアなので一応はついて行くのだが、一切手を出すな、見ているだけだと言われていて、声をかけるのを見ている係、そんな感じであった。やがて電車が来て再び周囲の人たちに「電車に乗せて下さい」とお願いするものの、誰も手伝ってくれる人がいないとなると、なんと車いすをホームに残したまま、本人だけ電車の中に這うように乗り込むのである。一歩間違うと生命取りになり兼ねない危険な行為だし、現実問題として目的地の駅に着いても車いすがないので降りられないのだが、『障害者応援センター』の方たちはよくこんなことをして、障害者、及びバリアフリーへの理解を訴えていたという。逆に言えばそれだけのことをしなければ、世の中は変わらないという切迫
した想いを当時の『障害者応援センター』の方たちは抱いていたのだろう。そうしてホームに残された車いすを回収して、募金活動をしているところまで戻って行くのが丹下さんの担当だったという。

【絆―エモーショナルな想いが生んだ松兼功さんの生業】
その頃に出会った、現在でも鼻でタイプを打ってエッセイや作詞活動をされている松兼功さんの、筑波大学時代に綴った詞がある。松兼さんは障がい者を理解してほしいということではなく、好きな女の子に想いを届けたくて『絆』という詞を一気に書き上げたそうだ。障害者運動というよりも、モテたいとか、好きな女の子に想いを届けたいというエモーショナルな理由から文筆活動を始めたらしい。しかし、それが現在生業として成り立っているのだから、大したものである。それもこれもこの『絆』が〈わたぼうしコンサート〉で歌われて広まったおかげだと松兼さん自身感謝しているという。それはこんな意味あいの詞である。僕の額に流れる汗に、あなたはなにを思うのだろうか? 生きる力に微笑みますか? 同じ時間を生きるあなた。ここで巡り会えたあなた、ひとつだけ聞いて下さい。偽りの微笑みと見せかけの涙だけはやめて下さい。自分の心に素直になって下さい。そこからふたりの絆が出来るのだから。額に流れる汗に僕は生きる喜びを感じる。明るい僕に気がつきますか? 同じ時間を生きるふたり。ここで巡り会えたふたり。共に生きて下さい。それだけで以前とは違う、いまここで僕を知らなくても、あなたの心に素直になって下さい。そこからふたりの絆が出来るのだから…。

【一番大事な人に届けたいと想わなければ…】
「絆」の作者の松兼さんも前述のおふたりや『障害者応援センター』の方々と同じく「伝えたい」という想いで、この『絆』を書いたのだろう。ただ、その対象が「不特定多数」の人にではなく、一番大事な人に解ってほしい。この人に解ってほしい…というところではないと、夫婦にしても巧く行かないこともあるのだから、すべての人に届けるとなると、どこに向かって伝えればよいのか解らなくなるのではないだろうか? だから何か声を挙げたり、社会運動をする時にも「この人に届けたい」と思いながらでないと、伝える力が弱くなってしまうような気がすると、丹下さんはいう。

【やりたいことはやってみる】
半年間大阪に住んでいた丹下さんは、大学入学で名古屋に戻って来ることになる。国際障害者年の年だ。丹下さんは〈わたぼうしコンサート〉のボランティアを続けていたが、この年は国際障害者年で〈わたぼうしコンサート〉が忙しくて名古屋に来られなくなった。それでは…ということで、〈なないろコンサート〉という地元のコンサートを開催することになった。しかし、丹下さんは一つのところにいられない性質で、当時の〈あさみどりの会〉の園長さんに「きみはひとつのことをコツコツとやりなさい」と言われていたが、丹下さんは叱られながらも全国の『わたぼうしコンサート』に通っては、ボランティアをされていた。それも正式なスタッフではなく、おしかけスタッフだったのでスタッフが寝泊まりする部屋の床に寝泊まりをしていたそうだ。この年は国際障害者年ということで世界10カ国から障がい者が日本に来て、神戸のポートピアとか横浜、東京、博多などで『世界わたぼうしコンサート』が開催されていたのだ。丹下さんはそれに原付バイクで帯同しながら、それとは別に岩手県や東京の子どもの遊び場・プレイパークのプレイリーダーなどもされていたそうだ。やりたいと思ったことはやってみる…そんな感じだろうか。もちろん丹下さんは大学生だったので夜にアルバイトをして生活費や学費を稼いでいた。

【なないろコンサートで出会った思い出深い歌―『あっちゃんの星』】
〈あさみどりの会〉を事務局にして、名古屋で毎年催している『なないろコンサート』では、地元の音楽関係者、ミュージシャンたちとの出会いがあり、昨年もCDを制作した。その中には障害当事者だけではなく、その周りの方たちの詞も募集して、曲をつけて歌っている。当事者の心情への理解はもちろんだが、〈あさみどりの会〉は母子通園ということもあり、その親御さんや兄弟姉妹やボランティアも含めた周囲の人たちの心情も汲み取らなければ…という想いもある。その中から障がい児を持った親御さんの妹さんが、13歳で亡くなったダウン症の子どもさんを見送ったお母さんを見て、その妹さんの岡弘子さんが書かれた詞で、補作詞に一昨年の末に亡くなられた中津川のフォークシンガ・笠木透さんが手がけている。それはこんな詞で、丹下さんも思い出に残っている歌だという。「夾竹桃の赤い花が夏の日差しに燃えていた朝、闘い続けたあっちゃんが、微笑むような安らかな笑顔、ほらあそこできらきらと輝いて遊んでいるよ。あれがあっちゃん、あっちゃんの星。棺にいっぱいの赤い花を、入れてやろうと父さんが言った。よう頑張りました。褒めてやってね。涙を拭きながら母さんが言った。ほらあそこできらきらと輝いて遊んでいるよ。あれがあっちゃん、あっちゃんの星。悪口を言ってこめんな、あっちゃん。もう一緒には遊べんな、あっちゃん。ダウン症のあっちゃんは、13歳の生命で星になった。ほらあそこできらきらと輝いて遊んでいるよ。あれがあっちゃん、あっちゃんの星」

【先生と呼ばないで】
丹下さんは結婚されて今年で25年になるそうだが、子どもさんがいらっしゃらないので、子を想う親の気持ちはいまいちわからないそうで、作業所でも職員のことを親御さんがよく「先生」と呼ぶけれど、どうして「先生」と呼ぶのか未だに解らないそうだ。丹下さんも大学を出てすぐに作業所へ勤めた時に「先生」と呼ばれて、「いや、僕は大学出たばかりですけど…」と言っても、なおも「先生」と呼ばれるので、「先生と呼ばれたら帰ります」と言っていたそうだが、「丹下さんはいいわ。親じゃないもの」とか、「障がい児をもってないから、いいよね」など散々言われていた。障がい児をもつ親って酷いことを言うなあ~と思ったが、丹下さんはそれには何も言い返せなかった。しばらくそのことで悩んでいた時期もあったが、開き直るようにしたという。独身の時は「自分は独身だから親の気持ちなんてわかりません」そしていまは「子どもがいないので、親御さんの気持ちはわかりません」と言い返せるようになった。その言葉が言えるようになって、やっと障がい児・者の家族と対等につきあえるようになったかなと思っているという。

【親と子の関係は難しい…】
障がいのある子どもをもった親御さんの想いというのも大変なものがあって、子どもさんがグループホームで生活していても、「熱を出していませんか?」とか「夜は寝てますか?」とか問いあわせが来る。親御さんの想いを形にすると、グループホームであっても三メートルぐらい先でじっと寝息が聞こえるかどうか、手を当てていないといけないようなところがある。だからグループホームの職員は気が抜けないという。親御さんのいうことも聞かないといけないし、本人のいうことも聞かないといけない。しかし、そういうことを乗り越えて障がいのある人は大人になってゆく。差別が多い世の中で親御さんに護られながら成長してきたのもわかる。でも、そればかりだとなかなか家族と離れられないというか、親子ともどもに依存しあう関係になってしまう。グループホームの責任者をしながら。そんなふうに丹下さんは感じている。

【千種小規模作業所時代】
大学4年間でいろいろなボランティア活動とかアルバイトとか、人一倍社会経験をしてきた丹下さんだったが、周りからは「落ちつきなさい」とか「ひとつのことをコツコツやりなさい」とかボロカスに言われていたという。しかし、自ら認めるへそ曲がりな丹下さんは、そう言われれば言われるほど「絶対にそうなるか」と思っていた。そんな丹下青年でも就職は出来た。一番最初の就職先は、名古屋手をつなぐ親の会(現在の名古屋手をつなぐ育成会)の無認可の『千種小規模作業所』。ここの立ち上げから認可されるまでの3年間職員をして、認可を受けたら辞めたそうだ。丹下さんは基本的に飽き性だそうで、ひとつのところに居られないという。『千種小規模作業所』では親御さんの所長さんと職員の丹下さんと、14~15人の仲間たちと仕事をしていた。ちょうどその時、就職されて一年目か二年目に、千種区役所の講堂で笠木透さんや『花嫁』の作曲者で知られる坂庭省悟さんとか、現在一緒にバンド活動をしているホレホレバンドのメンバーに来てもらって『さいしょのいっぽコンサート』と題したコンサートを勝手に行ったという。その時に現在AJUわだちコンピューターハウスの森美由紀さんや小島万智さんとも出会ったのだそうだ。

【基本的に飽き性なので…】
当時の初任給が7万~8万円ほどで、家も借りていたそうでその家でよくお泊まり会とか、いろいろとしていたのだが、なにしろ飽き性なので認可されたのでもう大丈夫だろうと思って、その『千種小規模作業所』を辞めて、師勝町社会福祉協議会の小規模作業所の立ち上げに関わり、ここも無認可から認可された時点で辞め、一年間プー太郎生活をされていたとか。その後、愛光園「知多地域障害者就業・生活支援センター」の立ち上げと運営に関わり、知多半島全域の障害者小規模作業所をまわり、当時は〈就労支援〉などという言葉がない時代だったけれど、「お宅の利用者の方、就職出来るのではありませんか?」と言って、就職出来る人は社会に出て一般企業に勤めて稼いだり、いろいろな分野で活躍してもらいたかったので、ささやき商法みたいにそのような仕事をされていたそうだ。

【すべては高校生の頃に出会った障がいのある子どもたちのおかげ】
50歳になった時に、愛光園の「知多地域障害者就業・生活支援センター」を勝手定年された丹下さんだが、今振り返ってみるとこれまで就労支援とか生活支援とかグループホームとか、いろいろと仕事をして来られたけれど、結局のところ高校生の時に『さわらび園』で目にした障がいのある子どもさんが懸命に走る姿と出会ったことが全てかなと思っているという。丹下さんはとにかく飽き性で、課せられた課題を達成すると「もう、いいか」と思ってしまう。何かを立ち上げる時にはエネルギーを注げるのだが、それを維持・管理することが苦手で、それが軌道に乗ると急に熱が冷めてしまい、辞めてしまいたくなるのだそうだ。ご自分のことを、ちゃらんぽらんな人間だと思っている。もし、高校生の時に障がいのある子どもたちに出会わなければ、自分はただのちゃらんぽらんな奴で、栄あたりの繁華街で若い女性に「いいバイトあるよ」と声をかけたりする人間になっていたかも知れないという。丹下さんの青年時代はバブルがまだ弾ける前で、普通に勉強をして良い学校に行き、良い会社に入って良い奥さんをもらい良い家を建て、良い葬式をしてもらって良い墓に入る…ということが普通の社会のレールだった。現在とは事情が全く違う。いまは良い大学を出ても年収300万円貰えるかどうか。結婚も出来ない。アパートも借りられない。そんないまの時代とは異なって浮かれた時代だったが、丹下さんは『さわらび園』の子どもたちに出会ったおかげで、世間の流れとは違う生き方や価値観を教えて貰った。高校生の丹下さんにとっては、その『さわらび園』の子どもたちが人生の先生だったのだ。彼らは応援したいとか、助けてあげたいという対象ではなく、丹下さんよりも一生懸命走ったり、勉強したりして頑張っている人だったのだ。いろいろなことも学ばせて貰った。という。

【与えられたものは、返さねばならない…】
それに加えて丹下さんをいままで突き動かしていたのは、やはり高校生の頃に山本さんの『夢』と出会い、障がいを持っている方でも自分と全く同じ人間なんだと教えられたことだという。このふたつの出会いがなければ、現在の自分はいないだろうし、障がいのある人たちと気軽に話したり、冗談を言い合えることもなかったろう。そういう意味でも丹下さんは障がいのある人たちに対して感謝されているのだそうだ。だからこそ飽き性で職場を転々と変わっても、障がい者福祉の分野から離れようとは思われないのだ。与えられたものは返して行かねばならない。これも飽き性なので与えてくれた人たちへは直接返すことは難しかったけれど、障がい福祉の分野で仕事をしたり、障がいのある人たちやその周りの人たちの想いを歌っていれば、与えられたものを少しでも返すことにならないか…と、丹下さんは日々思っている。

【就労支援―どこかに自分のやるべきことや役割があるよ】
丹下さんが大事にしているものがもうひとつある。障がい者福祉とか、ボランティア活動を知る前の自分は、世の中の多くの人たちと同様に良い学校に行き、良い会社に入ってより沢山の給料を貰うことが一番だと思っていたし、それを目指してもいたという。しかし、そういうことは自分でなくても出来ることで、自分にしか出来ないことではないとも思っていた。そうしてボランティア活動や施設の職員をしてきて、いまもグループホームの管理責任者という役割が与えられている。こんなちゃらんぽらんな自分にもやれることがあるんだ。お金とか名誉とかとは違う役割を貰えた感じ。「先生」と呼ばれるのはどうにかしてもらいたいそうだが、人から「ありがとう」と言われたり、感謝されることって人として大事なことなのではないかと思う。就労支援をしている時、自分みたいな人間だから就労支援の仕事をした方がよいと、丹下さんは思ったという。頑張ってひとつのことをコツコツやり続けられる人が就労支援をするのではなくて、飽き性で転々としていても、どこかに自分のやるべきことや役割、居場所があるよと思い続けて、それを実際に経験している強みがあるからだ。

【福祉という言葉がなくなるのが本当の福祉】
丹下さんの究極の夢は、〈福祉〉という言葉がなくなることだという。福祉の仕事をしている丹下さんにとって〈福祉〉サービスや制度が消えてしまったら、収入の道を断たれるわけだけれど、制度やサービスがなくても困っている人がいたら、ヘルパーさんや施設の職員でなくても助けあえばよいわけで、それこそが本来の〈福祉〉なのではないのかと、丹下さんは思っているのだ。

【大久保的まとめ】
丹下さんに出会ったのは、もう何年も前になるのだろうか。丹下さんがまだ愛光園の「知多地域障害者就業・生活支援センター」の職員をしていらした頃だと思う。確か精神障がい者の就労を考えるセミナーか、それに類した集まりで知りあいの土田正彦さんが講演をし、ギターの弾き語りをしていたと記憶している。それまでは面識はなかったし、それ以降もあまり接点はなかったが、丹下さんの動向は風の噂で耳にしていた。また、NPO法人オリーブさんのアートワークショップ&シンポジウムの会場で、顔をあわせたこともあった。しかし、それほど接点がなかったのも事実で、丹下さんと面と向かってお話したのは、実はジネンカフェのうちあわせで『あさみどりの会』の本部にお伺いした時が初めてだった。耳にしていた動向から、面白い人らしいとは憶測していたのだが…。

丹下さんは、ご自分のことをちゃらんぽらんな人間だとか、いい加減な人間だと言われるが、ご本人が言うほどにいい加減でも、ちゃらんぽらんでもないと思う。むしろ純粋な人間なのだと思う。高校生の時に受けた感銘を忘れず、いままで障がい者福祉に携わって来られた。ご本人は懸命に走ったり、生きている姿に自分を省みていろいろ学ばせて貰ったから、その恩返しのつもりでいままで福祉に携わって来られたのだとおっしゃられていたが、それ自体丹下さんが純粋であることの証であるだろう。たまたま、ひとつのところに落ち着けない。ただそれだけのことなのだ。そのこともつまりは、自分の生理に純粋だということなのであろう。丹下さんはご自分の人生のことを、もう〈余生〉だと考えているのかも知れない。しかし、まだまだ枯れるのは早すぎると思う。まだまだ福祉には、丹下さんのような人が必要だ。そう、ひとにはそれぞれ、その人にしか出来ないことがあり、役割があるのだ。今後とも丹下さんには自分らしくいい加減に、ちゃらんぽらんに頑張って行ってほしいと思っている。


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