ジネンカフェだより

真のノーマライゼーション社会を目指して…。平成19年から続いているジネンカフェの情報をお届けします。

ジネンカフェVOL.104レポート

2016-07-19 18:43:54 | Weblog
梅雨の時季とあってこのところ天候が一定しない。激しい雨が降り続く日々があるかと思えば、太陽が顔を出して真夏を思わせるような暑さに見舞われる時もある。その繰り返しなのだが、例年に比べるとその周期が短い気がする。ジネンカフェVOL.104を催したこの日は、晴天に恵まれて気温もぐんぐん上昇していた。この日のゲストは、(株)都市研究所スペーシア取締役計画室長・浅野健さん。いわゆる〈まちづくりコンサル〉さんである。浅野さんは高校生の時に仲間と瀬戸大橋を見に旅行へ行ったことを機に建設・まちに興味を持ち、建設系の学科がある名古屋工業大学に入った。大学では戦災復興の都市計画を研究。東京の民間コンサルタント会社を目指すが、学部の卒業時はバブル崩壊の影響が就職に出るようになった最初の年で就職するのは難しいと考え、大学院へ。大学院の修士の時に阪神・淡路大震災、地下鉄サリン事件があってますます就職難となり、縁あって入れたのが今の会社。今や人生の半分は、久屋大通沿の事務所で暮らす毎日だという。お話のタイトルも、ずばり『〈まちづくり〉って何だろう?』

【就職氷河期・大震災・大事件】
冒頭にも触れたように、浅野健さんは大学・大学院を通して6年間名古屋工業大学で都市計画を学んでいる。大学3年生の時に〈バブルの崩壊〉があり、大学院修士の時に〈阪神淡路大震災〉や〈地下鉄サリン事件〉が起きた。就職氷河期でもあったので、就職することがなかなか難しい時代だったという。就職先があまりない上に、日本国中を揺るがした大震災や事件が起こり、世の中が騒然としていた時代であった。就活していた浅野さんも幾つかのコンサル会社の採用試験を受けたものの、窓口が狭くてなかなか就職が決まらなかったそうだ。そして漸く現在のコンサル会社の採用が出たのが、修士二年目の11月だったという。

【コンサルタント会社の仕事】
浅野さんは6年前から現在の役職に就いているそうだが、会社のメンバーは10名というから、それほど大きくはない。資本金も株式会社設立条件のギリギリのところだという。フィールドは東海三県。仕事の内容は〈計画系〉と〈再開発事業系〉という二つの分野から成り立っていて、浅野さんはどちらかと言えば〈計画系〉であり、国や自治体から調査費を貰い、いろいろな調査をしているそうだ。これは毎年コンスタントに仕事がある。もうひとつの〈再開発事業系〉というのは、スペーシアが関わった事業で言えば、大須や勝川、西春や岐阜駅ビルなどの再開発に関するコーディネート業務で、現在進行形で岐阜駅前の再開発事業二本と、新しく一本関わり始めているという。しかし、こうした再開発事業は時間がかかる。新しく変わる時は一気に変わるのだが、それまでが長いのだ。駅ビルや駅前などを新しく変えようとすると、その土地の権利を有している地権者全員が同意しなければ出来ないし、同意しただけではなく再開発のため国の補助金を受けるには役所に準じた〈市街地再開発組合〉を作らなければならない。更に県にも〈都市計画決定〉の手続きが必要になって来たりして、それらをクリアするだけで最低でも10年はかかるという。
工事自体は着工して5年ほどで完成するのだが、そこに辿り着くまでの課程に時間が要るのだ。岐阜駅の事業で今年20年目というものもある。だから同じコンサル会社でも〈計画系〉と〈再開発事業系〉とでは、事業スパンが全く 違うのだという。〈計画系〉は仕事を毎年取らなくてはいけないけれど、〈再開発事業系〉は長期間の契約で仕事を取って来るので、お金が入って来る年と入って来ない年もあるのだそうだ。経営基盤の小さな会社にとって事業収入の波があるのはあまり好ましいとはいえないが、そこら辺の難しさはあるものの、それでも1990年、浅野さんが大学生になった年に設立され、25~26年続いてきている会社だという。浅野さんの勤める会社は、一応「まちづくり・都市計画」と看板を掲げてはいるものの、それだけでは厳しいところがあるので、現在ではその都市計画で培った事業の進め方を他に転用していかないと、なかなか仕事が取れなくなって来ているという。まちの規模が大きい東京にはそれなりに仕事があり、それぞれの専門のコンサル会社もあるそうだが、東海三県では〈なんでもコンサル〉をしていかないと会社が成り立って行かないのだという。

【国や自治体の〇〇計画の裏には】
よく国や自治体が〈総合計画〉や〇〇計画を作るのだが、必ずそこにはコンサルタントが付いていると思ってもよいという。遙か遡ること戦前には県の計画なども専門の技術者が来て計画を作成していたのだ。都市計画もすべて役所の職員が作っていた。しかし、戦後になって役所のあり方も変化してきた。それに伴って職員も長くて5年、短ければ2~3年で担当部署が移動するようになり、加えて縦割り行政ということもあって、ひとりの技術者がある程度広く浅く知識をもつことは出来るけれど、技術を高めることは出来ない仕組みになっているのだ。それは大きな役所、例えば〈愛知県〉でもそうなっているそうだ。だからこそ手を動かす最後の場面、調査をしたり、統計を取ったり、分析したりという、計画を作るかなり深い部分に関わってゆくことになる。

【計画を策定するために】
どこの自治体もそうだが、計画を策定するまでに必ずコンサル会社が調査をする。そのまちの現況や課題とか、あるいは前もって人口予測までつくるそうだ。それをするためには統計状況で、国や県・市が出している、ありとあらゆるデーターを使う。そこで拾えないデーターはアンケートを採ったり、ヒアリングをする。更にまちの現況を知るために、現地を回ったりもする。それらを使い、分析を踏まえながら計画を作ることになるのだが、その計画も愛知県レベルで作るのか、市町村レベルで作るのか、もっと細かい地区レベルで作るのかによってそのグレードが違って来るという。そうしたものをいままで受託してきて、ノウハウをどんどん蓄積して行っているという。いままではコンサルタントの仕事というのはこうした調査・分析が主だったのだが、現在では当たり前のようにワークショップとか、パブリックコメント(策定した計画を案としてHP上で示し、市民の声を聞く制度)が仕事として入ってきていて、自治体では計画を作るための策定委員会を作ったりするので、それらを一式スケジューリングしてその中でコーディネートして行かねばならない。結構タイトな仕事をこなしてきているという。要するにお役所の仕事を受けて、それを形にしてゆく仕事なのだ。

【コンサルがどんな調査・作業をするのか?】
どんな調査をするのかというと、例えば長久手市の場合、5歳ごとの人口のデーターがあるのでそれを基に〈人口推計〉を出して行ったり、最近の人口の出入りなども統計から解るし、開発状況などを見ながら30年後の人口予測をするのだそうだ。5歳ごとの人口のデーターをみれば、その地域が過疎化しているか、増えているのか解るという。名古屋を中心とした30キロ圏の地価の状況も、データーだけでは解りづらいので地図上に色分けする作業をするそう。色分けに関しては、いまは国がそういうシステムを作成していて、データーを入れるだけでカラーリングが出来るようになっているが、昔は地図上に手作業で描いていたという。ワープロも現在のように性能がよくなかったので、先に文字だけを入力しておいて、地図を貼るスペースを空けておき、後から別に描いた地図を貼り付けるという
アナログな手作業をしていたそうで、その頃に比べて現在はそういう専用のソフトを使え
ば楽に出力出来るようになった。地価のデーターは毎年半年に一度、1月と7月に発表されるので毎年そのデーターを見ることにより、そのまちの地価が上がっているのか下がっているのか、そういう分析もされているという。

【アンケート調査の結果を視覚化する】
コンサルタントはニーズに応じて、そのまちの住民や観光客にアンケート調査を行うこともある。例えば下呂温泉で観光客に行ったアンケートで、〈下呂温泉で何が楽しみですか?〉という設問に「飛騨川沿いの風景」と答えた人が多かった。これも数値として見せるのではなく、グラフや図を使って視覚化してゆくのだ。数値だけみてもらっても意識には届きにくいが、その数値を視覚化することによって10代から70代のどの層からも「飛騨川沿いの風景」が魅力的だと支持されていることが解るのだ。また、〈商品開発をする上でのデザインの関心度〉を企業に尋ねたデーターもある。これに関しては、食料品や生活に密着している企業ほどデザインに関心が高く、製造業になると関心度が低くなるという結果をグラフで示したりもする。こうして文字だけではなく、グラフや図を使ったわかりやすくて見やすい資料づくりも、コンサルの仕事でもある。ある程度このようになるだろうなという予測を立てながら、アンケートの設計をして分析に使って行くのである。


【市町村の総合計画と将来計画】
だいたいどこの市町村でも中・短期の『総合計画』を策定し、一部の市町村では長期に渡る『将来計画』も策定している。どう違うのかと言えば『総合計画』の方は10年単位ぐらいの緻密な計画で、それに比べて『将来計画』の方は30年ぐらいの長期に渡るものなので「まちづくりの理念」とか「方向性」を表したものとなる。『総合計画』よりも上位の計画として『将来計画』を持つ市町村は、それに沿って『総合計画』を策定してゆく形になる。私(大久保)も半田市の『第6次総合計画』の市民委員公募に応募して策定に関わったが、いままでは調査やアンケートに基づいた基礎データーを役所の中の検討会議を踏まえて委員会で決めてゆくというパターンが普通だったのだが、半田市のように市民から委員を公募して策定してゆくという形を採ることが多くなってきている。浅野さんの会社が関わった四日市市では「若者懇談会」ということで、市内の大学や高校まで行ってそれぞれの学校にこういうことに関心のある子に集まって貰ってその子たちに意見を聴く試みを8箇所開催したり、四日市市は24箇所中学校区ぐらいに分かれていて、そこでも懇談会があったり、市民討論会と市民シンポジウムを一回ずつ開催している。市民シンポジウムはきっかけづくりで行い、ある程度煮詰まって来たら市民討論会を開き、福祉・産業・まちづくりの分野に分かれて意見を貰う場面もあったそうだ。更に計画が煮詰まった段階でパブリックコメントで2回意見をもらう機会があり、そうして二年間を費やして四日市市の総合計画は策定されたのだという。

【計画づくりは都市計画や総合計画だけではない?】
本来ならばそういった都市計画や総合計画だけを柱にして行きたいところなのだそうだが、なかなか現実は厳しいものがあり、計画づくりのノウハウを活かして、その他の分野の計画も策定のアシストをすることもあるという。計画を立てることは難しいことらしく、観光事業者も観光ツアーを組むことは出来ても、観光計画づくりには長けてない。そんな中でコンサル会社の方が調査や計画づくりのノウハウがあるので『観光計画』を策定したり、『交通計画』や『子育て計画』『産業振興計画』といったように、策定のアシストをする幅が拡がって来ているそうだ。

【名古屋の課題】
どこの都市でもそうだが、そのまちの都心部には都心部ならではの課題を抱えているものだ。名古屋でも一、二位を争う繁華街である栄のメインストリート、久屋大通の中日ビル側の歩道には無断で延々と自転車が停めてあったりする。更に交差点付近になると地下鉄への階段出入り口があるため、その付近は自転車とひとで錯綜した状況になっている。もっと歩道の幅員を広げたいところなのだが、久屋大通の車道は4車線もあり、点在するデパートなどのバーゲンの期間になると、平日の昼中でも車がズラリと並ぶ。名古屋は地下鉄やバスなどの公共交通機関が発達しているにも関わらず、未だに車社会どっぷりの街なのだなと解る事案である。名古屋でもいま交通処理のあり方が求められていて、浅野さんたちもお手伝いされて2011年に大須~栄・三越の間を周るループバスの社会実験をしたこともあったが、乗車率が高くてニーズも結構あると思うのだが、採算性の問題があって未だに実現に至っていないという。車の人もどこかに停めてきて貰い、出来るだけバスを使ってもらうとかしていかないと、なかなか都心の車は減ってはいかない。三重県伊勢市が公共施設の駐車場に車を停めておいて、そこからバスで観光地までピストン輸送をする取り組みを始めているという。名古屋でも毎月大津通りの歩行者天国をしているが、その時になると周りの道路が大渋滞を起こしているそうだ。

【コミュニティバス】
このようなまちの課題を話していると、まちづくりに関心がないひとでも、買い物に行く時などに思い出し、身近なものとしてまちのことを考えられるのではないかと思う。実際に、愛知県下でも『交通まちづくり』の視点からコミュニティバスを走らせている自治体もある。武豊町ではバス停を自分たちで手作りで造作して〈コミュニティバス〉のことを知って貰ったり、武豊には味噌蔵があるので味噌蔵案内ツアーを組んで利用して貰ったりして、「たまにはバスを使ってよね」というメッセージを含めた取り組みが行われているという。

【そもそも「まちづくり」って何だ?】
では、そもそも「まちづくり」って何だろう? 「まちづくり」にはいろいろな書き方がある。「街づくり」「町づくり」「まちづくり」。「街づくり」とか「町づくり」だとなんとなくハードな印象があるから、ひらかなで表現してみたり、行政主導のものは漢字を使い、住民参加型のものはひらがなを使うなど諸説あるが、浅野さんはこんなふうに思っている。東京の町田市や大阪府で「福祉のまちづくり」を条例化した時にもひらがなを使っている。福祉の側面から(バリアフリーとかユニバーサルデザイン)まちづくりを進めてきた自治体は全国的に多いが、そのような自治体はやはりひらがなの「まちづくり」を使っているそうだ。愛知県は建築の部署が街づくりに入っているので、漢字の「街づくり」を使っている。愛知県の中でも「ひとにやさしいまちづくり」を福祉畑で行っている市町村もあれば、建築畑で行っているところもあり、それが「まちづくり」と「街づくり」を混在させているひとつの原因だろう。因みに名古屋市は完全に福祉畑の健康福祉局が「ひとにやさしいまちづくり」を推進させているので、まちづくりをしている住宅都市局はあまり関心がないらしい。名古屋のような大都市のものづくり・建物づくりの部局がユニバーサルデザインやバリアフリーのことを知らないというのは、いろいろな意味で問題があるなと、浅野さんはいつも危惧しているそうだ。

【イギリスと名古屋の戦災復興を比較する】
浅野さんは学生時代修士の時に、イギリスと名古屋のまちづくりについて、主に戦争からの復興の比較について研究をさていて、それについて修士論文も書いている。イギリスはカンタベリーの道路の図を手書きで描いたり、名古屋の戦災復興の時に100メートル道路がどうして計画されたのか、どのように可能になったのか書いているとか。カンタベリーと言えば14世紀の詩人・チョーサーの『カンタベリー物語』で知られているが、そのカンタベリーのある地区で戦災復興のための再開発事業が持ち上がった。70年ほど前の話だ。しかし、その再開発案は「旧いレンガ造りの街並みを守りたい」という住民運動が勝ち、旧市街地はそのまま、その周りに道路を巡らせるという案に落ち着いたという。日本とイギリスの道路を通す理由がそれぞれ違っていて、日本の場合は交通渋滞を緩和させる。ひとつの道路の交通量をいくつかの道路へ分散させるために環状道路が計画されるのだが、ヨーロッパの都市はひとつひとつが「国」という形で発展してきて、その国の周りを城壁によって守ってきたという歴史がある。城壁の中が旧市街地であり、その旧市街地を守るためにその中の道路はそのまま膨らませずに、その周りを循環させるように環状道路を通すという計画に変えたのである。つまり日本の都市計画は道路行政と景観行政が全然マッチしてなく、イギリスは最初から景観ありきで、景観を守るために車を入れさせない。ヨーロッパの街並みが美しいのは、そういうことも要因のひとつとして挙げられるのだろう。名古屋の都心部は碁盤割りの街並みの中の道路幅をもう少し広げた程度なので、おそらくつくりやすかったと思われるが、それでも街中の道路をあれほどまでに広げられたのは、やはり行政のなせる技だと浅野さんは思っている。

【まちは誰がつくるのか?】
それもあって学生時代の浅野さんは、日本のまちはヨーロッパのそれとは違って、行政がつくるものだと思っていたという。しかし、社会人一年目の時に「まちづくり」という言葉の発祥の地でもあった栄東地区の話をいろいろな先生から聞いて、白壁や橦木館の活動に関わったり、世田谷区の参加のデザインということで、住民参加で公園づくりをする当時としては先進的な取り組みを全国にも広げるために世田谷区役所のまちづくり公社が行っていた研修(ワークショップ)に参加し、学んだ成果がいまの住民参加の場での運営に役立っているかなと浅野さんは振り返っておられた。このように学生時代の6年間と就職してからでは、自分の中のまちづくり観が全くと言ってよいほど変化したのだという。それは何も学生時代の浅野さんに限らず、暮らしの中でまちづくりなんて考えたことがないひとは大半だろう。しかし、いざという時にまちづくりの知識が必要になってくることもあるから、少しでも関心を持ってもらえるとよいのではないかと、浅野さんは思っている。

【一般の人たちがまちのことを考える時―家を建てる時、災害時】
一般の人たちがまちのことを考えるのは、おそらく家を建てる時だと思う。家を建てようとする時は、さすがに考えると思うのだ。どこに住まおうと。福祉系の人なら事業所をどこに建てるか考えるかも知れない。どういう地域に開くか? 最近では東北や熊本など、日本は地震国だということが浸透しているが、災害が起きて避難所に行く時も否応もなく地域のこと、まちのことを考えるだろう。避難所の環境が悪いとか、人様に迷惑をかけるから避難所へは行きたくないとか、だから「福祉避難所」という発想が出てきているが、地震国である日本は過去の経験から学ぶことが出来、常に課題を新しい動きとして取り入れているように思う。「ボランティア元年」と言われている阪神淡路大震災の時に、あの時以降ボランティアが増えて来たと言われていて、それから15~6年経った東日本大震災の後に阪神淡路よりも広域に被害を受けたので、いろいろな分野のボランティアが、いろいろな形で入って行くということが、より明確にされているような気がするという。熊本に関しては地震が狭いエリアで起きたということもあって、急場のボランティア自体はもう撤退をはじめているようだが、今後まだまだ仮設住宅を造ったり、新築の自分たちの家に戻れる人も、持ち家だった人が集合住宅みたいなところに移らなければならないかも知れない。その辺の生活再建をどうするのか、課題点はまだまだあると思うので注視して行かなければならないと思っている。

【家の前に巨大マンションが…。】
災害時などの非常時にではなく、日常的に起きるトラブルとして、自分の家の前に巨大マンションが建ってしまうということがある。日本では南から太陽の日差しが入って来るので南向きの家が多いのだが、その前や周りに大きなマンションが建ってしまうと、その北側に住んでいる人たちの家には日が差し込まなくなるので反対運動が起きる。しかし、大概の場合は建ってしまう。現在の日本の法律や制度ではマンションにしろ、一戸建ての住宅にしろ、一般の住宅地ではその敷地の100%を建物に使うことは出来ないことになっている。建坪率と容積率の問題もあるのだが、他にも民法では隣地境界線から50センチメートル空けて建てなければならないように法律で定められている。100%の敷地に対して、大雑把に言うと(最も建ぺい率が高い商業地の場合でも)80%しか家が建てられない。住宅地などではこれが60%になったりするそうだ。住宅地よりも商業地域の方が目一杯建てられるという。マンション業者は横に長いマンションを建てるよりも、縦に階層を積んだ方が価格の割合が土地より建物の方が大きくなり、税金を評価するのに土地より建物の方が低いから、土地・建物にかかる税金も安くなる。同じ戸数をつくるなら使う土地を出来るだけ狭くして、上に積んだ方が税金対策になるのだ。加えてマンションは人が集まるようなところではないと部屋が埋まらないので建てられない。そうなると土地価格もそれなりに高くなり、建設費用よりもかかるということにもなる。だからマンション業者は土地を効率的に活用するために部屋を上に積むのだという。長久手や緑区や天白区のように周りの環境もよく住みやすいところに高層マンションが続々と建てられているが、名古屋駅西には建てられていないのはそういう理由もあるのだという。

【建物の高さにも規制がある】
平面に加えて建物を建てる時には高さにも規制がある。建物の高さは容積率ということで、住宅地なら土地の面積の2倍、200%が限界なので大きな土地の方が高層化しやすいのだ。加えてもうひとつ横に長いマンションよりも、縦に高層なマンションの方が建設するのに有利な点がある。それが前述した日影規制である。東西(横)に長いマンションと、縦に高いマンションがあった場合、その北側にある家が日陰になる時間が長いのはどちらかと言えば、間違えなく前者の方なのである。これは日本で一番日照時間が短い冬至の日を基準にしている。夏場は太陽の位置が高いので落ちる影の距離も短いのだが、冬場殊に冬至は太陽の位置が低いので影の距離も長くなってしまうからだ。用途地域によって落とす影の時間的基準は異なるのだが、最低で〈3時間以内〉最高で〈5時間以内〉ということになっている。マンションとか高層ビルを建てる際には必ずそれを調べることになっていて、逆に言えばこの基準をクリアしなければマンションは建てられない。マンションやビルの高層化が増えている背景には、そのような事情もあるのだという。

【開発業者 VS 景観行政】
法規制をクリアしやすいのと、低予算で高収益があげられるということで高層マンションが続々と建てられている現状だが、他にもいろいろな問題もあって周辺住民に迷惑がかかることがあり、こんな単純な法律でよいのかということも話題になっているという。某市でマンション等の開発業者VS景観行政の訴訟があった際、最終的に勝ったのはマンション開発業者の方だった。いまの日本では個人の権利が護られているから、建築基準法や都市計画法に則っていれば、相手が行政であろうと勝ってしまうのだ。それが問題で、浅野さんたちまちづくりコンサルが住民との間に入ることもあるのだが、訴訟で勝つからには周りの景観に配慮してほしいと申し入れているのだという。何も言わないと全国どこに行っても通り一辺倒のマンションが林立することになってしまうからだ。名古屋市東区白壁地区などはその最たるもので、マンションは建っているけれど、その前に赴きのある長屋門が残っているのは住民からの声があればこそで、それがなければ風情あるあの景観は守れなかったであろう。

【知っておいた方がよい我がまちのこと】
自分が住んでいるまちのことを知っておいた方がよいと思われるものに〈防災対策〉がある。防災と言えば、東海地方では南海トラフ地震が懸念されているが、各市町の被害予測などはインターネット上で簡単にみることが出来るので、避難所の場所も含め、一度確認しておいた方がよいという。それと身近なところで意外に知られていないけれど、知っておいた方がよいと思うものに、土地の価格がある。戸建て住宅に住んでいる人は毎年固定資産税を払っているので身近な話なのだが、固定資産税は土地の価格に応じて上下するので、固定資産税が下がったら、それだけ土地の価格も下がっているということなのだ。これもネットで簡単に調べられるようになっているという。それと〈地歴〉。その土地の歴史のことだ。よく江戸時代の古地図をみると、その土地の状況が解ると云われているが、それは正しくその通りなのだ。

【名古屋の広小路は、なぜあんなに広い通りなのか?】
名古屋の駅前から栄にかけて東西に広い通りが貫いている。広小路通と呼ばれている道路なのだが、その広小路通はなぜあれほど広いのかと言えば、万治3年(1660年)に城下の半分を焼き尽くした「万治の大火」が起きたことを機に、碁盤割南端の堀切筋(久屋町~長者町間)の道幅を3間(約5m)から約15間(約27m)に広げたことに由来するという。そう、現在の広小路通のあの広さは、江戸時代からのままなのだ。そればかりではなく名古屋の都心部の区割りは、徳川家康が慶長17年(1612年)頃、それまで本拠地であった清洲から「清洲越」を行い、城下に碁盤割の町を築いたままなのだとか。(道路幅を少し広げた程度)西区の四家道もそうで、火災による類焼を防ぐための手段として道路幅をあんなに広げたのだ。また桜通も第二次世界大戦時に疎開する人が多く、やはり爆撃による類焼を恐れて木造住宅を倒して道を広げたのだ。そして戦後の復興期には市街地に数多あった寺や墓地の土地を買収し、平和公園に移転して貰ったのだという。そうして造られたのが久屋大通であり、若宮大通であり、戦後の名古屋の区画整理事業であった。道路幅を広げるためにもともと住んでいた人たちに退いてもらい、その分はお寺から買収した土地を当て、お寺には平和公園に移転してもらう。そうして出来たのが現在の名古屋のまちだそうだ。

【名古屋市の骨格】
現在の名古屋駅は、はじめは考えられてなかったので当時の街中に造ることは難しく、少し郊外に建てられた。いまや栄よりも勢いがある地域になっているが、堀川よりも低い土地に建てられているため洪水などに遭いやすい。明治時代の名古屋のまちは、笹島はギリギリ入っているが金山までで、熱田町は2000年の歴史がある熱田神宮があるので名古屋に入ることを拒絶していたらしい。しかし、名古屋港を造ることになり、熱田町も名古屋に入らざるを得なくなったのだ。こうして初めて近代的な街らしいまち、名古屋市の骨格が出来上がったのだった。

【大久保的まとめ】
浅野健さんとのつきあいも、もう17年にもなる。浅野さんも私も愛知県が主催していた『人にやさしい街づくり連続講座』の卒業生で、彼の方が一年先輩なのだが、確か私が受講した年度には別のグループのサポーターをしていたと記憶している。話したきっかけは何だったのか、もう忘れてしまったのだが、どうせ飲み会などの時にまちづくり以外の下らない話ばかりしていたのだろう。やがて私はまちの縁側育くみ隊の理事になり、浅野さんはコンサルとして働きながら、ひとにやさしいまちづくりネットワーク東海の理事として活動するようになり、一緒に仕事も活動することもなかったが、時々名古屋ですれ違ったり、何かの講演会で一緒になり、一言、二言、言葉を交わす程度の交友はあった。ジネンカフェにもこれまで「まちづくり」の活動をされているゲストさんが、ご自分がされている活動についてお話されたことは何度かあるが、仕事としてまちづくりをされているコンサルさんは、それらの方々とはまた異なった視点でまちを見て、まちづくりをされているのだろうと思った。それをぜひ聴いてみたいと思ったのだ。当日は「まちづくり」という一般のひとにあまり馴染みのないテーマだったせいか、残念ながら参加者が少なかったが、まちも、まちづくりも、至極身近なことなのだ。これを読まれた方が、ひとりでもご自分のお住まいになられているまちに関心を持ち、まちづくり活動に興味を示してくれるのなら、ゲストの浅野さんも、ホスト役の私もこれに過ぎる喜びはないだろう。
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