JINCHAN'S CAFE

My essay,My life
エッセイを書き続けることが、私のライフワーク

ti amo

2009年03月06日 20時00分00秒 | 創作
<魅惑の人妻版:ti amo>

 誰しも、心の中に、決して家族にも踏み込まれたくない聖域がある。

 カーステレオから流れてきた歌に、胸がドキリとした。エグザイルの、今や代表曲と考えてよいのだろうか。『Ti Amo』。哀しくも愛しい恋の旋律は、私の心に、にわか雨を降らせる。拭っても拭っても広がっていく水滴。膝の上で、小さく折りたたんだハンカチを、そっとにぎりしめた。

 同じような光景が、過去にもあった・・・。あの時、カーステレオから流れていたのは、稲垣潤一の歌だった。

 クリスマスキャロルが流れる頃には
 君と僕の答えもきっとでているだろう
 クリスマスキャロルが流れる頃には
 誰を愛してるのか今は見えなくても

 この曲が収録されたアルバムを、面と向かって、渡せぬ男がいた。内に秘めたる想いを、素直に吐き出せない。そんな不器用な男を、私は、ただ黙って眺めていた。やがて放たれた、愛という名の光は-プリズムを通り抜けるがごとく、いつかの色に姿を変え-そうして違う意味合いで、こちらの心へ刺さるのだった。

 アルバム中の数ある愛の歌より、その一曲には迫り来る感情があった。一つ一つの歌詞に、覚えがあるような気がする。冷静な面持ちで聴くことは、もはやできなかった。ロマンティックな時期に、彩を添えるBGM。クリスマスキャロルという言葉を耳にして、そういう捉え方をしてきたのは、いささか見当違いだったかもしれない。今更ながらの感慨に襲われる側面には、別の男の存在があった。目を細め、流れる外の景色に視線を漂わせる。心は、過去の風景を映していた。

 「抱きしめてもいいかな?ぎゅっと。」言葉とはうらはらの柔らかな抱擁の後、彼の瞳がゆっくりと下降しながら少し傾き、止まった。 ’ここまでおいで’というように。ほどなくその意味を理解し、目を閉じて唇を重ねる。導かれた先は、清らかな泉。私は、そこへ身を浸した。静謐な空間。至福のとき。もうあんなキスは、二度とできないだろう。

 長い人生の中のたった一日。その中の、ほんの数時間の出来事が、自分の身体に爪あと-忘れられない痕跡とでも言おうか-を残すことになろうとは、思いも寄らなかった。激しい感情の昂ぶりに、支配されていた訳ではない。どこか冷徹な視点が、自身を見下ろしていた。なのに、どうして逃れられないのか。

 男に、くみしだかれる時-かつて恋をした彼との最後の風景が、甦ってくることがある。’未だ記憶に残る、すべてのものを拭い去り、僕は別れを決めたんだ。’目を伏せる。’とても辛い時間だった。’あふれ出る雫が頬を伝う。月あかりの下、私の涙は、男の目に映っているのだろうか。そんな疑問から逃れるように左頬を枕に重ね、やがて押し寄せる快感に身をまかす。応える吐息には、忍ばせたものがあった。

 セックスは、恋のように切ない。深く、つながり合おうとするほど、切なさが満ちてくる。そこへ触れれば、すべてが崩れ落ち、泣き出したくなるようなポイント-私が私でいられなくなる境界-を、揺さぶるから。’来ないで。’乳房に近づきそうな位に曲げられた両膝で、男のわき腹を押し返す。’私の奥深くに。’男は抵抗を感じながら、なおもその先へたどり着こうとする。’来ないで。’小さなせめぎ合いの末、身体から、ふっと力が抜けた。

 堕ちていく先には、何があるの?理性を失った私から、どんな顔が現れるの?

 一際高い声を発し、激しく首を振る。心の水がめを、愛で満たしたい。 そうして、私を苦しめる感情が、流れ出てしまえばいい。悲哀・嫉妬・貪欲・猜疑・陰険・飢餓・憎悪。’ここまでおいで。’身体の奥深くから導き出されたものすべて。男の首に腕を回し、抱き寄せた。重ねた肌から温もりが伝わる。男は私の背中をさらに引き寄せ、私は男の両肩を優しくかき抱き、腰を揺らし始める。

 そうやって、男を求め続けた。どうか身体に残された爪あとが、消えていきますように。パンドラの箱から放たれた忌まわしい感情。それに区切りをつける為にも、新たな爪あとを刻み付けるしかなかった。過去の1シーンを、美しい思い出へ昇華するには、残された爪あとが深過ぎた。さらなるものを求めて、求めて。突き詰めた先に開けるのは、荒涼とした風景か。それとも・・・

 「君が求めているものは、君を輝かせているのか?」暗い森の中を、さ迷う私の心に、ある時老人の声が響いた。「身も心も、擦り減っていくだけよ。」少しうつむき、か細い声で答える。「求めたいという想い、その針が振り切れた時、今度は途方もない嫌悪感が襲ってくるんじゃないかって、心配してる。それでも、求めずにはいられないの。」やがて視線を上げ、「求めることは罪ですか?」老人は、穏やかに微笑んだ。「罪じゃない。ただ、そのことによって、自分自身が辛い思いをしているのなら、考えた方がいいのではないかな。」

 記憶の底から、一つの言葉が浮かび上がった。「私は、あなたに生かされたの。」あの頃の私は、求めていた相手から、輝きを与えられていた。ti amo。君を愛しているという甘美な言葉によってもたらされる幸福感。存在を肯定されることで、より光を放つ。’生かされる’とは、そういうことなのだろう。見つめ合う関係の中、求め・求められるのは、この上ない喜びだった。だが、愛するという行為を突き詰めていけば、さまざまな感情に苛まれる。光あるところに、影が存在するように。そうして、その影から逃げ切れるものではない。

 今もまだ、自分の扱い方がよくわからず、もてあまして。そのクセ傷つかないよう自身を、その感情を、飼いならすのには、抵抗を感じて。それでも受け入れていくしかないのだろう。私の中から、何が導き出されようと。そうして、やはり求め続けている。自分を輝かせるモノを。

 ダッシュボードに無造作に置かれていたCDへ手を伸ばす。心が、にわか雨に降られた後、きっと聴きたくなる曲をセレクトした。「クリスマスキャロルの頃には」の次の曲。身体の中に眠っている何かが目覚めていく・・・そんな感覚に包まれる歌。カーステレオから、少し高めの男性ヴォーカルが流れ出した。

 Woman 君が探してる 未来は君の中にあるよ・・・

 私は、パンドラの箱に最後まで残されていたものを、この曲に重ねているのかもしれない。-もう一度、妻を口説こう-そんな男の思惑は、今も、昔も、少しよじれて私に届いている。


※ この創作は、当時41歳の人妻と19歳の少年が、お互いの感性をスパークさせて作り上げたコラボ作品です。二つ揃って初めて完成形となる、そう思っています。
   相方ギャツビイくんは、その後退会してしまいましたが、本人の了承を得て以下にギャツビイ版の『ti amo』を掲載させていただくことにしました。なお、このページに合わせて、若干編集を加えてあります。(ギャツビイくんごめんネ)


<ギャツビイ版:ti amo>

 「これはね、アピールなんだ」左手の薬指に輝く指輪を右手でいじりながら、僕は隣に座る女性に言った。その時の彼女はまだ二十代で、僕とは五つ齢が離れていた。「アピール」僕の左手を見詰めている彼女は、その言葉を身体に沁み込ませるように発音した。突然の話題の切り替えに、ふいを突かれたようにも、いつもと変わらないようにも見える。目を上げた彼女は、思いついたように訊ねた。「僕は結婚しているって?」

 一年くらい前に、僕と同じ部署にやってきた彼女とは、ほとんど接点がなかった。僕は普段、出向いた客先で仕事を行うことが多く、自分の会社に戻らないこともしばしばある。だから状況報告のために、久しぶりに会社に戻ると、見知らぬ女性がいて驚いた。それが彼女で、「お疲れさまです」と笑顔で挨拶されたときから、気になっていた。仕事面では初めてリーダーを任され、プレッシャーやストレスを感じていた。そうして仕事が忙しくなり始めた時期に、妻とのすれ違いも多くなり、亀裂が生じた。仕事にも家庭にも追い込まれていることは自覚していたけれど、どこかに癒しを求めていたということに僕は無自覚だった。それを自覚したのは、挨拶するだけの彼女との間柄に、なにか展開をもたらすような糸口を探していることに気付いたときだった。

 頼りないきっかけを作り、些細な会話をした。はじめはよそよそしかったけれど、次第に距離も近づき、だいたいが僕から、たまに彼女から、仕事のあとで、飲みに誘うような仲になった。全体的に柔らかい印象だった彼女に、僕に対してなんらかの興味が含まれるようになったのは、それから一ヶ月ほど経った時だった。そして彼女の興味は僕の中に意識を生み、生まれた意識が彼女の好意に気付き、彼女の好意は僕の中に期待の種を植え込んだ。

 「僕は結婚しているって?」「そう」 僕はゆっくりと頷いて肯定した。こういった類の話を持ち出したのは初めてだった。彼女との会話は公的なものが多く、プライベートなものは殆どなかった。だから僕が、指輪の――つまり少し踏み込んだ――話を始めたことに、彼女はいつもとは違った反応を見せていた。「言い寄られてしまうから?」 彼女は少し身を乗り出して、先を急ぐように訊ねた。その反応が可笑しくて、僕はわざと焦らすようにしてから、無言で頷いた。

 ふうん、と納得したように彼女は頷いて姿勢を元に戻し、カウンターに肘を付いて手を組み、目の前にある虚空をまっすぐに見詰めた。十秒もしないうちに僕の方に向き直り、「でも知ってる?」と、自分の馬鹿げたこだわりを暴露するかのように、笑いながら続けた。「結婚指輪をしている男の人って、素敵に見えるのよ」僕はその言葉に含まれた真意を汲み取ろうとした。微笑みかける彼女の表情、頭の中で繰り返される彼女の言葉から、僕の中にある期待の種を成長させるような真意を。「そうなのかな」と曖昧な相槌を打ちながら、彼女の言葉を反芻する。「そうよ」彼女ははっきりと答えた。彼女は僕と二人でいる時は敬語を使わない。親しげな口調で、既婚男性の魅力のようなものをつらつらと語っている。「それじゃあ」彼女の話を遮って切り出した。緊張で声が上ずらないように気を払いながら、彼女に訊く。「僕も素敵に見える?」彼女は洒落の利いたジョークでも聞いたようにくすくすと笑った。ほどなくして、口元に笑みをたたえたまま、僕の目をじっと見詰めて言った。「見えるわ」それは冗談のようにも、真剣に言っているようにも聞こえて、僕はさらに困惑した。

 「少し遠回りしましょう」と提案したのは彼女だった。僕たちは一度タクシーで会社のある方面へ戻り、それから左手を住宅街、右手をわりと大きな河川に挟まれた、この街ではお決まりの散歩道を歩いていた。涼しくなり始めた夜の風は肌に心地よく、雲のない夜空には、星が霞んで見えている。昼間は目も当てられないくらい濁っている川も、夜の藍色に染まっている。

 「僕も素敵に見える?」あんなに思い切ったことを訊いたのは、生まれて初めてだった。僕は陰口や皮肉を言わないかわりに、冗談もあまり口にしない。もう一度やれと言われても、できないだろう。今こうやって酔いを醒ましながら歩いている間も、さっきの発言はするべきではなかったかもしれない、と後悔をし始めていた。「あなたは本当に素敵よ」僕の考えていることを見透かしたかのように、少し前を歩いていた彼女は言った。 「今まで出会ったどんな男性よりも」一度だけ鼓動が大きく跳ねた。それは期待の種に芽が出たことを知らせる合図のようにも思えた。彼女は立ち止まり、つられて立ち止まった僕を振り返ってすこし寂しそうに微笑んだ。「ありがとう」とどう答えればいいものかと迷いながら、平静を装ってそう言うと、彼女の顔から笑みは消えた。期待していたおやつが出なかった子供のように、眉間に皺を作り、不満を露わにした。しかしすぐに真剣な表情で僕をきっと見据え、口を開いた。「わたしはあなたが好きよ」僕にはその言葉が、空中をずいぶん長い間漂ってから届いたように聞こえた。彼女の意を決した表情の下にある、緊張や不安、寂しさやもどかしさが、その言葉には孕まれている気がした。

 長い沈黙が続いた。遠くに見える街明かりは、等間隔で散歩道を照らしている街灯の眩しさでぼやけ、建物の輪郭自体を滲ませている。滲んだ街にある人々の喧騒や、道路に広がる藍色のグラデーションに光を当てて進む自動車の排気音は、川の微々たる音によって遮断されているかのように、辺りは静かだった。今こうやって彼女と向かい合っている間も、街では人々が死に、生まれ、そうやって営みが絶え間なく続いているのかと考えると、僕たちはどれだけ静謐な空間にいるのだろうと思った。ここでは他者の介入はない。僕が動かなければならない。芽は出ているのだ。育つためには彼女の笑顔が必要だ。僕はずいぶんと時間をかけて第一歩を踏み出し、彼女との距離を詰めていく。彼女の表情には、少しばかりの不安が浮かんでいる。今にも泣き出しそうな彼女のすぐ前に立ち、ちいさく深呼吸をしてから、僕は言った。「抱きしめてもいいかな」

 抱きしめた彼女の身体は思いのほか小さく、乱暴に扱えば壊れてしまいそうなくらい華奢だった。僕はできるかぎり優しく彼女を包んだ。服越しに彼女の温もりが伝わる。それだけで僕の中にある乾いた部分が、だんだんと潤っていくのがわかった。顔を上げた彼女の大きな瞳には、しっかりとした期待の色。同じことを考えているのだと悟った僕は、彼女の顔に近づいていった。しかし、二人の距離があと数センチというところで、僕ははたと動きを止めた。脳裏に過ぎる妻の顔。倫理や立場。そういった目に見えない確かな存在が、僕を引きとめようとする。閉じていた目を開いた彼女と視線を合わせ、目で合図をする。さあ、ここまでおいでと頭の中で呟く。もう一歩を進ませてくれと心で願う。背伸びをした彼女の唇が、僕の唇と合わさった。彼女は背が低く、触れるのがやっとといった感じだったが、そこからは僕も彼女を求めた。今度はしっかりと唇を合わせた。最初は浅く、だんだん深く。清らかな泉の水を含んで、僕の期待は確かな癒しへと育っていった。長い間キスをしていた感覚だったが、実際には数分だったろう。唇を離して、目が合うと、彼女は美しく可憐な笑顔を見せた。僕の口元もいつの間にか綻んでいたが、現実的な問題がすぐに浮かんで、慌てて口を開いた。そこで彼女は僕を制して、穏やかな笑みを浮かべて言った。「わかってる」

 あれ以来、仕事にも家庭にも、過度なストレスを感じることはなくなった。彼女の存在は僕の中では確固とした癒しになっていた。癒しがあるということは、自然と僕自身を落ち着けてくれた。そして落ち着きが生み出すのは余裕だ。その余裕は妻に対しても十二分に発揮された。彼女との関係の後ろめたさもあったのかもしれないが、それでも妻には配偶者として、まっすぐに対応できていたと思う。夫婦としての営みも、事務的ではあったが、愛を持って行えた。不透明だった彼女の気持ちが明確にわかって、僕はそれだけで安心していたのかもしれない。しかし、お互いの気持ちを確認できて、お互いに今の状況に満足していると思っていたのは、僕だけだったようだ。

 彼女の艶のある黒い髪の感触は、僕の手のひらにまだ残っているし、唇の柔らかさだって憶えている。キスの最中に洩れる優しい吐息ですら耳鳴りよりも身近に感じられた。それらを妻と話をしているときに思い出すようになったのは、初めてのキスから二ヶ月ほど経った時だった。その時期から、彼女は僕をより求めるようになった。職場での視線、バーでの口調、散歩道での表情からそれがわかった。端的に言えば次のステップに進みたいのだろう。より強く、お互いの関係を繋げたいと彼女は思い始めていた。だけど僕は、彼女とこれ以上の発展をするべきではないと考えていた。これ以上進めば引き返せない、家庭や会社での体裁を意識した部分もあるし、僕は彼女にそこまで求めていないというひどく個人的な理由もあった。癒しに費やせる愛情の量は決まっている。実際、そこからの彼女の僕に対する気持ちは、どんどん大きくなっていた。彼女の膨らみ続ける気持ちを、見てみぬ振りもできない。一方的に抑えつけることなど尚更だ。なんらかの決断を下すべきだと思った。そして僕が早急に判断を迫る、決定的な事が起きた。それは妻の妊娠だ。

 「また遠回りしよう」今回そう提案したのは僕だった。わざわざここに来ることを示すこと自体が不自然だったし、なにより彼女は、多少なりともこれから起きることを感じ取っているに違いない。すっかり馴染みの場所となった夜の散歩道につくまでの間、僕たちはほとんど会話をしなかった。初めて彼女とここを歩いたときは涼しく感じたけれど、今はもう空気はぴんと張り詰めたように冷たく、すっかり暗くなった夜空には、空よりも黒く染められた雲がぽつぽつと浮かんでいる。僕の吐いた白い息の向こうに、表情を変えずに流れ続けている川があり、白い息が霞んで消えていくのがはっきりと見えた。散歩道を等間隔で照らす灯が、ひどく無機質で眩しい。遠くの夜景に街全体を浮かせているビルや家々の小さな灯たちが、とても暖かく見えてしまうのは、クリスマスが近いからかもしれない。「もうすぐクリスマスね」僕がそう思ったのを見透かしたように、隣を並んで歩いていた彼女が言った。僕は立ち止まってしまう。それに気付いた彼女が不思議そうに振り返る。「どうしたの?」おそるおそる訊く彼女の表情は、どこか怯えているようにも、安らいでいるようにも見えた。「ここで」僕の口をついたように言葉が出てくる。「ここで、初めてキスをしたんだ」彼女は街灯の光でところどころが鱗のようになっている川を見やり、それから他人行儀な街並みを眺めながら、「憶えてるわ」と静かに言った。「僕はそのときの君の印象をよく憶えている」自分でも驚くくらい優しい口調だった。「だけど」そこで彼女が僕を見る。僕は構わずに続ける。「僕はこの記憶をすべて拭い去らなければならない」「僕は君と別れることを決めたんだ」その言葉は虚空をしばらく彷徨ってから、彼女に辿り着いたようだった。僕は彼女の表情を直視できずに、目を伏せる。

 永遠に続くのかと不安になるような静寂が続いた。彼女の黒い綺麗な髪が冷たい風に揺れている。指先が痺れるように冷えてきている。僕は情けない言い訳を口にしかけたが、先に彼女が形の良い唇の端をきゅっと上げて言った。「わかってる」ふっと息を吐いた彼女はそれきり俯いてしまった。彼女が泣いていることはわかっていたが、僕はなにも言えず立ち尽くすことしかできなかった。ほどなくして、彼女は隙のない笑顔を作って顔を上げた。「ありがとう、ごめんなさい」一息でそう言うと、彼女の顔は泣き笑いの表情になった。僕が声を掛けようとするのを遮るように、「さよなら」と背を向け、立ち去ってしまう。遠ざかっていく彼女の小さな背中を眺めながら、僕は、今ここで彼女の印象的な黒い髪も、厚みのある唇も、彼女が洩らした吐息と一緒に掻き消して、拭い去ってしまわなければならないと、自分に戒めた。

 「わかってる」さっきの彼女の言葉が、初めてキスをしたときの情景を思い出させる。あの時の彼女もそう言っていた。あの時の彼女は、なにを指して「わかってる」と言ったのだろうか。そしてさっきの「わかってる」という言葉には、どんなものが含まれていたのだろう。僕の伝えたかったことは彼女にどれくらい伝わっているのだろう。僕と彼女との間に宿った種は、一体どんなかたちになったのだろう。僕にはなにもわからない。