恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

無記と空

2017年04月20日 | 日記
「机が無い」という認識(言い方)が成り立つのは、机が在ることを前提にしています。そもそも全くないものを「無い」と言うことはできません。つまり無いことそれ自体は認識できず、無いことの認識はあくまでも在ることに依存しているわけです。この、いわば「無い」ことを可能にする「在る」は、当然、普通我々が言うところの「在る」とは、その「在り方」が違うでしょう。

 他方、「机が在る」という認識は、それを自分が見ている、触っているなどの経験を通じての認識であることが普通です。では、経験的に認識していないとき、すなわち見ても触ってもいないときに、「机が在る」と言えるのかと問うた場合、即座にイエスと即答できるでしょうか? 見ても触ってもいないものを、「在る」となぜ、どういう理由で言えるのかは、非常に困難な問題です。これは原理的に「在ると信じている」以上のことは言えません(さらに言えば、すべての「在る」は実際には「在ると信じている」である)。

 以上の事情を言い換えると、「机が在る」「机が無い」などと普通に言うときの、「在る」「無い」という経験的判断をする手前の、「在る」「無い」の述語のつかない「机」それ自体は在るのか無いのか、という問いになります。これは、論理的必然として、「在る」とも「無い」とも言えない、と答えることになるでしょう。

 経験的に認識できない「机」とは、いわば「形而上学的」に存在する「机」、つまり個々に認識される机を超えた「本質」としての「机」と同じ意味です。

 大乗仏教の「空」は、この「本質」としての「机」が「在るとは言えない」という認識であり、いまここに現前している机の「在り方」は、「机」として使う人間の行為に依存しているという意味で、「縁起」していると言うのだと、私は考えます(だから「無いとは言えない」)。

 すると、この「空」のアイデアの原型は、ゴータマ・ブッダの「無記」になります。世界が永遠か否か、有限か無限かなど、形而上学的問題について答えない認識論的態度を、我々の日常の判断にまで拡張すると、『中論』に展開される論理になるでしょう。

 すなわち、『中論』の「空」解釈は、ゴータマ・ブッダの「無記」思想の直系なのであり、これ以外のすべての「空」解釈は、すべてどこかに「形而上学的」思考を持ち込むことになるでしょう。
ジャンル:
ウェブログ
コメント (628)   この記事についてブログを書く
この記事をはてなブックマークに追加
« 決メのひと言! | トップ | 番外:坐禅と講話の会2017 »
最近の画像もっと見る

628 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (机のような者)
2017-04-20 00:45:48
机を「私」に置き換えてみる。

実存のお話になるのかな。
Unknown (Unknown)
2017-04-20 01:56:26
「机」っていうのがそもそも「実在しないもの」だし。言葉の役目はそういうことでしょ?
Unknown (Unknown)
2017-04-20 04:24:24
コメントちゃんとみてくださってんだねぇ

ありがたや ありがたや
Unknown (李)
2017-04-20 06:32:32
『(さらに言えば、すべての「在る」は実際には「在ると信じている」である)』

おっしゃる通りだと思います。「神」であれば、同意する方もいらっしゃるかもしれません。
しかしながらその様な方であっても、自分が見て、触ったなどの経験を通じた認識の延長にある「故人」については、同意しかねる方も多いのではないでしょうか。


「外」と「非」の思考
http://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/aca87ed6f7ddbcf8744f3d1ee13fe7ee

『ある者がブッダに、「神はいますか?」と単刀直入に質問すると、ブッダはこんなふうに答えたと言うのです。

(中略)

すると、ブッダは驚くべき回答をします。

「『神はいる』ということは、世間で声高に同意されているものだからである」』

ゴータマ・ブッダであれば、自身の思想を超えて、「恐山の在り方」を大肯定するでしょう。

方丈様、いつも大変お世話になり、誠にありがとうございます。
Unknown (徴)
2017-04-20 06:41:59
恐山は「故人」と縁を結びなおすのに、また自身の「故人との過去」とを結びなおすのに、最も適した霊場かと思われます。

「故人」や「故人と過去」などにより凍った心を溶かし、より良い縁を結びなおして、より良く生活できることになりますことを、心より深くお祈り申し上げます。
Unknown (南京ハゼ)
2017-04-20 07:58:44
もとを決めた境界線を前提としないような時、ひとつひとつにその断定ではないという伝え方が様々の事柄を可能性として省みるような問いを常に与えられるような気がします。それは同時に澄んだ広やかさと慈しみの視野を感じるようでもあります。ハナミズキが咲きますが気温差の大きな折、どうぞ御自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
Unknown (たかはし)
2017-04-20 10:14:02
はじめまして。

机には、常住な実体、不滅の本質が無い、というのが、中論の空ですよね。不滅の実体が無いと断言してますよね。

そこに机が有ることは疑っていない。そして、その机には、不滅の実体は無いと断言する。机は不滅ではなくて無常な存在であって、その机は、不滅の実体にではなく、他の無常な存在によって成立している、すなわち縁起であると。

中論の空は、そういうことだと私は理解しています。
Unknown (senrigan)
2017-04-20 10:25:13
ヒトは言葉によって喜怒哀楽を感じ表現し時にはそれにより他を嫉妬したり憎んだり恐れたりします。そして、言葉の亡霊が肥大化しその幻影に慄き人殺しさえすることはまま有ります。それが国家レベルまで膨張し戦争になることは歴史が証明しています。
 ギリシャのイデアのようなものを釈迦や竜樹は信用していません。言葉の機能の負の部分を排除しその呪縛から自由になります。東洋の素晴しい智慧だと思います。
Unknown (たかはし)
2017-04-20 10:40:43
釈迦は、当時の常識だった存在の本質たる不滅の実体について、それが有るという見解を持つなと言い、そして、それが無いという見解も持つなと言っています。

その一方で、どれも不滅の実体ではない、とも言いました。諸行無常、諸法無(非)我ですよね。

それをどう解釈するかで、後世の仏弟子は見解が割れた。

説一切有部は、我は無常だが、そこに常住なものが有ると言い出した。

それに対して、龍樹の中論は、不滅の実体は無い、常住不滅なものなど無い、そこに例外はないと断言した。

初期経典に依拠しているテーラワーダも、不滅の実体は無い、そこに例外はないと解説します。

だから、厳密には、どの宗派も、釈迦から微妙に離れたと私は思っています。

なお、最近話題のテーラワーダのスマナサーラ長老が、実は、不滅の実体が無い、ではなくて、正確には、不滅の実体は見つけられない、が正しいと解説したことがあります。

それが釈迦に近いと私は思いますね。

どんなに探したって見つけられないものを、探すな、執着するな、ということですね。

見つからないものは、有ると言えないのは当然ですよね。そして、見つからないからといって、無いとも断言できない。

言えるのは、見つけられるものは、どれも不滅の実体ではない、無常なものだということまで。

だから、そんなものには執着しないということ。

無常なものには執着しても仕方ないですから。無常とは、変わってしまうということですから。
Unknown (たかはし)
2017-04-20 10:57:24
そこに机が実在してるわけではない、そこに机が有るという人の認識があるだけである、というのが唯識ですかね。

初期経典で釈迦は、全ては夢幻のようなものだと思え、と言っています。

夢幻のようなものだと思え、ということが、夢幻だ、と解釈されていったのが唯識の流れかな、なんて思っています。

日記」カテゴリの最新記事

関連するみんなの記事