「君は、無常や無我は事実の問題ではなく、認識の問題でもなく、畢竟じて言語の問題だと言ったな」
「言った」
「どういう意味だ」
「この世に事実そのものなど無い。あるのは『事実として認識されたこと』だけだ。そしてその認識は言語によって構造化されている。だから、無常も無我も言語の問題だと言ったのだ」
「たとえば?」
「無常を『一切のものが一瞬も留まることなく変化すること』と解釈しても、『変化』は『変化しないもの』=実体を前提にしない限り認識できないから、あまりに幼稚な解釈にしかならない。逆に主語に当たる『一切のもの』自体が変化するなら、『すでに変化しているものが変化する』という矛盾が生じる以上、何も変化しないことになる」
「『中論』の議論だな」
「そのとおり」
「他には?」
「全てものは要素の集合なのに、凡夫はそれを認識できずに、ものそれ自体が存在するように錯覚していると説いて、無我を説明する方法があるが、これも拙劣極まりない」
「『要素』が実体として残るからだろう」
「それだけではない。その要素の認識や要素を確定する分割の手法がどうして正しいのか、その正当性の根拠が示されない。以前、悟った人の解釈だから正しいと言う馬鹿げた説を聞いたが、『悟り』それ自体を誰も説明できない以上(ブッダ自身が言及していない)、ファンタジーに過ぎない」
「それから?」
「『要素』が実体なら、それを集合させて特定の存在物に形成する『力』を持つ『本質』のごときものを想定せざるを得ない。つまり、要素分割主義も結局、実体を呼び込む議論にならざるをえない」
「だから、『中論』的言語批判で無常と無我を主張するしかない、ということか。では、唯識は?」
「認識作用の運動(転変)で認識対象と認識主体が生成するとして、全存在を認識作用から説明する唯識説は、その構造を言語が決めている(言葉による熏習の種子)」
「じゃ、言語の形而上学になるじゃない」
「ところが、言語の意味するものは、意味されるものから必ずズレる。したがってものそれ自体には決して届かない。真理にも届かない。言語はあくまでも存在を仮設し、『真理』を仮説するにすぎない。ならば、できることは、仮のものは仮のものだと、際限なく言い続けるしない」
「君の言う、言葉で言葉を裏切る、って奴か」
「もうこの辺でやめよう」
「どうして」
「この種の話題の時、コメント欄が妙に盛り上がる気がする」
「言った」
「どういう意味だ」
「この世に事実そのものなど無い。あるのは『事実として認識されたこと』だけだ。そしてその認識は言語によって構造化されている。だから、無常も無我も言語の問題だと言ったのだ」
「たとえば?」
「無常を『一切のものが一瞬も留まることなく変化すること』と解釈しても、『変化』は『変化しないもの』=実体を前提にしない限り認識できないから、あまりに幼稚な解釈にしかならない。逆に主語に当たる『一切のもの』自体が変化するなら、『すでに変化しているものが変化する』という矛盾が生じる以上、何も変化しないことになる」
「『中論』の議論だな」
「そのとおり」
「他には?」
「全てものは要素の集合なのに、凡夫はそれを認識できずに、ものそれ自体が存在するように錯覚していると説いて、無我を説明する方法があるが、これも拙劣極まりない」
「『要素』が実体として残るからだろう」
「それだけではない。その要素の認識や要素を確定する分割の手法がどうして正しいのか、その正当性の根拠が示されない。以前、悟った人の解釈だから正しいと言う馬鹿げた説を聞いたが、『悟り』それ自体を誰も説明できない以上(ブッダ自身が言及していない)、ファンタジーに過ぎない」
「それから?」
「『要素』が実体なら、それを集合させて特定の存在物に形成する『力』を持つ『本質』のごときものを想定せざるを得ない。つまり、要素分割主義も結局、実体を呼び込む議論にならざるをえない」
「だから、『中論』的言語批判で無常と無我を主張するしかない、ということか。では、唯識は?」
「認識作用の運動(転変)で認識対象と認識主体が生成するとして、全存在を認識作用から説明する唯識説は、その構造を言語が決めている(言葉による熏習の種子)」
「じゃ、言語の形而上学になるじゃない」
「ところが、言語の意味するものは、意味されるものから必ずズレる。したがってものそれ自体には決して届かない。真理にも届かない。言語はあくまでも存在を仮設し、『真理』を仮説するにすぎない。ならば、できることは、仮のものは仮のものだと、際限なく言い続けるしない」
「君の言う、言葉で言葉を裏切る、って奴か」
「もうこの辺でやめよう」
「どうして」
「この種の話題の時、コメント欄が妙に盛り上がる気がする」
オチが面白ろ過ぎます。
(o^∀^o)
いけないんでしょうか?
盛り上がっても
いいじゃないですか。
コメント欄は
お気になさらずに
続きをお願いします。
ね。
何の為なんのため何の為なんのため??
読者を喜ばせる為!!
それを見て自分が悦ぶ為!!
究極のエンターテーナー精神!!
ああ、此の世は美しく人生は甘美だなァ~!!
屁理屈こねるは『何の為』??
最終結論
『より良い自己を生きる為』
更なる『何の為』と問う事は
『無用』問答!!ガキのたわごと!!
左脳依存症。
釈迦曰くの「非想非非想」反逆者
頭の中にドーパミンがガバッと噴出して気持ちいい。
中毒になるよね。
屁理屈屋さんって快楽主義者ってことネ
共同体を営む人間には出来っこ無い事を知っていながら、
あえて斜め上からはすに見下ろして
ぽろっと出た釈迦の言葉なんでしょうかねェ~。
だってブログで「有想有有想」盛り上がりそうなんですから・・・
(8) 2つの真理(二諦)に依拠して、仏陀は法を説いた。それは世俗の立場での真理と、究極の立場から見た真理である。
(9) この2つの真理の区別を知らない人々は、仏陀の教えにおける深遠な真理を理解していない。
(10) 世俗の表現に依拠せずには究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならばニルヴァーナ(涅槃)を体得することはできない。(中論24章)
想いからの解脱において解脱する。想いとは言語。
世俗の立場での真理=世俗の表現=言語。
究極の真理=涅槃=言語の超越。それは想いからの解脱において解脱すること。
そう私は理解しています。
>この2つの真理の区別を知らない人々は、仏陀の教えにおける深遠な真理を理解していない。
記事の登場人物は、まさにそれを知らないから、仏教を理解できないでいる。
そう思いました。
共同体を営む人間には出来っこ無い事を知っていながら、
あえて斜め上からはすに見下ろして
ぽろっと出た釈迦の言葉なんでしょうかねェ~。
だってブログで「有想有有想」盛り上がりそうなんですから・・・
財も家族も全て捨てて出家するなんてことを、全ての人間が実行することはあり得ないことを釈迦は知っていた。出家できるのは、ごく一部の人間であることを釈迦は知っていた。そしてインドには布施の慣習があった。だから、出家者が在家者の布施のみで食を得るという形態が成り立った。
そして、出家者には、悟るための修行法を説き、在家者には、正しい方法で財を得て家族を愛し守れと説いた。善い行いをせよ、そうすれば良い生まれ変わりがある、来世以降で出家して修行できると説いた。出家者に布施するのも善行だと説いた。
なんともうまくできたシステムだと思いますね。
それから、ここにコメントしてるのは、私もそうですが、みんな在家ですよね。出家して非想非非想を目指すなら、ここにコメントしてる暇なんてないでしょうね。
釈迦の悟りを理解することと、それを自分がどこまでやるかは、別問題。
釈迦の悟りを理解して、それをヒントに在家を生きる。それも仏教の活用法でしょうね。
経典にもそういう場面が出てきますね。