恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

「無常」問答

2017年05月20日 | 日記
「君は、無常や無我は事実の問題ではなく、認識の問題でもなく、畢竟じて言語の問題だと言ったな」

「言った」

「どういう意味だ」

「この世に事実そのものなど無い。あるのは『事実として認識されたこと』だけだ。そしてその認識は言語によって構造化されている。だから、無常も無我も言語の問題だと言ったのだ」

「たとえば?」

「無常を『一切のものが一瞬も留まることなく変化すること』と解釈しても、『変化』は『変化しないもの』=実体を前提にしない限り認識できないから、あまりに幼稚な解釈にしかならない。逆に主語に当たる『一切のもの』自体が変化するなら、『すでに変化しているものが変化する』という矛盾が生じる以上、何も変化しないことになる」

「『中論』の議論だな」

「そのとおり」

「他には?」

「全てものは要素の集合なのに、凡夫はそれを認識できずに、ものそれ自体が存在するように錯覚していると説いて、無我を説明する方法があるが、これも拙劣極まりない」

「『要素』が実体として残るからだろう」

「それだけではない。その要素の認識や要素を確定する分割の手法がどうして正しいのか、その正当性の根拠が示されない。以前、悟った人の解釈だから正しいと言う馬鹿げた説を聞いたが、『悟り』それ自体を誰も説明できない以上(ブッダ自身が言及していない)、ファンタジーに過ぎない」

「それから?」

「『要素』が実体なら、それを集合させて特定の存在物に形成する『力』を持つ『本質』のごときものを想定せざるを得ない。つまり、要素分割主義も結局、実体を呼び込む議論にならざるをえない」

「だから、『中論』的言語批判で無常と無我を主張するしかない、ということか。では、唯識は?」

「認識作用の運動(転変)で認識対象と認識主体が生成するとして、全存在を認識作用から説明する唯識説は、その構造を言語が決めている(言葉による熏習の種子)」

「じゃ、言語の形而上学になるじゃない」

「ところが、言語の意味するものは、意味されるものから必ずズレる。したがってものそれ自体には決して届かない。真理にも届かない。言語はあくまでも存在を仮設し、『真理』を仮説するにすぎない。ならば、できることは、仮のものは仮のものだと、際限なく言い続けるしない」

「君の言う、言葉で言葉を裏切る、って奴か」

「もうこの辺でやめよう」

「どうして」

「この種の話題の時、コメント欄が妙に盛り上がる気がする」
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Unknown (米のような者)
2017-05-20 00:24:17
院代様。

オチが面白ろ過ぎます。

(o^∀^o)
Unknown (Unknown)
2017-05-20 01:31:11
盛り上がったら
いけないんでしょうか?

盛り上がっても
いいじゃないですか。

コメント欄は
お気になさらずに
続きをお願いします。
ね。
Unknown (Unknown)
2017-05-20 01:45:12
東洋思想思考集団??
何の為なんのため何の為なんのため??

読者を喜ばせる為!!
それを見て自分が悦ぶ為!!
究極のエンターテーナー精神!!

ああ、此の世は美しく人生は甘美だなァ~!!
「無用」問答 (Unknown)
2017-05-20 02:11:39
いっぱしの大のオトナが、
屁理屈こねるは『何の為』??

最終結論
『より良い自己を生きる為』

更なる『何の為』と問う事は
『無用』問答!!ガキのたわごと!!
Unknown (Unknown)
2017-05-20 03:06:52
屁理屈屋さんは
左脳依存症。

釈迦曰くの「非想非非想」反逆者
Unknown (Unknown)
2017-05-20 03:25:01
ああ、依存症ネ!!

頭の中にドーパミンがガバッと噴出して気持ちいい。
中毒になるよね。

屁理屈屋さんって快楽主義者ってことネ
ねえ、たかはしさん!! (Unknown)
2017-05-20 04:12:33
「非想非非想」だなんて
共同体を営む人間には出来っこ無い事を知っていながら、
あえて斜め上からはすに見下ろして
ぽろっと出た釈迦の言葉なんでしょうかねェ~。
だってブログで「有想有有想」盛り上がりそうなんですから・・・
Unknown (たかはし)
2017-05-20 04:40:51
1072 師は答えた、「ウパシーヴァよ。あらゆる欲望に対する貪りを離れ、無所有にもとづいて、その他のものを捨て、最上の〈想いからの解脱〉において解脱した人、ーかれは退きあともどりすることなく、そこに安住するであろう。」(スッタニパータ)


(8) 2つの真理(二諦)に依拠して、仏陀は法を説いた。それは世俗の立場での真理と、究極の立場から見た真理である。
(9) この2つの真理の区別を知らない人々は、仏陀の教えにおける深遠な真理を理解していない。
(10) 世俗の表現に依拠せずには究極の真理を説くことはできない。究極の真理に到達しないならばニルヴァーナ(涅槃)を体得することはできない。(中論24章)


想いからの解脱において解脱する。想いとは言語。

世俗の立場での真理=世俗の表現=言語。

究極の真理=涅槃=言語の超越。それは想いからの解脱において解脱すること。

そう私は理解しています。

>この2つの真理の区別を知らない人々は、仏陀の教えにおける深遠な真理を理解していない。

記事の登場人物は、まさにそれを知らないから、仏教を理解できないでいる。

そう思いました。
Unknown (たかはし)
2017-05-20 05:07:52
>「非想非非想」だなんて
共同体を営む人間には出来っこ無い事を知っていながら、
あえて斜め上からはすに見下ろして
ぽろっと出た釈迦の言葉なんでしょうかねェ~。
だってブログで「有想有有想」盛り上がりそうなんですから・・・

財も家族も全て捨てて出家するなんてことを、全ての人間が実行することはあり得ないことを釈迦は知っていた。出家できるのは、ごく一部の人間であることを釈迦は知っていた。そしてインドには布施の慣習があった。だから、出家者が在家者の布施のみで食を得るという形態が成り立った。

そして、出家者には、悟るための修行法を説き、在家者には、正しい方法で財を得て家族を愛し守れと説いた。善い行いをせよ、そうすれば良い生まれ変わりがある、来世以降で出家して修行できると説いた。出家者に布施するのも善行だと説いた。

なんともうまくできたシステムだと思いますね。

それから、ここにコメントしてるのは、私もそうですが、みんな在家ですよね。出家して非想非非想を目指すなら、ここにコメントしてる暇なんてないでしょうね。

釈迦の悟りを理解することと、それを自分がどこまでやるかは、別問題。

釈迦の悟りを理解して、それをヒントに在家を生きる。それも仏教の活用法でしょうね。
Unknown (たかはし)
2017-05-20 05:10:28
理解するための議論なら、大いに結構なことではないでしょうか。

経典にもそういう場面が出てきますね。
Unknown (Unknown)
2017-05-20 05:53:31
だからァ~。
出家集団って、世俗も逃げ出す徹底的な「思考集団」な訳ですよ(perイエスちゃん)。
決して分からぬ、訳の分からぬ「何か」を求めて思考思考議論議論の繰り返し。永遠に止まらぬ自己の想いのぶつけ合い(例、今回の記事とか中論とか)

釈迦は出家に対し、
何も求めるな、何も考えるな、
求めたり考えたりする処に「悟り」は訪れないって言ったんじゃあないの(=非想非非想)。
Unknown (たかはし)
2017-05-20 06:13:20
出家集団が、際限のない思考集団というのは、釈迦滅後のことでしょう。

私の知る限り、釈迦は、際限なく議論しろなんて言ってないです。理解するために議論し、理解できたら実践せよ、ということでしょう。

釈迦滅後には、経典にあるように解脱できなくなったので、それであれこれ議論が止まらなくなったのでしょう。

それから、後世になって解脱できない人からあれこれと質問されるから、新たな説明が必要になった、あるいは、自分も解脱してないけど、他者の見解を間違いだと思ったから自分の考えを主張するようになった、ということでしょうね。

悟った、解脱した手本が目の前にいれば問題なかったのでしょうけど。
Unknown (たかはし)
2017-05-20 06:25:16
それから、理解できなくても、それを信じて実践する、という道も仏教にはありますね。経典にそれも書かれています。有名なチューラパンタカの例ですね。

釈迦の言葉を記憶も理解も出来ないと悩むチューラパンタカに対して、釈迦は、そなたは雑巾で掃除することに専念していればいいと言い、釈迦を信じていたチューラパンタカは、それを疑うことなく実践して、ついにその意味を知り悟ったという話。

しかし、仏教がそれだけなら、釈迦は、なぜにあんなに膨大な言葉を駆使したのか。

それは、予め言葉で説明されて、理解して、納得して実践するという道も仏教だからでしょう。
Unknown (椰子)
2017-05-20 07:08:17
>「この種の話題の時、コメント欄が妙に盛り上がる気がする」

盛り上げましょう(笑)


質問(1)
『言語の意味するものは、意味されるものから必ずズレる』ことを、具体例を挙げてご説明ください。

質問(2)
『言語の意味するものは、意味されるものから必ずズレる』と、『真理』等について問題が生じることをご説明ください。

質問(3)
『真理』等を掲げる宗教は、どのようにしてこの問題を回避しようとしたか、いくつか具体例を挙げてください。


追伸
このような問題に気が付くのに至るのには、相当な地道な思考を要するように思われます。

またこのような問題は、「ダークマター」の研究と同様、日常生活にはまったく影響がないのかもしれません。

もしも影響を与えるのならば、「ダークマター」のような研究と同様に、つながりがわからない形で、知らないうちに社会に入ってくるのかもしれません。
Unknown (Unknown)
2017-05-20 07:10:17
>この世に事実そのものなど無い

えッ、ホントぉ~??
「事実そのもの」ってあるんじゃないの??
ありのままの世界とか??

単に人の脳がちょくちょく曲解しちゃうっていうだけで・・・

宇宙は人間がいなくたって事実そのもので実存してるのだから・・・

和尚さん説では人間が宇宙の全てを存在させたみたいに聞こえるよね。
Unknown (たかはし)
2017-05-20 08:28:23
事実そのもの、って何。

誰にとっての事実なのか。

そこに何かが存在していたとしても、それを事実として認識するのは、それを認識する側による。

花を人と猫が認識したとして、その花の認識は人と猫で同じなのか。

あるいは、複数の人が同じ花を認識したとして、その認識は、みな全く同じと言い切れるのか。

そうなると、その花の事実そのもの、とは何か。

つまり、事実そのものは、これだ、と示せるようなものは無い、ということになるでしょう。
Unknown (たかはし)
2017-05-20 08:31:44
スマ長老は、人の認識は、現象認識に過ぎない、と言います。まさにその通りでしょうね。
Unknown (Unknown)
2017-05-20 08:55:51
現象=事実そのもの
如何に認識するかは人それぞれ。

非想非非想できるなら、事実そのものが見える。それが「ありのままの世界」。

人には非想非非想なんて出来ないから
「事実そのまま」は認識できない。

>誰にとっての事実なのか?

宇宙の大生命体にとっての事実。
注)宇宙の大生命体みたいな概念を持ち込んだのは道元師(私の理解する範囲では・・・)。
Unknown (Unknown)
2017-05-20 09:16:10
ビッグバンが事実であろうとなかろうと
何らかの物質が事実そのものとして実存し、
人はそれを自分がってに認識している。

事実そのものが存在しないのならば、
人が認識するもなにもへったくれもない。
事実がなければ認識するすべがない。
Unknown (たかはし)
2017-05-20 09:31:10
事実と、事実そのもの、を混同しないで。

事実は、それぞれが認識したもの。

その認識を引き起こした、事実そのものを、人は、これだ、と示せない。

これだと示したものどれも、それは現象認識だから、認識された事実ではあっても、事実そのもの、ではない。
Unknown (南京ハゼ)
2017-05-20 09:32:38
卑近に単語ひとつに10ほど前提とするならさらにそこからもまた派生し、記憶の風景までもが含まれることを思うと様々の言葉の捉え方を感じます。全く漠然と祖師と呼ばれる方達は何を伝えようとされ言葉を紡がれたのだろうと思います。思わず笑みが浮かぶようなホッとする瞬間は新緑の揺らぎのように想いや言葉やその前提を伝え教えられることを陽射しの中で真摯さが湧くような広がりを感じます。川辺や樹々の苔の明るさが柔らかく眼に映る頃ですが、どうぞ御自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
Unknown (たかはし)
2017-05-20 09:40:43
目の前の机を認識した。触ってみた。

そこに机が有る、と認識した。その人にとって、机の存在が事実になった。

でも、それは本当の机の姿なのか。自分の認識したものが、机の本当の事実なのか。

それは、机の、事実そのもの、とは言えない。人の認識は、事実そのものを認識しているのではなく、五感による現象認識に過ぎないのだから。
南さんへ (読者)
2017-05-20 09:42:21
「私とは?」
名を呼べば返事する程度のろくでなし
「認識とは?」
言葉にしたこと
「事実とは?」
信念




最後、投げましたね〜(笑)

雪は溶けましたか
田植えや草刈りシーズンになって参りました
草臥れて読書がさっぱりです
山笑う5月、おすこやかに!
Unknown (たかはし)
2017-05-20 09:47:02
物自体、という言葉を聞いたことありませんか。無かったら、ウィキで調べて見て下さい。
Unknown (Unknown)
2017-05-20 10:23:25
事実そのもの=物自体

なるほど面白い解釈ですね。
でもカントなどはその存在を仮説的(=論理的に)正当化しているとか??はどうなるのでしょうか。

人の認識(現象認識)は主観が入るけど、
一切の主観を排除したロボットに物自体の存在を証明させる事は出来ませんかね。
論理的・実証的にガッチリ固められて、
人の主観による思惑が入り込めない「事実そのもの」が観測出来たとか・・・・(例、電磁波とか重力とか水の組成とか)
問題は、言語は「情報」だから「実体」「自性」を造りだし、それに私が騙されて「私が実体である」と錯覚することから起きる (イエスちゃん)
2017-05-20 10:34:27
要は、「自分の事が問題になる」のです。外界のことではない。

「唯識思想」は、結局は、「この自分の存在を補強する末路」に陥る。

「梵我一如」も、「大宇宙が「我」である」であり、
「大宇宙」が「我」の存在根拠に利用されるだけ。

「中観思想」だけが、「我の実体化」に抵抗する。つまり、釈尊の仏教である。

『できることは、
仮のものは仮のものだと、
際限なく言い続けるしない』

凡夫には「自分は実在する」しか信じられない。
だから、これが、
仏教は「自分を」元気にするものであらねばならない。
と主張し続ける原因となる。

「自分が」なにも「こだわらない」ようになる!

これも、
「自分」が、しっかりと「残っている」から、だめである。
Unknown (仮のような者)
2017-05-20 10:42:39
「事実そのもの」って
つまり
「死そのもの」ってコトでしょ?

だから
「この世」にはなく
生きている限り
「わからない」のよね。

よって
仮の相(スガタ)でしかないワケね。
Unknown (Unknown)
2017-05-20 10:44:45
数値は計測や計算で導いた値、事実そのものである、
という言い方もあるようですね。
Unknown (Unknown)
2017-05-20 10:49:38
「事実そのものなどない」

事実そのものなどないと思う人にとっては事実そのものなどない
事実そのものがあると思う人にとっては事実そのものがある
そのものなどないという人がそのものがあるという人を言い負かしたとしても
それが真の仏教が理解できているからだともいえない(たぶん)
正しく理解できたら正しく生きられるかといったらそんなことはない(たぶん)
だって一人だけ正しく生きていられないでしょう(たぶん)
全てが「仮」なら、それはそれでいいとして、「それで?」って感じだ。
たぶん (Unknown)
2017-05-20 11:18:14
成る程なぁって思いマシタ。
それで (Unknown)
2017-05-20 11:21:11
ちゃんと知ろう❗
ってコトだよね。

ちゃんと彼岸へ向かおう🎵
ってコトだよね。

たぶん☺
Unknown (たかはし)
2017-05-20 11:36:51
>一切の主観を排除したロボットに物自体の存在を証明させる事は出来ませんかね。

ロボットが、どんな装置を使って、何を観測しても、それは、物自体に非ず、ということになるでしょう。

X線とか、重力とかを観測しても、それは、物自体ではないでしょう。

有るはずだ、という確信は得られたとしても。

科学は、ある領域を超えると、そこから先は、宗教と変わらなくなる、というようなことを、南さんが言ってたような。
Unknown (Unknown)
2017-05-20 12:16:55
仏教者って、言葉で言い表せない【真理そのもの】(=不言真如)とかをえらく信奉するのに、

言葉で言い表せる【事実そのもの】(科学的事実、数学的事実、物理学的事実、科学的事実、医学的事実、心理学的事実、エトセトラエトセトラ)を【事実そのもの】として認定するのは嫌なんだね。
なんた奇妙だよね。

いわゆる釈迦の言う【ありのままの世界】とかいうのは、
「事実そのもの」なの??
事実らしいと認識された現象認識(@脳内Only)に過ぎない、と言ってるの??
訂正 (Unknown)
2017-05-20 12:22:53
科学的事実、~、科学的事実・・・・>
科学的事実、~、化学的事実
Unknown (Unknown)
2017-05-20 12:35:12
農家がトマトを作れば、出来た野菜は「トマトそのもの」、
漁師がマグロを釣れば捕れた魚は「マグロそのもの」、

大工さんが家を建てれば「家そのもの」、
山火事になれば「火事そのもの」~~、~~

みんな事実そのもの・・・
なんか問題ある???
言葉 (高橋 正雄)
2017-05-20 13:06:04
私事ですが、学校で学ぶ知識や言葉があまりにも沢山です。これらを整理して統合することもできません。言葉があまりにも多いことに気をつけないといけないと思いました。釈尊は、伝えるのに言葉を使わざるを得ず、だからこそ、正確には伝わらず、繰り返し繰り返し、語らざるを得ず。
Unknown (たかはし)
2017-05-20 13:29:04
>いわゆる釈迦の言う【ありのままの世界】とかいうのは、
「事実そのもの」なの??

物自体の意味の、事実そのものは、人は認識できません。

仏教で言うところの、ありのままの世界とは、認識したことを元に、あれこれ執着することが無い世界。執着や妄想することなく認識する世界。

目の前に裸の異性が現れても、ただ、裸の異性だと認識するのが、ありのまま。

裸の異性を見て、どうにかして、なんとかしたい、と執着して、妄想して、苦しむのが、ありのままじゃない世界。

災害に遭って家族を失っても、それをただの出来事と受け止めるのが、ありのまま。

災害で家族を亡くして、なぜ死んだ、なんで私の家族が死ぬんだと、執着して苦しむのが、ありのままじゃない世界。

執着が無ければ、災害は、ただの出来事に過ぎない。ただの出来事、自然現象を災害にしてしまうのが、人の執着。

そう私は理解しています。

だから、仏教で言う、ありのままの世界って、悟っていない我々には、かなり厳しいものでしょうね。

災難の時は、災難に遭うのがいい、それが災難を逃れる良い方法である、と良寛が言ったとか。災難を、ありのままに受け入れれば、それはもはや災難ではなく、ただの出来事、事実。そういう意味かと。

でも、そんなこと震災の被災地で言ったら、袋叩きに会いそうですね。

だから釈迦の教えは理解が難しいのでしょう。
Unknown (たかはし)
2017-05-20 13:39:53
無常なものを見て、無常だと認識するのが、ありのまま。

無常なものを見て、その内部に不滅の本質が有るはずだ、と妄想して執着するのが、ありのままじゃない世界。

そういうことでもあると思っています。
Unknown (Unknown)
2017-05-20 14:33:30
気をつけないといけないのは
わかった気になっているということ。

事実そのものは
わからないということ。
Unknown (Unknown)
2017-05-20 15:19:48
「変化」

「体重85㎏が半年で70㎏になった」
実体はあるのか?
変化はないのか?
Unknown (Unknown)
2017-05-20 16:15:51
>(ありのままの世界とは)認識した事を元に、あれこれ執着する事が無い世界・・・

って言う意味は、
写真機で捉えた静止画像そのものと言う事であり、
ビデオカメラで映せば時々刻々変化する映像そのものという事で在り、
脳が勝手な意味付けをする前の客観的映像の事だから、それを「事実そのもの」って言うんじゃないの??

だから「事実そのもの」は存在してるってことではないの??

時々刻々変化する「物自体」「事実そのもの」が存在すると、
何故仏教論理が成り立たなくなるのかさっぱり分からないんですけど??
Unknown (たかはし)
2017-05-20 17:20:05
花を写真に撮っても、ビデオに撮っても、それは、光が介在してますよね。光は、花の事実そのものでは無いですよね。

それから、事実そのものが存在していない、とは言っていません。事実そのものは、これだと示せない、ということを言っているのです。

人は、五感を介してしか認識できない、五感を介して認識したものは、事実そのもの、ではない、ということを言っているのです。

認識した事実と、事実そのものは認識できない、ということの違いが、まだ理解できないようですね。

花の写真を撮っても、そこに花の事実「そのもの」は写ってませんよ。それは花の事実「そのもの」が光を反射し、それが写真に捉えられ、それをまた目で捉えて脳で映像化したものに過ぎませんよ。それは、花の事実「そのもの」ではありませんよ、ということです。

それから、花が写真に写ったのだから、そこに花の事実そのものが、存在しているはずだ、とは言えるでしょう。しかし、それも確実ではないでしょう。花の事実「そのもの」が写ってるわけではないのですから。

もぢ、花の写真を更に写真に撮ったものだとしたらどうします。

更には、催眠術にかけられて、目の前の花を写真に撮ったと暗示をかけられていたとしたらどうします。

まあ、それは極端ですが。

とにかく、写真にも、事実「そのもの」が写っているわけではない。写真に写っているからと言って、事実「そのもの」が、そこに存在すると100パーセント言い切れない、ということはイメージしてもらえましたかね。
Unknown (たかはし)
2017-05-20 17:33:45
仏教は、認識した事実を相手にするが、事実「そのもの」は、相手にしない。事実「そのもの」の有無は、相手にしない。

事実「そのもの」、物自体は、人は認識できないのだから。

そして、なぜそんなことを言うのかというと、バラモン教が、存在の本質「そのもの」、つまりアートマンを相手にしていて、釈迦は、それに対して、存在の本質「そのもの」、アートマンに執着してる限り悟れない、解脱できない、その有無の問題は相手にするなと言っているから。

そう私は理解しています。

初期経典で釈迦は、アートマンは、真実として把握できない、そんなアートマンに依拠した教えは愚かではないか、と言っています。そして、有無を離れて中道を説くとも。
そもそも自己がないのに、なぜ執着するのが問題になるのか? (イエスちゃん)
2017-05-20 18:36:42
執着することが、問題ではないのです。
自己が、あくまでも問題なのです。

釈尊を理解損なった小乗仏教(部派仏教、上座部)では、そこのところが理解できないのです。
Unknown (Unknown)
2017-05-20 19:30:23
「無常」でも「無我」でも「実存」でもいいんだけど、
そのテの言葉ってわたしにとってはどーにもこーにも「ふーん?」なので
どうしたって間違いなく言葉の問題「でしかない」って感じ。
Unknown (Unknown)
2017-05-20 19:43:32
「無常とは何か」みたいなのって
そりゃあ「言葉の問題『でしかない』」としか言いようがない。

でも、それが好きなんでしょ?
好みって色々だもんね。

Unknown (Unknown)
2017-05-20 20:59:54
たかはし氏曰く;
『事実そのもの』が存在しないとは言っていません』(5-20,17:20:05)

南禅師曰く;
『この世に事実そのものなど無い』、と断定している(@今回の記事で)

今回の議論はこの南師の『断定・断言』から始まっている。

確かにビデオカメラで映るのは、
光が電磁波であり、
その周波数が光として認識できる周波数だから映像として映っている訳で、
理念的に言えば、それは『事実そのもの』ではないという言い方が出来るかも知れないが、

そういう物体(=ビデオカメラに写って来る物体)が存在しているのは事実であるのだから『事実そのもの』は存在している。

だから『事実そのもの』は存在すると言う事は科学的には99.5%間違いは無い筈だけど、

南禅師は、この世には『事実そのもの』なんて100%無いと断言して見せた。
それが今回の議論を巻き起こした。
(=そうでなければはじめから今回のような無益の議論はおきなかった。)

(個人的には、自分の人生には、どっちでも一向関係ないのですがね・・・まあ妙に盛り上げる為にです)
Unknown (Unknown)
2017-05-20 21:18:47
事実そのものって、自分の死のことじゃないの?
Unknown (Unknown)
2017-05-20 21:21:02
何の事実かが抽象的すぎます‼

ぷんすこ😡
Unknown (Unknown)
2017-05-20 21:43:19
>事実そのものって、自分の死のことじゃあないの??

確かにそのとおりですよね(一例として)。
しかし南禅師によると、この世に「事実そのもの」なんてない!!
・・・と言う事は自分(人)が死ぬという「事実そのもの」は存在していない。


>何の事実かが抽象的すぎます・・・

南禅師曰く、何の事実に関係なく「事実そのもの」なんて100%存在し無い
Unknown (Unknown)
2017-05-20 21:47:26
死って事実じゃないの!?

別にジジツを求めてる訳じゃないんだけどね。
ジジツ (Unknown)
2017-05-20 22:02:23
世俗で
「ジジツそのものなどナイ」

としたら
裁判とか厄介なことになるだろうね。

(((;´゚д゚;)
Unknown (Unknown)
2017-05-20 22:05:34
「机」は「実体」か
みたいなもんでしょ?
それは「言葉」でしょー、と私は思う。
Unknown (Unknown)
2017-05-20 22:32:26
家具職人が「机」を作った。
それは事実そのものとして存在しちゃってる。
家具職人が机としてそれを作ったのだから、それは事実そのものに決まってる。

それを買った人が腰掛として使おうと、部屋飾りとして使おうと、焚き木として使おうと、
目の見えない人がそれが認識出来なかろうと、そんな事は一切関係ない。
家具職人が机として制作した事実そのものは存在していたのだから・・・
そして100人中99.7人の人がそれを机として認知しているのだから・・・(=0.3人の変な人が何んかいちゃもん付けようがいっさい無視すべし・・・
=自分たちだけで思う存分禅問答で「有想有有想」遣ってたらいかが・・・)。
Unknown (Unknown)
2017-05-20 22:50:26
>言葉の問題でしかない・・・

それを延々とうとうと飽きもせず懲りもせず議論し尽くすのが
釈迦死後の仏教の仏教らしい処ですよね。
(釈迦は非想非非想だったんだが・・)
Unknown (Unknown)
2017-05-20 23:08:11
非想非非想やったら悟りが開けるかも知れないが・・・、
それだと人生あまりにつまらなくなるからね。
和尚さんも議論で盛り上がる事を期待している様だし、議論好きのたかはし氏がS長老派代理で議論集団に参画して来たし、
このブログも内容豊かに面白くなるんじゃないの・・・
Unknown (Unknown)
2017-05-20 23:19:19
家具職人が机を作ったら「事実そのものとして存在しちゃってる」って?

「あるときある家具職人が本人的に『机』のつもりで『何か』を作った」っていう出来事が「事実そのものとして存在している」?
えー?それはあるときの出来事でしょー?
あるときの出来事をそういうふうに言うなら、逆に、それを買った誰かが違う用途に使えば、それが「事実そのものとして存在している」ってことになっちゃうんじゃない?

ここ、この「南さんのブログのコメント欄」で「机」ってったって、それは「言葉」でしょ?
こーゆーものを「机」と呼ぶっていうことでだいたい合意形成が出来てるとして、それ(言葉「机」)は、なんだろうなぁ、「合意できる形にデフォルメされたもの」だと思うよ。
言葉って、もうしょうがない、デフォルメしちゃうんでしょ。
ほんで、デフォルメされちゃったものを「(言葉)ナントカとは何か」とかやってるのは「言葉の問題でしかない」。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 01:01:15
今生物である私は生きて此処に居る。
これは事実そのものだ。

死んだら息をしなくなって、つまり無生物になって肉体も腐るとか焼かれて消滅してしまう。
これも事実そのもの。

つまり事実そのものと言える事柄は幾らでもある。
しかし和尚さんは、この世には事実そのものなんて存在し無いって言う。

じゃあ息している俺と、息しなくなって死んだ俺は、事実そのもので無くて・・・
ジャアなんだ??っていう問かけだよね。

論議の要点は「この世に事実そのものは存在するのかしないのか??」という事。
「事実そのもの」が存在する、と言う事と
可視化出来るかどうかは全く別問題だ。

物理学では直接実測できなくても、
事実そのものが存在すれば~~という現象が起こる筈だという命題の立て方で、

その果たる現象を実証出来れば、
因たる「事実そのもの」の存在を証明できたとする(物理学の大部分)。
現代世界では「事実そのもの」に可視化は必要ない。
Unknown (たかはし)
2017-05-21 01:22:04
>そういう物体(=ビデオカメラに写って来る物体)が存在しているのは事実であるのだから『事実そのもの』は存在している。
>だから『事実そのもの』は存在すると言う事は科学的には99.5%間違いは無い筈だけど、

99.5%ということは、0.5%は、疑いが残るということですね。そこなんです。ビデオに写ったという事実があるのだから、ビデオに写らさせた事実「そのもの」が存在しているのは100%間違いないとは言い切れない、ということですよね。

極端な話をすると、映画マトリックスの世界です。観たことないですか。実体験だと思っていたものが、コンピューターによって脳に直接信号が送られていただけの虚像だったという話ですね。

それから、蝶になった夢を見た人が、夢から醒めて、私は本当に人間なのか、実は蝶が人間になった夢を見ているだけじゃないか、なんてふと考えた、という話もありますね。


>南禅師は、この世には『事実そのもの』なんて100%無いと断言して見せた。
それが今回の議論を巻き起こした。
(=そうでなければはじめから今回のような無益の議論はおきなかった。)

認識した事実と、事実そのものとの違い、ということが話題になったのは、有意義だったと思いますよ。そんなこと考えたこともなかった人がいたんじゃないでしょうか。

物自体、ということも初めて聞いた人もいたんじゃないでしょうか。

それに、仏教の唯識ということに興味を持つ人が現れたかもしれないですし。

ちなみに、映画マトリックスは、仏教の唯識からヒントを得たんじゃないか、なんて私は思いましたよ。
Unknown (たかはし)
2017-05-21 01:28:54
>南禅師は、この世には『事実そのもの』なんて100%無いと断言して見せた

この世とは、人の認識している世界。

人が認識した事実は、事実「そのもの」とは同一ではない。

つまり、この世には、事実「そのもの」は、100%無い。

そう読んだらどうでしょう。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 01:42:25
今生物である私は生きて此処に居る。
これは事実そのものだ・・・と私は言う。

しかし禅問答僧侶軍は、
それは事実そのものではないという。
脳が勝手に幻想してるだけだと言いたいらしい。
此の世には「存在」などは存在し無いと言いたいらしい。
此の世は全て夢のまた夢!!現実なんて存在しちょらん!!現実に生きてる君なんて嘘っぱちじゃぜ!!

でも和尚さん、一生懸命、自己の実存!!っていう言葉が好きなんだよね~。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 01:45:27
言語による錯覚や妄想の否定かな。

その事実は「本当」か?
いや「本当」ではない、本当にはわからない。みたいな。

仮に、1分前のジジツと、今のジジツ、刻々と過ぎているジジツとしても、掴みどころがないよね。

どれがジジツなの?

いや、ジジツはないんだよ。

ってね。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 01:51:13
いや、この矛盾にまみれた実存に、苦戦し難儀されているんですよね。
Unknown (たかはし)
2017-05-21 01:53:53
仏教が唯識思想を持つようになったのは、仏教が、認識したものへの執着を捨てさせるための教えだからでしょう。

認識した事実は否定しないが、そこにその認識を引き起こした事実「そのもの」の存在を否定するのは、認識したものなど、所詮はそんなもので、執着するに値しないのだ、ということを言いたいのでしょう。

人生がたとえ夢だろうと虚像だろうと、そこで執着して苦しんでいるのですから、苦しみたくなかったら執着を捨てなさい、苦しみの原因は執着なのだから、ということになるでしょう。

もちろん、そんな教えは、執着を喜びたい、あるいは執着を喜ぶことが可能な人には無用なものでしょうね。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 01:54:44
じゃあ、、
どこに事実そのものがあるの?とした場合、どこにも見当たらない。

よね?
Unknown (Unknown)
2017-05-21 01:59:12
苦のない人には、仏教は必要ないし、役にも立たないだろうね。   

だけども、苦のない人なんていないよね?

たぶん☺
Unknown (Unknown)
2017-05-21 02:01:28
正見だよ、正見‼
Unknown (Unknown)
2017-05-21 02:09:05
>この世とは、人の認識している世界・・・

これは唯識論者の考え方なのでしょう。
たしか南禅師は唯識論者ではなかったような??

道元師も唯識論者で無いんだろうと思われる(私の推察の範囲で・・・)。
何故なら、この世とは人の認識している世界という限定版では無くて、
宇宙の大生命体という、もっと大きな次元の一部に、人が局所的に現成している、という立ち位置を取っているのだから・・・

だから人間が人間の言葉で言い表せない真理(不言真如)が有るんだとかと言う事を、仏教のキモに据えてる訳でしょうし・・・。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 02:26:34
不言真如って、まさに勝義諦の事ですよね。
これが仏教のキモなんだから・・・

もっとも釈迦が直接『我が見たものは【勝義諦】じゃった、って言ったのでは亡いとおもうけど・・・。

それに南禅師は、勝義諦とは相依性縁起の事だと、言葉で解説しちゃってるけど・・・
訂正 (Unknown)
2017-05-21 02:30:39
言ったのでは亡い・・・>
言ったのでは無い

失礼仕りました!!
Unknown (たかはし)
2017-05-21 02:35:31
>宇宙の大生命体という、もっと大きな次元の一部に、人が局所的に現成している、という立ち位置を取っているのだから・・・

これって、法華経由来かな、と思いました。道元禅師は、晩年は、法華経に親しみ、生まれ変わって来世で悟りを実現させたいと思っていたという話をどこかで読んだ記憶があるのですが、出典や記憶に自信ないのですが。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 02:42:14
>正見だよ、正見

これも南禅師は否定してますよね。
西田幾太郎は仏教のブの字も知らぬ人、
鈴木大拙は仏教の根本を間違っている人・・・とかね。

での南禅師と同じ曹洞宗僧侶でも、
【空】が実体だと言ってる人もおり、

正見・大悟を旗印に坐禅道場を華々しく開山してる曹洞宗僧侶もいるし・・・

南禅師はどちらかというと曹洞宗アウトサイダー派で、
南流我流革命児を標榜しているようですよね。なんか往時の釈迦みたいですね。
Unknown (たかはし)
2017-05-21 02:44:15
参考までに。

比丘たちよ、わたしは「一切」について話そうと思う。よく聞きなさい。「一切」とは、比丘たちよ、いったい何であろうか。それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。
誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ないだろう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、病に倒れてしまうかも知れません。何故か。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。(サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)
Unknown (Unknown)
2017-05-21 02:47:28
そろそろ物知り遺産の御登場を願いたい処ですね。
諸説をバサッ、バサッと切ってみて下さい。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 03:05:29
mmmmm、
南禅師が鈴木大拙を否定したのは、
【即非の論理】の否定とか言う事で、
「正見だよ、正見!!」とは関係なかったかもしれない。もしそうだったら訂正します。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 03:08:45
正見を否定って、八正道も否定されてるっこと?

そんなバカな⁉
Unknown (Unknown)
2017-05-21 03:10:18
だよね‼
Unknown (Unknown)
2017-05-21 03:12:13
そ~か、思い出したけど
南禅師は見性体験という繋がりで、
鈴木大拙を否定したんだっけね。

したがって「正見だよ、正見」が問題では無くて、
「見性大悟」がダメなんじゃ・・・というのが南禅師の立ち位置ってこと(らしい)ですね。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 03:35:16
道元さんは、唯識論を否定されてたね。

鈴木さんのことは、よく知らないけど、何かおかしい感じ?


この種の話題の時、為になる気がする😉
Unknown (Unknown)
2017-05-21 03:40:15
>それだけではない。その要素の認識や要素を確定する分割の手法がどうして正しいのか、その正当性の根拠が示されない。
以前、悟った人の解釈だから正しいと言う馬鹿げた説を聞いたが、


コレって、0ポイントのことだっけ?
Unknown (Unknown)
2017-05-21 03:41:31
>道元禅師は、晩年は、法華経に親しみ、生まれ変わって、又、来世で悟りを実現させたい、と思っていた(らしい)・・・

出た出た出た!!
これって南禅師が必死に(=命を賭けて)否定する二元論、
輪廻転生の蒸し返しになるじゃあないですか!!!

物知り遺産、これってど~なのよ???
Unknown (Unknown)
2017-05-21 04:30:24
言葉の問題なら、言葉を無くせば問題ではなくなるってこと?

事実そのものはないを置き換えると、人が認識しないところの現象とか状態ってとこかな。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 04:54:30
>言葉の問題なら、言葉を無くせば『問題解決』・・・

そだね。猫ちゃんや犬ちゃんや、(動物園の)タヌキちゃんや、キツネちゃんは問題かかえていないからね・・・。みんな悟り拓いて幸せにくらしているしね。但し食べ物は托鉢で得ているけど・・・。

そ~だ、ワシが認知症になった時にも悟りを開いて問題解決に至るから、食べ物はしっかりと恵んでおくんなましね・・
Unknown (Unknown)
2017-05-21 05:13:20
オッケー👌

(*"⌒з⌒")-☆
Unknown (Unknown)
2017-05-21 05:30:48
>事実そのものは無い=人が認識しない現象・状態

mmmmm、
事実そのものはない=認識出来ないモノの現象・状態は一切認めない、
認識出来なくても論理的に在ると正当化される存在も認めない、
目に見える・耳で聞こえる・鼻で嗅げる・触って見れる、食べて見れる事以外の、すべての現象・状態の存在は認めない、
ということではないの。

一旦認めちゃうと、たかはしさん曰く、「その主張を説明出来ず、病に倒れてしまう・・・」。

でも現代科学では、目に見えなくても、耳で聞こえなくても、鼻で嗅げなくても、触って見れなくとも、食べてみれなくても、
「事実そのもの」の存在を間接的に実証・論証する手段は幾らでもあるよね。

「事実そのもの」の存在を支持する単純な論理的実証の一例は、
庭に赤色チューリップが一本咲いていた。カラー写真をとった。赤いチューリップがプリントに映っていた。

ではそのチューリップを根元から摘み取ってしまった。同じ場所の写真を撮った。おお、なんたる不思議か!!今度は赤いチューリップの花が映っていなかったのであった(まったく不思議だ!!)

ここから正当に推論(論証)される事は、
赤いチューリップは切り取る前は「事実そのもの」として其処に存在していたのであったとなる(筈なんだが??・・・ねえ、たかはしさん。)

そこで
Unknown (Unknown)
2017-05-21 05:46:49
病に倒れるくらいなら、認めちゃダメだね😵

でも現象がジジツとは、言ってないよね🙅
でしゃばり奉行 (大日方)
2017-05-21 05:59:56
みなさんは、南和尚への敬意を表すために、「南禅師」と書かれているのだと思いますが、この敬称は、組織的には拙いようです。

http://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/5c49279be4a39e614ba39aeaf5ea6d43

この点は我々も配慮すべきでしょう。
Unknown (たかはし)
2017-05-21 06:05:55
>赤いチューリップは切り取る前は「事実そのもの」として其処に存在していたのであったとなる(筈なんだが??・・・ねえ、たかはしさん。)

以前の誰かのコメントによれば、それは99.5%。
Unknown (たかはし)
2017-05-21 06:41:45
>でも現象がジジツとは、言ってないよね

ありのまま。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 07:08:50
ものを手にとった時に、感触が確かめられ、硬さや軟らかさを伴う確かな手ごたえは、ものがそこにあるということに疑いを差し挟む余地さえない。手で触れた時のある種の抵抗感は、その対象物の実体性を間違いなく自分に保証してくれるまさに現実においてそこにある紛れもない実体性を伴った感覚である。

このような常識的日常性の中においては
これらのことが錯覚であるとは思い難い
自分が今此処にいて、実際現実に触れている手にしたものが錯覚であるとは、到底思えない。自分は間違いなく今此処に存在し、堅さを確かめることができるということは、自分が今此処に生きているという証でもある。
この生存しているという現実的実践感覚を伴ったものが日常であり、生活と呼ばれるものである。

しかし、これらのことは全て感覚によって自分自身に起きている作用である。
硬さや弾力は対象物にあるのではなく、
あくまで「硬い」と感じた自分の感覚の内に起きたシグナルでしかない。
あくまで感覚なのである。
対象物と自分とのあいだに起きた印象というある種の気分である。

およそこのような考え方は現実的ではない。現実味に乏しいことは非日常的かつ非合理的なのである。
合理性とは日常的現実において、今此処で生きているという生存にまつわる欲求にダイレクトに結びつき、その意思を確かなものとする為に、必然的に備わった常識的規範である。

だが、現実においてその規範は成立しないことが往々にしてある。
身の周りの自然環境は、合理性とは何ら関係なく存在する。
何故なら存在するという事と欲求とは全くもって関係がないからである。
人類が存在するのは何らかの意思や欲求があるからではなく、たまたま存在しているに過ぎない。
そのたまたま存在しているに過ぎない者が、自然界の中に公理を見いだし観察や実験によって欲求とはまるで無関係な法則的事実を知ることになる。
日常において生存することと、自然界において生存することとでは、事態がまるで違う。
Unknown (たかはし)
2017-05-21 07:44:11
>およそこのような考え方は現実的ではない。現実味に乏しいことは非日常的かつ非合理的なのである。
合理性とは日常的現実において、今此処で生きているという生存にまつわる欲求にダイレクトに結びつき、その意思を確かなものとする為に、必然的に備わった常識的規範である。

唯識が中国や日本で流行った時期があったようですが、結局は廃れたのは、それが原因なのでしょうね。物理学の発達とともに唯識は消え去る運命か。それは創作の世界で取り沙汰されるのみか。

南さんは、唯識の復興を画策してるとか。あるいは批判者なのか。

そんなことは、どっちでもいい派だろうか。
世界に一つだけの花 (大日方)
2017-05-21 09:40:30
いろいろな議論が交錯しているので、私なりに整理すると

1. つい最近の「無記と空」の回では机を例にして、経験的に認識できない「机」は「在る」とも「無い」とも言えないと南和尚は論じられた。ですから、経験できないものは無い、という議論ではない。

2. 経験を通じて認識できるものは、「在る」としてもいいのですが、五感の錯覚ということもあるので、すべての「在る」は実際には「在ると信じている」、ということになるのでしょう。しかし、この点は今回の文脈ではそれ程重要ではないと思います。

3.だいぶ前ですが、2015年8月の「言えないことの言い方」の回で、言語は「事実」そのものを表すものではない、と説明された。つまりは、チューリップという言葉が咲いたり枯れたりするわけではない。

今回の「事実そのものなどない」とはどういうことか。「チューリップが咲いている」という例をとるならば、私なら次の様に解釈し説明します。チューリップという言葉がチューリップそのものではないというのは当たり前ですが、言葉でこの事実を描写しようとするとどうなるか。咲いているチューリップの葉の形、育ち具合…、茎の太さ、長さ…、花びらの枚数、形、色…、球根の形、根の伸び方…などから始まり、細胞の並び方、その細胞の作りと続き、その事実はいくら言葉を尽くしても語りきれるものではない。また、細部を考慮すれば、この世に全く同じチューリップなどなく、それぞれが世界に一つだけの花でしょう。そして、その一つ一つが刻一刻と変化している。そういった千差万別、てんでバラバラのものを「チューリップ」の一言で片づけてしまう。世界に一つだけの花を「チューリップ」と呼んでしまう。蕾の状態でも、花びらが枯れ落ちても、みんなチューリップ。それは、言語が我々の認識を構造化しているから。言語とはそういう大雑把なもの。大雑把でなくては使いものにならない。けれども、当然意味されるものとはズレる。いくら言葉を尽くしても真理に届きはしない。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 09:50:08
生ぬるいものは鬼でも食わぬ

平櫛田中
Unknown (Unknown)
2017-05-21 11:24:59
一切のものは無常である。結局は各個人の認識でしか世界は捉えられず、コンセンサスを取ろうとすると、言語論でしか語れない、ということなんでしょうか。

最近、後鳥羽上皇にハマっています。道元禅師のお父様は後鳥羽上皇の庇護者でもありました。後鳥羽上皇は道元禅師のお父様の死後、運命に翻弄され、敗戦後、島流しに。道元禅師はご出家されました。

あまり書物に書かれてないようですが、道元禅師も後鳥羽上皇に近しい感覚を持ったとしてもおかしくありません。

後鳥羽上皇が残した文章に記された独特の無常観は面白く、やはり、人は其々の世界を生きているのだなあ、と改めて思います。様々な縁起で成立したこの世界は時に美しく、時に残酷です。合掌。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 12:40:46
ディアトロフ事件って知ってる?
Unknown (Unknown)
2017-05-21 13:33:17
ジジツが、「ツツジ」に見えたよ💠

ジジツじゃないね🙊
あは😅
Unknown (Unknown)
2017-05-21 15:37:11
ハッタリ世界観の否定かな。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 15:56:24
事実そのものなど無い!!

気がする。
Unknown (月のような者)
2017-05-21 16:39:49
無常の世界はとことん濁流ですね。陸地は一切ない、怖くて息もできないという。優しいあの人も、尊敬するあの人もそのことを知らずに生きている。ただ知らないだけ。ドラマの「龍馬伝」で黒船を見た龍馬が橋のたもとでしゃがんで泣いてましたね。あの苦しさですね。東南アジアで働いていた唐行きさん達が港を通過するバルチック艦隊を見てこれで日本は終わりだと泣いていたと。龍馬が皇后陛下の夢の中に現れて御心配には及びません、と告げたとか何とか。帝国主義の世界は非常に怖い。そしてもっと怖い無常の世界を察して宇宙を「諦める」に至るのが仏教であると。
現代において無常とは何かを考える際は上座部の教義や中論を参考にすれば一番分かりやすい訳です。自分がどこまで無常を理解できているかの基準はまさに自分自身が教えてくれるのではないでしょうか。無常は必ず苦とセットなのですからどれだけ無常(現実)に愛想を尽かして苦が減っているかですね。犬が一匹いれば可愛くても、百匹いれば嫌悪感を抱く訳です。しかしそんなお前も猿のなれの果てだろうと自分を冷笑してやれば馬鹿馬鹿しさの余りバランスを取り戻せるというものです。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 16:45:16
というか、
「事実そのもの」って、どういうふうに必要なの?
Unknown (Unknown)
2017-05-21 17:31:45
どうもこうも
ジジツを勘違いしたり
欲している人が
多いってコトじゃないの?
Unknown (Unknown)
2017-05-21 17:38:49
なんかほら、ありがちじゃない。
いるかいらないかってことでいえば「なくても全然困らない」
でも「欲しい」からって買いまくって
「片づかねえなあ…!」
みたいなの。
「自己」という存在様式以外に実存しえない人間の在り方を、「無常」「無我」「縁起」としてとらえる仏教思想の最もユニークなアイデアが、どう継承あるいは改変されたか (イエスちゃん)
2017-05-21 18:00:13
ゆっくりと読み直し、南師の真意を理解するのが一番いいです。それから議論を。
http://kangaeruhito.jp/articles/-/1693

その「独断と偏見」の核心は、

「自己」という存在様式以外に実存しえない人間の在り方を、「無常」「無我」「縁起」としてとらえる仏教思想の最もユニークなアイデアが、

どう継承あるいは改変されたかという点にある。

 私の考えでは、このような「実存」それ自体に、「無常」でない「超越」的な存在根拠を与える思想が形而上学である。

本論考は、この「実存」と「超越」の思想的関係を、ゴータマ・ブッダから道元禅師まで追跡しようというものである。

 そのアウトラインを言っておくなら、ブッダによる「無常」という「実存」把握に、様々な「超越」的理念が浸透していく過程がインドと中国の仏教思想の主流であり、

それは

絶対的根拠を希求する人間の存在論的思考の傾向そのもの
を反映しているであろう。


 ちなみに私は、思想には所詮、
「無常」に踏みとどまる「仏教」と、
常に文脈のどこかに何らかの「超越」的理念を設定する「仏教以外」しかない
と思っている。

 以下、これからの連載では、日本列島に仏教が伝来して以来、鎌倉時代の仏教革新運動の立役者、法然、親鸞、道元に至るまでの思想を検討していく。

『言語』
つまり、『人間の思考』です。
薬山禅師は『非思量』と教えた。
つまり、『それは思考でない』『思考を止めろ』
無難禅師は『死人になれ』と教えた。
死人は思考を止めている。

今回は
『言語はあくまでも存在を仮設し、『真理』を仮説するにすぎない。
ならば、できることは、仮のものは仮のものだと、際限なく言い続けるしない』

人間は、「言語」「思考」を「実際に存在すると信じる」
それで今まで生き延びてきた結果としての「進化のプロセスで獲得した習性である」

英国の経験主義哲学者ヒュームは、
「原因結果の法則」「因果律」は「人間がその様に観てしまう習性の枠組みである」と教えている。

つまり、思考に騙されている。思考を現実と錯覚している。

誰にも言語が見えない。
歴史上、釈尊は始めて「言語の呪縛」を明確にして、
「死苦」が「言語の虚構である」ことを、示した。

しかし、後代の弟子たちは、それの把握に失敗していった。
「無明と言葉の罠」 (大日方)
2017-05-21 18:05:16
>結局は各個人の認識でしか世界は捉えられず、コンセンサスを取ろうとすると、言語論でしか語れない、ということなんでしょうか。

南和尚はもう一歩進み、コミュニケーション以前の問題で、人間の認識は言語を介在しないと成り立たないとお考えのようです。

それに対して、スマナサーラ長老は、言語はなくても認識はできると考える。

この辺のやりとりは、『出家の覚悟』の第三章にあります。

こちらを考える方が有意義 (大日方)
2017-05-21 18:15:09
>「事実そのもの」って、どういうふうに必要なの?

「この世に事実そのものなど無い」という文だけを切り取って論じても、「この世」の指す領域、「事実そのもの」の意味、「在る」「無い」の定義、その文脈によって、その捉え方は人によってバラバラ。そこだけを論じても不毛な議論となるでしょう。

ですがら、「なぜ事実そのものが必要なのか」、逆に「なぜ事実そのものを想定すると支障をきたすのか」と考えた方が有意義かと思います。
Unknown (浅野)
2017-05-21 18:18:52
「僧侶が語る死の正体」を拝読しました。
印象に残ったのは、自分や人生を大事にしない、かけがえのない自分なんて思わないこと、です。
難しい事柄ですが、力むより脱力気味の感覚かな、とも感じています。
南さんの、古参さんへのエピソードも失笑しました。ああいうときに、パッと仏教的なものを出すと、効果的なんですよね。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 18:28:38
人間は自己ってふうにしか存在し得ない??とかも
人間は、っていうようなものなのかなあ?
自己とかっていつ頃から言うようになったんだろう?
人間っていうのもいつ頃から言うようになったんだろう?
みたいな話にならないの?

「事実そのもの」がどーしても欲しいとか、どーしてもあったら困るとか
みんな、そんな感じなの?
Unknown (浅野)
2017-05-21 18:29:28
けれど、虐待などを受け、育った人は、自分をまず大事にされ、することが先決ですよね。
Unknown (Unknown)
2017-05-21 18:38:04
有意義、ったって、「事実そのもの」っていうのはなくても困らないっぽい気がする
みたいなんじゃ、
「有意義」かー、誰にとって「有意義」なんだろうなぁ
とかって感じになっちゃうよ。
大日くんは「なぜ支障をきたすのか」考えることに意義を感じる?
Unknown (浅野)
2017-05-21 18:44:59
南さんの言葉は、ひきこもりなどの人に響くと思います。「人権」などの現代価値のカウンターパンチといいますか、自己愛が強すぎるのも現代の病という気もしますので。特に、私たちの世代ですかね。
意義 (大日方)
2017-05-21 18:49:48
>「事実そのもの」っていうのはなくても困らないっぽい気がする

私も困らないと思う。でも「事実そのものがある」と思う、もしくはそう思いたい人もいる。

>「有意義」かー、誰にとって「有意義」なんだろうなぁ

無常とか無我の意味を理解したいと思う変わり者には、有意義だろうということです。
Unknown (変わり者)
2017-05-21 19:08:58
困るもなんも
ナイってんだから
困ることもナイ‼

よね v( ̄ー ̄)v

ナイナイアンサー🙉
Unknown (たかはし)
2017-05-21 19:42:37
>それに対して、スマナサーラ長老は、言語はなくても認識はできると考える。

ものを見る、そこで止まりなさい、ものを聞く、そこで止まりなさい‥、というのが初期経典にありました。見たり聞いたりしたことであれこれ思考するな、ということでしょうね。思考って、言葉ですよね。

ものを見て、そこで止まる、あれこれ思考しない、その訓練がまさにビパッサナー瞑想でしょうね。

それから、誰が言ったのか忘れましたが、景色を見たその瞬間は、そこには景色しかない、その後に、私は景色を見ている、と思考する、というのがありました。まさしくその通りですね。
Unknown (たかはし)
2017-05-21 19:53:15
>私も困らないと思う。でも「事実そのものがある」と思う、もしくはそう思いたい人もいる。

初期経典で釈迦は、夢幻のようなものだと思え、とか、何も存在しないと思え、更には、識別作用を止滅させよ、特徴を見るな、と言っています。

認識したものに、事実「そのもの」が有ってほしいと思ってる人には、およそ共感できない教えでしょうね。

仏教においては、事実「そのもの」が、あろうとなかろうと関係ない、どうせ認識したものを夢幻なようなものだと思うのだから、とそういうことになるのでしょうね。
Unknown (Unknown)
2017-05-22 02:22:12
この世の文化は
事実そのものの探求で出来上がって来た。

全てが夢幻ならばこの世は成立しない。
文化も出来上がらない。
2500年間、何の進化も起きなかった訳だ。

ただ目指すは、かの世を捨て、この世を捨て、輪廻転生のくびきから逃れるのみ。
訂正 (Unknown)
2017-05-22 02:24:07
文化も出来上がらない・・・>
文化文明は出来上がらない
Unknown (Unknown)
2017-05-22 02:26:12
mmm
釈迦の目指した世界は
猫の世界ってこと????
Unknown (Unknown)
2017-05-22 02:32:22
ビパッサナー瞑想!!
そこで止まって、先の思考をしない。

でそれだけ??
その先には何もないの??
君の将来はどう開けるの??
思考無しの猫に成れとでも???
Unknown (Unknown)
2017-05-22 03:34:08
えええ???
考えて考えて考え抜いて
思考を巡らす南禅師の『考える人』!!!

ビパッサナーでは排斥されちゃうの???
Unknown (Unknown)
2017-05-22 03:47:24
人は考え続けるといい結果が出るというよね。
ほんとの処の釈迦や道元って、
『考える人』??、『考えを止めた人』??
追加 (Unknown)
2017-05-22 03:50:54
考えるのを止めた方がいいかな~って、
一生懸命考えた人だったりして・・・
Unknown (たかはし)
2017-05-22 03:51:11
>その先には何もないの??
君の将来はどう開けるの??
思考無しの猫に成れとでも???

ほらね、また混同してる。

釈迦の悟り、その悟りを目指して、全て捨てて出家した人の話ですよ。

私は、全て捨てて出家なんて出来ません。

釈迦の悟りをヒントに、いかに在家を生きるか考える、というスタンスですよ。

悟りは、苦しみの無い境地。そのために俗世の楽しみを全て捨てる、なんてとんでもないことが、釈迦が出家に説いたこと。

その悟りを実現したら、そこには、俗世の楽しみが無いことを残念に思うなんてことは、ありえないのですよ。言うなれば、悟りに満足してるのですから。

そのようなとんでもない悟りが、在家を生きる私に、どんな役に立つのか。

それは、世間的な幸せが達成できずに苦しんでる時に、その苦しみを乗り越えるのに役立つのですよ。世俗で失敗したとて、それは大問題では無いという気持ちにさせてくれるのです。釈迦の教えを理解し、瞑想してると、自分という存在が、それほど価値の無いものだ、という気になってくるのです。

釈迦は言っています。これは執着を喜んでいる人には理解できないと。

遺伝子のプログラムに従って世俗の幸せが追求可能な人には、釈迦の悟りなんて、そのままでは参考にならないでしょう。でも、世俗の目標はそのままに、その過程で生じる苦しみを軽減したいという時にでも、それがヒントになると思いますよ。

人間は、欲張りですからね。
Unknown (Unknown)
2017-05-22 04:13:28
なるほどなるほど、
よいお言葉です。

ついでにもう一つ質問。

考えて考え抜いて更に輪をかけて考える続ける「なぜなぜオタク」の
南禅師や道元禅師を
釈迦は自分の直弟子として容認したものでしょうか??
それとも自分の弟子にはふさわしくないと排斥されるでしょうか??
Unknown (たかはし)
2017-05-22 04:14:25
>考えるのを止めた方がいいかな~って、
一生懸命考えた人だったりして・・・

そのとおりだと思いますよ。

釈迦は、どうやったら悟りを実現できるかと試行錯誤して、あれこれ執着して考えることが問題だと考えて、そして執着が捨てられる方法を考えついた。それが、考えないための方法だった。思考を乗り越える方法だった。そう思います。

記事には、言葉で言葉を裏切る、と書かれてますね。それは私が以前にコメントした、理で理を超える、ということと同じ概念だと思っています。

小池龍之介という僧侶は、考えない練習、という本を出してますね。私は読んでないのですが、たぶん日常生活に瞑想を活かす、ビパッサナー瞑想のことを言っているんだろうなあ、と予想してます。

なお、悟った人は考えないのか、という問題がありますが、それには、悟った人も考えるが、悟った人の思考は、執着の無い思考である、という説明がされるようです。

仏教では、人間存在を分解して、五蘊、五つの要素、色受想行識で表しますが、悟らない人は、執着の有る五蘊、悟った人は執着の無い五蘊、ということのようです。

そんなにうまく行くのか、と悟っていない我々には思えますが、そこに到達するために必要だとされる修行法を理解すると、なるほどそれは可能かも知れない、という気になります。

まあでも、それを読んでも、馬鹿馬鹿しい、と思う人も多いとも思います。

執着を喜びたい、執着を喜ぶことが可能な人には、縁の無い話だと思いますね。
Unknown (Unknown)
2017-05-22 04:26:19
>その過程で生じる苦しみを軽減したい・・・その軽減法は「自分には大した価値が無いと認識する事」・・・

は、分かった様な分からないお言葉???
それって、君は無能な奴だから【ただただ諦めんしゃい、完!!】って言っているって事??
Unknown (たかはし)
2017-05-22 04:33:50
>考えて考え抜いて更に輪をかけて考える続ける「なぜなぜオタク」の
南禅師や道元禅師を
釈迦は自分の直弟子として容認したものでしょうか??
それとも自分の弟子にはふさわしくないと排斥されるでしょうか??


もちろん弟子に迎えると思いますよ。初期経典の釈迦は、思索も勧めています。相手に応じて様々に説く、と言われてますね。

考えて考え尽くせば、ついに、思考が問題だ、悟っていない人の思考は執着だ、考えることを止めることが答えだと分かる時が来る、ということだと思いますね。

でも、南さんも言ってるように、簡単には答えは出ないと思いますよ。そもそも全て捨てて出家なんて出来ませんから。

それから、道元禅師でも、初期経典で言うところの完全な悟りには至ってなかったようですね。

でも、生涯やっても完全な悟りに至れなくても、修行を続けて生を全う出来たら、それはそれでいいのでは、と思いますね。

宮崎奕保禅師が、修行を1日で止めたら、それは1日の真似、3日で止めたら3日の真似、でも、生涯かけて真似したら、真似が本物になる、と言っておられましたね。すごい言葉だなあと思いました。
Unknown (Unknown)
2017-05-22 04:34:25
釈迦の思考は、智慧なんじゃない?
Unknown (たかはし)
2017-05-22 04:41:46
>それって、君は無能な奴だから【ただただ諦めんしゃい、完!!】って言っているって事??

失敗したって大問題じゃないよ、そもそも自分なんて大したものではないのだから、ということですよ。

自分を大したものだと思ってる人は、それを信じて、苦しみを乗り越えて目標達成を目指せばいいでしょう。それが自分の求めていることなのですから。

その苦しみに押しつぶされそうになった人には、釈迦の教えが役に立ちますよ、ということです。

でも、それでも、馬鹿馬鹿しいと思う人がいると思います。そういうものですよ、初期経典の釈迦の教えは。
Unknown (Unknown)
2017-05-22 04:51:45
言葉って、あったらあったで面倒で厄介だけど、何か面白いし、なければないで、ただの猿になって、何かつまらない感じ?な気がする。
Unknown (たかはし)
2017-05-22 05:06:49
満足した豚より、不満足な人間の方がいい、と言ったのは、誰だったか。西洋の哲学者でしたかね。

釈迦は、満足した豚は論外だが、不満足な人間も嫌だった。それで、悟りを目指して全て捨てて出家した。そうして試行錯誤してたどり着いた釈迦の悟りは、悟っていない我々には、とんでもないものに映る、ということでしょうね。
Unknown (Unknown)
2017-05-22 05:24:51
そういえばS長老は、
ビパッサナー瞑想を10日(?)位きちんとやれば、誰でも(簡単に)悟れちゃうものだ的な事いってますよね。

時々ブログ何かでも、(ポイントさえ知れば)悟り何て一瞬に出来ちゃうよ、みたいな記事にも出くわしますよね。

『一生続けて修行しても悟れないまま終わる人は、それならそれでもいいや』という自己憐憫型人間と、
一瞬に悟れてしまう(と思う)人間はどう違うんでしょう??

たかはしさんはS長老は、
まだ悟っていないと思って居るようですが、
S長老自身は、自分は悟っていると思って居るのでしょうかね??

悟る人・悟らない人の違いは、
単なる脳内ホルモンの分泌の仕方が二者を別けているのですかね??
Unknown (Unknown)
2017-05-22 05:39:40
釈迦の悟りって、
輪廻転生の腐れ縁の鎖の輪から『離脱した・抜けきった』という直感だったと言えませんか??
そうでないと、かの世を捨て、この世を捨て、世の全てを捨てろという出家の必須条件なんていう壊滅的自己制約条件なんて出て来ないと思うんですよね。
Unknown (たかはし)
2017-05-22 05:44:18
今世で悟れるかどうかは、それぞれの能力による。それは、前世の修行が関わっている。そして、残念ながら、自分にどこまでの能力があるかは、自分には分からない。だから、生涯かけて修行しても悟れない場合があることを覚悟しなければならない。しかし、今世で悟れなくても、今世での修業は、来世に関わるから意味がある。

とまあ、そんな説明を初期経典に依拠するテーラワーダはするようです。

初期経典では、悟りを4段階で説いています。その第1段階には、比較的容易に到達できそうなことをスマ長老は言いますね。

スマ長老は、自分が完全な悟り、つまり4段階目の悟りを実現してるなんて思っていないと私は思います。

スマ長老の説法聞いてると、煩悩多き我々は、なんて言い方をする時がありますから。
Unknown (たかはし)
2017-05-22 05:47:30
>輪廻転生の腐れ縁の鎖の輪から『離脱した・抜けきった』という直感だったと言えませんか??

釈迦は、解脱した、と宣言してますね。
Unknown (Unknown)
2017-05-22 05:55:35
>浅野さん@5-21,18:18:52「南さん【脱力】観の大切さを語る」(コメ者意訳)

南さんの記事は気力満々の語り口だから、
南さんからは脱力感が感じられないのは何故??
言うはヤスシ、行うはカタシってこと??
何時になったら、「考える」より「考える事を止め」た方が悟りに到れる・・・という結論に辿れ着くのだろう???
Unknown (たかはし)
2017-05-22 06:09:01
南さんは、苦しみの滅尽、涅槃は、この世で実現できるようなものではない、というようなこと言っておられましたね。

永平寺でそのまま死のうと思っていたのが、永平寺から追い出されるような雰囲気を感じて、何年も求愛されていた女性もいたので、それで、結婚した住職として、人々の苦しみに、一緒に考えて、一緒に答えを見つけるというスタンスに方向転換したようですね。

だから、考える、ということが必須になりますね。在家の我々の苦しみは、人それぞれですから、答えも人それぞれで、しかも簡単に答えが見つかるようなものでもないでしょうから。

悟りを目指して全て捨てて出家するなら、考えない修行が必要になるでしょうが。
Unknown (Unknown)
2017-05-22 06:29:56
輪廻転生観はアートマンの存在とセットになっている(と思う)。

釈迦の解脱が輪廻転生からの離脱だと釈迦が思っているのなら、釈迦は無記しながらもアートマンを無視していなかったという事になる(=解脱によって一足飛びにブラフマンになってしまう)。。

スッタニパータも、S長老派上座部派仏教も、「前世での修行がどうの、今世での修行は来世でのステータスに響く」とか言っているのだから、
結局の処はアートマンの存在を無意識に肯定している・・・秘密の『無記』だけど。。。

そ~いう事ですね、たかはしさん。
Unknown (たかはし)
2017-05-22 06:58:37
生まれ変わるなら、生まれ変わる主体があるはず。

それがバラモン教の伝承。

そこにテーラワーダは、どんな答えを用意したか。

それは、不滅の主体なき輪廻です。

前世の私Aが、今世の私Aに移行し、そして来世の私Aに移行する。それがバラモン教の輪廻。Aは、不滅のアートマン。

前世の私Aが、死ぬ時に今世の私Bの生まれに関わり、今世の私Bが死ぬ時に来世の私Cの生まれに関わる。不滅のアートマンは無い。それがテーラワーダの説明。

なぜテーラワーダがそんな説明をするのか。

それは、以下の初期経典の記載によると私は理解しています。

釈迦は、無我と言った。

識が母胎に入る、と言った。

そして、今世の識が来世に移行すると考えた弟子を叱責しました。そうではない、縁によるのだと。

だから、テーラワーダでは、AがBを作り、BがCを作る因果の輪廻を説明するようです。

A、B、Cは、同一ではないが、しかし全くの別物でもない、ということです。作り作られの因果だと。

無常、無我と輪廻の整合は、そうして説明されます。
Unknown (Unknown)
2017-05-22 07:31:35
ご説明ありがとうございます。
なんか屁理屈の気もしますが
時間をかけてじっくり考えて見ます。
たかはしさんとのQ&A大変有意義でした。
Unknown (豚のような者)
2017-05-22 07:41:21
少欲知足で生きましょう。
Unknown (たかはし)
2017-05-22 07:52:42
>なんか屁理屈の気もしますが

そう感じるのが普通だと思いますよ。

アートマンが無いなら、何が輪廻するのだ、と仏教は批判されてきたでしょうから、それに対抗するために必死で考えたのが、テーラワーダの説明だと思いますね。

唯識は、そのために阿頼耶識というものを持ち出したようですね。みんな説明に苦労したのでしょうね。

スマ長老が、ポロッと言ったことがあります。まあ、不滅の魂による生まれ変わりも、縁起による生まれ変わりも、実質的には変わりないかもしれないが、と。
Unknown (たかはし)
2017-05-22 08:22:34
不滅のアートマン、これは何とも魅力的な言葉ですよね。

コメントにお付き合い頂いてありがとうございました。
私的マトメ(原案) (Unknown)
2017-05-23 01:35:04
現代世相に通用する仏教の要諦【無常無我の真相!!】

物事は常に移り変わるモノだ。不変の真理なるモノはない。絶対的なものなど何もない。
人の原点に立ち戻って、小難しい論理武装も捨て去るがよい。
全てはあなたの裁量次第だ。

だから自分の信念に従って生き、
他者に己の心を支配される事無く、
他者と自分を較べる事も無く、
自由闊達に生きたらよいのだ。
・・・人様に迷惑を掛けない様に配慮しつつ、正見とはなにかを見極めつつ、自分に与えられた責務は何かを考えつつ、
自分の心の良しとする処をおこなえ。

しかしこの世を生きる事は難しく苦でもある。度々失敗もあるだろう。試行錯誤もあるだろう。
しかし失敗してもべつに大した事では無い、気落ちする事なく新たに出直せば良いだけだ‥‥。
苦渋に満ちた此の世であるが、それさえも君の心の持ち方次第でなんとかなる。
苦難を乗り越える道がある。この点に関しては諦める必要は無い。

参考文献、五木寛之『他力』
70頁。宗教は、後世の人が自分の語りたいことを、釈迦とかキリストの名を持ち出して、(釈迦・キリストは)「こういうことを語った、こういうことをなさった」と皆で作り上げたストーリーだ(=自分が其処から自分用の人生訓をくみ取ればよいのだ、そこから自分のストーリーを作ればよいのだ)。

81頁。(釈迦の様に)究極のマイナス思考が、本物(純粋)のプラス思考を産む(=逆転の発想)。
追加 (Unknown)
2017-05-23 02:00:58
そ~だ、

『りきまず体から力を抜いて、脱力気味に事をはかれば、案外事はうまく行くモノなのだ・・・』
(無常無我からの逆転の発想)

とかも書き入れて置いた方がよいかも??
Unknown (Unknown)
2017-05-23 04:34:56
インド伝統武道カラリパヤットを観る機会がありました。東洋武術の元祖で達磨大師はカラリパヤットを伝え、少林寺拳法が成立したとか。確かに禅の動きに通じるものがありました。
姿勢って、身体や精神、脳に与える影響は大きい。頭を極力クリアにしようとすると、姿勢を整えることは必要不可欠です。上座部では瞑想の時、姿勢を正さないそうですが、それで深まるのか、本当に疑問です。
インドから南伝する時に、極めて重要な身体的な部分が抜け落ちたんでしょうね。もったいない。
浅野 (Unknown)
2017-05-23 05:31:56
そうですね、南さんは、迫力ある印象と言葉なんで、脱力とは感じないかもしれません。
日本人としても、勤勉で同調圧力も強いので、無意識的に力みも入っていると思うんです。
南さん流、座禅は力を抜く工程もあります。まぁ、力を入れてしまうのが、人間ですしね、、。
だから、道元は万事を~と言ったのでは。
Unknown (たかはし)
2017-05-23 06:16:07
姿勢を正さない瞑想って、ビパッサナー瞑想のことでしょうかね。姿勢を正すサマタ瞑想もあるんですよ。初期経典には、その両方が説かれていますから、テーラワーダでは、両方指導したり、ビパッサナーだけ指導したりと、いろいろなようです。禅宗は、経行をやるのですよね。あれは、歩くビパッサナー瞑想に類似かな、なんて思っています。

座るだけが禅ではない、日常生活の全てが禅である、ということが言われるようですが、テーラワーダが、日常生活の全てでビパッサナー瞑想を切らさない、と言うのと類似でしょうね。

日常生活でビパッサナー瞑想を切らさないようにすると、怠けてなんていられないですから、それはそれは大変なことでしょうね。かなりの精進が必要でしょう。

やってみるとわかるのですが、ビパッサナー瞑想を切らさずにやるって、3分やるのも大変なんですよ。すぐに、生じた思考に没頭してしまって、ビパッサナー瞑想が途切れてしまうんです。

こんなことを日常生活の全てで切らさずに続けるなんてことが出来たら、確かに自分の脳の何かが変わるのかもしれないな、という気になります。

スマ長老は、それをパソコンの基本ソフトを全て書き換えると例えますが、南さんも似たようなことを言ったのを聞いた記憶があります。
Unknown (たかはし)
2017-05-23 06:32:52
坐禅の姿勢の由来は何だろうか、と疑問に思っていたら、ヨーガの本に、師から、あの月をじっと見ていろ、姿勢はお前の好きで構わないが、しかし動くなよ、と言われて、土手に寝っ転がって見ていたら、10分もしないうちに体が苦しくなった、なるほど坐禅のポーズが適していると分かった、 というような話がありました。それが由来かななんて思いましたよ。

スマ長老によると、何十種類もあるサマタ瞑想のうちで、あるものは、洞窟の中で、坐禅のポーズで体を微動だにしないというものがあって、それは、集中力を邪魔されないためのものだとのことです。

でも、坐禅のポーズも体が痛くなって、集中どころではなくなりますよね。

南さんも、最初は体が痛くて仕方なかったが、いつしか体が痛まないやり方が分かってきて嬉しかった、というようなことを言ってますね。

なお、ビパッサナー瞑想も、最初は気楽にやりなさい、と指導されます。
Unknown (Unknown)
2017-05-23 14:14:25
挑戦を止めた時、人は失敗する
たかはしさんへ (Unknown)
2017-05-23 19:13:00
正直、坐禅の姿勢でないと、長時間坐るのは不可能です。坐禅の姿勢は整体で正しい骨格、とされている形とほぼ同じです。だから慣れるとすごく楽に坐れます。同時に気の流れもスムーズになるので、自ずと頭もクリアになります。至極科学的合理的に出来てます。是非お試しを。
Unknown (蓮の花)
2017-05-23 23:15:34
今回の記事は、言葉の定義『お祭り』な気がしましたが、
コメント欄はまさに『お祭り騒ぎ』になりましたね。
院代様は
言葉の(語の葉)衣で体を隠し
自分自身は上座に設定して君臨
上目視線で
コメ陳が右往左往する有様を眺め
無名で
”あっちいけほい、こっちいけほいほい”とコントロールなさっているよう。
たかはしさまは
その先頭で意気揚々
イェスちゃんさんは、後退気味....

私?祭りはひと騒ぎが肌に合わず、滅多に参加しません。
あ?コメ祭りの事実上の参加ですと?

結局、私のコメって
一人よがりになってしまうので
それでそれです。

Unknown (Unknown)
2017-05-24 00:09:10
原始仏教専門家のたかはしさんは(どちらかと言うと)このコメ欄に新風を吹き込む感がありますね。大変素晴らしいことです。
もともと道元師は釈尊への回帰を唱えていた訳でしょうから・・・

以前だと、此のサイトではS長老の事やテーラワーダの見解を言うとたちまち反発が飛び出して追い出しが掛けられたようだったけど、
原始仏教に知識豊富なたかはしさんに対抗できるだけの大乗論を持ち出して、
たかはしさんを追い出す知恵は出て来ないという事なのかも・・・

そういえばたかはしさん定義の『智慧』とはなにか、現代人にとって分かり易い
解説をして頂けると有難いです。
智慧=普遍的で変わる事のない真理??
智慧=ありのままの世界の認識??
智慧=事実そのものの認識??
智慧=釈迦の理解した事柄で、人にも達せられる仏性・・・で結局何の事??

で、たかはしさんが理解した『智慧』の定義は何ですか??
Unknown (たかはし)
2017-05-24 00:25:57
坐禅のポーズでサマタ瞑想もやってますよ。ただ、10分以上は続けられない、というありさまで、それを繰り返しています。でも、頭の認識を無にするという感じが、ちょっとは体験できます。まあ、あれこれ思考のオンパレードになることの方が多いですが。昔、先輩に金を借りて飲みに行ったことを思い出して、あの金返したっけかなとか、他にもいろいろ思い出して、なんて馬鹿だったんだろうと恥ずかしくなったり。

腰が痛くなったり疲れたりで、あっちをやったり、こっちをやったり、そしてスマ長老や南さんの説法を聞いたり、それにも疲れると、別なことをして、別なことをしながらビパッサナーをやったり、忘れたり、という日常です。コメント書きながらビパッサナーもやります。

まあでも、そうやって今日も生きてる、それが実践さ、なんて自分に言い訳してます。
Unknown (たかはし)
2017-05-24 01:13:02
仏教は、智慧の宗教だと言われますが、では、智慧の宗教じゃないのは何か、どういうことか、ということを考えるのがいいと思っています。

それは、釈迦の当時の既存宗教たるバラモン教だと思っています。バラモン教に悟り、解脱という伝承が既にあって、バラモン教は、そのために苦行をやるようです。それもナンセンスと思われるような苦行を。でも、それだけでは悟りは無理で、神を信仰して祭祀を行い、神の恩寵があって悟る、とされているようです。

つまり、自分が苦行しただけでは駄目で、そこに神への信仰とそれに基づく神からの恩寵が必要だということですね。ナンセンスな苦行と神の恩寵の期待。それが智慧の宗教ではないもの。

でも、それじゃ悟れなかったのが釈迦で、釈迦が悟りを実現した方法が、智慧だった、ということだと思っています。
Unknown (たかはし)
2017-05-24 01:14:23
ナンセンスな苦行はやる必要が無い、というより有害。

逆に快楽追求主義でも悟れない。

神の恩寵を期待するという執着も悟りの障害。

真実として把握出来ないアートマンへの執着も悟りの障害。

苦しみの原因は執着である。執着がなければ苦しみは無い。執着が無いところに苦しみの滅尽がある。

執着を捨てるためには、どうするか。どうやったら、それが実現できるか。

それが八正道。

悟りという目的達成のために、この世の現象を正しく知って、正しく実践する。

最終的には、悟りへの執着も捨てる。

無執着。

無執着の実現のために、想いから解脱する。

言葉を超えた世界に至ろうとする。

そのためには、正しく知り、正しく実践して得られたことにも執着しない。それも捨てる。

そういうことの総体が智慧と言われるものだと思っています。

スマ長老によると、初期経典には、私は修行した、私には智慧がある、というのは悟りではない、という言葉があるようです。

それから、智慧とは何かと考えたら智慧から離れる、とスマ長老は言います。

最終的には、智慧にも執着していない、それが智慧なんだろうなと思っています。

でも、智慧を捨てるためにも智慧が必要だから、迷信に惑わされることなく、この世の現象を、ありのままに正しく知って、正しく実践する、という過程が必要になる。

そう思っています。
Unknown (たかはし)
2017-05-24 01:21:01
初期経典で言っている智慧とは、最終的には、禅宗で言うところの、無所得、と同じじゃないかと思っています。

般若心経の、無智亦無得とも。
Unknown (たかはし)
2017-05-24 01:40:30
道元禅師の著書は膨大ですよね。それに最近知ったのですが、晩年には、それを書き直して、追加もして、100巻の体系にするつもりだったとか。

無所得、ただ坐る、なのになんでそんな膨大な言葉が必要なのか。

やはり、無所得のためには、まず正しく得ることが必要で、そうして得たもので得たことを捨てる、ということじゃないかと。
Unknown (Unknown)
2017-05-24 03:11:13
無所得=こだわりの心のない事、その心境

つまり悟りって、智慧って、
猫の心に成れって事なんですかね。

昨夜TEDプログラムで聞いた脳性まひの女性の講演(カミングアウト)で、
『あんたんちで飼ってる猫はあんたよりよっぽど幸せだよォ~、あんたんちの猫は何の悩みも無いが、人間のあんたは、あれに悩み、これに悩み、いつもいつも自分で四苦八苦を作り、それを心の中に抱え込んでしまってる・・・』とかいってましたよね。

智慧=猫になれ(ジャン!!)。
(そ~だそ~だ、猫には言葉が無いからね!!猫は道元100巻なんか読まないからね・・・)
「部派仏教・小乗仏教」は基準にならない。「スッタニパータ」は隠者文学、これも基準にならない。 (イエスちゃん)
2017-05-24 04:48:30
阿含経・「相応部の古層」こそが、「釈尊の仏教」を知るに足るもの。

駒澤大学の松本史朗先生だと思うが
「スッタニパータは、隠者文学であり、だから、ジャイナ教に近いもの。
僧侶が伝えた正当な書物である「阿含経・相応部の古層」こそを、重視すべき」と研究書に書いてあった。

中村元先生は、インド思想が専門であり、インド思想そのものに価値を置いていて、だからこそ一生研究なさった。
だから、その結果、釈尊も「インド思想の流れとして、主流である」バラモン・ヒンドゥ思想と矛盾しないように理解する結果となった。当然である。

仏教は「無我」でなく、バラモン教の「非我」と同じであるが、その結論となってしまう。

阿含経・相応部の古層を根拠とする「釈尊の仏教」は、「後に完成された部派仏教」とは異なる。後者は「逸脱」である。

初期大乗仏教「般若思想」は、「釈尊の仏教」へのルネッサンス運動・回帰運動であった。

曹洞宗の安泰寺で修行し(ver1.0)、その後「部派仏教で修行し(ver2.0)、それを捨て」、曹洞宗・道元和尚(ver3.0)に戻ってきた僧侶の対談集がある。
つまり、部派仏教には、重大な欠陥があるのです。
結局、道元和尚の仏教に戻ってきた。
曰く「ヴァージョン3.0の仏教」

これは、個人の経験の中で、
仏教の歴史「釈尊⇒小乗仏教⇒大乗仏教」
を辿ってきたことになる。


道元和尚は、ある事件をきっかけに、それまでの著作を「取捨選択して、残すべきもの」を「体系的に整理して」、旧草「正法眼蔵」75巻と定めた。
だから、これそのものも「晩年の基準の思想」である。

これに、更に新草「正法眼蔵」25巻を執筆し始めて、半分に届かない12巻で未完となった。
死期を悟った状態での「八大覚人」の巻が最後の執筆になった。

ここで重要なのは、旧草は否定されていないのです。
「旧草と新草と合わせて」で、道元和尚の教えが成立しているのです。

早い段階で、増谷文雄先生の「阿含経・相応部」の一般向けの膨大な啓蒙書に会えて、幸いであった。
先生は「根本仏教」と呼び、そこに価値を付けて呼んでいた。
現在は、価値中立な「初期仏教」と呼んでいるが。

増谷文雄先生も、「道元和尚の仏教」に会って、仏教に戻ってきた方であった。
法然の浄土宗の僧侶であった。
(だから、文雄は、僧名であり「ぶんゆう」である)
たかはしさんへ (Unknown)
2017-05-24 04:49:47
多分、坐禅で体が痛くなるのは、姿勢が整ってないからでしょう。坐禅は苦行ではありません。安楽の法門ですから。
Unknown (たかはし)
2017-05-24 04:55:28
坐禅で体が痛くならない方法があるのだろうとは、思っています。

ただ、人の骨格は、同じようで微妙に違いますから、それが見つかるまで時間がかかるということもあるでしょう。

それに、生まれつき変な骨格ということも、可能性としてあるでしょうしね。
Unknown (たかはし)
2017-05-24 04:57:45
イエスチャンさんへ。

相応部経典と、スッタニパータの違いは何でしょうか。
たかはしさんへ (Unknown)
2017-05-24 05:01:20
姿勢は自分では分かりません。誰かに見てもらい、正してもらうことが、必要です。曹洞宗の坐禅会では、真面目にやっておられる寺ではかなり細かく姿勢をチェックしてくれます。上座部サマタ瞑想を深めるのに役立つかもしれませんから、行ってみられては?禅は身体部分を重視しますから、そのあたりは参考になると思いますよ。只、お寺はしっかり情報をあつめ、お選びください。
Unknown (たかはし)
2017-05-24 05:01:55
部派を経験し大乗に戻った人は、その後、自分は悟りを完成したと宣言しましたか。

そうでないなら、部派が、自分には合わなかった、ということで、誰にでも部派が合わないとまでは言えないでしょうね。
Unknown (たかはし)
2017-05-24 05:06:09
永平寺で修行された南さんでも、体が痛くならないまでには、ちょっと時間がかかったのでしょう。

そうであるなら、今は、無理して教わりに行く必要を感じません。いつかは、行きたいなと思いつつも、まあ、そこまでの必要を感じていない、今やってることで、とりあえずいい、という感じです。
Unknown (Unknown)
2017-05-24 05:07:59
そうですね。絶対に正しいことなど、ありませんものね。世は無常ですから。それぞれの正しさの中で、人は生きるのです。
Unknown (たかはし)
2017-05-24 05:12:32
>「旧草と新草と合わせて」で、道元和尚の教えが成立しているのです。

これも諸説あるのが現状のようですね。新草の12巻には、旧草を書き直したものがあると。

それは説いてる対象が違うから、という解釈もあるんですよね。それが南さんですか。

いずれにしても、それだけ膨大な言葉を必要としたということが、私の着眼点です。
たかはしさんへ (Unknown)
2017-05-24 05:19:48
そもそも曹洞宗で考える悟りという言葉は、上座部で言う悟りと言う言葉と同じわけではないと思います。と言うか、曹洞宗では悟り、と言う言葉を使うことを良しとしない人が多いのです。この辺りのニュアンスを、ある人は影踏みみたい、と表現しましたが、上手い表現だと思います。
Unknown (たかはし)
2017-05-24 05:26:48
仏教学者は、初期経典にも後世の加増があると言っています。そこで、初期経典の中の、どの部分が釈迦の直説かが問題になります。

それは、困難な作業ですね。というか、ほとんど無理。

それを研究する人は悟っていないのでしょうし、もちろん、釈迦でもないのですから。

だから、軽々には、それは間違いで、これが正しいとは言えない。

言えることは、これを「私は」正しいと判断した、その理由は〜である、ということまででしょう。

そして、それに対する反論も、「私は」〜の理由でこれを正しいと判断している、ということに過ぎません。
たかはしさんへ (Unknown)
2017-05-24 05:29:37
今は結局、言語に置き換えてしか、たかはしさんへは伝えられない状況ですから、どの程度私が伝えたいことが伝わっているのか疑問ですが。今回の無常の話だけでなく、何においても言葉で精確に伝えることは出来ません。言葉の構造として。
Unknown (Unknown)
2017-05-24 05:32:03
だから、曹洞宗では正師から直接教えを受けることを重視するのです。
Unknown (たかはし)
2017-05-24 05:42:09
>曹洞宗では悟り、と言う言葉を使うことを良しとしない人が多いのです。

道元禅師は、修行しつつある状態が悟りで、だから修行の完成ということがないということですよね。悟りという言葉は、完成というイメージを抱かせるから使わないのですかね。あるいは有所得のイメージになるから。

実はそれに類似の言葉が初期経典にあります。努み励むことが不死の境地、というものです。だから、中村氏は、悟りを道元禅師の修証一如と同じように解釈します。

でも、初期経典には、修行完成者、という言葉も出てきます。解脱した、為すべきことを為し終えた、という言葉も。釈迦は死ぬ時に、弟子たちに、修行を完成せよと言い残したとも伝えられています。テーラワーダは、それを目指す立場ですね。

まあ、完成を目指して修行をしても、生涯かけても完成できないときは、それは修証一如と、実質的には変わらないかも、とも思いますね。
Unknown (たかはし)
2017-05-24 05:48:05
>曹洞宗では正師から直接教えを受けることを重視するのです。

正師、これがまた‥。誰がその人を正師と認めたのか。それを認めた人は悟った人なのか。

結局、最終的には、自分で判断するしかないのですよね。「私が」その人を正師と認めた、それでいいのだ、私の仏教だから、ということですよね。
Unknown (Unknown)
2017-05-24 06:08:13
そうです。結局は自分で決めるしかありません。そのためには、自分なりに真摯に生きるべきでしょう。私たちは仏教徒なのですから。
Unknown (たかはし)
2017-05-24 06:12:05
理解するために真摯に議論する、そういう一面も仏教徒ですよね。
Unknown (Unknown)
2017-05-24 06:18:14
そうですね。議論は大切です。でも、言葉には構造的な限界がある、という前提を忘れないことはそれ以上に大切です。南老師もよくおっしゃいますが。
 (大日方)
2017-05-24 06:22:29
>何においても言葉で精確に伝えることは出来ません。言葉の構造として。
>だから、曹洞宗では正師から直接教えを受けることを重視するのです。

正師なる人は、言葉で伝えられないことを一体どのように教えるのでしょうか。

日常の会話などでは、人は言葉以外に、表情、身振り、声のトーンなどを使って意思伝達します。そうすると「無常」と言うのは、言葉では伝わらないけど、表情、身振り、声のトーンなどを使えばなんとか伝わる、といったものなのでしょうか。
Unknown (Unknown)
2017-05-24 06:29:02
曹洞宗の老師には、人格をうつす、とか、まねぶ、などと言う言い方をする方もおられます。南老師はあまり仰らない感じがしますが。

尊敬する老師を真似るところから、いつのまにか、世界観を知ることが出来る、というところはあると思います。まず、場の空気を体験することは大切だと思います。私個人の経験としては、そのように思います。
「ヴァージョン3.0の仏教」 (大日方)
2017-05-24 06:34:16
先日、『六祖壇経』を検索している際にそんな本を見た気がしたので調べてみると、見つけられました。

『アップデートする仏教』幻冬舎 藤田一照、山下良道著

『仏教3.0を哲学する』春秋社 藤田一照、永井均、山下良道著
大日方さんへ (Unknown)
2017-05-24 06:34:47
無常が伝わるのではありません。無常である世の世界観が伝わるのです。大乗の徒である私たちは、その世をいかにより良く生きるかを自分なりに考えることが、大切かと思います。
Unknown (たかはし)
2017-05-24 06:52:48
体力とお金があったら、正師を求めて全国行脚したいですよ。

お寺の若い住職に、勉強会よろしく、と言ったら、でへへ、と笑って済まされました。

でもまあ、ネットで得られる情報でも、ある程度は学べますね。南さんの説法も、もっとネットに載せてほしいです。
たかはしさんへ (Unknown)
2017-05-24 07:11:59
運良く、私は様々な形で教えを受ける機会に恵まれました。やはり、場で体感することは、一人でやるのとは全く違います。たかはしさんには、是非一度、摂心に参加してほしいですね。結構色んな寺でやっておられますよ。
Unknown (たかはし)
2017-05-24 07:50:11
摂心の様子をテレビで見たことがあります。あれは臨済禅だったかもしれないですが。かなり厳しいもののようですね。

まあ、出家のためのものでしたから、在家者向けとは違うのでしょうね。

ただ、それを指導している僧侶が、丸々と太ってたんです。饅頭食べたら止められない、という感じ。それ見た時には、なんだかなあ、と思っちゃいましたよ。

それじゃあ、手本にならないだろうと。まず自分が食欲に打ち勝てよ、と突っ込まれるんじゃないの、なんて。

正師って、巡り会える人は本当に幸運なことだと思いますね。
たかはしさんへ (Unknown)
2017-05-24 09:53:37
私が学んでいるのは曹洞禅ですが、確か臨済禅では修業の中で無茶食いをさせられるらしいと聞きます。臨済禅でも修業をされたネルケ老師も何かに書いておられました。その影響かもしれませんね。
上座部に上座部の方法があるように、それぞれの方法があるのでしょう。絶対に正しいことは、何もありません。世は無常ですから。
Unknown (たかはし)
2017-05-24 11:02:34
太るまで無茶食いですか。いろいろあるんですね。
Unknown (Unknown)
2017-05-24 11:07:52
そうです。イエスちゃんが正しいように、たかはしさんも臨済禅の人も、等しく正しい。世は無常ですから。
Unknown (Unknown)
2017-05-24 14:04:41
ヴァージョン1の座禅は癒しの座禅
ヴェ―ジョン2の座禅はエクササイズ
ヴァージョン3の座禅こそが本当の仏教の座禅だ。
Ver.3に於いては仏教教理に通暁しているので、坐禅で実体験している事の仏教的意味が明白に解読できるからだ・・・
とか説明しているサイトを読みました。

しかし南禅師は、
ご自身の体験として坐禅(只管打坐)で体験出来ることは、変性意識が起きると言っているだけで、
それを各自は自分なりに勝手気ままに意味付けしているに過ぎないのだと述べられていますよね。

当然仏典にそれらしき事が書いて有れば「あ~、これがそれなのかも」と思う訳で、それが悟りの事で普遍の真理(仏性)であったというとしたら、
その客観性(事実そのもの)は皆無な訳で、全く無根拠で、
だからこそ南禅師は単に「或る変性意識を経験する」という言及に留めておられるのではないでしょうか。
そこにはヴェ―ジョン1も2も3もへったくれも無いように思えますがどうなんでしょうか??
Unknown (Unknown)
2017-05-24 14:17:56
「正師なる人は、言葉で伝えられないことを一体どのように教えるのでしょうか」

なんとなく、だけど。
「教えを教える」わけじゃないんだろうな、と思う。
現場で何やってるか、なんだろうな、と。
Unknown (たかはし)
2017-05-24 16:05:35
>しかし南禅師は、ご自身の体験として坐禅(只管打坐)で体験出来ることは、変性意識が起きると言っているだけで、それを各自は自分なりに勝手気ままに意味付けしているに過ぎないのだと述べられていますよね。

スマ長老は、サマタ瞑想で何を見たとしても、それは全部妄想で、その段階は悟りではない、と言います。似てますね。

初期経典では、サマタ瞑想は、8段階、あるいは9段階に説かれ、それぞれ説明があります。それを読んでも、 よく分からないんですが。

最後の9段階目は、想受滅ですから、何も見ない、ということになります。その段階の瞑想から出るには、予め7日以内で自分で決めておかねばならない、と説明されます。

1段階目にも至っていない私には、なんとも、とんでもない話です。

なお、1段階目では喜悦感が現れるそうです。4段階目で、喜悦感とか、安楽な感じもなくなって、ただの平静状態に。しかし、 そこから更に5段階あるとされます。

とんでもないですね。
Unknown (Unknown)
2017-05-24 16:14:26
まあ、あくまでそれを書いた方の感覚ですからね。良くも悪くも。
Unknown (月のような者)
2017-05-24 21:24:22
無常は言葉では厳密に説明しづらいけど「なんとなく」理解するしかないんじゃないですか。
人間が度々経験せざるを得ない「悲惨さ」とは、無常という現実と、日常的な反無常的常識が衝突した時に現出するものではないでしょうか。関東大震災で焼け死んだ人の中にはそんな表情で死んでくれるなと言いたくなるものもあります。はだしのゲンの作者が表現したかったことも、単に戦争や原爆への怒りや、分かりやすい悲惨さというだけではなく、「生命が世界を信頼していると結果的におぞましさが現れる、おぞましさに気付かざるを得なくなる」現実を図らずも見せつけられた人々の茫然とした視点でもあったのかもしれません。実際の被害はあんなものじゃなかったという言葉の裏には、自分の姿が溶けて、あらゆる内面的な自明性も溶けていきながら、人間がどんな手法で自分を「勘違いさせて」生きているのかを被害者は見せつけられて死んだという意味もあるのではないかと思います。あるいは被害者は火に飛び込む虫と自分を区別できなくなって死んだのかもしれません。そんな退廃を押し付けられたのではないかと言いたかったのかもしれません。生命の根本的な光と闇を強烈に見たということでしょうね。
我々が知っている無常は期待に値しない無常です。楽しいことはできるけど持続性はないし、毒を溜めていく性質もあります。生命の究極的な生存欲求、幸福追求本能を完璧に成就させたのが阿羅漢でしょう。結果的に生存欲が消えているとしても生きている間は「完全な善人」です。究極的な人権は放棄されません。
無常ゆえの不幸。無常と自分の無常性を認めるがゆえの自明で不退転の幸福。
Unknown (Unknown)
2017-05-24 23:30:53
「無常を理解する」っていうのも、何のことだろうな…?って気はするんだけどね、言葉として。

如月さんが関東大震災の被害の話を書いているとき、如月さんは悲惨なのか?
悲惨と無常がすごい近い関係のように書かれていると思ったんだけど、そういうものなのか?
「我々が知っている無常」うーん、たぶん、その「我々」の中に、わたしは入ってないんだな、きっと。我々って誰のことなんだろう?
如月さんは目指すなら「阿羅漢」?
如月さんの思うところの「阿羅漢」を目指す。
するとそれは、何を目指してるんだろう?

言葉が騙すのか、「何か」が騙されたがってるのか、
なんかこう、ノコノコついていく、って感じがするなあ。
Unknown (Unknown)
2017-05-24 23:41:35
無常を理解する
無我を理解する
実存を理解する
悟りを理解する
涅槃を理解する
幸福を(不幸を)理解する
人生を理解する
生きるとは何かを理解する

なんだか、何にでもくっつけられるよね、言葉だし。
Unknown (Unknown)
2017-05-25 00:15:59
たかはしさんやお月さんは
ジル・ボルト・テーラーのユーチューブ
「『奇跡の脳』脳卒中体験を語る」
www.youtube.com/watch?v=BsSWaYITW4g
をご覧になった事が有るでしょうか。もしなかったらご覧になって、たかはしさんやお月様なりの感想をお聞かせいただけると有難いです。

このビデオから理解出来る事は、
右脳には仏教で言えば「仏性」とか「無所有」が初めっから備わっている認識機能があり、
依ってそれにどのような名称を付けるのかは、人それぞれだ。

つまり南禅師が言うように、
『或る種の変性意識』が体験できて、各自がかってに意味付けするという言い方が一番正鵠(せいこく)を得ているのではないでしょうか。
まあ正師が仏教知識を基にそれをどう意味付けするかはまさに「言語」問題に過ぎぬし、スマ長老も上座部式分類をして見せた(これも言語問題)と言う事なのでは??。。。
道元和尚は『身「心」脱落』と教わった。しかし、如浄禅師は『心「塵」脱落』と教えた。 (イエスちゃん)
2017-05-25 00:37:05
道元和尚は『身「心」脱落』と教わった。とおっしゃる。
しかし、如浄禅師は『心「塵」脱落』と教えた。

(如浄禅師は「中国大陸中央部の田舎の老人」の発音であり、他方、「中国の寧波の都市部の中国語会話を学んだ」外国人である道元和尚。如浄禅師の話す方言では、同じ発音になる。
しかし、これは、昔、高崎直道先生が、以下で御指摘していましたが、
古仏のまねび「道元」―仏教の思想
「北方中国語、北京の発音」で考えていたので「まったく異なる」とご自分で否定されていた。残念。)

弟子は、既に、自分の中に「答」を持っていて、
自分自身が、それを発見する。

しかし、道元和尚は如浄禅師を「正師」と呼ぶ。
「面受」「正伝」とも言う。


では如浄禅師に出会わなければ「身心脱落」に到達できなかったのか?

南師は、
既に日本にいる時に解っていた。
しかし、日本では、無名・無権威では相手にされない。だから、中国で箔をつけて権威を付けて、日本で布教に利用した。
「宋代の看話禅」を痛烈に批判していたので、
「それと対極の、時代遅れの、如浄禅師」をこれ幸い「無色」と、「自分の御神輿」として担ぎ出した。

中国から死後に届いた「如浄禅師語録」はほとんど用いない。

「正師」は、後から「正師」だと分かる。
「正師」が、「仏とは、ミミズである」と教えたら、そのまま受け取るべし。
と道元和尚は教える。
「ミミズの陰に、自分の考える仏の姿を求めてはならない」「ミミズを、そのままで、仏と受け取る。それまでの考えを全て捨て去る」

最後は、「坐禅」だけが、全ての根拠となり、
全てを「坐禅」に委ね尽きる!

「只管打坐」しか残らない。
これが、果たして「幸福」なのか?
違う世界と思うが。
Unknown (たかはし)
2017-05-25 02:57:31
奇跡の脳、観ました。感動しました。紹介してくれてありがとうございました。

これは、バラモン教の梵我一如を言っている、と思いました。バラモン教の伝承を作った人は、左脳が機能しない状態を瞑想で作りあげたんだな、と思いました。

ジルさんは、ストレスの無い世界を体験されてますね。

これは、悟り、苦しみの滅尽が、人間には可能であるということを期待させてくれますね。

ジルさんは、過去と未来を意識し自我を形成する機能を持つという左脳が、脳出血により機能しなくなったことで、現在の感覚を把握するという右脳だけが機能する世界を見た、ということなんでしょうね。そこには、自分の体の境界線が無い、自他の区別の無い、宇宙のエネルギーに満ち溢れた、宇宙と一体となった、平和と感動の世界だった、とそういうことかなと。
Unknown (たかはし)
2017-05-25 03:00:37
初期経典の次の言葉を思い出しました。

過去は、もう無い。未来は、まだ無い、有るのは、今だけ。

ヨーガの本を読んだ時には、私は宇宙のパワーそのものだ、と瞑想体験者が語ってました。

ジルさんは、自分の体が宙に浮いたようにも感じたようですね。

バラモン教、ヨーガ、仏教で取り沙汰される体験を、左脳が脳出血で機能しなくなったジルさんは、まさに経験したんだろうなと思いましたよ。

スマ長老は、自分の今の感覚に集中する、日常生活でそれを切らさないというビパッサナー瞑想は、釈迦のオリジナルで、それまでの伝承では、サマタ瞑想だけだったから、サマタ瞑想を止めると元に戻ってしまうから悟りを実現できなかった、と言います。

また、サマタ瞑想で、喜悦感、安楽感、浮遊感が出ても、それを喜ばず、それに執着しないで、その先に進まなければならない、とも言います。

ジルさんは、治療によって左脳の機能が回復したとき、また以前のストレスの世界に引き戻されたけど、右脳の世界を体験したことで、意識してそこに行けるようになったのかな、左脳の機能障害と、その治療の過程で、右脳の世界だけを切り離せるバイバスが形成させれたのかも、なんて思いましたよ。

釈迦がやったのは、サマタ瞑想にビパッサナー瞑想を組み合わせることによる、右脳と左脳の連絡回路の再構築の実現ということじゃないか、だから、釈迦は、再びストレスの世界に引き戻されることの無い悟りを実現できたのではないか、そう思いました。
Unknown (Unknown)
2017-05-25 03:09:38
腹が減った なんか食おうか
Unknown (たかはし)
2017-05-25 03:11:17
瞑想の訓練によって、脳の認識経路が新たに形成される、ということが現代の脳科学で解明されているとテレビ番組で言っていたのを聞いた記憶があります。
道元禅師のシステム (Unknown)
2017-05-25 03:55:34
摂心中は全てにおいて作法にしたがって行動するから、いまここに集中せざるをえない。だから、摂心中の坐禅はそれまで体験したことがない感覚になったのだと思う。一度経験すると、坐禅を組めばその感覚には比較的簡単になることが出来る。実に上手く出来ているシステムだと思う。
私の正師は。 (Unknown)
2017-05-25 04:20:30
私が師から学んだのは、正しい坐禅の姿勢とこだわりの無さ、だと思います。師は私の世界観や解釈を否定しません。ほお、成る程。と何かご自分と考えが違う時でも受け止めてくださいます。無常である世界では絶対的な正しさなど無いのですから。曹洞宗の真面目な老師方はその辺りは徹底しています。こいつは自分なりの良き道を歩もうとしてるな、と思う限り、認めてくださるし、それぞれの感覚を認める、ということを重視されているのでしょう。
かなり、自分なりの学びを重ねた上で、ということですが。
Unknown (たかはし)
2017-05-25 04:23:14
ヨーガの本に、修行が進んでいったら、瞑想中は、師から、良し、と言われるようになったが、瞑想を止めて歩き始めたら、駄目、と師から叱られ続けた、という話がありました。師は、その理由を教えてくれません。

そこで、瞑想を止めて歩いているときにも、瞑想で得たものを反映しようと意識するようにし続けたら、やがて師から、良し、ついに分かったなと言われたそうです。

禅宗では、座るだけが禅ではない、日常生活の全てが禅である、とされるのですよね。

初期経典では、常によく気をつけていろ、と書かれています。スマ長老は、それは日常生活でビパッサナー瞑想を切らすな、という意味だと解説します。

みんな、同じところを目指している、そう思いますね。
たかはしさんへ (Unknown)
2017-05-25 04:40:21
曹洞宗では目指さない、ということを重視しますので、少々ニュアンスは違うかもしれません。何かを目指すしてしまえば捉えられない感覚を感じることが大切です。以前、南老師とスマ長老の対談本の中で、そういうニュアンスは上座部にもありそうだな、とは思いました。
ただ、たかはしさんはまだ、もう少し瞑想を深める必要がありそうですね。坐禅をしろ、とは言いませんが、もっと上座部式の瞑想でも深まると発想も変わるのではないでしょうか。
もし、真摯に瞑想をされていても深まらないのなら、私は経験上、姿勢が間違っているのでは、と思ってしまうのです。ほんの少しの姿勢の調整で劇的に深まり方は変わりますから。
Unknown (たかはし)
2017-05-25 04:55:34
私が、目指す、という言葉を使ったことの意味を、私の意図とは違う意味に捉えようとする、ということである可能性もありそうですね。
Unknown (Unknown)
2017-05-25 04:59:57
まあ、あくまで言葉ですから。私が伝えたいこともたかはしさんへ精確に伝わるとは思っていません。言葉には構造的な限界がありますから。その辺りは龍樹祖師が解説してくださってますが。
Unknown (たかはし)
2017-05-25 05:04:35
言葉の限界ですよね。でも、言葉で表現せざるを得ない、そこが難しいですね。

ところで、瞑想が深まった状態というのは、どういう状態を表しているのでしょうか。
たかはしさんへ (Unknown)
2017-05-25 05:21:36
ここが曹洞宗では批判をよく受けるところなんですが、それを言葉にすることがそれ程意味があるとは思えないのです。何故かといえば、言葉で語ることが深めることにとって、それ程助けにならないからです。

それぞれの人の感覚は大きく異なりますし、言葉には構造的な限界があります。よほど感覚的に分かり合った相手でなければ誤解の方が大きくなるでしょう。

たかはしさんは上座部に近さを感じておられますし、上座部はあえて言葉によるマニュアル化を進めた宗派です。そちらの方法論で学ばれたらよいのではないでしょうか。

多分、曹洞宗の対応の仕方では肩透かしをされたように思われるかもしれません。決してそのようなつもりはないのですが。
Unknown (たかはし)
2017-05-25 05:37:14
ありがとうございます。禅のそういうところは、何となくですが分かります。

でも、道元禅師は、膨大な言葉を駆使した。その対比が興味深いと思っています。瞑想体験以外の部分に言葉を費やしたということでしょうかね。

サマタ瞑想は、正しい指導者の元でやらないと、危険が伴うとスマ長老は言います。ヨーガの本でもそれに触れてました。その点、ビパッサナー瞑想は、安全であるということのようです。だから在家にビパッサナーを指導しているのかも、と思っています。

禅宗もその危険を知ってるが故に、直接指導を重視するのかなとも思っています。

テーラワーダでは、坐禅のポーズが理想だが、無理な場合は仕方ないが、その場合でも、背骨だけは真っ直ぐを意識するようにとされます。そこだけは守るようにしています。

いつか、直接指導で逃げられない状況下でやってみたいと思っています。独りでやってると、すぐに甘えが出てしまいますね。
たかはしさんへ (Unknown)
2017-05-25 05:48:36
甘え、もですが、やはり正しい姿勢は自分では分かりませんから、一度チェックはされていいと思います。曹洞宗の僧堂などで摂心や坐禅会に参加され、事前に姿勢を見ていただきたい旨を伝えておかれれば、きっちりチェックしてくれると思います。きっと、それかプラスに働くでしょう。姿勢を見てもらえばいいのです。あなたの内面はあなたのものです。
[無常はなんでもありとは違う (大日方)
2017-05-25 06:10:34
>イエスちゃんが正しいように、たかはしさんも臨済禅の人も、等しく正しい。世は無常ですから。

「無常」という言葉を「何でもあり」の意味で使っては混乱を招くだけです。無常とはそういうことではないでしょう。お釈迦様は、相手によって教えの伝え方を変えたかもしれませんが、「なんでも等しく正しい」ということはありえません。

「仏教は苦しむ人が服用する薬のようなものなので、その人に効果があり副作用が小さければそれでいい。」
「時代を追うごとに、経典は書き換えられ、また書き加えられ膨大な量となったので、一貫性がなく矛盾点もある。正しい教えの判断は最終的にはそれぞれに委ねられるしかない。」

など、言い方はいくらでもあります。なんでも「無常」で片付けてしまっては、「無常」を単なる呪文の類に貶めることになるでしょう。
「言葉にできない」は免罪符ではない (大日方)
2017-05-25 06:13:33
>「教えを教える」わけじゃないんだろうな、と思う。
>現場で何やってるか、なんだろうな、と。

「理屈じゃない、実践だ」みたいな話ならわかります。百聞は一見にしかず、という様な話もわかる。しかしそれならば「言葉の構造上伝わらない」などと、もったいぶったことを言う必要はない。

私の疑問に答えて下さった方のことは存じ上げないので、それらの方に対してではなく、自戒の意味を込めて一般論として書いておきます。

我々素人は、「言葉では伝わらない」などと軽々しく言うべきではない。普通は「言葉では伝えられない」なんて言い草は、「説明する能力がない」、つまりは「理解が十分ではない」として片付けられてしまうことです。体の感覚などを言葉で伝えるのは難しいとしても、例えばスポーツのコーチや解説者が「その感覚は言葉では伝えられないんだよ」なんて言い出したら、「だったら辞めちまえ」と言われるのが関の山でしょう。

「言葉で完全には伝えられない」を理由に説明を怠るとしたら、それは詐欺に近い行為です。どんなに不完全でも、やはり言葉を使って説明する努力を怠ってはならない。そう思います。
Unknown (たかはし)
2017-05-25 06:16:09
ありがとうございます。お寺の住職も、それぐらいならやってくれるんじゃないか、なんて思いましたよ。ただ、住職に会うまでが面倒なんですけどね。忙しい人なんです。寺を掛け持ちしてるようで。曹洞宗は寺が一番多いのですよね。 住職がいない寺も多いとか。

本山から、檀家の希望者に坐禅指導するように、と命令を発してくれたらいいのに、なんて思いますよ。
たかはしさん、大日方さんへ (Unknown)
2017-05-25 06:30:22
やはり、気分を悪くさせてしまいましたね。そこを心配していたのですが。

私は一介の在家であり、曹洞宗の僧侶ではありません。真摯に学ぼうとすれば道を示してくださる方々はいらっしゃいます。真面目に道元禅師の教えを伝えようとする老師方に随分助けられましたので、私の経験を話したまでです。

只、私自身、随分情報収集し、寺を選んだことは事実です。経験上言えるのは、真摯に学ぼうとすれば道は開かれる、と言うことです。

今から出勤です。今、自分で納得できる仕事を楽しんで行えるのも、学びと坐禅の賜物だと感謝してしています。
Unknown (たかはし)
2017-05-25 06:53:56
>「言葉で完全には伝えられない」を理由に説明を怠るとしたら、それは詐欺に近い行為です。どんなに不完全でも、やはり言葉を使って説明する努力を怠ってはならない。そう思います。

それについては、道元禅師は、こう言っている、と紹介してもらえたらいいですね。

それから、私の現時点の理解では、こういうことだと思っている、こんな経験をした、とかね。

自分のありのままを話すことは、大事なことだと思いますね。

師弟関係にもない、師になっているつもりもない、一介の在家に過ぎない、ということなら、直接指導における師の真似などする必要がないでしょうね。

ざっくばらんに行きましょうね。
Unknown (たかはし)
2017-05-25 07:03:15
釈迦の弟子が歩いてるのを見て、何かを感じて、あなたは誰に教わっているのか、それはどんな教えなのか、と質問されて、しつこく聞かれるので仕方なく師の言葉を紹介したところ、それを聞いた人が、たちまち興味を持って、その師に会い弟子になった、という話が初期経典にあります。

それとは逆に、自分から何事かを言いたくなってコメントしたのであれば、やはり、言葉を尽くすことに努めるのが適切なのでしょうね。
Unknown (Unknown)
2017-05-25 07:04:03
以前、このコメント欄でチャレンジしたことがありますが、結局、伝わらなかった、という経験があります。また、私の体験談より、南老師の著作の方が余程参考になりますし、正法眼蔵を読むことがベストでしょう。正法眼蔵に明確な答えがあるわけではありません。その時々の自分の世界観を映し出すような本です。ぜひご一読を。私は法華転法華の巻が一番響きます。
Unknown (たかはし)
2017-05-25 07:18:20
説明しても徒労に終わる、そのやるせなさは分かりますね。

でも、それでもまたコメントしちゃうんですよね。その気持ちも分かります。

そして、これ以上は無理だな、疲れるだけだなと引き下がる。それもよく分かります。

それもまた、今の自分の、ざっくばらん、かもしれないですね。
Unknown (Unknown)
2017-05-25 07:20:44
まさに、そうです。いま、たかはしさんへ伝わった感じがします。そろそろ遅刻してしまいそうですので、このへんで。合掌。
Unknown (たかはし)
2017-05-25 07:29:21
ありがとうございました。お気をつけて。
Unknown (Unknown)
2017-05-25 07:48:38
語るものは知らず 汁物は語らず
Unknown (Unknown)
2017-05-25 09:03:47
>背筋をまっすぐにする(・・・理由)

それは丹田呼吸(腹式呼吸)を充実する為に最も有利な姿勢で在り、
丹田呼吸をすると腸が刺激されるので
副交感神経系が活性化され、よってセロトニンが分泌して心の落ち着きが出る。
するとそれが顔つきにあらわれ、体も安定静止して見えるので正師がOKを出す。

そんな繋がりが出てくるらしい。
Unknown (Unknown)
2017-05-25 09:41:06
>私が師から学んだことは正しい姿勢とこだわりの無さ

正しい姿勢とは、
坐って坐禅している時も、立って歩いている時も、寝ている時でさえも
丹田呼吸をして副交感神経系を活性化してやればセロトニン分泌量が増して心の安定化・鎮静化の効果が出るので、
セロトニン欠乏症気味である日本人に、とても良いと言う事。
(安眠できれば混沌的脳状態の中から海馬が正常な答えを自動的に導き出して呉れる。Δ脳波が出る=デルタパワー)

こだわりの無さとは、
無所得=こだわりの心の無い境地でいる老師が自分のロールモデルとしてそばに居てくれる(彼から安堵感を受けれる)、と言う事。

釈迦は独力で両方を発見したが、

それでも、自分のそばで指導してくれる誰かがいると色々励みになる事は確かなようだ(=家庭教師、メンター)。

Unknown (Unknown)
2017-05-25 16:35:36
そーかー

釈迦が悟っていたとしても、
「釈迦のようになれたら悟っているといえる」ってのはヘンなのか。
なんか、ヘンそうだな。
「釈迦のようになれたら」もヘンな気がするし。
「悟っているといえる」もへんな気がするし。

なんか、
「人生とは穴の隣の地面を掘って、その土で穴を埋める作業である。(埋め終わったら自分の掘った穴に入って終了)」
みたいな。
えー、まじでー?(ブーイング)
Unknown (月のような者)
2017-05-25 20:03:20
ジル・ボルト・テイラーさんの話はなんか知ってましたよ。神経学者みたいな人がそういう体験をして克明な証言をすることは医療的な意味でも貴重だと思いますし、右脳がどうこうだとか宇宙と一体化みたいなことも一つの文化としてはありなんじゃないかと思いますよ。
しかし「左脳が壊れて至福感」というのは決して喜べる状況ではありません。壊れ方によっては非常にまずい訳です。脳の機能障害自体ははっきりと一つの不幸な状況であることを認識するべきだと思います。いずれにしても仏教的な幸福とは究極的には「脳」に還元されるというものではないと思います。
人間として生きている以上は暗さよりも明るさを求めるのが当たり前ですが、明るさを至上命題にしてしまえばタチの悪い暗さに陥るものだと思います。明るさや暗さの定義自体をしない方がいいのではないでしょうか。明るさ暗さ、右脳と左脳、幸と不幸、少なくともそういうものにこだわる状態は幸せには見えない訳です。
Unknown (Unknown)
2017-05-26 02:45:48
>仏教的な幸福とは究極的には「脳」に還元されるというものではない・・・

どゆこと??
脳の変性意識じゃ無くて、

実体として存在する『仏』のご慈悲??
ブラフマンのなせるワザ??
それとも国家が与えて呉れた『厚生福利』??
それともお月様の寂光現象??

それとも、それとも・・・なんの事??
Unknown (Unknown)
2017-05-26 03:05:20
ジル・ボルト・テーラー体験の存在意義は、

全ての人の脳(=即ち、本性)には、仏教で言う「仏性」とか「無所得」の意識構造が内在していて(=生まれながらにして仏性がある…道元の究極的問だった)、

仏教者が修行に依って、
その境地に達せられる。

・・・ということの科学的根拠が示された。
だから議論好きのたかはしさんも論理的確信が持てた。
そゆことではないのでしょうか??
「死苦」は「脳」が創り出している。『畢竟じて言語の問題』 (イエスちゃん)
2017-05-26 03:39:32
『いずれにしても仏教的な幸福とは究極的には「脳」に還元されるというものではないと思います』

膨大な「禅の語録」
禅の歴史である、壮大な「伝燈録」
「言葉の問題」を言葉で表現し、
その「固定化した言葉」を、更に言葉で否定し・・・

馬祖禅師が、『即「心」是「仏」』と教え、
その後、それを否定し、『非「心」は非「仏」』と教え、
それを聞かされた、大梅禅師は、
更にそれを否定し、俺は、『即「心」是「仏」』のままだと言った。

それを聞かされた馬祖は、成熟したと肯定した。

(「自分はあくまで『即心即仏だ』」と言って、『非心非仏』を否定した大梅禅師を「梅の実は熟したな」と肯定)

この「一連の言葉の運動の全体」は何を意味しているのか?

ある僧が馬祖に向かって、
「和尚さんはどうしていつも即心即仏と説かれるのですか」と問うと
馬祖は、「啼いている子供を泣き止ませるためだ」と言われた。
「泣き止んだときはどうですか」と問い直すと、
馬祖は「非心非仏」と答えられた。

だからこそ「即心即仏」と言って、言葉を用いて、「妄信」に気づかせる必要があるのです。

『無常や無我は事実の問題ではなく、
 認識の問題でもなく、
 畢竟じて言語の問題だ』

『死苦』は『無我』で解消される。
「涅槃である寂静」の世界である。
Unknown (たかはし)
2017-05-26 03:54:24
>だから議論好きのたかはしさんも論理的確信が持てた。

はい、苦しみの滅尽は、人間に可能だ、釈迦は、嘘は言っていないだろうと思えましたね。

ただし、それを実現するために釈迦が説いた手法は、命懸けの、とんでもないものですから、誰にでもできるものではない、それをヒントに在家としてどう生きるか考える、というのが現実的だと思いますね。
Unknown (たかはし)
2017-05-26 04:08:55
>ある僧が馬祖に向かって、
「和尚さんはどうしていつも即心即仏と説かれるのですか」と問うと
馬祖は、「啼いている子供を泣き止ませるためだ」と言われた。
「泣き止んだときはどうですか」と問い直すと、
馬祖は「非心非仏」と答えられた。


泣き止んだ子供は、非心非仏にも非ず、と答えた。

それを聞いた馬祖は、沈黙する。

泣き止んだ子供も沈黙する。

お互い、沈黙したまま涙を流した。

なんて、そんなことを連想しました。

それに似た話が仏伝にあったような、記憶が定かではありませんが。

スッタニパータには、想いからの解脱において解脱する、とあります。

想いとは、言葉ですね。
Unknown (Unknown)
2017-05-26 09:32:35
言葉によって、世界は創られる。
言葉から抜け出せば、そこは真っ白で境界は無い。

それを垣間見ても、世界に帰ろう。私たちは、いまここを生きる菩薩であるべきなのだから。
Unknown (たかはし)
2017-05-26 10:46:23
>言葉から抜け出せば、そこは真っ白で境界は無い。
それを垣間見ても、世界に帰ろう。私たちは、いまここを生きる菩薩であるべきなのだから。

垣間見たのではなく、真にそこに至った人は、もはや元の世界には戻らない。

悟った釈迦が、悟って以後も還俗しなかったように。

そう思います。

全て捨てて出家するなんて出来ない自分は、この世をどう生きるか、それが問題ですね。
Unknown (Unknown)
2017-05-26 10:58:10
まずは、至るべく生きてみてはいかがでしょうか。世界はあなたの在り方で転じるものかと思います。
釈尊の仏教は薬なのです。苦しんでいない人には不要です。 (イエスちゃん)
2017-05-26 16:52:31
釈尊の仏教は「薬」なのです。だから「苦しんでいない人」には不要です。

「言葉で縛られて、しかし、その原因に気づかずに、苦しんでいる人」
その人に対する「薬」「方法」「歩む道」なのです。

だから、健康な人には、不要なものです。

昔から『「縁なき」衆生は、「度し」難たし』
だから、むしろ、悩んでいることは、救われる大事な「きっかけ」なのです。

酒や女や競馬やゲームやゴルフや趣味や…
「いろいろなもので、誤魔化さない!」、真剣に生きる。

(「キリスト教に目覚めた後の」哲学者パスカルは、これら人間の「気晴らし」を全て断った。
「死の不安」を忘れるために、人間は「気晴らし」に逃げ込む。趣味の釣りの世界も、更には、「家族愛」の世界も。
釈尊は「出家」した。「家族」を捨てた。)

その中で、「道元和尚の仏教」は、素晴らしい道です。
「仏道」生き方です。
必要な人に、いつでも解放されている。
Unknown (月のような者)
2017-05-26 17:21:33
仏教が理解できるとされるのは人間と梵天界の住人?でしたっけ?細かい所は忘れましたが、しかし仏教がとりあえず対象にしているのは「全生命」です。
脳がなくても生きている、何かを感じている存在が対象です。植物が入るのかは曖昧なところですが。
そして仏教的な幸福とは煩悩がなくなることです。最終的に認識欲も生存欲もなくなることですね。阿羅漢が死んで宇宙から消滅して幸福が完成です。はたしてナマコやヒトデは無欲ですごく幸せかというと十分強欲ですね。次は人間になるかもしれません(笑)
修行中の仏教徒がショットガンで自分の頭を吹き飛ばせば即幸せになれるのでしょうか。それで涅槃に入れます、生まれ変わりはありません、と言われても信用できません。どうなるか分かりませんし、納得できません。それなのに無理やり死ぬという不幸な状況なのです。
Unknown (たかはし)
2017-05-26 18:49:30
初期経典において、阿羅漢は、釈迦と同様にこの世で苦しみを滅尽した人です。そして、死んだら輪廻も起こりません。

阿羅漢になっていない、つまり悟りを実現していない人が、自殺したらどうなるか、これは、その修行僧のレベルによりケースバイケースのようです。

未熟者が、修行の苦しみに耐えかねて、生を嫌がって死に執着して自殺したら、好ましい輪廻は期待できないとされるのでしょう。

瞑想に入って、かなりのレベルに達した人が、瞑想を止めると元に戻るということを、何度も繰り返し、ついには、自刃してから瞑想に入り死んで行った、という話があります。釈迦は、それを肯定しました。スマ長老はそれを、そこでついに悟ってから死んだ、と説明したと記憶しています。ちょっと都合がいい解釈に思えますが。

それから、自分の死期が近いことを自覚し、病の激痛から逃れるために自殺した修行僧のことも釈迦は肯定しました。悪しきところには生まれ変わらないと。
Unknown (月のような者)
2017-05-26 19:08:05
自殺が絶対的な悪行為とは言い切れないかもしれません。ケースバイケースですね。
絶望的な痛みに襲われ続ける、もしくは脳の障害でとんでもない幻覚に襲われて自分の恐怖心もコントロールできないとなったら私なら自殺するでしょうね。もっと情けない理由で死ぬかもしれませんが…。ただ基本的には自殺は損な行為ですね。
Unknown (たかはし)
2017-05-26 19:12:12
テーラワーダでは、前世で善行を行なっていないと人間には生まれ変われない、人間としてどのような境遇に生まれるかは、善行の強度によると説明するようです。

釈迦の前世の物語として、動物だった時代にも善行を行なっていた、というものまであるようです。

前世での悪業により障害者に生まれた、なんて酷いことが言われることが世間ではあるようですが、テーラワーダにおいては、人間に生まれたのだから善業によるのだが、それが弱かった、と説明するようです。

しかし、障害者や、あるいは健常者でも悪い境遇に生まれたことがきっかけで、仏教に目覚めて、修行して、それで悟るか、悟らないまでもかなりのレベルに達したとしたら、それって、前世の善業が強かったということじゃないのか、なんて思ったりしますが。

まあ、スマ長老によると、業のことは、考えても分からないことだから考えるなと釈迦が言ったという経典があるそうです。そして、これまで果てしなく生まれ変わりを繰り返して来た中で積み上げた業によるのだから、それは簡単に説明がつくものではない、とスマ長老は言います。

うまく逃げたな、という印象はありますけど、まあ、考えても仕方ない、というのは、その通りだと思いますね。苦しみを克服したかったら、どんな人でも今やるしかない、そして、やるべきことは同じなのでしょうからね。
Unknown (Unknown)
2017-05-26 21:35:02
前世で善行を行なっていないと人間には生まれ変われないとか、誰の基準の善行なんでしょうね。まあ、具体的な基準があるのは単純でいいよね。

単純なのに納得さえ出来れば。
Unknown (Unknown)
2017-05-26 23:07:00
えええ、趣味もダメなの??
@イエスちゃん言5-26,16:52:31

なんか南禅師が自分の子供には趣味を見つけて楽しんでもらいたい、ってどこかで言ってた筈だよね。
・・・だめじゃ、それじゃあ!!
Unknown (Unknown)
2017-05-26 23:28:09
「誰の基準の善行」

たぶん、釈迦基準てことになってるんでしょ。

「輪廻がー」って言うから「輪廻」っていうアイディアを採用した上で話をすると、「輪廻がある」って話になっちゃって、とか。
「善行がー」って言うから以下略

まあでも、いろいろ大変だったりするからな。どうにかしたい、と思ったりもするのよ。そりゃそうだ。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 00:01:09
「拠り所」って欲しかったりするし。
「事実そのもの」ってのはわからないけど
「拠り所」ならわかる気がする。
「根拠」ってなるとまたびみょー。
「寄る辺なき身の上」みたいなの。
そりゃ、ぐらりと揺れたときにはどこかにつかまりたい。
「地球が回転しているというのに」とか
「宇宙が膨張しているというのに」とか
しらねえよ、みたいな。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 00:08:21
あー
輪廻のひとりあるきだな。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 00:25:49
道元が死んだのは54歳

院代さんはその歳を超えた
Unknown (たかはし)
2017-05-27 01:21:41
何が善行なのかというのは、悟りの実現の役に立つもの、ということで、それは悟った釈迦にしか明らかに出来ない、ということになるでしょうね。

初期経典には、後で後悔することになるような悪しき行いを止めよ、という言葉があります。

修行においては、心の動揺が障害になるからでしょう。修行は、清浄行とも言われ、それは心を浄化するものでしょうから、心が汚れた気持ちになるような行いが悪しき行いと考えてもいいのではないかと。

イエスチャンさんが言ってましたけど、中国の禅僧が、修行とは心塵脱落だと言ったそうですね。

チューラパンタカに釈迦が、そなたは雑巾で拭き掃除してればいい、と言ったのも、修行とは、心の汚れを取り除くことだということを分からせるためのものだったとか。

それから、趣味の禁止は、執着を滅しようとする出家の場合であって、在家は、各自の判断によるということでしょう。もちろん仏教の在家としては、小欲知足が基本姿勢になるのでしょうが。そこもなかなか難しいですね。趣味とは、心を喜ばせるものですから、執着を強め、やがては狂乱させる可能性大ですね。そしてふと、やり過ぎちゃったなあ、と後悔するものでもありますね。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 01:39:40
仏教学者の中村氏は、釈迦は、当時の民衆にとって常識だった輪廻思想を方便として使ったと解釈したようです。

スマ長老は、現在でもテーラワーダでは輪廻を厳格に信じている、と言います。

日本人で輪廻を厳格に信じているという人は、どのぐらいいるのでしょうね。輪廻は信じなくても不滅の魂の存在は信じている、だから葬式をする、ということですかね。

不滅の魂の存在を信じるなら、生まれて来た赤ちゃんの魂はどこから来たのでしょうね。そこは気にしないのが日本人の面白いところかもしれないですね。

輪廻も魂も、そんなことは一切気にならない、としたら、それは悟りかも、とも思いますね。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 02:36:46
そう言う人、多いんじゃない?
かと言って、悟ってるんかな?
Unknown (Unknown)
2017-05-27 03:08:16
>輪廻も魂も一切気にならない

それってオレオレ!!
でも悟ってないかも、オレオレ詐欺だから・・・。

でもさ~、
南ちゃんお好き言語録な如く、
自己の実存が無根拠で、ただ偶然に、
正真正銘偶発的に息しちゃってる俺が、

死んだら息しないからエネルギー補給が出来なくなって、細胞を活性できなくなって、脳回路も崩壊するから考える事も感じる事も出来なくなって、

依って、素粒子・原子・分子として分離・拡散しながら、ちりじりとなって宇宙に戻るっていう仕組みなんだから、

輪廻・魂なんていう物理構造を保つなんて想定するのは全くの幻想じゃあないかい??
単なる希望的願望に過ぎなくて・・・

ほんとの処、釈迦はどう考えていたのかね、無常無我を・・・
Unknown (Unknown)
2017-05-27 03:30:52
無我とは
https://blogs.yahoo.co.jp/obi_hamaishi/49802256.html

無について
https://blogs.yahoo.co.jp/obi_hamaishi/49801589.html


引用です。
「釈尊の仏教」は「あくまでも、自分の死苦、老苦」が解決すべきもの! (イエスちゃん)
2017-05-27 03:54:21
「釈尊の仏教」は「あくまでも、自分の死苦、老苦」が解決すべきもの、である!

「慈悲」は目的ではなく(「無我」の発見による)派生的な、自然の、「結果」である。

釈尊は、「自分の苦」の解決の為に、家族を捨て「出家」して、修行生活に入ったのです。

「世の中を救う」ために、出家・修行したのではない。

だから「自分の死苦と無関係」な議論は、「無駄な議論」「戯論(けろん)」である。
「prapañca」仏教用語。
無意味で無益な言論のこと。愛着心から行う言論であるところの愛論と,偏見より行う言論であるところの見論とがある。仏教では形而上学的な議論は戯論に属する。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 04:10:38
ははは、ちちちち!!
5-27:03:30:52ご推薦のリンク「無我」&「無」が実に面白かった。

以前1年位前迄、このブログ米では、
坐禅で自分が無我となってムニャムニャって自慢する声を随分聞いたもんだったよね。

ははは&ちちちち!!
Unknown (たかはし)
2017-05-27 04:43:56
>ほんとの処、釈迦はどう考えていたのかね、無常無我を・・・

気になるでしょ。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 05:00:34
ほとんど気にならない、というのと、一切気にならない、というのは違いますね。

それから、今は気にならない、というのも。

今、突然余命宣告されたら、どうでしょう。自分の死、死後のことが気になってくる可能性が高いでしょうね。

自分の死期が近いことを自覚した時、自分の罪を白状したり、謝ったりする人が現れるというのは、小説や映画の話だけでなく、現実にもあるんじゃないでしょうか。何のために罪を告白したり、謝ったりするんでしょうね。

それから、禅に霊性の世界を、阿弥陀仏信仰を取り入れた鈴木大拙は、歳取ってからでないと分からないことがある、と言ったとか。

仏教について、何事かを語る、議論するというのは、自分の苦しみへの対処だと思いますね。私の場合は、もちろんそうです。

それは私は気にならない、と発言することが、そもそもそれが気になってる、ということだと思っています。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 05:11:10
最近見つけたサイトです。

道元禅師と輪廻転生

http://joen-ji.jp/jo7ofbwb2-136/
スマナサーラ長老の説明 (大日方)
2017-05-27 05:59:27
>テーラワーダでは、前世で善行を行なっていないと人間には生まれ変われない、人間としてどのような境遇に生まれるかは、善行の強度によると説明するようです。

それでも尚且つ「主体なき輪廻」と言うのはどういうことなんでしょうね。『出家の覚悟』では、スマナサーラ長老は「輪廻は川で考えればいい」と言われる。それで南和尚は分かったと言うのですが、読者の私は「・・・」という感じです。

>仏教学者の中村氏は、釈迦は、当時の民衆にとって常識だった輪廻思想を方便として使ったと解釈したようです。

これに関して、スマナサーラ長老は、輪廻は当時の常識ではなく、ブッダ・オリジナルの発想だと主張する。それが事実なら、お釈迦さまは、主体なき輪廻を説いたけれども、他の宗教はそれを主体のある輪廻として曲解し、引き継いだということなんでしょうかねえ。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 06:18:34
輪廻、生まれ変わりという言葉が、そもそも不滅の主体によるもの、という前提で生まれた言葉でしょうから、主体なき輪廻という言語表現が、そもそも不適切だと私は思っていますが、しかし、適当な言葉が無いので、それを使っているに過ぎないと考えるしかないでしょうね。

スマ長老は、業による輪廻は、釈迦によるオリジナルで、バラモン教がそれをパクったと説明しますね。

学者は、バラモン教の聖典における業による輪廻の記載の方が、表現が素朴で未熟だから、バラモン教の方が古い、と解釈するようです。

スマ長老は、その理屈がおかしい、釈迦の教えをパクったから、未熟な記載になっているのだ、と言いますね。

まあ、テーラワーダは、釈迦至上主義でしょうからね。そういう構図って、宗教に共通でしょうね。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 06:27:55
初期経典の釈迦は、不滅の実体の存在を認める発言をしません。

テーラワーダでは、生きている今のこの心も、刹那刹那に生滅を繰り返している、その生滅のサイクルの内に、相続が行われるから、生まれて滅して、また生まれた心には、相続が行われるから、その心は同じものではないが、全く別のものでもない、と説明します。

それが、死んだ直後にも起きる、不滅の主体なき輪廻とは、そういうことだと。

行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず、と何かにあったような。

川は常に生まれ変わってる、と言えるでしょうね。

生まれ変わってるけど、その水は、同じ水じゃない。同じ水じゃないけど、連続した水だと。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 07:05:20
たかはしさんのコメを読めば読むほど、テラワーダはこじつけが多いな、て思う。ロジックで理解したそうなたかはしさんには合わなそうだし、なんで気にいってるんだかよく分からん。自分で書いてて矛盾に気がつかないのかね?

まあ、信仰てそんなもんだろうね。信じるものは救われる。良かったね。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 07:10:27
矛盾を具体的に指摘してみて。

私にとっては、なるほどテーラワーダは、そう考えたか、と思えることが多いのですよ。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 07:15:20
そうかあ。それは良かった。恋は盲目だからね。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 07:18:39
それから、テーラワーダは、こう説明する、と私が紹介したことを、私がそのまま信じているわけではないですよ。

言うなれば、その可能性は否定できない、という程度のものです。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 07:20:59
業のことは考えても分からないから考えるなと釈尊は言った、とか言いながらの業をベースにした発想は、とてもキュート。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 07:23:37
業のことは、ブラックボックスだよ、内部の仕組みはわからないけど、有用なもの、つまりはそういうことでしょう。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 07:26:17
まあ、本当は分けようのない世界を細分化言語化して説明しようとするテラワーダに矛盾があるのは当然といえば、当然。切り口をどんな形にしようが、全てを説明は出来ないんだよ。テラワーダだけじゃなく。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 07:37:20
本当は分けようのない世界、という判断は、誰の判断?

釈迦は、現象世界を相手にしているとされます。人間の現象認識による世界は、分けて認識できる世界でしょう。例えば、このリンゴとあのリンゴは違うと。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 07:40:54
出典は?
Unknown (たかはし)
2017-05-27 07:42:04
テーラワーダも全ては説明してないですよ。心の刹那の生滅、心相続の詳しいメカニズムは説明してません。

説明してることに矛盾はないかどうか、問題にすべきはそこでしょう。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 07:43:21
現象認識の出典ですか、以前に紹介しましたよ。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 07:48:59
たかはしさん、結局、ヒトは自分の認識で世界を見てるに過ぎないんだよ。全てを認識は出来ないし、逆に自分が認識しているものだけが世界とも言える。自分の認識と他人の認識は異なってるから、極論で言えば違う世界を生きているとも言える。勿論共有部分もあるけど。

そう言う意味で、世界全体を認識は出来ない。言い方を変えれば分けられない。そんなことは釈尊は勿論分かってる。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 07:53:15
だから、認識できる世界を説明できるところまでは、矛盾なく説明しなければならないでしょう。

全部説明できないのだから、言葉で説明するのには矛盾がある、というのとは、意味が違いますよ。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 08:16:22
たかはしさんがリンクしてくれた(@5-27,05:11:10) での曹洞宗常圓寺住職角田泰隆師の「道元禅師と輪廻転生」を読みました。これほどはっきり道元禅師が輪廻転生を肯定している事を今更ながら知りビックリしました。

今迄、南禅師は輪廻転生を激しく否定していると思って居たのですが、
(道元禅師が輪廻転生を肯定しているとする)角田泰隆師の見解をどうお考えになるのか、
次回の記事辺りで決着を付けて頂きたいものです。
そうでなければ夜も落ち着いて眠れません!!
Unknown (Unknown)
2017-05-27 08:33:48
たかはしさん、たかはしさんの認識している世界は、たかはしさんだけの世界であって、いくらたかはしさんが自分の認識を説明しても、広大な世界の点を話しているに過ぎないことを、お忘れなく。釈尊はそのあたりはとても意識的でいらっしゃったと思いますよ。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 08:39:39
私は、限界があることを知ってて言ってるつもりなのですが、そうは受け取っていただけないようですね。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 08:40:35
ベースとなる業が矛盾しているのは、致命的。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 08:42:40
たかはしさんがいくら説明しても、たかはしさんでない限り、納得出来ないんだよね。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 09:05:46
角田住職のサイトを見つけたときは、ああやっぱり、と思いました。以前にどこかで似たようなことを読んだ記憶があったのです。それを探している過程で、そのサイトを見つけました。

南さんは、輪廻を頑として認めないというスタンスなんですか。仏教学者の中村氏のように、輪廻は民衆への方便だという理解ということでしょうかね。

中村氏は、縁起は、この世の苦しみの克服のためのもので、この世で成立している因果関係を説明したものだと言っているようです。それは中村氏の東大の恩師が明らかにしたもので、中村氏は、それを継承しているとのことのようです。

スマ長老は、十二縁起は、過去現在未来の三世の輪廻の説明と、今世における現象の説明にもその全てが妥当すると言います。テーラワーダは、輪廻を真実だと信じてますからね。

それから、花園大学って、臨済宗系なんですよね、そこのサイトで、道元禅師を取り上げたものを読みました。それによると、晩年の道元禅師は、時の権力者である北条氏に会いに鎌倉に行き、そこで、悪行による悪い生まれ変わりなど無いという趣旨の発言をしたとか。武士は、親族や同盟者を裏切ったりしてますから、やはり死後のことが気になるのだとか。

道元禅師がそんな発言をしたということが、いち早く永平寺にも届いたようで、後から道元禅師が永平寺に帰ってきたときに、動揺している弟子たちに対して、わざわざ鎌倉まで行って、水牛になって帰って来たと弁解めいた話をしたとか。

それが、自業自得の輪廻、善因善果、悪因悪果の輪廻を語っておくことの必要性を感じた、ということではないか、と推察してました。拾い読みなので正確ではないですが。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 09:08:25
具体的な話をしてくれないのですね。

それから、私の言葉を信じてくれとは言ってないですよ。矛盾があるなら、具体的に、私の発言を引用して指摘してくれ、ということです。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 09:09:01
>輪廻~~一切気にならない~~本当の処、釈迦はどう考えていたのだろ(5-27,03:08:16)
>気になるでしょう(5-27,04:43:56
byたかはし氏)

輪廻を信じていない私に取っては一切気にならないのであるが、

釈迦の思考方式を理解するという観点に於いて、
釈迦が輪廻での苦の永遠循環からの離脱を考えていたのなら、
釈迦が出家してあれだけとてつもない修行法を考えたと言う事が
全く妥当な論理的思考にみえる(我、納得なり!!)という意味です。

そして新たに現れた道元師の輪廻観。

で南禅師が輪廻を完全否定してるように見れる・・・

やはりその辺の処をはっきりしたいですね。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 09:19:20
たかはしさん、正法眼蔵の解釈は多種多様にわたることはご存知?また、道元禅師はこの広大な世界を説明するために、正法眼蔵の中でも、全く逆のことをお話しになったりしています。

結局、言葉で説明する限り、全ては一面的にしかならない。

南老師はそのことは何度もおっしゃってますよね。つまり、輪廻があるかないか、なんて、大した問題ではない、ということです。その上であえて輪廻については、必要ないと思う、とご自分の見解をお話しになっているのでしょう。それに同意するかしないかは各個人の感覚ですし、少なくとも、こんなことで感情を揺らさないことが仏教的なのかもしれませんね。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 09:22:06
まーね。
「おれはいっしょうけんめい正しくあろうとしてるし、そのために行動(勉強)してるし、でも足りないところはそりゃあって、でもそれには正当なこういう理由があって、そういうことも含めてちゃんと説明してるのに、なんでおれがちゃんとしてるって認めないんだよ?」

……。
いいじゃん、ちゃんとしてるんなら。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 09:26:17
私が拾い読みした論文は、次のものでした。

http://iriz.hanazono.ac.jp/pdf/st03/st03_0303.pdf

多分、臨済宗系ですから、道元禅師に批判的な視点で書かれたものだと思います。

そのまま鵜呑みにはできませんが、興味深いです。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 09:28:50
あ、輪廻っていうアイディアは
「有害」って言ってたと思う。南さんは。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 09:37:23
>南老師はそのことは何度もおっしゃってますよね。つまり、輪廻があるかないか、なんて、大した問題ではない、ということです。その上であえて輪廻については、必要ないと思う、とご自分の見解をお話しになっているのでしょう。それに同意するかしないかは各個人の感覚ですし、少なくとも、こんなことで感情を揺らさないことが仏教的なのかもしれませんね。

まさにそうだと思いますね。

それが大した問題になってる人は、それを気にすればいいので、その答えは初期経典にもあります。それが受け入れられない人は、別を探せばいいわけですし。

問題は、自分がそれを気にしてないからといって、他者にまで、明確な根拠を示すことなく、それは矛盾している、なんて一般論でお茶を濁すことでしょうね。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 09:39:06
あーあ、テーラワーダ絶対主義のたかはしさんは道元禅師のあら探しにエネルギーを費やしはじめたのかな?そんなことをするヒマがあったら、ご自分の人生を充実させればいいのに。

釈尊はそうお考えになることでしょう。

南老師の輪廻批判はそう言えば絶対性の否定でもあったっけ。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 09:43:12
テーラワーダの絶対性の強さは、タイの某僧侶のイスラム教徒弾圧にも見てとれる。あれはいかん。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 09:51:11
南さんが輪廻思想を有害と考えているとしたら、その理由はなんでしょうね。

前世の悪業により障害者に生まれたとか、災害で突然死した、というように悪用されるから、ということですかね。

それから、自業自得の輪廻思想が、インドで、生まれによる身分差別とその受容に利用された、ということですかね。

そういうふうに使われてしまう面は、確かにありますね。どんな教えも、それを使う人によっって、いかようにでも利用されてしまうというのは、歴史が証明してますね。

釈迦は、自分のことを業論者だといってますが、同時に、精進論者だとも言ってます。自分の業は、自分の精進によって変えられる、大事なのは自らの精進ですよね。

突然死した理由がいかなる業によるものかは、軽々に説明がつかない問題だが、生前のその人の行動を見ていれば、次の生まれ変わりが良いものであるか、そうでないかは、想像できそうです。それが我が身の反省にもなりそうです。

これまで果てしなく生まれ変わりを繰り返して来た。そしてそれは未来も悟るまで果てしなく続く。今世は、その一瞬に過ぎない。そう考えることで、今世の苦しみが軽減されるとしたら、それが輪廻思想の長所だと思いますね。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 09:53:56
絶対者の言葉を鵜呑みにしたい、信じたいという人にとっては、私の言動は、無駄な荒探しをしていると映るでしょうね。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 09:55:36
そうよ、たかはしさん。それはキリスト教でもヒンズー教徒でもイスラム教でも、同じように救いがあるのよ。その絶対性によって。

でも、自分が救われるために、他の人の世界を否定していいかって話。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 09:57:39
たかはしさん、そうじゃないよ。絶対者=輪廻。南老師はそう感じてるんじゃないかな。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 09:59:43
禅宗って、仏に会っては仏を殺し、祖師に会っては祖師を殺し、ではなかったでしょうか。

鵜呑みにすることなく、自ら検討する。そして最後は学んだことも捨てる。そういうことじゃないでしょうか。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 10:00:22
無常って、なんなのか、もう一度自分で考えてみたらどうでしょうね、たかはしさん。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 10:01:02
>絶対者=輪廻。

分からないです。どういうことですか。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 10:02:45
私は、私はこう思う、ということを言っているに過ぎませんよ。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 10:04:17
あ、今同時に私とほぼ同じ発言をしましたね、たかはしさん。

感じていることは同じなのかもしれません。言葉とは、これ程一面的にしか語れないものです。面白いね。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 10:07:57
でも、今のたかはしさんの盲信ぶりが自覚出来ないなら、多分、たかはしさんの中でテーラワーダを客観視出来なくなっているのでしょう。まあ、宗教ってそんなもんだけど。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 10:14:52
私の今の上司はS学会なんだけど、ちゃんと客観視できる人で尊敬してます。先日、お互いの仏教観を語り合っていたら、「じゃあ、おまえのは救いないじゃん。」て言われました。確かに、上司のカリスマ的な強さは何かに支えられてるせいかもしれない。

でも、やっぱり道元禅師が好きなんだよね〜。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 10:15:17
私は、テーラワーダの全部を信じてないですよ。テーラワーダに反する中村氏の解釈に共感している部分もありますし。そもそもスマ長老のことを阿羅漢だとは思っていないのですから。スマ長老の短所も紹介しませんでしたっけ。

それはいわば、道元禅師も阿羅漢ではなかった、完全ではなかったと思っているのと同じです。

でも、スマ長老も、道元禅師も、仏教を深く理解していると思って尊敬してますよ。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 10:19:26
それは良かった。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 10:31:49
たかはしさんはコメントを見る限り、仏教を学びはじめて日は浅いと思うけど、いくら勉強をしても、ここのコメンターをたかはしさんの考えに納得させるのは難しいと思うよ。そもそもベースが違うし、こちらのロジックもある。

違いがあるから、世界は恐ろしくもあるし、美しくもある。美しい世界にしたいよね。そのためには少数でいいから、強い客観性をもつ人がいた方がいい。南老師のいいたいことは、そんなことかな、て思うけどね。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 10:43:36
輪廻だけじゃないよね、絶対者って。
絶対だってことにすれば絶対者になっちゃうんだから。
それは言葉のせいだから、とは思わなくて、
例えばぐらりとしたときに、つかまるものが欲しくなるせいだと思う。
一方で、あ、これ使える、って思う人もいるだろうし。
それは、何に限らず。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 10:47:54
絶対性を極力つくらない道元禅師の思想や、そこを突き詰めた南老師の考えは、確かに救われはしないけど、軸にはなる。保てる強さを持ち続けたいよね。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 10:59:39
納得してほしいのでもないんですよ。私の言説に矛盾があるなら、具体的に指摘してほしい、ということです。

例えば、その説明に矛盾はないが、しかし、それは可能性の一つに過ぎず、私は、これこれの理由で、これを選択している、ということでもいいんです。

極端に言えば、そんなことより私は、これこれの理由で、これを選択した、ということならそれでもいいんです。そこに合理的な反論があったとしても、それは私には受け入れられないのだと。

矛盾があると反論されるから、どの部分が矛盾ですか、と再反論するわけです。

それから、相手が、これこれの理由で、これを選択した、と表明したことに対して、私がそれを、私はこれこれの理由でこう思っている、と私の意見を表明しますが、それは、あくまで私の思いに過ぎません。だから、納得も信じるも、相手にしなくて結構なんですよ。私が言いたくてコメントしてるだけですから。南さんに聞いてもらいたいというのが第一目的です。

コメントしたことにコメントされれば、基本的に私はコメントを返します。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 11:02:02
自業自得の輪廻は、絶対に起きる、ということが、輪廻=絶対者、という意味ですか。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 11:06:13
説得したいわけじゃないんだ?じゃあ、テーラワー以外の思想を学びたいのかな?じゃあ、落ち着いて今までのコメ群を読み直してごらんなさい。たかはしさんの疑問に思うことに対する答えは、ほぼ、書いてない?読み取れないなら、それはたかはしさんの世界観のかたよりのせいでしょう。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 11:12:22
私の知る限りでは、輪廻を信じられない人にまで、輪廻は絶対だ、なんてことは釈迦は言っていないと思いますね。

そもそも、そんなこと言われて不快な人は、釈迦に頼らないでしょう。釈迦は、聞いて、自ら判断せよ、という立場ですし。

難しいことは分からないから、一言で言ってくれと頼まれて、それは執着を捨てることですと答えたという経典もあるようですし。スマ長老の説法で出て来たのですが。

輪廻が信じられる人も、信じられない人も、修行の中身に変わりはないのですから。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 11:14:43
またしても具体性のないコメント。無理に私の相手をしてくれなくていいですよ。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 11:16:22
お、分かってるじゃん。よしよし。じゃあ、次の朝課でお役を与えよう。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 11:17:46
頑張って〜たかはしさん〜。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 11:27:34
たかはしさん、そもそも大乗仏教では阿羅漢を目指しませんから。道元禅師は菩薩であろうとされたのです。合掌。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 11:42:10
先に紹介したサイトの角田住職の解説の引用


たとえ天上・人間、地獄・鬼畜であっても、感応道交すれば、かならず仏法に帰依する。すでに帰依すれば、生生世世、在在処処に増長し、かならず積功累徳し、阿耨多羅三藐三菩提を成就するのである。
(『正法眼蔵』「帰依三宝」)

ここに、生生世世の積功累徳が示されている。我々人間は、生まれ変わり死に変わり、世を変え所を変えて、その一生一生において功徳を積み累ね、遠い未来において、釈尊のような最高の人格を完成する、そのような存在であるというのだ。

以上引用終わり。

ちなみに、初期経典では、釈迦も阿羅漢である、とされています。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 11:50:59
しつこいなー。よっぽど自分の正当性を示したいらしい。所詮、言葉なのに。こんなことに時間をついやしおって。自分の生活も儘ならぬ未熟者であるのに。まだまだだな。

たかはし、まずは、いまここの自分の現実をきちんと生きる努力をしろ。無駄な時間潰しをするんでない。他にやることは無いのか?
Unknown (Unknown)
2017-05-27 11:58:06
正法眼蔵は自分の考えを披露するために、部分的に抜き出すには都合のいい本ではある。真逆のことや、どうにでもとれること満載で、最終的な解釈は誰にも出来ないつくりになってるから。道元禅師自身、膨大なありとあらゆる経典の独自解釈や造語製作の天才だったし。
Unknown (こにゃにゃちわなのだ)
2017-05-27 12:15:05
いま臨済録読んでます。笑いあり時に涙ぐみ、いや、、、面白いです。
臨済義玄と院代さん面白いです。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 12:20:39
私のこと以前コメントしたんだけどなあ。あなたが私の病気を治してくれるなら、またコメントしてもいいけど。大学病院の専門教授から、治療法が無い、と言われたんだけど。訪ねた病院も多数。

そんな自信がないなら、相手のことも知らずに無責任なこと言わないで。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 12:25:40
>最終的な解釈は誰にも出来ないつくりになってるから。

これは興味深い。なぜ、そんなことをしたのか。

スマ長老は、初期経典は膨大で、およそ受け入れられないと感じることが多いだろうが、読んでいくと、その中に、これなら分かる、これなら出来るというものがある、と言います。

釈迦は相手に応じて教えを説く、とはよく言われることですね。

道元禅師もそれを考えたのかもしれないですね。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 12:49:44
多分ね。
道元禅師はそのあたり徹底しているので、曹洞宗の真面目な老師方は明確な答えを言わない人が多くて、他宗派からすると肩すかしを食った感じがして、批判される場面があったりするのです。今回、たかはしさんもそう思っただろうし。

なので、こういう公開ブログでの討論で絶対的な真実を決定する、というのは曹洞宗的にはアウトだったりするとは思う。それって、逆に真実ではない、という感覚、というか。真実は様々な形で現れるものですから、決定的な言葉で表現出来るものではありません。

南老師はそれを逆に「輪廻は必要無い」みたいなセンセーショナルな言い方をされたんだけど、まあ、問題提起ということだとは思いますよ。別に輪廻があってもなくても、どちらも真実だし、そんなことは重々承知の上でおっしゃってますし。

でも、たかはしさんが病気のために、何か支えが必要であるならば、こんなややこしいところで論戦はるのはどうかと思います。テーラワーダどっぷりでいいじゃん。と思う。それであなたが救われるなら。そもそもガチの道元シンパの人は書き込みすらしないと思うし。只坐って傍観し、意味のない戯論をかわしておるな、て感じだと思いますよ。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 13:00:28
>こういう公開ブログでの討論で絶対的な真実を決定する

ここで絶対的な真実を決定するなんて、そんなこと思ってないですよ。出来るわけないでしょう。

議論を楽しんでますから、そんなのには付き合えないという人は、相手にしてくれなくて結構です。私は、興味のある論点には反応します。

まずは南さんに私の見解を伝え、いつか縁があったらお会いしたいとも思っています。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 13:05:43
おだいじに。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 13:08:13
南老師に会う前に、正法眼蔵読破してってね。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 13:09:28
>南老師はそれを逆に「輪廻は必要無い」みたいなセンセーショナルな言い方をされたんだけど、まあ、問題提起ということだとは思いますよ。別に輪廻があってもなくても、どちらも真実だし、そんなことは重々承知の上でおっしゃってますし。

輪廻思想が逆に苦しみになってる人がいるんでしょうね。相談者にそういう人が多かったのかもしれませんね。

南さんも生来の病弱で、しかも命に関わる問題で、子供の頃に、なぜ自分は他の子のように丈夫じゃないのか、という問題を考えたと言ってましたから、そこに自業自得の輪廻思想に触れて、それが救いようの無いものに感じたのかなあ、なんても思いました。

輪廻思想は、諸刃の剣だとは思います。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 13:20:48
まあ、そういうことです。南老師の世界観はバランスボールに乗ったまま生きるような感覚のもので、他宗教のように絶対者がいたり、テーラワーダのように輪廻という絶対的なベースがあるものではありません。

結構な精神力が必要だったりしますので、誰にでもオススメ出来るわけではないけど、しっくりくる人にはしっくりくるシロモノだとは思います。私はそうです。

なんでたかはしさんがここでコメントしたくなったのか疑問ではあるけど、折角だから、こんな感覚もあるのか〜と感じてください。ブルースリーも、考えるな、感じろ、て言ってたし。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 13:29:16
仏教に輪廻さえなければ、完全な無常的世界観が保持出来る。どちらかと言えば南老師の興味は、ご自分の体の弱さよりそっちでしょう。

そんな思想、一つくらい必要だろ、みたいな。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 13:51:12
お寺が曹洞宗で、以前にテレビで宮崎禅師を見て感銘を受けて、道元禅師の教えに興味を持っていて、でも、お寺の住職が勉強会してくれそうになくて、そんな時に、20年も永平寺で修行したという南さんを知って、それで調べて、いつかお会いしたい、意見交換できれば幸いと思ってブログに書き込んだ、ということです。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 13:55:26
>仏教に輪廻さえなければ、完全な無常的世界観が保持出来る。

なぜそういう思考になるのかが私には分かりません。

無常だから輪廻が成立するんじゃないでしょうか。

輪廻=常住不滅の実体の存在前提、という呪縛なのかなあ。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 13:57:54
じゃあ、恐山の坐禅会に伺えばいいんじゃない?無理なら、なるべく近くの僧堂(修行道場)の坐禅会に行ってみたらいい。それか本格的な坐禅会をやってる寺か。菩提寺が坐禅会をやってなくても、方法はいくらでもある。

本格的な坐禅会じゃなければ、ひとつ位近所の寺でやってるんじゃないかな。ネットで探すか、近所の寺で縁をつくって紹介してもらうんだよね。結構、真面目な老師がひっそり数人でガチの坐禅会やってたりしますよ。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 14:32:50
いつか南さんとご縁があれば、ということで今の私は、ここに意見表明することで、まあいいなと思っています。

私に無理に付き合って下さらなくて結構です。私は、興味のあることには反応しますが、無視してもらっても構いません。
過去の記事 (大日方)
2017-05-27 14:48:43
>輪廻=常住不滅の実体の存在前提、という呪縛なのかなあ

そういうことだと思います。単に何年か前にある生き物が死んで、何年か後に別の生き物が生まれる、ということならば、それを輪廻という発想で繋げることに、どれ程の意味があるのか、ということではないかと思います。

このブログでも輪廻に関する記事は何回かあります。

「言い方の問題」
http://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/65f9ff1f14ceca1eba0bb6dba6324114

「輪廻は無駄」
http://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/dd7c9b35821d94a68e417304021ba519

読み直してみると川の話がでてきますね。これは、スマナサーラ長老の言った荒川の話とおそらく一緒なんでしょう。私は未だに「・・・」という感じですが。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 14:54:20
たかはしさんが、「なんでロジカルに答えないんだろう」とか、「自分は批判されているのではないか」とか、「答えるのが面倒なのかな」とか思ったとしても、そうではない、ということは、そろそろお分かりいただけたのではないでしょうか。それともまだ、お分かりではないのでしょうか?

そもそも、曹洞宗は絶対性を極度に回避する考え方をする思想です。そのため、答え方にも独特のクセがあるのです。

釈尊がどのような方だったかは、2000年以上たった今は分かりません。まして、書物など、言葉を使って残されたものにどの程度の原型があるかなど、分かりません。言葉は限界のある不確実なものです。結局は直接係った「人」から受けるイメージをいまここでの真実として受け取るしかありません。

上座部も大乗も、釈尊の一面を捉えたものでしかありません。大体、今目の前で生きている人だって、全てを知る事はできないのですから。例えばたかはしさんのお母様だって、あなたの理解しているお母様と全く違う面を持っているのかもしれませんし、お母様が亡くなった後、思い起こす姿は人によって様々でしょう。身近に居る人だってそうなのです。何千年も前に生きた、しかも釈尊のような人ならなおさらです。そういう意味で、どの宗派も一面の真実を持っているのです。

どれが真実か、など追求するのは無意味なことです。あなたにとって最良の生き方の助けになるものが、あなたにとっての真実です。ただし、あなたを取り囲む世界をより広く幸せにするものであるべきでしょう。そうあれば、結局はあなたの人生を豊かにするのです。合掌。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 15:23:54
大日坊さん、ありがとうございます。

南さんが、はっきり言ってますね。歴史上の釈迦が方便として使ったとしても、今日の仏教には輪廻説はいらないと。

ここまで明言するというのは、意外でしたよ。私がネットで聞いた南さんの言説からは、ここまで白黒付けた物言いは、予想できませんでした。

なぜなんだろう、という疑問が湧いて来ました。

じっくり読み返してみます。
たかはしさんへ (Unknown)
2017-05-27 15:28:01
やっぱミャンマー僧侶の問題とかもあるんじゃないの?

https://gqjapan.jp/culture/column/20150607/ashin-wirathu

Unknown (たかはし)
2017-05-27 15:32:58
 >以前にも書いた通り、「輪廻」という教説は、所詮考え方の問題だと思います。だから、「輪廻からの解脱」とは、「輪廻という考え方からの解脱」だと考えればよいでしょう。

これは、まさにそうだと思います。それで納得する人は、それで何も問題無いと思いますね。納得したのですから。

ただ、それで納得して、輪廻を気にしないということが出来ない人から相談されたらどうするんだろう、と思いましたね。

自分の母親が死の床で、死んだらどうなるかを気にしていたから、死んでも終わりじゃないと説明して安心させたという僧侶の方がいたような。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 15:36:09
>それ自体としては不変の実体性を持つ何かが「生まれ変わり、死に変わりする」のだと言わないなら、説として無意味です。

スパっと言ってますね。読んでて気持ちいいですよ。しかし、なぜなんだろうか、という思いが湧いてきます。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 15:40:26
>いや、それでも「命が流れる」「意識が続く」と言うなら、「流れる」「続く」と言えばよいだけの話で、わざわざ「輪廻」などと言い出す必要は毛頭ありません。「無我輪廻説」などはほとんど詐称で、「無我持続説」が言い方として真っ当でしょう。

ああ、そういう言葉を当てましたか、なるほどと思いました。

でも、それこそ言葉の問題に過ぎないのだから、別に大した問題じゃないと私には思えるのですが。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 15:47:15
 >仏教において、最もユニークにしてオリジナル、そして決定的に重要な教説は、無常・無我・無記・縁起であり、「輪廻」説は余計である上に理論的に無理筋で、無くて構わないし、無い方がよいのです。

理論的に無理筋、そこが南さんの気質としては、我慢ならない、ということでしょうかね。

そこが私との違いだな、と思いました。

私は、テーラワーダの解説を読んで、なるほどそう考えたか、確かに矛盾は無いと感じましたが、論理的思考の厳密さにおいて、私は甘いということでしょうね。

南さんには、その甘さが微塵もないということではないでしょうか。
たかはしさんへ (Unknown)
2017-05-27 15:49:03
まあ、結局はいわゆる「無記」でいることに慣れれば、疑問はなくなるんではないでしょうかね。それが今のたかはしさんには難しいんでしょうが。その上で「いまここ」での真実はこれにしとこう、というスタンスなんでしょう。南老師的には。南老師は「輪廻は危険」と判断したからいらないと思っておられる。

南老師だって、おばあさんに「私は浄土にいけますかね?」と聞かれて、「もちろん、おばあさんみたいに一生懸命生きた人は行けるにきまってるよ。」と答えた、という逸話を語っておられました。ここで仏教の難しい教理を説いても意味が無い、とおっしゃってた。野暮だと。おばあさんの真実は浄土に行く事だし、それが真実でない、など誰にも証明出来ないのです。それが無記ってもんです。対機説法ってそうゆうもんです。

たかはしさんが輪廻を信じたいのなら、南老師がどう思っている、などは関係のないことだと思います。それに、宮崎禅師と南老師は全く違うので、一緒くたにするのは両方に失礼。曹洞宗の老師方は一人一人全然異なった思想をお持ちのものです。そこが魅力なんですよ。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 16:12:04
>つまり、当時の在家者に生きている間の「処世術」として説く必要があったし、その需要もあったから、当時のゴータマ・ブッダ教団は「輪廻」説を必要と需要の範囲で使ったのでしょう。

>だとすれば、こんなものを未だに我々が引き継いでいることは、著しく志の低い話です。理論的に無駄な「輪廻」説など放擲して、仏教は仏教でオリジナルな倫理説、善悪観を提出すればよいのです。私は、この倫理をめぐる議論が、今後仏教の中から数多く現れることに大なる期待を持っています。


なるほど、そういう意図か、さすがだなあ、と思いました。

これは、現代人には、人を殺したら地獄に行くなんてことが、殺人の抑止力になってない、ということが着眼点じゃないかと思いましたね。

殺してみたかったから、死刑になりたいから、なんて理由で他人を殺す若者が出てきましたからね。

南さんは、無我という否定は、逆に言えば、縁起の肯定である、私は、他人が居るからこその私である、というようなことを言っていますね。

他人あってこその私、そのことが分かっていれば、いきなり通行人を殺すなんてことは起こらないと思うとも言っていたと記憶しています。

そういうことも言いたいのかな、と思いました。

それについては、初期経典では、自分が自分を何よりも愛しいように、他人もまた自分が何よりも愛しい、だから殺してはならない、という言葉があります。

殺人は、なぜやってはいけないことなのか、それがドラマ「相棒」のテーマになったことがあります。東大の法学部の教授は、教え子である杉下右京の出したその答えを、よく出来ているが、不十分とし、他の教え子も誰も教授を説得できなかった、というストーリーです。

南さんは、現代法理論でその答えを見つけるべき、ということを言いたいのかなと思いましたよ。殺したら地獄に行くよ、なんてのは低俗だと。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 16:16:50
>ということは、「輪廻」説は、「社会的強者」が「社会的弱者」を支配し・隷属させるイデオロギーとして、重要な役割を果たし得るわけです。インドにおいて、「カースト制度」が「輪廻」説とがっちりセットになり、かつて「強制隔離」措置の対象となった「ハンセン氏病」が「天罰」や「前世の因縁」で説明されていた(私はハンセン病治癒者から体験談を直接聞きました)ことを思えば、すぐにわかる話です。

これは予想通りでしたね。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 16:31:53
>だったら、「カースト制度」に反旗を翻した仏教が、「輪廻」説を後生大事にしている理由はいささかもありません。「業・因果」説は仏教に必須(このことは、また後日考えます)ですが、「輪廻」説は違います。ゴータマ・ブッダ自身が生前説いていようといまいと、これは仏教にとって本筋の教えでも大事なアイデアでもありません。「輪廻」説は仏教に要りません。我々はまさにそれから「解脱」すべきでしょう。

なんでここまで、要りません、と言い切るのか、やはりそれは自分の体験から、それを排除したいという特別な思い入れがある、と感じました。

または、どうしても無理筋が目について、それが我慢ならない、ということが強烈なのか。

現代を生きる仏教者は、現代の善悪論を構築すべきということなら、それまでの自業自得の主体なき輪廻を並存させる、という選択肢もありますよね。というか、それが現実的ですよね。

このコメントを、引用した記事のコメント欄に間違って投稿してしまいました、
Unknown (たかはし)
2017-05-27 16:43:38
>「業・因果」説は仏教に必須(このことは、また後日考えます)ですが、

この部分の記事を知っている方は、おられませんか。

いやあ、それにしても、現代の倫理観、善悪論の構築という視点には驚きました。さすがだなあ、と思いました。もしかして、茂木健一郎氏が南さんに感銘を受けたというのは、そういうところじゃないか、なんて思いましたよ。

大日坊さん、ご紹介ありがとうございました。重ねて御礼申し上げます
Unknown (Unknown)
2017-05-27 16:58:14
たかはしくんは、自分とかみ合ってなさそうだなと思うコメントに反応しながら、
「興味のあることには反応する」って言うんだよね。
わたしはそういうの見ると「あー、なんか嘘ついてたりするんだな」って思う。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 16:59:26
>やっぱミャンマー僧侶の問題とかもあるんじゃないの?

その僧侶、最近知りました。経典のどこをどう読んだら、そんな発想になるのか、そう思いますね。そして、そんな僧侶に同調する人も。

その僧侶を国が規制しようとして、それがまた火種になりそうな雰囲気なんですよね。

スマ長老が、スリランカの仏教は完全なのかと質問されて、人間のやることだから、完全はあり得ないと答えたのを思い出しました。スリランカも内戦を経験してますからね。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 17:02:00
自分と噛み合うのだけが私の興味の対象ではありません。噛み合わないことにも、なんでそうなる、と興味が湧きます。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 17:06:00
>宮崎禅師と南老師は全く違うので、一緒くたにするのは両方に失礼。

そんなこと言ってるつもりはないのですけどねえ。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 17:09:40
ほっといてくれればいい、ならほっとけばいいんだけどね。
Unknown (Unknown)
2017-05-27 17:13:34
殺してみたいから、死刑になりたいから
とかで人を殺すような人を「相手にして」
何を語るかは、「仏教でどう説かれているか」じゃ役に立たなさそう。
だから、南さん、少年Aに会ってみればいいのにと思う。
その他の過去no記事 (大日方)
2017-05-27 17:21:50
時系列は前後してしまいますが、2010年1月の記事に

「輪廻と業と因果、そして善悪」
http://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/d6aaee088c5b6478afae1fa61602bf12

があります。これは初めて読みましたが、やはり川が出てくるんですねえ。

去年5月には

「業」について
http://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/0919d1ce97ec2c357b8cb662cb8913f2

という記事もありました。

>現代の倫理観、善悪論の構築という視点

この延長線上にあるのが2014年に出版された『善の根拠 』なのだと思います。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 17:25:23
そういえば南さんは、戒律というのは、一方的に決められたもので、その理由の合理的な説明がない、というようなことを言っていたような。

なんでそんなこと言うのかな、とちょっと疑問に思ったのですが、それは、現代の倫理観、善悪論の構築の必要性のことを言っていたんですかね。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 17:28:30
大日坊さん、ありがとうございます。

ゆっくり読ませていただきます。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 17:34:54
すいません、大日方が正しいのですね。申し訳ありませんでした。
ご心配なく (大日方)
2017-05-27 17:40:06
「大日坊さん」と呼ばれると、なんだかお寺の境内の建物に住んでる偉いお坊さんのようで、「俺もついに出世したか!」とちょっと楽しんでいました。この手のあだ名は嫌いではないので、ご心配なく。
Unknown (たかはし)
2017-05-27 18:26:58
考えてみると、

お前がそうなったのは、前世の悪業のせいだ、と他者から言われるのは、これは相当にキツイでしょうね。

だから仏教は嫌いだと言った人がいましたね。

私の場合は、幸運にも言われなかったです。逆に自分から、俺は前世で相当悪いことしたな、仕方ないなと思いました。

だから私は、輪廻思想に抵抗が無いのかも、なんて思います。

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