現天皇が即位した年、私は5年目の修行僧でした。某テレビ局が前年末に「時節柄正月番組に賑やかなものはマズいから、永平寺のお坊さん撮らせて下さいよ」と、安直な依頼をしてきたことを覚えています。その正月の7日に昭和天皇は亡くなり、直ちに現天皇が即位したのです。
私はこの人物の折々の発言にずっと注目してきました。
最初に驚いたのは、即位直後に「憲法を守り」と言明したことです。
たしか中学か高校で憲法全文を初めて読んだとき、まず疑問に思ったのは天皇の「象徴」としての地位が「国民の総意に基づく」として、その総意をどうやって確かめるのか、ということでした。
明治憲法は天皇が天皇である根拠を「万世一系」に求めている以上、民意なぞ無関係だが、「国民の総意」となればそうもいくまい。しかし、現憲法には「総意」を確かめる規定は何もない。これは問題ではないのか。ある意味、危うくないか。
問題を解消するには、現憲法が機能しているのは国民の支持があるからであり、これを守ると宣言することで憲法の内部に自己の地位を位置づけ、それによって「総意」を得たことにする、という方法がある。現天皇はそう考えたのではないか。つまりこの人物はその最初から、「戦後民主主義」における自らの立場をそれまでのものとは全く別なものだと極めて鋭く意識して、である以上は新たな根拠づけの必要があることを痛感し、それを独力で始めたのではないか。
1991年、雲仙普賢岳災害地の「慰問」以来、被災者の前に膝まづくという型破りな方法に出たのも、この「総意」を強化することの重要さを十分すぎるほどわきまえていたからでしょう。
次に驚いたのは、2001年に「桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫だと続日本紀に記されている」とコメントしたことです。
私は新聞でこの発言を見た瞬間、現天皇は、近い将来日本は相当規模の移民の受け入れを余儀なくされ、本格的な多民族国家(現在も「単一民族国家」ではないが)になるだろうと予見しているのかと思いました。そうなった時の皇室と天皇制の在り方さえ考えているのか。人種や民族が異なる両親を持つ天皇が誕生する可能性を見ているのだろうか。つまり、多民族国家時代を「象徴」する天皇です。
これは要するに、血縁・地縁を共同体の編成原理(その基軸が「万世一系」)として近代国家を作りだすという離れ技を演じて、「家族国家」を自認しつつ「和をもって尊し」とし、「一致団結ガンバレ、ガンバレ」と、人口・経済「右肩上がり」の時代を突っ走ってきた日本社会の終わりを、明確に意識しての発言ではないだろうかと、当時の私は思いました。
それはすなわち、アニメ「サザエさん」の視聴率がヒトケタ半ばに落ち、檀家制度が機能しなくなり、「○○家先祖代々之墓」が廃れ、同期入社の3割程度が「外国人」であることが普通になって、「英語」ができるかできないかが就職と収入の格差になる、我が国において前代未聞の社会の到来をも意味するでしょう。
そして今年、「生前退位」を強く示唆する「お言葉」です。
自らの意志で退位できるとなれば、当然今度は即位にも意志が問われるべきだろうとなるでしょう。このことはすなわち、天皇の「地位」が「任務」や「職業」になることを意味します。
世襲で終身として制度化された「地位」ならば、それは事実上選択の余地ない、ほとんど「存在性格」そのものです。だからこそ今なお天皇には「神格」が保持されているとみるべきでしょう。
これが選択可能な「任務」「職業」になるとすれば、そこには「任務」「職業」に就いたり辞めたりする「人間」が立ち現れてきます(このことは、天皇のみならず皇族という「地位」についても同様でしょう)。その人物が「日本人」ならば、原理的・最終的に(必然的に、とは言えないかもしれません)現憲法において規定される「基本的人権」の保証対象になるはずでしょう。
「お言葉」が表明されてから、何人かの識者から「これは人権宣言だ」というコメントが出たのは、まさにこの点に核心があるのです。
私はこれら一連の発言に、現天皇の深刻な思慮と根源的な思想を感じます。発言は、戦後我が国が漠然と言祝いできた「人権」と「民主主義」、そして「日本国民」というアイデンティティーの意味を、まさに現在の社会において根底から問い直すものに他なりません。
本来我々主権者が問うべき決定的問いであるにもかかわらず、それが、「基本的人権」をお話にならないほど制約され、政治的発言もできない立場の人物によって発せられたことに、私は忸怩たる思いと負い目、そしてある種の恥ずかしさを禁じえません。
私はこの人物の折々の発言にずっと注目してきました。
最初に驚いたのは、即位直後に「憲法を守り」と言明したことです。
たしか中学か高校で憲法全文を初めて読んだとき、まず疑問に思ったのは天皇の「象徴」としての地位が「国民の総意に基づく」として、その総意をどうやって確かめるのか、ということでした。
明治憲法は天皇が天皇である根拠を「万世一系」に求めている以上、民意なぞ無関係だが、「国民の総意」となればそうもいくまい。しかし、現憲法には「総意」を確かめる規定は何もない。これは問題ではないのか。ある意味、危うくないか。
問題を解消するには、現憲法が機能しているのは国民の支持があるからであり、これを守ると宣言することで憲法の内部に自己の地位を位置づけ、それによって「総意」を得たことにする、という方法がある。現天皇はそう考えたのではないか。つまりこの人物はその最初から、「戦後民主主義」における自らの立場をそれまでのものとは全く別なものだと極めて鋭く意識して、である以上は新たな根拠づけの必要があることを痛感し、それを独力で始めたのではないか。
1991年、雲仙普賢岳災害地の「慰問」以来、被災者の前に膝まづくという型破りな方法に出たのも、この「総意」を強化することの重要さを十分すぎるほどわきまえていたからでしょう。
次に驚いたのは、2001年に「桓武天皇の生母は百済の武寧王の子孫だと続日本紀に記されている」とコメントしたことです。
私は新聞でこの発言を見た瞬間、現天皇は、近い将来日本は相当規模の移民の受け入れを余儀なくされ、本格的な多民族国家(現在も「単一民族国家」ではないが)になるだろうと予見しているのかと思いました。そうなった時の皇室と天皇制の在り方さえ考えているのか。人種や民族が異なる両親を持つ天皇が誕生する可能性を見ているのだろうか。つまり、多民族国家時代を「象徴」する天皇です。
これは要するに、血縁・地縁を共同体の編成原理(その基軸が「万世一系」)として近代国家を作りだすという離れ技を演じて、「家族国家」を自認しつつ「和をもって尊し」とし、「一致団結ガンバレ、ガンバレ」と、人口・経済「右肩上がり」の時代を突っ走ってきた日本社会の終わりを、明確に意識しての発言ではないだろうかと、当時の私は思いました。
それはすなわち、アニメ「サザエさん」の視聴率がヒトケタ半ばに落ち、檀家制度が機能しなくなり、「○○家先祖代々之墓」が廃れ、同期入社の3割程度が「外国人」であることが普通になって、「英語」ができるかできないかが就職と収入の格差になる、我が国において前代未聞の社会の到来をも意味するでしょう。
そして今年、「生前退位」を強く示唆する「お言葉」です。
自らの意志で退位できるとなれば、当然今度は即位にも意志が問われるべきだろうとなるでしょう。このことはすなわち、天皇の「地位」が「任務」や「職業」になることを意味します。
世襲で終身として制度化された「地位」ならば、それは事実上選択の余地ない、ほとんど「存在性格」そのものです。だからこそ今なお天皇には「神格」が保持されているとみるべきでしょう。
これが選択可能な「任務」「職業」になるとすれば、そこには「任務」「職業」に就いたり辞めたりする「人間」が立ち現れてきます(このことは、天皇のみならず皇族という「地位」についても同様でしょう)。その人物が「日本人」ならば、原理的・最終的に(必然的に、とは言えないかもしれません)現憲法において規定される「基本的人権」の保証対象になるはずでしょう。
「お言葉」が表明されてから、何人かの識者から「これは人権宣言だ」というコメントが出たのは、まさにこの点に核心があるのです。
私はこれら一連の発言に、現天皇の深刻な思慮と根源的な思想を感じます。発言は、戦後我が国が漠然と言祝いできた「人権」と「民主主義」、そして「日本国民」というアイデンティティーの意味を、まさに現在の社会において根底から問い直すものに他なりません。
本来我々主権者が問うべき決定的問いであるにもかかわらず、それが、「基本的人権」をお話にならないほど制約され、政治的発言もできない立場の人物によって発せられたことに、私は忸怩たる思いと負い目、そしてある種の恥ずかしさを禁じえません。
おっしゃるように、天皇陛下はご自身が歴史の転換期にあることを自覚されて、これまでの一連のご発言をされているように思います。
それはまた、未来の日本国に希望を繋ぐための、陛下の熟慮の末のぎりぎりのお言葉であることも痛感いたします。
しかしながら、私は今後の日本国の将来について不安を禁じ得ません。
戦後、日本はGHQの指導の下にアメリカ型の価値観や理念を受け入れ続けてきました。それは、経済的には一定の成功を収めましたが、同時にムラ社会などの日本の伝統的な共同体や理念を破壊することにも繋がりました。
ムラ社会から離れた人々は、自己の寄る辺を会社に求めましたが、バブル以後、非正規雇用の拡大によって会社も共同体としては上手く機能しなくなりました。
結果的に、現代社会は居場所を無くした不安な個人が右往左往している状況だと思います。
陛下の示された道は、現状では最善であると思いますが、我々が将来を見通せず、不安を感じていることもまた事実ではないでしょうか。
恐らく、これは現代社会の宿命であり、我々は大地から離れた「不安な個」として生きていくほかはないでしょう。
そして、グローバル化の名の下に行われるマネーゲームや人間をモノとして扱う高度資本主義社会に、どうにかして対応していくしかありません。
このまま、アメリカ型の社会が何の矛盾もなく平和に続いてゆくのでしょうか? 社会は進歩し、繁栄に向かうのでしょうか? 私には疑問でなりません。
情勢にも敏感で、墓地などの縮小化なども発言されていましたね。
世界中を訪問され、お気づきになられたところもあるのでしょう。
また、憲法9条改正への反発も大きいのではないでしょうか。
誰もしてくれない問題提起を、自ら立ち上がりお示しになられました。
意思というより、定年制に改正にできないのだろうかとは思いますね。
天皇陛下は例の生前退位をめぐるお言葉のなかで、「国民を思い国民のために祈るという務めを」と言っていて、よく「祈り」という言葉を使われるように思います。「天皇の一番の役割は、祈ること」という言説も目にします。
「祈る」とは一体どういう行為なんでしょうか?誰に?
仏教に帰依するはしくれとして、祈るという行為がよく理解できません。
釈尊に「祈る」のは変ですが、「南無阿弥陀仏」は祈りの一種なのか…天皇の祈りとキリスト教の祈りとはどう違うのか…。
美智子様も天皇家に嫁ぎご苦労を経て克服され、皇后陛下として公務に励まれていますね。
「現成公案」此処に在りでしょう。
今回のような「考察」が、至る所で出来るのがお坊さんだと私は思いますが、天皇陛下の立ち居振る舞いに遠く及ばずとも、ひとり、ただ一人でいいので出て来て(成って=修行)欲しいです。
何かあれば、すぐに鶏冠に来るのでは、出家や修行の意味はないと思いますが、私の思い過ごしでしょうかね。
そして、退位した天皇は、
天皇職への就任の前である「只の人」に戻り、
水戸黄門のように気ままに隠居生活をおくれるように。
間違っても、政治利用、出番を作ってはいけない。
(すべての場から隠れる)
勿論、天皇誕生日は、普通の日に戻す。
または、「東京裁判のA級戦犯の死刑を記念する日」に、新たに制定する。
(クリスマスのキリストの誕生日と対になるだろう)
今上天皇は、火葬を望まれる!
それも、
すべて国民の負担を軽減させる目的で。
(無駄な税金は使わせないように)
そして、
歴代天皇は
外来宗教・世界宗教である仏教徒でもあった。
それが日本の天皇家の長い宗教伝統であった。
つまり、重層的な信仰であった。
世界宗教と民族土着宗教とのアクロバット!
他国からは、摩訶不思議な精神世界!
神仏習合、神仏混交、
これは日本民族の偉大な発明品・最終決着だった。
むしろ、明治維新が異常精神期であった。
日本の長い歴史から観ると。
「非正規雇用の拡大」は、人間が造り出したものである。
「非正規雇用の拡大」を、ストップさせるのが、根本的な解決である。
マルクスは「宗教は阿片である」と喝破したが、
「天皇陛下を利用して、国民を麻痺させて、
会社の悪を温存させる、助長、拡大させる」のは、
日本国家・国民の破壊・崩壊に導くものである。
於いてあるもの そのものに他ならない
ということは。我が身に照らすとどうなるのだろうかのう。
25ぶりの快挙とは。
今年は、オマバ大統領も訪問されました。
昨日は北朝鮮が核実験とまあ、いい加減にしろ!です。