恐山あれこれ日記

院代(住職代理)が書いてます。

お手紙ありがとうございます。

2016年10月20日 | 日記
「悟り」が何なのか教えて下さるという、ご親切なお手紙ありがとうございます。久方ぶりにこの種のお手紙を拝読いたしました。

 貴台のお話では、誰かの本を読み、書いてある通り修行したら「預流果」を得られたとのこと、謹んでお慶び申し上げます。

 さて、御説によると、脳が色々と余計なことを考えて「世界」や「自己」の存在を錯覚するので、特定の方法(主としてある種の瞑想)によって、その錯覚と錯覚する主体をありのままに観察できれば、錯覚はことごとく解消される。そうなったときが「悟り」であって、そのときのありのままに観察する主体こそが「本当の自分」だ、というアイデアのようです。

 私は出家して以来、このテの話を、上座部から大乗まで様々なデザインで、それこそ耳にタコどころか、顔中にタコができるほど繰り返し聞かされて、心底から辟易しきっています。大変申し訳ありませんが、私は、「悟り」と「本当の自分」が出てくる言説には、もはや全く興味も関心もないのです。面白いとも役に立つとも思いません。ただの駄法螺にしか聞こえず、自分には端的に不要なのです。

 以前にも書いたので、長々繰り返しませんが、それまで「悟った」ことがない人に、ある日特異な何事かが起ったとしても、それが「悟り」だとわかるはずがありません。すると、だれか別の「悟った」人に「君は悟ったよ」と「認定」しもらうしか、自分の「悟り」を証明できますまい(貴台の場合は他人の書物を証拠としているようですが)。

 すると、事情は先に「悟った」人も同様ですから、その証明は次々に遡り続け、結局、釈尊まで至ります。

 ところが、当の釈尊は「悟り」が何なのか、自分の口で語っていません(それを明言する文献が無い)。となれば、物は言いよう、考えようで、あとは支持者の分布と多寡の問題にすぎず、「悟り」の内容は結局、ポジショニングによるでしょう。

「本当の自分」も同じ。「本当」を判断する「正しい」根拠は一切ありません。せいぜい「とりあえず今は、これを『本当』にしておこう」程度のことです。

「観察する主体」にしても、それがあるなら、「観察する主体」を観察することが可能ですから、ことは無限遡及になります。どこで「本当の自分」を打ち止めにするかは、完全な恣意でしょう。

 少なくとも私には、今やそんなことはもうどうでもよいのです。

 私は、坐禅という身体技法を使って、言語機能と自意識を低減させることによって、「自己/世界」というがごとき、通常の二元的認識パラダイムを解除できることを知りました。わかったのは、そこまでです。それ以上の話は、所詮お伽噺にしかなりません。

 現在の私の、日常生活における坐禅の位置づけは、およそ以下のようなものです。

「二元パラダイム」解除によって「自己」「世界」を初期化して、いわば「非思量」の現場を開いて一切を「問い」として露わにし、その土台からあらためて「自己」と「世界」を仮設する。その過程で、「自己」と「世界」は、<それはいかにあるべきか>という「問題」として構成されていく。この「問題」に、時の条件に応じて適宜選択された方法でアプローチし、できる限り明瞭に言語化する。

 かくして「問題」が取り組むべき「テーマ」にまで構成されたなら、まずは好悪・善悪・虚実・正誤のような価値判断を一切差し控えて、「テーマ」をめぐる諸存在の関係性を認識した上で、それに取り組む具体的な工夫をする。実際にやってみれば中々上手くいかないこの行為を、それでも繰り返して改善しながら習慣にできれば、「悟り」も「本当の自分」もまるで必要がない。意味もありません。

 以上、所感です。あしからず、御免ください。
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315 コメント

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Unknown (Unknown)
2016-10-20 00:47:23
その方は、「嘘の自分」も、演出されたいのでしょうか。
Unknown (南京ハゼ)
2016-10-20 01:29:41
いろいろな考え方を思うと共に、青空に絹雲が映えとてもさわやかな風が吹くかのような感じが致します。
季節の変わり目、どうぞ御自愛下さいますよう心よりお祈り申し上げます。
Unknown (Unknown)
2016-10-20 02:10:39
もちつもたれつな物語り。

お終い。
」遺産、御手コメありがとう御座います (Unknown)
2016-10-20 02:55:45
富士山の樹海の様な、迷路となっている
道元山を生涯かけてさ迷い歩き、やっと見つけた私の眼の前は広々とした平野が広がって、その向こうにはアルプスの山々がある事に気が付いた。もう人生も短い。自分が「道元」山(やま)のおサルであった事に気が付いた。別名「道元井戸の中のカワズ」であった事も知った。

世界はあんなに広かったのに・・・、
沢山の人がただただ道元山の樹海の中でさ迷ったまま死んでしまった、が・・・

でも彼らの名誉にかけて私は言う・・・
彼らは名誉ある戦死者である。栄光ある真理の探究者である。生涯を課す価値のある人生を全うしたのだ!!と・・・・


さる道元オタク自戒の言!!
(遺産曰くの【妄想】です。悪しからずご免ください!!)。
Unknown (Unknown)
2016-10-20 04:05:29
「正義」の定義;
己の信ずることを正義と確信し「お手紙」します人。
そして他者の事を妄想だ、迷言だと断罪する人。

「妄想」の定義;
正義の獅子たる自分の言う事に従わないで、「悪しからず、ご免下さい」と言う人。

うわッ、つまり南師は「妄想」者って事になってるんだね!!
Unknown (Unknown)
2016-10-20 04:29:19
(゚∀゚)アヒャ~~、南さんって「妄想の人」か~。

わしゃ~、「恍惚の人」じゃぜ!!

どっちもどっち、もちつもたれつかなァ~!!!
以後よろしゅう御免下さい!!
Unknown (Unknown)
2016-10-20 05:23:48
ですよね!
Unknown (Unknown)
2016-10-20 06:02:33
道元山の樹海もまた、空なり!
長生きしてください (独学の者)
2016-10-20 06:20:50
相当うざい手紙が来たのでしょうか。嫌味ったらしい文章、最高に好きです。こんなふうな仏教者は、南さんだけなので長生きしてほしいです。

悟りすましたような話を聞くと、暴れたくなります。ですが、仏教2500年のなかで悟りすました話のほうが圧倒的に求められたいたフシもあり…。

南さんのお話は、通じる人が絶望的に少ないですよね?それでも言い続ける希望(?)って何でしょうか。

 私は南さんにムカつくと同時に、うまく言えないけど、同時代の仏教者に南さんがいて本当に救われました。
有難うございました。
Unknown (尾花)
2016-10-20 06:47:37
手紙の前文に「私はなぜ『悟り』を語りたいのか」を書いていただければ、読み手の負担が減り、より親切なものになるのではないかと思われました。

また手紙を書いている方も、『悟り』に関連させて「自分自身が何を望んでいるのか」を自覚できるかもしれません。
Unknown (Unknown)
2016-10-20 07:17:15
南さん、
おはようございます

皇后さまのお誕生日のあさに、こちらのブログ記事を拝読できました

幸せです

誘われて、うちの者も座禅会(月二回)へ行くようになり、気性が穏やかになってきたことを喜んでおります

彼はおこりんぼうさんなのです(^_^;)

家事もあり、私などはなかなか参加に至りませんが、女性たちもいらっしゃるそうです

高齢者も多く、
冬はお休みのようです
本山は永平寺のお山と聞きました

会のお寺さんは、
和尚さまの受章お祝い会には、美しくも貴重な、

昭和天皇のご覧になった蓮

を使ったお品をお使いだったようでございます

月二回の会出席は、素敵なあさであろうと、夢想しております

南さん、
ご健勝でいらしてください



台所のこまねずみより(笑)
Unknown (浅野)
2016-10-20 09:14:05
南さん、送付されてくる手紙読んでるじゃないすか!(ネタ探しのためですか笑)。
そして、明朗親切な直球アイロニー!
返信を読まれたお方は、この南さんの考え方をどうご理解したでしょうか。
まぁ、あなたが耐え切れずにそう言いたい気持ちもわかりますけどね、、。
Unknown (Unknown)
2016-10-20 10:42:17
や~ねェ~!!

悟ったアタチが、
悟れないイタチの南ちゃんに、
せっかく教えてあげようとしたのにィ~、

相変わらず【ひねくれちゃってェ~!!】。

(手紙主;正義の伝道者!!)。
「悟った」人・覚者・ブッタに会い・逢い、自分もそのように成りたいと思う。…「面授」「過去佛思想」 (イエスちゃん)
2016-10-20 12:00:50
遺産です。ハイ。

釈尊の仏教には、自分を救ってくれるという「神」はない。
「このようにせよ」という神の命令もない。

ただただ、「悟った」人・覚者・ブッタに、会い・逢い、…自分もそのように成りたいと思う。
それしかない。

だからこそ、「釈尊が、なぜ家族を捨てたのか?(死への恐怖)」
「歴史上のイエスが、なぜ家族を捨てたのか?(自分の罪の虜)」を知りたくなり、自分にとっては、重要となる。

そして、自分になぞらえながら共感して、同じ道を歩む気が起こることになる。
(まあ、これも、私の習い性…運命のようなもの。)


「面授」というのも、ここに根源がある。
「過去佛思想」も、歴史上の釈尊も、この「面授」から成仏したと主張。

つまり、仏教での動因は、覚者に逢う知ることに始まる。

そして、それへの道・方法は、禅定・坐禅。

だから、釈尊、歴史上のイエスなど、どうでもよいという発言には、
すぐに、異常に、反応してしまう事になってしまうのです。悪しからず。ハイ。
Unknown (Unknown)
2016-10-20 13:13:39
分かります、分かります。

「(人間の自分と同じ悩み・罪を共有した)人間釈迦に出遭った!!、人間イエスと会って話が出来た」という思い(感受性)は強烈で、人の心を完全に癒す事が出来るという事を・・・

(キリストの死後)キリスト教徒を激烈に迫害し続けていたポウロがある日、道端でキリストのまぼろし(?)に遭遇しその声を聞いたという事(感受性)で改心し、その後最大級のキリスト教伝道者に変身した事を(作り話であるかないかに関係なく)・・・

それはそれで、私にはまねのできない素晴らしい熱い心の想いである事を・・・

それが人間らしさであるという事を・・・。


私は釈迦やキリストの「史実」がどうでもよいと言っている訳ではありません。
私自身にとっては「論理の整合性」が神ですから、その観点から言うと「史実」とは真実というよりもむしろ「虚構」ではないのかとの疑問を呈したに過ぎません。ただし「論理の整合性」もはなはだあやふやな「虚構・誤解」である訳ですが・・・。

現代犯罪学ではたとえ「自白」「書き口上」「状況証拠」があったとしても決定的に確実な実証が出来なければ、自白は偽証と見なされる。
つまり(過去の)史実は実の処、実証不可能なものだから、誰かが言った、書物にそう書いて有るからと言うだけでは本当の真実だとは言えないという事を強調したかったからに過ぎません。

悪しからず、ご免下さい!!
Unknown (Unknown)
2016-10-20 13:50:21
遺産が声を発して呉れたので、改めて遺産に質問したい事が在ります。
(他のコメ参加者は雑学として黙認願います。)

古代ローマ帝国が、昔は自分たちが太陽神(=日)を拝む故に日曜日を聖日としていたので、キリスト教を国教に定めた時にも、日曜日を安息日にしてしまった(ユダヤ教では土曜日・・・旧約聖書「創世記」の記録からは土曜日が安息日となる)。

で、16世紀プロテスタント教会が発生したときに、日曜礼拝をそのまま踏襲して、その根拠はイエスキリストが日曜日に蘇ったから「主の日」として日曜日を聖日にするのだと言う事にした・・・、が私の理解です。

で、遺産の言う日本の新進気鋭の新約聖書学者さん自身は、人間キリストの復活を史実として信じているのですか、又それが実証できるとしているのですか??

大変興味あります。教えて下さい。
Unknown (Unknown)
2016-10-20 15:22:46
誰かイエスちゃんブログに誘導してあげて。
新約聖書は、各文書には、個性的な信仰を持つ著者がいる。その著者の信仰を明確にするのが新約聖書学! (イエスちゃん)
2016-10-20 16:07:21
そもそも、古代人イエスは、サタンの存在を信じていた。
病人からこのサタンを追い出して病気を癒し、この自分の指に、行動に、神の力が現れていると信じていた。

他方、使徒パウロも「自分に、神がキリストの幻を示した」という経験をもっている。自分の手紙に実際書いてある。
勿論、直弟子ペテロたちも、キリストの幻が現れたとしており、使徒パウロと信仰を同じくしている。だから両社は最初一緒に伝道旅行をすることになる。
彼らの体験・経験自身は、事実であると考える。

「幽霊を見たら、それは実は、枯れ尾花」
しかし、本人には、幽霊は実在している。

「新約聖書学」は、各文書の著者の信仰を明確にして、文書間の影響関係を調べる。
他の周りの宗教との交流・影響を調べる。
更に、宗教学だけでなく、文学、考古学、発掘学、政治学や経済学との関係など、広い学問分野と共同している。

だから、東大での大学院などでキリスト教を研究している人が、半分以上クリスチャンでなくなったと、大分以前に、荒井献先生の講演で聞きました。
昔は、ほとんど、クリスチャンの人だけが研究していたのに。

ギリシャ神話を研究する学者が、ギリシャ神話を信じる必要はありません。

しかし、
「歴史のイエスは、自分をキリストと考えていたのか?」は、
重要な研究テーマです。

『人間キリストの復活を史実…?』

「復活」には、「見た現れた」という直弟子たちの「体験・証言」がある。
これ自体「体験そのもの」は存在します。
しかし、それが歴史上のイエスだったかどうかは、
「新約聖書学」の研究テーマにはなりません。

結論としては「復活を史実」と信じている人も、信じていない人も、両方いらっしゃると考えます。

そもそも「復活」そのものが何であるか?が曖昧である。

事実、イエスに洗礼を授けた改革者ヨハネが殺された後に、弟子のイエスが宣教活動を始めると、当時の人々は、
イエスの事を「ヨハネが蘇った・復活した」と言った。
つまり、古代の復活とは、師の志を引き継ぎ活動すれば、「師ヨハネの復活」とイエスを受け取るわけです。

『復活は史実』かどうかは、
それは新約聖書学には、決して持ち込みません。

だから、学問として議論・批判ができ、ますます明確になり発展していきます。

勿論、中には、キリスト教の護教が目的の研究者もいますが、学問としては相手にされません。

田川建三、荒井献、佐竹明、八木誠一、大貫隆、渡辺英俊…
などの激論が面白いです。
Unknown (Unknown)
2016-10-20 21:13:15
・・・・「二元パラダイム」解除によって「自己」「世界」を初期化して・・・・

ほうほう

・・・・いわば「非思量」の現場を開いて一切を「問い」として露わにし・・・・

あ、もうわかんない

・・・・その土台からあらためて「自己」と「世界」を仮設する・・・・

更地にしてから測量して図面書く?

で、まあ、諸条件によりつくれるものに制限もかかったりするしニーズにもよるし

テーマってなんのテーマ?
つくるもののテーマ?
今年の文化祭のテーマは!
テーマですか…
世俗を救うとかですか?
テーマかー

そのへんさっぱりわからないな

ま、いっか

Unknown (Unknown)
2016-10-20 21:24:38
初期化したところが非思量現場で問いから始める仏教人はあらためて自己を仮設し

みたいなのは何度か読んでいる気がするんだけど
「非思量の現場」だとして、そこで「問いから始める」って、具体例でいくとどんな?
こういうことがあってこんなふうに問いから始めた
みたいな実例って、どこかに書いてあるの?

そんなの、南さんにだけわかればいいっちゃあいいようなものだけど。
できるだけ言語化したんなら、たぶんどこかにありそうな気もするんだけど。
Unknown (Unknown)
2016-10-20 21:33:08
できるだけ言語化したのが
・・・・初期化したところが非思量現場で問いから始める仏教人はあらためて自己を仮設し・・・・
だったら、


まいっか
Unknown (Unknown)
2016-10-21 00:02:43
南さんかく宣(のた)まいき・・・

>時の条件に応じて適宜選択された方法でアプローチし、出来る限り明確に言葉化する。諸存在の関係性を認識した上でそれに取り組む具体的な工夫をする。
ーーーーーーーーーーーーーー

悟った後の釈迦や道元さんが、突然今日の日本にタイムトラベルしたとして、諸存在の関係性を認識したら・・・


彼らの明確化した言葉とは・・・

「ああ、わしは間違った世界に来てしまった。わしが過ってあ~しろこ~しろと言ってきた事が全く通用しない世に来てしまった。過ってわしが悟ったと思った悟りとは一体なんだったのか??
わしの言って来た事の全ては無に帰している。わしには今日夕飯を喰らうすべさえ無い。わしはこの世には一日たりとも生きていけない!!」。


そこで、彼らのそれ(=見出した難問)に取り組む具体的な工夫とは・・・

「母の胎内に戻って此の世に生まれ直して、新たにゼロからやり直す事だ。そうなれば、【悟りも本当の自分もまるで必要がない】!!」
Unknown (Unknown)
2016-10-21 00:31:14
イエスちゃんからの引用
>単に、こころの中で他人の妻に欲情しただけで、実際に行っていなくても、姦淫の罪を犯したことになった。

って・・・
「悟った」と思ったり、言ったからとて罪にならないご時世でよかった。
過激発言!! (Unknown)
2016-10-21 00:31:24
言ってみれば(私感、私感、私感という前提で許されよ・・・・)、

今回の南師の記事は、
従来の【宗教】たるべき(旧態依然型の)仏教の全否定。【宗教としての】仏教からの脱皮。新たな仏教観の設定・・・を意味する(あくまで私感&私感、どこまでも私感です)。

理由。
悟りを論ぜず、本当の自分(=ありのままの姿)を論ぜず、禅定がど~たらこ~たらと論ぜず・・・・で最後に残ったのは【マインドフルネス思考】に類似する。
S長老は瞑想は心の筋トレだと裁断したが彼には「瞑想の結果智慧(=釈迦の神秘的不変・普遍の叡智)が現れ出る、つまり鈴木大拙流にいえば【見性】を信じているから彼らは辛うじて宗教色を残している・・・が今回の記事にはそれがない。
いえすちゃんさんに感謝です。 (Unknown)
2016-10-21 01:46:05
新約聖書学者(の考え方についての)御説明大変面白く大変感謝いたします。まことに有難うございました。

佛教を信じない仏教学者、仏教学研究者・・・佛教でも同じ形態がありますよね。興味深い事です。

史実なるものを主体とする「研究者(=歴史学者)」から物事をみると、結局そういう結論になって行くという事なのかもしれませんね(=現代思考方式とのギャップが明らかにされる)。

イワシの頭も信心からで追し通せる人にとっては、「余計なお世話だ」とそういう学者を目の敵にするんでしょうが。

すべて「幽霊を見たら枯れ尾花であったが・・・本人には幽霊は実在している」。「復活は実在している」「奇跡は実在している」「神は実在している」
・・・これが史実だ(と古代人は思う!!)。
決定的かつ確実に実証できる証拠は提出出来ないが・・・私の目で確かにみたのだ、私の耳でたしかに聞いたのだ!!。
古代人はこういう世界観で生きていた!!

そういう事につきる。まあ私的にはこの世はすべて「とてつもない誤解」から出来上がってしまった・・・という言葉に尽きるけど。


ところで一つだけ確かな事は、【神】の存在(=抽象概念の実在化)を信じる人には史実は不要な筈です。人間性キリストは全然不要な筈です。
新約聖書学者連は(彼らにとっては)無用の長物ならぬ有害の毒物に過ぎないのだと思います。基本的には【宗教】の破壊者だから・・・。
ユダヤ教の陰謀に加担するヤカラ、孫氏の兵法「情報攪乱戦」の手先だから・・・。
実際、真実を述べた「史実」などこの世に存在する筈がないのだから・・・。
Unknown (ケイレン)
2016-10-21 01:55:46
私は南さんのビデオ『こころ』を見てしまった以来、坐禅の必要性に目指してしまいました。

読者になるためブログも始めて、
ここの記事はデスクトップに貼り付けてあり、
おnewがあるのかと毎日チェックしています。

今回は、コメントが多種多様で、
捻くれた、陰気なものが少なく、
読むのに面白かったです。

怒っているのに自制できているから、
悟りの領域に近づいたのでは?
と思っています。

悟りって迷惑なもので、
追うのに面倒くさいかなと思うだけなので、
勝手な言いぐさ、ごめんください。
元来、最初期の「キリストの復活」とは「釈尊の教えを聞いて、生きる力が湧いてきた」ということです (イエスちゃん)
2016-10-21 03:10:01
現在のキリスト教は、
「自称・使徒パウロ自身の信仰」が根幹です。
(イエスご自身のもっていた信仰ではありません。)
厳密な言葉の意味で「パウロ教」です。
「ブッダ教」「マホメット教」と同格です。


このパウロは、ローマ帝国・世界中に伝道旅行した。

他方、イエスの直弟子たちの初期キリスト教の方は、ユダヤ教に後退して、「ローマ帝国に反抗したユダヤ戦争」で敗北し消滅していった。

「キリスト教の根幹の信仰」であるパウロは、
西暦50年頃(イエスの死後20年)に、回心をする。

そして、不思議な事実を、自分の手紙で書いている。

自分は死んで、代わりに、自分の中でキリストが生きている。「復活」

この実感は、
「釈尊の教えを聞いて、生きる力が湧いてきた」という感覚・体験・実感と同じ内実ではないのか?

だから、もともとの復活の話は「イエスが、物理的な肉体をもって、むくっと生き返った」という事では、まったくない。

しかし、西暦80年頃(イエスの死後50年)には、
ルカ福音書では、
「キリストの復活」は、「物理的に肉体をもって復活する話」になり、
(人々は、これでないと満足しなくなった?尾鰭がついた?)
「幻ではなく、本当に肉体をもって」復活したことを示すために、
キリストがわざわざ焼いた魚をむしゃむしゃ食べてみせる話が出来上がった。

この様にまで内容が変化したら、史実として信じることは、現代人には、現在では、非常に困難になってしまう。

古代での「キリストの蘇り・復活」は、現在の「復活」という言葉の意味とは違います。
そもそも「復活」とは、どのようなことなのか?から、吟味する必要があります。

だから、「復活は史実かどうか」は、非常にあいまいな質問です。むしろ、無意味な質問です。
訂正:パウロの回心は、イエスの死後数年に起こった。手紙は、死後20年に書いた。 (イエスちゃん)
2016-10-21 03:48:56
使徒パウロの回心は、イエスの死後・数年です。

その自分の宗教経験内容を、手紙に書いたのが、イエスの死後20年、つまり、西暦50年頃です。

「ユダヤ教の厳格な罪」からの赦し、罪からの完全なる解放、
それを「自分の中で現にキリストが生きている」こととして、
小さな教会・家の教会へ書き送っている。

当時のパウロの伝道の手紙は、いわば公文書であるから、ほかのパウロの教会でも、回し読みされ、大切にされていた。

その結果、新約聖書に保存され、現在にまで残っていることになる。
Unknown (Unknown)
2016-10-21 04:37:00
>いわば「非思量」の現場を開いて一切を「問い」として露わにし・・・、その土台からあらためて「自己」と「世界」を仮設する・・・あ~、もうわかんない!!

佛教思想の語り口はどうしてもこうなるが・・・)、
簡単な事をひたすら難しく言ってみる仏教記事を、簡単な一般用言語法を使って初期化を試みると・・・


ある命題(らしきモノ)をあ~だこ~だと考えるうちに混沌として(=こんがらかってしまって)自分でも何がなんだか訳が分からなくなった。
そこであらためて全てをゼロに戻して(=初期化して)、水平飛行頭でブレインストーミングしてみたら(=図表化してみたら)、大筋とか(行くべき)一つの道筋が見えて来た。自分の進むべき正しい道が示されてきたのである・・・これが瞑想(只管打座)で、
一旦「自分の壁」を乗り越えると、新たな、正しい「自己」と「世界」との関係性が見えて来る(=相依性縁起が分かる)、
という事らしいよね!!
毎日毎日脳の虚構は積み重なっていくから、そのたびごとに新たにゼロ地点に戻って(=初期化して)問い直していくべきである、という尊いおさとしでありまする!!


Unknown (Unknown)
2016-10-21 05:08:58
再度のイエスちゃんの講義感謝します。

しかしながら、キリスト教の根幹は、
(エホバの)『神』が実在するというポイントから出発するわけでしょう。神が生きているからこそ、キリストに奇跡的な力を付与できる。それがセットになってキリスト教は成立しています。それを抜きにしてはキリスト教は語れないと思います。

いったん「神」の実存を容認したキリスト教は、神の子がこの世に降臨した、そして人の罪の身代わりになって十字架に架かり、墓から蘇って「いずれ人間であるお前たちを迎えに来るよ」という約束(神話)の中で生きるしかない宿命になっている筈です。
それを否定したらキリスト教は成り立たない。
それ以外にキリスト教が存続する余地が全く残されていない・・・。


であれば、2000年後の現代人が、人間性のキリストはど~だ、史実はこ~だ、本当はポウロ教だったのだ、とか言うのはキリスト教の破壊者なわけで、中世以前では宗教裁判で確実に(逆さに貼り付けにされる、あるいは火あぶりにされる)断罪モノですね。ユダヤの陰謀団の大勝利!!ですね。

イエスちゃんさんも何を言っても許される現代に生きていてラッキーでしたね。
Unknown (Unknown)
2016-10-21 05:25:23
新約聖書の4福音書だけ見ていても、

キリスト教の全貌は語れない!!
キリスト教の思想は語れない!!
神話は史実からは導き出せない!!

という事になるのでしょうか??
Unknown (Unknown)
2016-10-21 05:48:47
浄土の実存を信じた親鸞の言葉は、
浄土世界と人間世界がセットで語られて初めて成り立っているから、

人間親鸞の史実のみを探っても「浄土宗」という宗教の事は何もわからない。
Unknown (Unknown)
2016-10-21 06:45:29
そ~か!!

釈迦が仏教を創った訳でなく、本流はやがてバラモン教(後のヒンズー教)に吸収されてしまった。

キリストがキリスト教を創った訳でなく、(直)弟子たちもユダヤ教に吸収されてしまった。

どうやら既存宗教と革新宗教とのあいだでの陰謀合戦(権力闘争)が匂ってきますね・・・。

そこでキリスト教は古代ローマ帝国の政治の道具として(再利用的に)新たな姿を出現させていった。ローマ法王が神の代理人として君臨すれば【現人神】の権力掌握ができる。

なんか昔の日本での天皇(現人神)と、平伏するしかない人民(臣民)との構図に似ていますね。

日本国と西洋キリスト教国の違いは、キリスト教には「天」に実存する「神」がいる、という認識が民衆の中に大前提として認識されていた。

日本では「天照大見神」は民衆からは軽んじられていた(多分??)。天皇だけが実質的な「神」と認知されていた(多分)。

もっとその前の時代では、古代ユダヤ国に於いては祭司が政治の実権を握っていた(神権政治)し、日本でも占い師の卑弥呼が政治を動かしていた。

「歴史は繰り返す!!」を世界中でやってたって事になるのかな??
Unknown (Unknown)
2016-10-21 07:27:02
キリスト教の場合では、母体であったユダヤ教が、人祖アダムとイブを神が創った(@創世記)という話(神話)からヒストリーが何千年も延々と繋がって来ているから、民衆(ユダヤ人)が神を受け入れるのは当然で、

それを古代ローマ帝国でローマ法王がその神権政治を乗っ取って世界に打って出た形(世界最大級の大盛り!!)でキリスト教が出来上がっているから、人間キリストは単なる口実・傀儡&道具でしかなかった筈だよね。

だから現代日本の新訳聖書学者が人間キリストがあ~だこ~だと詮索して史実をあばき出しても「それがなにか??」のレベルの話でしかない気がする。
もともと日本ではキリスト教が根差す事は決してないんだから、まあそんなもんだよねレベルで済むんだろうね・・・。
Unknown (Unknown)
2016-10-21 08:06:59
宗教研究者が必ずしも善人である訳ではない。
欧米のキリスト教から変わった (イエスちゃん)
2016-10-21 08:27:20
まったく、誤解ですね。

新約聖書学など、キリスト教内での批判的な研究は、
欧米が中心であり、100年ぐらい前から始まった。

だから、その欧米に行って学んできてから、
日本<<でも>>広がった。

『現代<<日本の>><<新訳>>聖書学者が
人間キリストがあ~だこ~だと詮索』

西洋人にとっては真剣なテーマです。ハイ。

また<<新約>>つまり、
新しい、神との<<契約>>です。
如来はわれなり。 されど我は如来にあらず。 如来我となりて我を救いたまえり。 ~曽我量深~ (イエスちゃん)
2016-10-21 08:59:57
「浄土の実在」は、迷信と、私は思います。キリスト教でも「イエス・キリストが肉体をもって復活した。物理的に生き返った。」は迷信、という意味で。

弱い人間は、それをいつも求めます。それにしがみつく。しかたがないのか…

『浄土の実存を信じた親鸞』
だから、これこそ、迷信と、私は思います。

親鸞聖人は、いつも自分の信仰に安住しなかった。
その最終の到達点が、「自然法爾」です。ここで止まった。

この境地では、阿弥陀仏も実在ではなく、方法・手段でしかない。

非神話化を親鸞聖人はなさっている。

だから、浄土経典から、大乗の涅槃経を重視するように変わっていった。その引用が多くなる。

『如来は、われなり。
されど、我は如来にあらず。
如来、我となりて、我を救いたまえり。
~曽我量深~』

(復活したキリストが私の中で生きている。私は死んでしまった。使徒パウロ)

これが現在の浄土真宗の信仰です。

『実在の阿弥陀仏』に、救って下さいと頼み拝む、
これは偶像崇拝であり、仏教ではない。
と、私は思います。

日本人は、日本の神様がいるので、
どうしてもそれでは、釈尊の仏教、親鸞の仏教が理解できなく「浄土の実在」「阿弥陀仏の実在」に落ちてしまう。
と、私は思っています。
Unknown (Unknown)
2016-10-21 09:07:53
なるほどそ~なんですかね。
新しい神との契約って??
原理主義的キリスト教の台頭とか??

そういえば、仏教でも原理主義的傾向が出て来てるとかあったみたいだし???

イスラム原理主義の影響何でしょうか??
ファッションのように、世の中、「懐古・新風」の繰り返し(巻き返し)をやっているとか??
ダメになった資本主義・共産主義の不安定さの中から起きている新しい渦の現象とか???
Unknown (Unknown)
2016-10-21 09:27:31
時代の流れとして、世界中に新しい宗教理念が再考されてきている。
曹洞宗の中に於いては南さんがその先端を担っている??とか・・・
Unknown (Unknown)
2016-10-21 09:49:03
なんか新しい宗教理念って、「悟り」とか「本当の自分」とか訳の分からない・・・

「浄土」とか「阿弥陀如来」とか訳の分からない・・・

キリスト教的には人間の肉体の「蘇り」とか、人間が行う「超自然現象」(=奇跡)などなど訳の分からない・・・

そんな考え方を否定して、新しい宗教観の確立へと動き出している???

そういうものは皆、人の脳内で起こった幽霊認識の錯誤現象であったとみる様になった、とか???。

それでも現代人は「神」との新しい契約に入れるのか???「神」「神的絶対真理」は実在・実存すると思い続けられるのか??

なかなか面白い命題です。
われ如来を信ずが故に如来在しますなり (イエスちゃん)
2016-10-21 12:09:04
曽我 量深
   大谷大学学長、同大学名誉教授


『われ、如来を信ずが故に
   如来、在(ま)しますなり』


「私が、阿弥陀如来を、信じているからこそ、
 阿弥陀如来が、存在している」

しかし、世の中の人は間違って理解している。


阿弥陀如来が、実際に実在していて、
 その実在の確実な絶対的な阿弥陀仏を
  自分が初めて信じる、

そうなのではなく、
客観的な存在ではなく、
自分の外にあるのではなく、

 逆に、自分が信じているからこそ、
  自分のこの不安定な信心によって、
    阿弥陀仏が存在するようになる。
      阿弥陀仏は、自分の中にある。 
Unknown (Unknown)
2016-10-21 13:06:22
成程です。教えて頂いて有難うございます。

全ての人がそう考えている訳ではないが、そう考える人も増えている、
という事なのですね。
時代の趨勢として、ウン十年すれば【全て】の人がそう考える様になって、
実在する浄土などはない、実存する極楽(彼岸)などない、
(キリスト教的な)あの世での天国というものも無い、
という思考方式に変わっていく筈だと予測できる・・・??
そうなると人の死後は此れで終わりで、死後の世界など存在し無いと、人間全員が了解する様になると考えられる・・・
だからキリスト教もその時点で終了する・・・
イエスちゃんはそう言いたいのですか??
Unknown (Unknown)
2016-10-21 14:49:24
>10-20,06:20:50
南さんのお話は、通じる人が絶望的に少ないですよね?それでも言い続ける希望(?)って何なのでしょうか?

南さんは曹洞宗の中でも自らをアウトサイダー(的思考の持ち主)だと自認しているから、アウトサイダーの取るべき道は二つに一つしかない。
①.曹洞宗から完全に離脱するか・・・
②.自分の見解を発表し続けて、曹洞宗の中で自分の見解をある程度、認めさせるか(=自分の存在意義の主張)。

恐山という曹洞宗の院代を続けていく為には一定の発言力が必要になる。それが南さんの生きた証、自分の存在の価値・意味となる。

そして実際、世の中の流れは自分(=南さん)の方に流れて来ている・・・依然細い川の流れではあるが・・・、ますますファイトがでてくる・・・のだのだのだ元首相!!

釈尊は「一緒に修行した5人でないと理解は不可能」と考えた。そして200kmも歩いて会って、教えを説いた。 (イエスちゃん)
2016-10-21 15:50:24
そもそも釈尊の仏教の根本である
「「自分」は「実体」でない」を理解・納得するのは不可能に近いのです。

それは、「言語」用いて思考しているからです。

だから、これが理解できない人の方が、むしろ、大多数なのです。

浄土真宗でも、「法主」が生き神になって、法主がお風呂に入ったお湯を有り難いとして飲んだ、
という出来事も起こるのです。

そもそも本願寺において「親鸞の血筋で偉いが決まる」、
これはまったく反仏教です。
日本人の考え方、そのものです。

釈尊の仏教、親鸞の仏教・・・は、結局は、少数しか理解できないのです。

南師の今回の懇切な説明でも、理解できない人が多い。
これが現実なのです。

浄土真宗内でも、曽我量深師の説明が理解できない、納得できない人の方が多いでしょう。
(しかし、トップにおいては、正統な信仰として受け入れられている。末端では無理。)

『変わっていく筈だと予測できる・・・??
イエスちゃんはそう言いたいのですか?』


小学生への説明と大学生への説明は異なります。
理解レベルには、相違があるからです。

小学生で止まるかどうかは、完全に、本人次第なのです。

そして、小学生に、大学の講義をするのは、無意味であり、逆に、内容が理解できないからウソだとされます。

自分に役に立つ、自分が理解できる…
という人もいますが、
(戦後の個人主張の弊害)
この「自分」という枠が、成長を止める!

釈尊の弟子の出身カーストも、教育を受けない「スードラ」では少ない。
これも、釈尊の教えが、理解できないからです。

昔からそうだったのです。
今後も、きっと、そうでしょう。

道元和尚が理解できずに、
日本達磨宗の印可状を大切にする禅師もそうです。
「神との古い契約」とは『旧<<約>>聖書』です。「十戒」です。 (イエスちゃん)
2016-10-21 16:13:35
古い契約は、
モーセが神ヤハウェから、与えられた「十の戒」です。

人間(ユダヤ民族)は、これを守ると契約しました。
神は、子孫が繫栄することを約束しました。

具体的には

1.主が唯一の神であること
2.偶像を作ってはならないこと(偶像崇拝の禁止)
3.神の名をみだりに唱えてはならないこと
4.安息日を守ること
5.父母を敬うこと
6.殺人をしてはいけないこと(汝、殺す無かれ)
7.姦淫をしてはいけないこと
8.盗んではいけないこと
9.偽証してはいけないこと
10.隣人の家をむさぼってはいけないこと

是の更なる、詳細な戒律は、『旧約聖書』を参照のこと。

なお、キリスト教での「聖書」とは、
「旧約聖書」と「新約聖書」と両方です。

また、使徒パウロが手紙の中で「聖書」と言っているのは「旧約聖書」の方です。

「新約聖書」はまだ作成されていないのだから、当然です。
Unknown (Unknown)
2016-10-21 16:17:52
「私が、阿弥陀如来を、信じているからこそ、
 阿弥陀如来が、存在している」
これが真であると仮定しよう。
対偶をとる。
「阿弥陀如来が存在していないので私は阿弥陀如来を信じていない」
となってしまう。
これではまずいと考えますがどう説明しますか?
論理を超えているとかその類はご容赦ください。
Unknown (Unknown)
2016-10-21 17:34:50
人間なにがしの生きた様子によって自分が励まされるというか
「ああ、それ」と思って救われる気がする?
とかなら
別にイエスや釈迦じゃなくてもいいような気がする
覚者?とかじゃなくてもいいような気がする。
それは、今なら市川さんとこのお嫁さんとか?
そういうことでもあったりするかも。
末期癌患者でも生きていていいんだ、とか。
職場の先輩とかかもしれないし。

でも、教えっていう体系だったものがあるっていう前提で、イエスとか釈迦とか南さんとかの有名どころが特別にいいような気がする、みたいな?
今の自分は不完全で迷っていて苦しんでいて、だけどある体系だった「なにか」によってそうではなくなることができるんだって
そう思っているからこそ「犬猫ではない人間なにがしの特別な苦しみ」で
それは「阿弥陀の実在」と同じだね。
Unknown (Unknown)
2016-10-21 17:38:46
「阿弥陀如来が存在していないので私は阿弥陀如来を信じていない」

なんでまずいの?
信じていないっていう言葉が?
信じようがない、なら?
Unknown (Unknown)
2016-10-21 17:44:20
言葉にできない真実
っていうか
言葉にできないという真実
っていうか

おとっつぁん
それはいわないやくそくでしょ

みたいな
Unknown (Unknown)
2016-10-21 18:43:14
前半部分「阿弥陀如来が存在していない」
これ本願寺の偉い人がいってるんですよ。
でっちあげですいってるようなものでしょう?
逆つまり「信じてないから阿弥陀さんが存在しない」ならまだ信じる信じないで存在の余地はある。

深い意味あるんでしょうか。
対偶の成立しない例外なんですかね。

Unknown (Unknown)
2016-10-21 19:36:44
さあ?
信じるっていうのとでっち上げっていうのがどんな位置関係なのかわからない。
信じたら阿弥陀如来っているのかな
信じなかったら阿弥陀如来っていないのかな

いないなら信じようがないと思うけど。
信じるも信じないも考えようがなくないの?
Unknown (Unknown)
2016-10-21 19:41:06
なんか
ことばってそういう感じで不便というか

ことばにするとあるような気がするけど
これがあるとき同時にあっちもあるわけにはいかない
みたいなのを忘れちゃうというか

信じるとかの話じゃないけど、
もっと簡単なことで、文字で書いてあるからうっかり「ある」と思っちゃうことってあったなあ、って。

阿弥陀もそれ系かなあ、って。
もちろん根拠はない。
Unknown (Unknown)
2016-10-21 19:51:08
阿弥陀さんがいないなら誓願もなにもないんですけど。
存在の有無をもはや超えた絶対無、絶対有、超越者的阿弥陀さんが信仰有無で消えたりうまれたりするわけか。

あと単純に「信じる」のも自力信仰でなく他力による信仰だから自分が信じるといってるわけでもない。
ってことは阿弥陀さんご自身が消えようとか生まれようとか。。。。
はぁあぁ??




Unknown (Unknown)
2016-10-21 20:15:58
うーん

悪いけど、阿弥陀の本願でもなんでも

解釈がいるんならどうでもいいんじゃないのかなあ
Unknown (Unknown)
2016-10-21 20:16:51
なので、テーマとか、ぴんとこない。
Unknown (Unknown)
2016-10-21 20:25:04
なんかこう、さっき読んだ
転職活動一流と二流の違い、みたいな感じ。
Unknown (Unknown)
2016-10-21 20:29:56
あ、あれだ

「…Who…?」
Unknown (Unknown)
2016-10-21 21:47:16
縁起から如来が現成するとしたら縁起は如来より上位概念ってことだ。
上位概念であるのに言及してるってことはどういうことだ?
如来は言及不可で上位概念の縁起は言及可能。

無常、無我の無は絶対無の無で言及不可。
全部言及不可ならだまっとけといいたい。
ああ もうやになってきた。
なにがなんだかですわ。
Unknown (Unknown)
2016-10-21 22:03:36
あーなんとなくわかったかもー。
私が、阿弥陀如来を、信じているからこそ、
 阿弥陀如来が、存在している
信じているという事実は他力によるはからいにほかならないので存在している。
といってるだけか。それだけ?
あー対偶とって損した気分。
Unknown (Unknown)
2016-10-21 23:15:24
< 「私が、阿弥陀如来を、信じているからこそ、
 阿弥陀如来が、存在している」
これが真であると仮定しよう。
対偶をとる。
「阿弥陀如来が存在していないので私は阿弥陀如来を信じていない」

論理学を神とする人に興味を持ちました。

命題の真偽と対偶の真偽は一致するので、
阿弥陀仏を信仰するものにとってはまずいのではないか、ということですよね。

イエスちゃんと無名の方、有り難うございます。
知る意欲が湧きます。
Unknown (Unknown)
2016-10-21 23:18:20
>

Unknown (Unknown)
2016-10-21 23:28:14
1+1=2

1の2乗 + 1の2乗 =2
1の3乗 + 1の3乗 =2

言葉としての答えは一つだが、
解釈は人それぞれ
遺産に再質問①.「復活とは?」 (Unknown)
2016-10-22 00:10:59
>「復活したキリストが私の中に生きている。私(=ポウロ自身)は死んでしまった」(使徒ポウロ)

・・・ってポウロ自身が、自分は(=自分こそが)キリストの再来・生まれ変わり・キリストその人そのもの・過去生のキリストの輪廻姿が自分である・・・、

と自認していた(=他人格なりすまし心的障害、他人格乗り移り障害?)
と、遺産は解釈するのですか??

だからこの言葉尻に引っ掛けて・・・、
人間キリストの死んだ肉体が「復活」したというのは巷(ちまた)の《誤解》で・・・

「復活」@キリスト、の正しい定義は、
誰かがキリストの「思い(=意志、脳内現象)」を引き継ぐ事を「復活(誰それの蘇り)」と言うのだと・・・

それなら・・・、
「ポウロは思った。今はもう死んでしまったキリストの意志を継いで、その意志実現の為にわが身を捧げよう・・・」
と言うのとどこが違うのですか??

「復活」という言葉(事件)はキリスト教においては、実在する事実と考えるからこそ【神と人類の間の新たな契約(=新約聖書)】のキーワードとなる筈だから、
なんか遺産の説明法は遺産の【誤解】みたいな気がしますがね???




「復活」事件追訴!! (Unknown)
2016-10-22 00:38:53
ますます迷宮入りになってきました。

確か直弟子ペテロちゃん(?)だかが、キリストの(肉体的な)復活を疑ったので、キリストは、「お前(=ペテロ)が疑うのなら、私の手の平にある(十字架はりつけの際出来た)クギ穴に自分(=ペテロ)の指を差し込んで確認して見なさい」と言ったんでしたよね。

遺産の解釈はその全否定なんだから、
真っ向から「キリスト教」は嘘だ、と言い切ったらいいんじゃないですか??

なんで人間としてのキリストの史実を追う事が自分(=遺産)の救い(?)に繋がるのかさっぱりわかりません。
追加 (Unknown)
2016-10-22 01:29:28
カトリック教会(ローマ法王)の日曜日礼拝は過っての古代ローマ帝国で太陽(=日)を拝む習慣を踏襲したからであるが、本来これは旧約聖書の契約(十戒)に反していた。

それ(日曜礼拝)を踏襲したプロテスタントは「キリストが死の墓から蘇ったのが日曜日だから、主の日を記念する」と言った@16世紀。

遺産曰くの、「復活」は死んだキリストの肉体の復活ではない・・・、
というなら、プロテスタント教会が日曜日に教会に行くのは意味がないという事になる。

旧教(カトリック)、新教(プロテスタント)の信条(神との契約)に対する全否定をしていることに成る。

それでも人間キリストの史実を知ることに何の意味が在るというのでしょうか??

遡及法 (Unknown)
2016-10-22 04:22:16
更に遡って・・・
クリスチャンが、【神が人(アダムとイヴ)を創った】という事(創世記)を信じる事が出来なければクリスチャンでは無い筈でしょう。
ならば全知全能たる神が、イエスに神権をあたえて超自然的奇跡する力、よみがえる力が与えられた事を認めなければ、クリスチャンと言えない訳でしょう。キリストは神の子なんですから・・・。

クリスチャンが人間キリスト(の史実)を追いかけるのは全然意味不明というものです。所詮キリストは(自分の意志とは関係なく)神の子にまつりあげられちゃったのですから・・・・。

単に全て認めるか全否定するかの二つに一つでしか無いではありませんか・・・
訂正 (Unknown)
2016-10-22 04:25:35
「神権」というよりか「神通力」という事ですね。
幾らでも出てきますが・・・ (Unknown)
2016-10-22 04:51:30
S長老なんかは、その書物の中で「仏教は科学だ!!」なんて言っちゃてますね。しかし多くの仏教者が仏教は科学では無いとか言って科学に嫌悪感を示す。

しかしキリスト教は到底科学なんてものでは無い。信じるか信じないか「イチかバチか」の宗教観です。そのなかに現代新約聖書学者なるものが史実(歴史学という科学)を持ち出して来て、人間キリストがど~だこ~だと科学的実証を詮索するのははなはだ奇怪としか言いようがありませんね。そういう学者はそんな事の詮索より前に、「神」が実在して人を創ったかどうかをまず第一に論じるべきですね。すべてはそこから始まったのですから。
Unknown (Unknown)
2016-10-22 07:34:21
釈迦って、架空の人物なんじゃないかと思われていたりもしたんでしょ?
でもどっかの王様だかなんだかのとこに行ったって記録が、その王様?の側にあって
(うちに釈迦が来た、って)
ああ、ほんとにいたらしいってなったとか

イエスってほんとにいた人なの?
「聖書」の『創世記』は作り話です。事実・史実ではありません!その点で『イソップ寓話』と同じで、重要な教えを表現しています。 (イエスちゃん)
2016-10-22 08:16:29
「聖書」の『創世記』は作り話です。
事実・史実・実際の歴史ではありません!
その点で『イソップ寓話』と同じで、重要な教えを表現しています。
現在の宇宙は、ビッグバーンで始まり、137億年経って、進化して人類になっています。

『創世記』は「旧約聖書」の中では、新しく作られた部分です。
バビロン捕囚の期間に創作されました。
バビロンの宗教に対抗するものです。
ですから、プロ宗教家集団が創作した「高度な神学書」です。
物語の形式で教えを説いているのです。
ユダヤ民族の「伝承のお話」などではありません。
だから、お話が事実かどうかは、本質ではなく、
お話が伝える「意味=教え」だけが重要であり、それが理解できれば良いのです。
事実として信じる必要はありません。
勿論、事実と信じたい人は、勝手ですが。

『イソップ寓話』では、鶴と狐とが会話しています。
これは、事実ではありません。
しかし、その会話の教えは真理です。それが重要です。

『イソップ寓話』を事実かどうか議論する、そんな人はいません。
著者は何を伝えたいのか、それだけを読み取ります。

「創世記」も神話・物語です。その物語の意味を理解する事こそ重要です。
この著者は物語を用いて、何をいいたいのか?

ユダヤ民族が、戦争に負けて、上層階級だけが、バビロニアに捕囚された。大多数である農民たちは残され植民地に。

そのプロ宗教家たちが、なぜユダヤ民族は敗れたのか?、神ヤハウェはどのような神なのか?
この危機的な状況で必死に問い、反省し、考え抜いた結論を「物語形式で」記述した神学書なのです。

古代は、神と神との戦いです。
ユダヤ民族の神が、バビロンの神に負けたのです。
それをどのように考えるのか?この神を捨てるべきか?
必死な切羽詰まった、その問への解答なのです。
安息日を守ることもここで確立した!
ユダヤ民族のアイデンティティを確立して維持するために。
ここでユダヤ教が成立したのです。

これが事実であり、だから、これを信じる必要はありません。事実なのだから当然です。
イエスは本当にいた人です。歴史書『ユダヤ戦記』などで記録されています。 (イエスちゃん)
2016-10-22 08:33:20
西暦70年頃、ローマ帝国の支配に対してにユダヤ民族が戦争をして、敗れました。
そこで歴史書『ユダヤ戦記』『ユダヤ古代史』などが著作されています。
そこにしっかりとイエスが記述されています。

なお、「イエス」はごく普通の名前であり、
日本で言えば「太郎」「一郎」「次郎」のようなもので、上記の歴史書にはイエスという人が多数(500人?も)記述されているそうです。ハイ。
仏教と科学とは対立するものではありません (イエスちゃん)
2016-10-22 08:49:44

『多くの仏教者が仏教は科学では無いとか言って科学に嫌悪感を示す。』

「仏教の世界観」と「科学の世界観」とは別のものです。
だから、対立するものではありません。
同じものを、別の観方をしているのです。
また、スポットを当てる分野も違います。

科学では、「煩悩や罪」は普通は対象外です。
仏教では、「宇宙はどのような物理現象で物理法則でできたのか、人類はどのように進化してきたのか?…」には関心がありません。

だから、科学で明確になったことは、そのまま取り入れるだけで、何も問題はありません。

人間関係の悩み、人生の不安などは、仏教の出番です。
歴史上のナザレ村のイエス御自身の信仰はなにだったのか?それが重要です。 (イエスちゃん)
2016-10-22 09:14:17
私は、「仏教はどうだ」ではなく、
釈尊の仏教、竜樹菩薩の仏教、道元和尚の仏教、瑩山禅師の仏教、親鸞聖人の仏教、
という言い方をしていますが、
調べてみると異なっているからです。

道元の仏教を選び取り、だからこそ、空海の仏教を捨てるのです。

同様に、
「ナザレ村のイエス御自身の信じていた神・宗教」と、
自称・使徒「パウロの宗教」とが、
キチンと調べてみると、まったく異なっているのです。

だからこそ、「イエス御自身の信仰の内実」を探求していくのです。
それが、新約聖書学の重要な主題なのです。

現実の「キリスト教」は、迷信・俗信・土着信仰・聖母マリア信仰なども含む「多種多様な信仰の集合体」です。

1973年から、40年以上真面目に付き合ってきたから、これは本当のことです。ハイ。
Unknown (Unknown)
2016-10-22 09:26:54
この人の偏った意見よりこっちのほうが中立的だよ。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%97%E6%95%99%E3%81%A8%E7%A7%91%E5%AD%A6

近代的な西欧科学はキリスト教の母体のなかで鋳造された。
神学における議論で反対勢力が科学思想を生む原動力となったとかなんとか。
ことはそう単純でもないということでしょう。

Unknown (Unknown)
2016-10-22 10:31:06

「週刊文春超えの神見出し」「攻めすぎ」などとネットで話題になっている寺院住職向け専門誌「月刊住職」。

檀家とのトラブルから、「ポケモンGOはお寺にとっていいものなのか」などの「時事問題」まで幅広く扱っています。雑誌は何を狙い、どんな風につくられているのでしょうか。編集長で現役住職の矢澤澄道さん(68)に聞きました。

「一般向けには書いていない」

 月刊住職を手に取ると、一般週刊誌のような見出しに釘付けになります。

 「婿養子住職が罷免(ひめん)されたのは人権問題か」「お寺が業者を訴えた波紋」――。お寺の身内トラブルを、センセーショナルな見出しで大きく取り上げます。「あらあら、お坊さんなのに」と思うような記事が少なくありません。お寺の評判が悪くなりそうですが……。

「そういう心配は全くないんですよ。一般社会に向けて書いているんじゃなくて、お坊さんが読むことが前提なんです。一般の人がどう思うかなんて全然気にしないから、書くべきことを書けるんです。一見恥ずかしいようなお寺のトラブルだって、住職にとっては『転ばぬ先の杖』として学べる教材になります。仏教を広める住職のための実用実務誌です」

Unknown (Unknown)
2016-10-22 10:36:57
昨日午後、鳥取県で、震度6弱の地震発生。

余震が続いています。ご注意ください。
Unknown (Unknown)
2016-10-22 11:23:28
40年やって、こうなりました。。
Unknown (Unknown)
2016-10-22 11:43:02
紹介があったウィキペヂアでの「宗教と科学」読みました。ご紹介ありがとうございました。科学観発生当時では科学と宗教は相性が良かったとか??・・・

しかしキリスト教に於いては、(科学としての)進化論を信じるか、(神による)創造論を保持するかの大大大論争が代々繰り広げられてきました(現在に至るまで)。
また、キリスト教(聖書)では多々語られているが、科学では説明できない超自然的な数々の奇跡的事象などは、科学的には【ありえない(=史実でない)】と言う事で排除されている聖書記事も多い筈ですから、相性の悪い部分も沢山ある訳です。

遺産が言う「作り話・物語」というのは「科学」では説明(実証)できない部分を指しているのですから、
それを神通力を持った神の実技として受け入れてしまうか、(事実・史実ではないが、或る教訓としての)おとぎ話として片付けるか、それぞれのキリスト者にとっては大問題になってしまう訳です。

それもすべて神が実在するのかしないのかを人間各人がどう考えるかという問題に帰着して来る訳です。

ビッグバンで宇宙が出来て進化論で人間が出来てしまうというのは神不要論でしょう。そうなら人間キリストの史実もへったくれも有り得ない!!そんな感じですかね(私的には・・)。
神が実在しているとしても、目には見えません!代わりにイエスの生き方にこそ、神が100%顕われます。だから実際のイエスの生き方が、私には重要です。 (イエスちゃん)
2016-10-22 12:18:55

『ビッグバンで宇宙が出来て進化論で
人間が出来てしまうというのは
<<<神不要論>>>』

とは、考えていません!

神が実在しているとしても、目には見えません!
代わりに「イエスの生き方」の中にこそ、神が100%顕われます。

だから「実際のイエスの生き方」が、私には重要です。

イエスが、
30歳の頃、ユダヤ教の革命者ヨハネから「罪の赦しに至る浸水礼(洗礼)」を受け、
34歳頃、十字架刑で殺されるまでの
イエスの生き方にこそ、
神の意志・働き・神の支配、神の国が
人間に対して、見えるようになるのです。

後のキリスト教は、
「このイエスの生き方」への応答です。

更に、「このイエスの生き方」への応答でないものは、神から外れるものです。

と、私は受け取っています。

科学の「ビックバーンから137億年で、宇宙の進化、生物の進化…」と
旧約聖書の「創世記。神が7日間で…」とが、
排他的であり、
どちらかを選び、他方を捨てるべきである。

これは、原理主義であり、間違っていると思います。
イエスの教えとは、まったく、関係はない!
(個人的には)

古代人イエスは、サタンが実在し、病気はサタンが原因と考え、病気を治す時にサタンを追い出します。

しかし、
私は、病気は、病原菌が起こすもので、
殺菌作用の薬品、抗体薬、レントゲン照射などで治すものと考えています。
当然、「病気を起こすサタン」など信じてはおりません。

貴方は、サタンを信じて、病院には行かないのですか?
Unknown (Unknown)
2016-10-22 12:25:29
キリスト教も何百種類もの教理(=宗派)がある訳だから、ビッグバンは神の御業だという思考法があるのかも知れません。

もしそうだとすると、何故神はそんなデザインをわざわざ意図したのか説明出来なければならなくなると思います。又究極微粒子の突然の爆発によってビッグバンが起きて宇宙が発生(新生)したのなら、その時(又はその前)神は何処に居て、どういう状態で存在していたのか??また、ビッグバン発見者は神の存在を信じてそう発言したのか??神を信じないからそういう理論を神創造論の代案として考え付いたのか??とか、
ビッグバン神学説にも、新たな難問が発生する事になると思います、ハイ。
Unknown (Unknown)
2016-10-22 12:47:28
ここでのコメ欄で(注、もしかして前回の記事に於いてであったかも??)、
遺産が初めにキリスト教の話を振って来たから、私はそれに応答して自分のコメを入れてみた。
(要するに遺産の初期コメを誰もがスルーする事を危惧して)敬意を表して私が応答コメを入れてみたという立場です。

現在の私は神の支配の中には居ませんから、
論理の整合性という立場から論議しているにすぎません。むしろ無神論の立場です。悪しからず、ご免下さい。
Unknown (Unknown)
2016-10-22 14:13:22
>原理主義は間違っている(遺産言)
=原理主義でなければ正しい??

原理主義でない=世俗的だ??
原理主義でない=ちゃらんぽらんだ??
原理主義でない=いい加減だ??
原理主義でない=神の定義が曖昧だ??

いろいろな解釈が有ってややこしいですが、原理主義は間違っていると決めつけるのもまた如何なものでしょう??

キリスト教原理主義とは;
根本主義者(ファンダメンタリスト)の事。【全知全能の神】は生きていて聖書に介在している故に、根本原則に於いては聖書の無謬(むびゅう)性を主張し、天地創造やキリストの処女降誕、復活・再臨などの教理を根本原則として受け取るプロテスタントの一派。
世俗主義的キリスト教に対抗しようとする宗教的思想・運動、原点に戻って信仰しようとするキリスト教グループの事。
Unknown (Unknown)
2016-10-22 14:22:04
出家してブッダに付き従って行った僧侶たちは
原理主義者?原理主義者でない??
どっちかな~~??
Unknown (Unknown)
2016-10-22 14:25:08
ただただひたすら道元さんに従おうとする人は、
道元原理主義者?、道元原理主義者でない??
どっちかな~??
『論理の整合性という立場』の信者 彼は、仏教とは、縁の無い人ですね。 (イエスちゃん)
2016-10-22 15:05:58




『論理の整合性という立場』の信者

彼は、仏教とは、縁の無い人ですね。


そもそも、
道元和尚は、以下の疑問で、比叡山で質問したが、誰も回答できなかった。

「もしも、人が本来ブッタならば、
なぜ、わざわざ、修行しなければならないのか?」

だから、比叡山から下山して、
当時の中国の最新の仏教である臨済禅宗の
栄西禅師の下に行って、修行したが、
まだ解決ができずに、
中国語会話を習得してから、中国まで行き
仏教大学に留学するまでの徹底さ。

最初に示した疑問は、「論理では」決して説明できません。

論理では、最初から根本的に、矛盾しているのですから。

『われ、如来を信ずが故に
   如来、在(ま)しますなり』

これも、最初から、論理的には、矛盾しています。

「如来が存在するから、その如来を信じる」
これが、貴方のこだわるところの、「論理の世界」ですよ。

釈尊の仏教は、
「言葉」の世界で閉じ込められて、苦界に陥っている衆生を、
そこから救い出すものです。

「言葉」を用いて、「言葉」を超える事を、具体的に、直接的に、示します。

だから「言葉の世界では、それは矛盾として顕われる」のです。

この説明も無駄でしょうが…
Unknown (Unknown)
2016-10-22 15:08:45
でもまあ仏教仏典は絶対者たる神が介在していないから、共感を感じたら信じる、共感を感じなければ信じないで済んじゃうけど、
キリスト教の場合は絶対神の被造物たる人間が自分の好みで信じたり信じなかったり出来るもんなのかね??
Unknown (Unknown)
2016-10-22 15:26:53
如来云々の解釈でコメントしたものです。
あーなんか誤解されてますね。
論理を神と言及された方とは別の人間です。
私は論理を神とは思ってません。
遊戯しているだけです。
仏教を知的玩具にして弄びたいだけです。

神を追求するふりをして自分を直視できず、すり替えをし逃避したいからです。
高尚ななにものかを想像しその中で浸っていたいのです。
退屈な座禅より刺激的なおしゃべりがだいすきです。
????? (Unknown)
2016-10-22 15:42:27
>道元が、比叡山で「もしも人が本来ブッダならば、なぜわざわざ修行しなければならないのか??」と質問したが誰も答えられなかった・・・、

って比叡山の僧侶も一応仏教出家人の資格を持っていたんでしょ??

私だったら、「本来はブッダであるが、今の君は汚れていて、ブッダの本性が曇ってしまって見えない状態だ。だから修行によって、本来のブッダが君の表に現れ出る様にするんだよ」って答えるけどそれじゃあダメなの??

だいたい道元って曹洞宗教理で「本来の君はブッダだ」っていってるの??
ブッダってキリスト教で言えば人間キリストを指す事にならないの??
「仏性」ではないよね??
で、生れ出でていかなる教育をも一切受けたことが無い人間であっても、人である以上は「ブッダだ」っていう解釈でいいのかな??
と言う事は生れた当日の赤ちゃんも「ブッダ」なの??
Unknown (Unknown)
2016-10-22 15:53:48
そこらへん聞いてもふみとどまるべきらしいので聖なる沈黙をするべき。
「論理の整合性」 (Unknown)
2016-10-22 16:15:01
【論理の整合性】が私の神だとコメントしたものです。『整合性』がポイントです。『整合性』のとれない言葉は信じられないという意味ですね。

あ~なんか絶対誤解されてますね!!。
「神」という言葉も、ただの比喩的表現ですね。
有る人が言説Aと言説Bを言ったが、両説は矛盾している、自己撞着を起こしている・・・よって「論理の整合性」が無い・・・

人は自分が言う言葉に「論理の整合性」を持たなければいけない、
と言う意味です。

『論理』を神としているという意味とは全然違うと思いますけど、なんか私って誤解されているのではないでしょうか??

南さんのいう事は何時も一致している、筋が通っている。だから論理の整合性がとれている。だから南さんのいう事は信じられる・・・という如くに使います。

もし南さんが(同一事項に対し)10分前イェスといい、今はノーといって、しかも自分が10分前と今とでは(しゃべっている間に突然)気持ちが変ったからと表明しなければ、南さんを信用出来なくなるわけです。当然だと思いますよ。

そゆことです。
Unknown (Unknown)
2016-10-22 16:51:44
言いたいことはわかるんですが実際自分みてもものすごい矛盾してるなといいつつ平気だったりします。
興味があるのはその矛盾があるのになぜ平然としていられるか。
これが生き物がコンピュータではない証のようにも見える。
アンビバレントな感情や欲求が共存し迷い葛藤するなんてことはいつもあります。
それなのに文章だけ整合性をもとめてもと感じますね。
実際のところ好き嫌いが動機なのは自認しつつも客観的にみてとか澄ました顔でいったりします。
人間ってほんとよくわからん生き物ですな。

Unknown (Unknown)
2016-10-22 17:18:13
>釈尊の仏教、龍樹菩薩の仏教、道元和尚の仏教、瑩山禅師の仏教、親鸞聖人の仏教・・・調べてみると異なっている。
(自分は)道元の仏教を選び取り、だからこそ、空海の仏教を捨てるのです・・・

なるほで、では他の仏教信者が選んでいる他の祖師でなくて、なぜ遺産は道元佛教を選び取ったのですか??

他の祖師は間違った事を教えていて、道元さんが唯一正しい事・正義を伝えているから、とか??

あるいは自分の感性には道元佛教がいちばんしっくり来るから??

共感から?正義感から?何となくそれがいいかな~って思ったから??・・・まあいずれにしろ自分の主観的感覚からって事なの??赤い糸で結ばれているのを感じたとか??
Unknown (Unknown)
2016-10-22 17:34:27
人間って本来多重人格が普通だと言われていますよね。自分で自分を矛盾してるな~と思うのが当然な訳です。

でも誰かと話している時、自分が矛盾しない様に言葉を気を付ける事は誰でもやっている事でしょう(表面繕ってもね!!)。さもなければ信用されなくなってしまうからです。

もし自分で気付かずに矛盾したことを言ってしまって、相手から「君の言葉は矛盾してるよ!!」と指摘されたら、「ええッ、そうですか、どこがですか?」と問いただす謙虚さがあれば許してもらえるというものです。
(まあ政治家だと徹底的に突っつかれますし、会社員が上司に「お前のいう事は矛盾している・・・しかもしょっちゅう」、と思れたら出世は諦めるしかありませんが・・・)。
Unknown (Unknown)
2016-10-22 19:01:06
かまってちゃん?
Unknown (Unknown)
2016-10-22 19:08:26
まあそうですよね、赤い糸。

いや私は胃酸ではありません。
でもやっぱり「それが気に入ったから」ですよね。
「役に立つから」とかもあるかもしれないですよね。

でも「真剣に宗教をやっている人」にそんなこと言ってもしょうがないようなものですよね。
Unknown (Unknown)
2016-10-22 19:11:12
もちろん、
胃酸だけに伝えたいというわけでもない
ということだってあるかもしれませんが
Unknown (Unknown)
2016-10-22 22:19:57
私は仏教が気に入ったから仏教の周りをうろうろしている。共感できる赤い糸を探す。

私は仏教に限らず、色々な分野で自分の生きるエネルギーとなる他者の考え方をも色々詮索して、それを「名言」として受けいれる。

その時、私は辻褄の合わない「言葉」に出くわした時には「迷言」として排除するだろう。
論理の整合性とはそういう意味でもある。

今日考える自分の論理と明日考える自分の論理は違うかもしれない。
「『自分』の壁」とは現在位置を示すもので、そこから「一歩」を踏み出せば、又新しい「自分の壁」が時々刻々形作られて行くからだ。それが諸行無常というものだ。

それが「日々只管打座」してサンスカーラを一旦初期化して、次に、新しく出現した諸事情を考慮して新しい自己を組み立て直していくという事だ。

え~と、それから。。。。???

Unknown (Unknown)
2016-10-22 22:42:28
>真剣に宗教を遣っている人・・・

とは、
釈尊の仏教を選び取った人、
龍樹菩薩の仏教を選び取った人、
道元和尚の仏教を選び取った人、
瑩山禅師の仏教を選び取った人、
親鸞聖人の仏教を選び取った人、
空海の仏教を選び取った人、

みなそれぞれ真剣な人たちで美しい。真剣さ・真摯な態度は常に人の胸を打つ。
どれが正しくどれが間違いだと他者を批判する事は出来ない。
出来る事はただ一つ、自分の信仰に自己矛盾がないか自省する事。
それが他者に迷惑を掛けている時、どちらを取るかきちんと考えて、論理の整合性を取る事。
相手の言う事に矛盾を感じたら慎ましく問う事(その時自分勝手の独断で相手を裁いてはいけない)。

え~と、それから。。。。???
Unknown (Unknown)
2016-10-22 22:55:54
キリスト教原理主義者についても一言。

彼らは真剣に悩む。
天地創造、処女降誕、復活、再臨・・・
それを作り話と笑い飛ばすべきか、根本原理として受け入れるのかを・・・

もはや全知全能の神に全てをゆだねるしかないと思う。真剣に「神」に賭ける、自分の人生の全てを!!

それがファンダメンタリストだ。
それを、原理主義を、間違っているという事は言えない!!
Unknown (Unknown)
2016-10-23 00:10:30
>かまってちゃん??

が、誰の事だかよく分からないけど、
私がここにコメを書く目的は二つ・・・

わざわざ南さんが自分の時間を使って此処に記事を書いて、読者の反応を見たいんだったら、自分の思う処を述べるのが礼儀だと思うから・・・。
出版本形式だと読者の反応・読者の考え方は解り難い「一方通行」になりがちだけど、此のブログでのコマ切れ記事は、読者の反応が分かり易いというものでしょう。無反応なら南さんもやる気が失せるというものでしょう。ブログは双方向の思考のやり取りに価値があるからです。

それともう一つ、此のサイトを紹介してくれた方が、日々直面している困難に対し、エールを送って、生きるエネルギーが得られる様な考え方を私なりに紹介したいからです。
だから「この世は肥溜めだ」とかの、人が意気消沈して落ち込む様なコメに対しては過剰反応して「いやこの世は満更でもないから希望を失なわんといてね!!」とエールを送りたい訳です。
大乗釈迦の「この世は美しく、人生は甘美だ」言を後押したいからです。
Unknown (Unknown)
2016-10-23 00:40:30
イエスちゃんが批判なさった、ひろさしや氏の『正法眼蔵』の中で

「衆生は如来を蔵している」 
↓(道元の読み方)
「衆生は如来に蔵されている」 


「衆生は仏性を有している」 
↓(道元の読み方)
「衆生は仏性の中に存在している」 

とありました。
道元の魅力にはまりつつあるのですが、受け入れてよいのでしょうか?
Unknown (Unknown)
2016-10-23 00:41:42
ひろさちや でした
Unknown (Unknown)
2016-10-23 02:59:33
>「衆生は如来に蔵されている」
>「衆生は仏性の中に存在している」

門外漢ではありますがこういう考え方は共感できますね。人の意識の目覚めによって「この世は美しく、人生は甘美だ」と思うようになる、という思考方式だと思うからです。
勝義諦の相依性縁起に通じていて、自分の思う善き思い・自分の行う善き行いは、相依性縁起(人間社会の環境)を善き方向に導くという好循環が始まる予感が出来るからです。

うん!!、「もしも人が本来ブッダならば、なぜわざわざ修行しなければならないのか」と言う問よりずっと良い・・・
Unknown (Unknown)
2016-10-23 03:20:50
エールを充分に受け取れておらず、申し訳ない部分もあり、、この繋がりに不思議さを感じながらも、胸が熱くなる思いで一杯です。。

いつも一生懸命に考え出してくれて、有り難うございます。
m(_ _)m


生きていてよかったです。。

Unknown (ZIP)
2016-10-23 06:32:37
生きる為にエールを送る
生きる為のエネルギー

生きることは苦であるが故に、それらを必要とするのである。

生きていて良かった。

励ましてくれる人
支えてくれる人に対しての気遣いの言葉
である。

生きることと、気遣われることを混同しないこと。

支えてくれる人、励ましてくれる人
肥溜で見つける宝である。
「悉有は仏性なり」…道元和尚は、もっと進んでいる!「すべての存在は、仏性・仏の本質そのものである。」 (イエスちゃん)
2016-10-23 11:04:29


「悉有は仏性なり」:

「…、悉有仏性」は、「涅槃経」の師子吼菩薩品に説く言葉、
その元々の意味は、
「(一切の衆生は)…、例外なく、みな、
仏になる<<可能性>>を持っている」

しかし、中国語をよく知っている道元和尚は、
漢文(道元和尚にとっては)原文はそのままで、中国語の文法を破壊して読む。

「悉有は、仏性そのものだ」…
「すべての存在は、
「仏の性質・本質・ブッダ」そのものである。」と。

これが「答」である。
この「答」が解った者は、すでに救われている。

「信じるものは救われる」と、キリスト教はいう。
追加:だから、ひろさちや氏は解っていない。「正師」の重要性 (イエスちゃん)
2016-10-23 11:24:50
道元和尚は「正師」ということを、強調なさる。
それは、中国に留学に行って、
当時の臨済禅宗を、強烈に批判することになる。
「中国にはもう人物はいない、無駄である」と、日本に帰るところだった。

『↓(道元の読み方)
「衆生は<<仏性の中に>>存在している」 』

まるで、これでは、

「仏性」という優しい母の胎内に「自分」が保護されている

という理解である。

「仏性」と「自分」とは、別物である。
二元的思考であり、分離している。

道元和尚は、違う。

「この貴方こそ、仏性そのものである!」

と、単刀直入に、ずばりと、教える。

これの違いが解りますか?
無理かも知れないが…しかたがない。
Unknown (Unknown)
2016-10-23 11:34:10
・・・・と、単刀直入に、ずばりと、教える。

これの違いが解りますか?
無理かも知れないが…しかたがない。・・・・


私は我の強い偏狭な人なんで、こういうの読むと
「なんだこいつ。自分はわかって言ってるつもりなのか?だったらなんでいつまでもウロウロしてんだ?説得力なし。」
って思いますね。不完全性はどこいったんだっていう。
お詫び。その通りです。言いすぎでした。 (イエスちゃん)
2016-10-23 11:45:33
Unknownさん、皆さん
お詫びです。
まったくご指摘の通りです。言いすぎでした。
Unknown (Unknown)
2016-10-23 13:52:30

何を言いすぎたんですか?
遺産への質問 (Unknown)
2016-10-23 14:35:41
遺産言語録;
①.10-23,11:04:29「【信】じるものは救われる、とキリスト教は言う」。
②.10-22,08:16:29「これが事実だから、これを【信】じる必要はありません。事実なのだから当然です」
ーーーーーーーー

そうするとですよ、ハテナハテナ!!
遺産は、

旧約聖書の中での天地創造+奇跡的数々の出来事と、
新約聖書でのキリストの超自然的出来事(処女生誕・奇跡の数々・肉体的復活・肉体的再臨)は、

全て妄想的作り話だから自分(=遺産)は【信】じない(と表明した!!)。
ーーーーーー

その一方で遺産は、伝道活動を行った人間キリストの4年間の【史実】のみを知りたい・・自分が救われる為に。
なぜならそこに100%の神が現われている筈だから・・・とも言う。

でも遺産の知りたがっている人間キリストの【史実】って、上記②によると、これは(史実という)「事実」なんだから【信じ】なくていいわけだよね。当然の事なんだからね・・。

「結論!!」
そうすると遺産としては旧新約聖書全体の何処にも【信じ】るという行為は自分には発生しないって言ってるのと同じ事だよね。

という事は、遺産は「【信】じる者は救われる①」けど、「自分には信じるモノがない②」から救われないと言ってるの??

【信】じて救われたいが【信】じない自分はキリスト教では救われない、って事??

それでも人間キリストの史実を追いかけたいって、どゆこと????????

Unknown (Unknown)
2016-10-23 15:22:21
遺産は、自己矛盾な思考に陥っているのかもしれないね。

Unknown (Unknown)
2016-10-23 21:08:20
ああ。
「本来の私」は仏陀や道元やイエスと同様に優れたものである、と。
だから、その「本来」の側からもの申すのね。
「本来そう」なんだから、もう「そうみたいなもの」「『みなし』それ」っていう。
Unknown (Unknown)
2016-10-23 21:09:17
もうそう
なのね
Unknown (Unknown)
2016-10-23 21:12:49
ほんと、言葉って不便だわ
Unknown (Unknown)
2016-10-23 21:28:58
はてな氏のコメントがないのが気になる
(実は南さんに手紙を送ったのがはてなさんだったりして)
訂正 (Unknown)
2016-10-24 01:27:59
ハテナハテナ!!・・・>ハテナハテナ??

悪しからず、ご免下さい、はてなちゃん!!
(一句でけたァ~、やったぜベービー!!)
忘れちゃったけど、お得意の「無明とは言語への誤解」とかなんとか(なんだっけ)?? (Unknown)
2016-10-24 01:42:52
舌足らず
御免下さい
イエスちゃん

(あしからず、ごめんなちゃいね!!)
Unknown (Unknown)
2016-10-24 01:53:29
ハハハ!!

もう「そう~~」って「妄想」って事かァ~~。

イさん、座布団三枚あげて下さい!!
仏教の【信】、キリスト教の【信】 (Unknown)
2016-10-24 02:19:52
南派仏教に於いては「共感&合意」を指す。
史実・真実・虚舌・虚構、そして「作り話!!」、「誤解です、迷言です!!」等々は一切無関係ナリ。
ただただ【共感】がキーワード・・・。

キリスト教では、超自然の俺(=神)を【信】じよ、との命令である。「信じる者のみ、救ってやるぞ!!」というご宣託である。
『超自然的な俺の息子のイエスキリストを【信】じよと言っているのだ・・・、
わからんのか、今此処に息している「イエスちゃん」よォ~!!』
Unknown (Unknown)
2016-10-24 02:49:09
そ~か~。
南派仏教は「共感」がキーワードかァ~。

じゃあ「論理(=言葉)の【整合性】」を大切にする故に南ちゃんに「共感」する僕ちゃんも『立派に南派仏教者』って事でいいんだよね。仏教に縁ある者なんだよね!!
そうだよね「イエスちゃん」??
Unknown (Unknown)
2016-10-24 03:04:48
だからね、
「共感・合意」って、誰かが発した「言葉」への「反応」って事だからね。

「佛教」は「言葉を超えた無言語世界での了解」を指す、と言われてもだよ・・

どうやってそれに「共感」を示せるのか???

そこで遺産バッサリと言う!!
「小学生級の汝らにはわからん事だよ(=大学生の俺のみ分かる!!)、
しかたないのう無明のヤカラ達!!」

なんとも明快な「論理の整合性」が成立してますな。
お見事、一挙に座布団10枚!!!
Unknown (Unknown)
2016-10-24 03:47:02
まあなんだよね!!

神羅万象;
空を見て、太陽を見て、海の荒波を見て、人の涙を見て、人の笑みを見て・・・、
無性に「共感」や「合意」を感じるという事はあるけどね・・・、

でも、仏教というシロモノは「言葉」を経由して発祥してるからね、

いったいその言葉の先にある「無言語」で概念されている(想定されている)仏教世界というものがあって、

そこに「共感・合意」なるものが発生するものなのか????
ーーーーー

あ~、そ~か、そこで仏教上は「空」だと言えばいい訳か、すべては「空」だといえばいい訳か、「ブッダは空だ、仏性は空だ、無我も空だ」と言えばいい訳か・・・

汝の本性は「空」である、よって汝の本性は「ブッダ」である。なんとなれば【ブッダ】は【空】だからである・・・

「悪人も空だから、よって悪人もブッダである、だから小学生もブッダである!!だからこの世の神羅万象全てはブッダである!!」

これで大学入試パスしたのかな??
Unknown (Unknown)
2016-10-24 03:58:52
「空」という仏教用語は全ての思考を一挙に無効化する劇薬性があるけどね!!!

自分が正しく使っているのかさえも分からないけど、
ひじょ~~に便利な言葉ではあるよね。
なぜなら、言語世界と無言語世界を橋渡ししてるからね・・・。
Unknown (Unknown)
2016-10-24 04:52:55
おねが~い!!南ちゃ~ん!!
次の記事で「空」とは何か小学生級の頭の私でも理解出来る様に教えてェ・・・

「色」は「概念」で、「空」が「実体」であるとかいう曹洞宗僧侶もいる位だから、

「空」は絶対、実存しているモノなんだよね??ただあまりに小さいとかあまりに大きすぎて人の目には見えないとかね。

或いはメクラの人が実体のある実存している、目の前の象に手を触れても象がどんなものか解らない、とかなるのかな??

でも現代3D技術で小型モデルの象像に触れさせて、それと対比させれば象がいかなるものか、そのめくらの人も分かったんじゃないの??
そんな形で実存する「空」を人に分からせられないのかな~??

まさかまさか、「空」は昔の僧侶が「飯の種」に考え付いた「作り話」なんかではないよね??
「空」の史実はどこにあるの??

小学生頭の私にも分かる様に、説明よろしくね、南ちゃ~ん!!
Unknown (Unknown)
2016-10-24 06:23:24
武村牧夫「悟りと空」ーインド仏教の展開
中村元「大乗仏典V.完成期の大乗仏典」

ニルヴァーナという特別の境地が実在すると考えるのは、凡夫の迷妄である。緊縛と解脱とがあると思う時には束縛があり、

緊縛も無く解脱もなしと観ずるところに解脱がある。

私たちは迷いの生活の内にあり、悩みがあり、
理想の世界ニルヴァーナは彼方の境地にあると対立させて考えるものであるが、中観派によると、そのような対立は有り得ないと言うのである。

従って此処から、私たちの生きている領域、悩み苦しんでいる生活の中にこそ理想を見出すべきである。

現実の世界を捨てて、遠い所、例えば山の中に籠って、行います処に理想の生活が在ると思ってはいけない。

ここに、今、理想を見出すべきであろう、という【現実肯定的】な実践論が出て来るのです、

・・・だそうな・・・

結論
「空」は今此処に実在している!!!

「釈迦」にはおよそ「想い」というものが無かった!!
(=「空だ空だ」とガタガタ言うな!!「誤解だ、迷言だ」とガタガタ言うな!!)
南ちゃんの日課 (Unknown)
2016-10-24 07:32:13
さあ、これから坐禅をすっぺ

ぼろ屋ぶっ潰して更地化じゃ

寝ている間に新居完成

やる気まんまん、人生充実!!

これぞワチキの理想の世界!!

雑音不要、手紙も不要、

一人静かに坐禅くむ

今日一日かくて去り

明日朝輝く日が昇る!!!

Unknown (Unknown)
2016-10-24 08:39:34
絶対=決してとか強調する絶対もあれば
2元の対(つい)を絶った=という意味合いもあるらしい。
対義語で片方が欠落した形で表現されるっぽいんだけど。
言語にしてしまってる以上2分法1か0か、白黒はっきりついてるんですけどね。
コンピュータで表示できることがなによりの証明。
例えば一如とか不二など無限曖昧化したとしても「一如ではない」と簡単に分裂する。
そこらへんが私にとっては消化不良でなんともなーって感じです。
絶対的真理だとかいうのはナンセンスな気がする。
真理とはそもそも2元を越えているとされるので同語反復なんですよね。
みなさんどう考えますか?
「色即是空・空即是色」新解釈 (Unknown)
2016-10-24 12:50:51
「色」は概念(=事象・現象)であり、その「色」の実体が「空」である。
「空」が「色」の本質・本性を指しているからだ。
処で「実体」が既視化したのものを「実存」と言う。

ではここで「色」=「空」と、
「空」=「色」が同一的・同時に成り立つ状態とはどういうものか???

毎日息をしている肉体を持った、絶対矛盾的自己同一性なる南さんは「色」である。概念であり単なる現象に過ぎない(済みません、あしからず・・・)。

しかし「色」は実は「空」なのだから、そして「空」は実体なのだから、

今此処にいる南さんは同時に「空」と言う「実体」でもあるわけだ。

その「実体」である南さんが顕在化した姿を「実存」と呼ぶのだから、

他者が見る、今此処に生きている南さんは「実存」している存在なのである。

要するに、ある形状を持って此処に実存している南さんと言うシロモノは「色」であり又同時に「空」でもあるという事だ。
彼は、現象、すなわち実存(=実体)そのもの、両者不可分・不分離の関係に成り立っている「いちぶつ」だ!!
(おめでとうございます。あしからず、ごめん下さい!!!)
Unknown (Unknown)
2016-10-24 13:11:42
>絶対=決して

「絶対的真理」は「実体」が無いのかも??
ただの空想かも・・・、ただの架空の「作り話」かも・・・、史実でないかも???

実体(本質)が顕在化(既視化)したものを実存とよぶのだから、
「絶対的真理」というシロモノが実存して来て見れる様になるなんて事は有り得ない(と思う)。

「真理」とは人が共感・合意した言葉を指す訳で、言語外の何かを指して「絶対的真理」という事はできない(と思う)。


Unknown (Unknown)
2016-10-24 14:48:27
>真理とはそもそも二元をこえている??

何かよく分かりません。もう少し説明して下さい
それと貴方がどういう事態にたいして、消化不良って言うのかも敷衍してください。AとかBとか記号で例示して頂けるとありがたいですが・・・。
Unknown (Unknown)
2016-10-24 15:39:01
真理とはそもそも二元をこえている
言葉にならないものを無理やり真理という言葉にして指し示しているのかなと思ったりするわけです。
あるのかないのか有無の分別(2元)をこえたなにものかを真理と私は考えてます。
共感合意を真理とすると上の方がコメントされてますが私のいう真理は言語化不能ななにものかを指すのではないかと考えてるのですが。

その無理やり感がどうしても納得できず消化不良おこしてます。

たとえば生命。
人工知能はつくれても人工生命は単細胞さえつくれない。
人間の考え出した理屈は人間をつくれない。
犬は自分の体のことを何も知らない。
その犬を作るには人間以上の知性を必要とする。

生命を司るコアの部分が真理なのかなっと勝手に想像してるんですけど違うのかな。


Unknown (Unknown)
2016-10-24 15:56:56
えーとわからない正体不明なものを処理しきれず神という概念で代替処理してる感にも納得がいきませんです。
Unknown (Unknown)
2016-10-24 17:40:21
遺産曰く@10-22,15:05:58、「【論理の整合性】を問う人には仏教は縁はない」・・・
何故なら次の①、②は論理的に成り立たないから・・・(と遺産は主張する)。

でも私は①、②は充分論理的言語として成り立っていると思って居る。いかがか???

①.「もしも人が本来ブッダならば、なぜわざわざ修行しなければならないのか?」

同類の質問としては「悟りを開き、解脱した筈の釈迦が何故その後も【瞑想】修行を続けたのか??」がある。

大乗での答えは(意訳);
今日の修行(=瞑想)で「自分の壁(=現在位置)」を初期化しても、一歩歩めば(=明日には)新たな「自分の壁」が現れるから、常に明日は明日のサンスカーラを初期化する必要がある。五蘊は日々新しいサンスカーラを虚構するのだ。
だから、一旦悟ったらそれでもう終わりなのではない。日々瞑想修行(=訓練)を継続しないと、使われない神経回路は消滅するものである・・・が大乗の答え方である。

これが道元師の質問への答えにもなっていて、生きている限り日ごとのサンスカーラをクリーン(初期化)にする必要があるのだよ、ブッダであろうとなかろうと・・・が正解で、十分正当な「論理」乃至「論理の整合性」が存在している。


②。10-21;12:09:04
「われ、如来を信じるが故に如来、在しますなり・・・・」(=阿弥陀仏は、自分の中にある)、の論理性は、
10-20,16:07:21での遺産自身の答え、
「幽霊を見たら、それは実は枯尾花」だったが・・・しかし本人には、幽霊は実在している。
(注;なぜなら脳がそうサンスカーラしているからだ)で充分論理が成り立っている。論理の整合性もOKだ!!

つまり①、②には論理が成立しないと遺産が言うのは、遺産の誤解では無いのかと私は思って居る。

処で、「論理の整合性を問うと仏教は成り立たなくなる」って遺産は本当に思って居るのですか??
つまり仏教には【論理】(=自分が言ってる言葉)の中に【整合性】が無いって言いたいのですか??
(注;論理の整合性が無い人は現代社会では一人前の成熟した知性ある大人として受け入れて貰えない、と思いますけどね、どうなんでしょうか??)。
Unknown (Unknown)
2016-10-24 19:30:28
>正体不明なモノを神とするのは納得いかない・・・

「神」が実在していると【信じる】人にとっては、それは全知全能だとか、正体不明な技を行う、という考えを受容することに成るのだから、
それが納得できない人は信じなければいいだけの話なのではないでしょうか。

しかし貴君が「真理」とかいう、言語を超えた究極の実存というものが有ると信じているとしたら、それは「神」を信じているのと同じ事なのではないでしょうか。

「真理」とは?とネット検索すると実に様々な説明が出てきますが、ウィキペヂアがいやらしく詳細に色々「真理観」の歴史を書ていますね。一読なさったら如何でしょうか。
ウィキでは、「真理」とは確実な根拠によって、本当であると認められた事、露わさ・明らかさ・隠れなさが前提。その本質が覆われていない、論証できる、つまり言語による表現で有る事が真理には不可欠である・・・みたいに解説されてますね。
ーーーーーーー

その昔、プラトンは「真理とはそれ自体が絶対的で、究極的な存在であること」と考えたが、

近代哲学におけるニーチェは、真理とは人間によって都合の良いように解釈されたものであり、人間の解釈が創り出したもの、つまり主観的な解釈の産物であり、脳内戯論だという受け取り方のようです(つまり真理とは信仰と同じ類で、人間の数だけ多様な形をとりうる)。
ーーーーーー
ニコニコ大百科での説明は、
真理とは人間の【考え方】の一つであり、以下のような特性を持つ。
①.どんなに時間が経過しても変わらない【物事の考え方】。
②.どんな人間にとっても絶対に定義の変わらない【物事の考え方】。
③.どんな場所・空間・次元によっても変わらない【物事の考え方】・・・
としています。真理とは或る【考え方】ということであり、真理自体が実存するものではない・・・・>よってその【考え方】が言葉化されなければ真理というモノ(=概念)が発生して来ない、と言う事だと思います。
ーーーーーー

なお、人には一つの生きた細胞さえ作れない・・・・は現在ではと言う事で、ずう~~~ッと先の未来に於いて、人は細胞を化学合成出来るようになるのかもしれませんよね。
なぜなら生命とは何かの科学的解明がもっともっと進むんだろうと思いますし・・・出来ないという実証は立てられないですし、まあ一万年の単位で考えたら可能なのかも???もし人間社会がそれまで続いていたらですが・・・。
Unknown (Unknown)
2016-10-24 19:35:01
んーー

生命というのは、論理的整合性の産物なんでしょうか?

ちなみに、私は胃酸ではありません。
再読しました。「絶対とは!!」 (Unknown)
2016-10-24 19:57:25
>絶対とは、

対を絶つ・・・>0000.....か1111.....のどちらかのonly oneの状態。
対立概念だと思って居たのだが実は全く同一物だった。
1は絶対1であり、決して2ではない。

だから「一如」といっても簡単に分裂するという意味が逆に今の私にはわからないんですが???
Unknown (Unknown)
2016-10-24 20:21:16
「論理的整合性」という言葉は、「因果」という意味にもなる気がしてきました。「果」が発生する為には必ず「因」があって、それが様々な「縁」によって生起する。皆関連していて整合性を保っている(多分??)。

そういう見地からいうと、「生命」は論理的整合性を保っている。

進化論にしても論理的整合性を保って成り立っている。

神が人を作ったとしても神の脳は論理的整合性を保っていたと考える方が迷いが無い。

論理的整合性が無いという意味は、
1=1であるけど同時に1=2も存在しているという論法を指すのかも???

論理的整合性が無いとは、自己矛盾しているとか自己撞着をおこしているとか、自己崩壊があるとかという表現に類似している・・・

コンピューターのプログラムのフローチャートで言えば、途中で論理の断絶・矛盾にぶち当たって、フローがエンドまで行かずにそこでエラーとしてストップしてしまう状態をさす(=【終了】に辿り着けない状態)。

そんなところでしょうか・・・
Unknown (Unknown)
2016-10-24 20:41:16
コンピュータとは記憶や思考の外部化だと考えてます。
記憶をもとに思考という秩序、順番で処理されることを電算機に代替したのではないでしょうか。
つまり1か0かの2分法で表示できるということは2元の世界といっていい。
言語はすべて2元の世界だと考えました。
たとえばグレーを表示するとします。
白と黒の画素で拡散してみると遠めでグレーにみえます。
階調表現なども結局は1か0になります。
だから言語であるのでいくら絶対絶対といおうが決して真の意味での絶対(対を絶つ)はあらわせないのではないでしょうか。
そういう意味でいくら一如と曖昧化しても分離、分裂してしまう。
表裏一体なども同じでしょう。

2分法と二元論とは違うのかもしれませんが今回は同じとみなしました。

Unknown (Unknown)
2016-10-24 20:58:49
>人には一つの生きた細胞さえ作れない・・・・は現在ではと言う事で、ずう~~~ッと先の未来に於いて、人は細胞を化学合成出来るようになるのかもしれませんよね。

いあほんとにおっしゃるとおりです。
わたしもそれが思考レベルで生命システムを実現できるとすればそれはすごい。
逆にそうなったら絶対の世界がなくても生命を説明できることになりますね。

禅ではコンピュータにあたる部分を排除します。
記憶、思考、概念観念全部いらない。
すべて忘れろと道元さんはいってます。
2元にはかまうなといっているかのようにみえますがどうでしょう。
なにを自覚させようとしているのかそれがきになります。

言葉は正確に (御坊哲)
2016-10-24 21:00:14
厳密な議論をする場合は、言葉を自分勝手なニュアンスで使用していては話がかみ合いません。
例えば、「『色』の『実体』が『空』である。」というような表現は、おそらくその人の実感を表しているのでしょうが、「色即是空、空即是色」の解釈としては少し余計な気がします。

「絶対」とは、他に比較するものや対立するものがないこと、 他の何ものにも制約・制限されないことです。つまり、他者に依存せず独立に存在するものです。
また、「実体」とはそのものの本当の姿、実質、正体ということですが、不変の本質というニュアンスがあります。

大乗仏教は何事も関係性の中に生じるという思想ですから、不変の本質というものを認めません。「絶対」や「実体」という概念とは相いれないのです。
Unknown (Unknown)
2016-10-24 21:01:03
論理的整合性ってどんなものか、実のところ私にはよく分からないんだけど

・・・・「私が、阿弥陀如来を、信じているからこそ、
 阿弥陀如来が、存在している」
これが真であると仮定しよう。
対偶をとる。
「阿弥陀如来が存在していないので私は阿弥陀如来を信じていない」・・・・

こういうのが論理的整合性のあるなしの調べ方だとしたら
因果とは違う気がする。
因果って、果の後に因が出てくるってことはないんでしょ?
Unknown (Unknown)
2016-10-24 21:03:25
今のコンピューターはほぼすべてデジタルで二進法で処理しますが、初期のコンピューターは全てアナログで、グラデーションで処理していたと思います。

グラデーションの世界では、1から10の間は、整数ばかりでなく、無限にある少数の存在を認めた世界です。丁度波の波形(オッシログラフ)を利用する形式、ラジオのボリュームを抵抗(レジスター)でゼロからmaxまで増減して好みの音量に調節するが如きのものです。

ですから一如が結局「0か1」に二分するとかいう思考はアナログ世界では成り立たないと思います。

貴君の云いたい趣旨に正しく対応しているのかどうかわかりませんがとりあえず返コメとします。再コメは必要に応じて入れるかもしれませんが・・・
Unknown (Unknown)
2016-10-24 21:05:07
0000.....か1111.....のどちらかのonly oneの状態

言語化してる時点で2元ですので
「0000ではない」と「0000である」
で分裂しませんかね
Unknown (Unknown)
2016-10-24 21:11:22
波はブロック状に切り分けますので1か0ですが。量子化符号化などは典型例ですけどね。
Unknown (Unknown)
2016-10-24 21:17:47
因みに「色」は概念で、その「色」の本質・本性である「実体」は「空」だ、と言ったのは曹洞宗西光寺和尚の(門徒との)質疑応答から引用しました。

「空」を実体だというからには、その顕在化・既視化したものを実存というわけで、南さんの好みのテーマだとおもってコメにしてみました。

どなたかが新解釈が間違っているという実証をしていただけるとありがたいです。

皆様のコメも再読して改めて考えて見ます。
Unknown (Unknown)
2016-10-24 21:27:22
>こういうのが論理的整合性のあるなしの調べ方だとしたら
因果とは違う気がする。

なるほど。原因と結果になっているため対偶はとれないということですか。

「AならばB」を「AであるからB」に取り違えたのでおかしいことになったとおっしゃりたいのですね。
誤解してました。ありがとうございます。
ところでその文の正しい解釈って結局どうなったんでしょう。

Unknown (Unknown)
2016-10-24 21:30:29
「0000....である」と「0000....でない」の二分化に成るのかならないのか??

「オン」か「オフ」の二元化のデジタルシステムで、永久に「オフ」のままに固定したのが「0000...」なのだから、「0000...でない」と言う状態は実存していない・・・ように私には思えますがどうなんでしょう。わたしはそれで消化不良がおきないので、なぜ貴君が消化不良と思うのか理解できていません。済みません。
Unknown (Unknown)
2016-10-24 21:35:37
どの文?
阿弥陀仏?
論理的整合性がだめなら因果でやってみる?
Unknown (Unknown)
2016-10-24 21:46:56
不変でないと断定できるのはどうしてなのでしょうか。
以前の南さんの記事にもありましたが不変かそうでないか「同じ」「差異化」となりませんかね。
判断する主体が不変でなければ同じかそうでないかさえいえません。
動く電車の中で外のものが不動かどうかわからないように。
なにかしらの不動の視点が必要になると考えます。

無常の無とは2元の有無の無ではないということではないですか。
老荘思想の絶対無的無と解釈したのですが違うのでしょうか。

>阿弥陀仏?
ですです。きになってしょうがない。

>永久に「オフ」のままに固定したのが
そういう条件付けを新たに付与しても・・
ん~絶対とかみなさん気にならんのですかね。実相やらなんやら気になってしょうがないのですが。
のど元まできて寸止めされてる感じでもどかしいのです。
Unknown (Unknown)
2016-10-24 21:56:39
条件つきでの絶対は絶対ではない。

大乗仏教においては固定的な概念は避けるべきです。 (御坊哲)
2016-10-24 22:18:47
色即是空もまた空であります。空を実体化することはできません。
「『色』の『実体』が『空』である。」という言い方は、「無常」の概念を「盛者必衰の理」と云うようなものです。(平家物語における「無常」は仏教的無常ではありません。)
大乗仏教には予定調和的表現や固定的表現はなじみません。
ハンドルネーム (御坊哲)
2016-10-24 22:24:23
コメントにハンドルネームを入れるようにしたらどうでしょうか。unknownが多すぎて、誰が何を言っているのかわかりづらいです。

コメントを入れる相手の方がUnknownですとなんだか透明人間を相手にしているようですっきりしないような気がするのですが。
Unknown (透明人間)
2016-10-24 22:36:00
じゃ透明人間でいいです。
今後ともよろしくです。
固定的概念はさけるべきというなら阿弥陀如来ってなんですか?
固定化してませんか?
大乗ですけど・・・
あのからかってるわけではないですよ。
礼拝の対象として如来を想定してる以上固定的云々は説得力ないですね。
Unknown (Unknown)
2016-10-24 23:03:01
>「実体」には【不変】の本質というニュアンスがある(by御坊哲さん@10-24,21:00:14)

これは遺産も曰くの「実体とは永遠普遍の【不変的】なモノ、よって無常と対立する・・・人間は無常に変化するから実体で無くて現象だ」と言う定義の仕方と共通している部分であります。

しかし私の考える「実体とは何か?」は南さんの前回の記事「同一性と差異性」でのコメ(10-14,17:25:12)に詳しく書きましたので参照して頂けるとありがたいですが・・・、

問題はひとえに「実体」とは【不変】であらねばいけないかどうかの議論にかかってしまう訳ですが・・・、

「実体」の定義は「多様に変化していくものの根底にある持続的・自己同一的なモノ」「本質・本性」の事となっている様です。

では持続的とはどういう事か??
南さんは日々変化し続けるから彼の肉体・思考は【不変】ではない、
しかし「南直哉」という名を持った一人の人間(=ID)としては「持続的に、自己同一性」をもって昨日今日と存在している・・・死んだ後でさえも(ごめんなすって!!・・)。

そう、「南直哉」という人物像は永遠に滅失する事はない。

ならば・・・「南直哉という名の人」としては「実体」があるという定義にもあてはまる筈!!。即ち南直哉は現象でありかつ実体だ。だから色即是空・空即是色だと言える・・・とまあこんな屁理屈ですね。

ちなみに「実体の無い」会社とは、中身が実存し無い、名義だけの幽霊会社をさすが、南さんは幽霊では無い。ちゃんと中身をもった実体がある動物だ(再度ごめんなさい!!)。

そんな意図からの新説発表を試みたということです。
Unknown (透明人間)
2016-10-24 23:07:53
反論するだけしてご自身の無常がなにかを書かない。
これでは宙ぶらりんなままです。
それなら一切言及しないでほしいです。
どうぞご自身の見解があれば無常の定義からおっしゃってください。
定義できないことが無常の定義なのですか?

不変の件もあわせてどうぞお願いします。

透明人間さんへ (御坊哲)
2016-10-24 23:10:42
「空」や「無常」を表現する場合には、固定的表現や予定調和的表現をすべきではないというつもりでした。

一切皆空というからにはもちろん阿弥陀如来も空です。阿弥陀様も視点によっては見え方が違います。阿弥陀信仰のない人間にとってはただの記号に過ぎません。
Unknown (透明人間)
2016-10-24 23:13:39
御坊哲さん
えっとその空ってのがわからんのです。
実相 現象となぜ分けるのか。
あたかも空の解釈に2つあるように見えます。
その実相部分が知りたいのですがどうも説明不可ということで悶絶しておるわけでございます。
Unknown (Unknown)
2016-10-24 23:16:37
これって言ってしまうと実体視したり概念化は不可避だからこの先絶対いわんもんねと寸止めしてる感がします。
だから余計悶絶するのであります。
透明人間さんへ (御坊哲)
2016-10-24 23:27:14
私のコメントの書き方が気に障ったとしたら申し訳ありません。哲学における議論では直哉に意見をいうので、つい相手の方の感情を考えずに自分の言いたいことだけを言ってしまいました。お許しください。

空や無常については自分のブログで常に意見を開陳しています。ハンドルネームをクリックしていただければ参照していただけますが、無常と空については次のような記事があります。

「仏教的無常観」
http://blog.goo.ne.jp/gorian21/e/96838fc8204db9c00fd1853157a22739

「色即是空」
http://blog.goo.ne.jp/gorian21/e/4de12669e69c2b9f918d1c78a2e0e355

「仏教的無常観」
御坊哲さんへ (透明人間)
2016-10-24 23:33:17
こちらこそ申し訳ございません。
不適切な表現を私のほうがしてしまいました。
以降気をつけます。

ご紹介いただきましたブログ拝見してみます。
Unknown (Unknown)
2016-10-24 23:58:02
宮崎哲弥は高村薫の「太陽を曳く馬」について、

『よくぞ、あそこまで「言語道断」の領域に言葉で肉薄できたものだと敬意すら覚える』

と述べていました。

言葉にできる限界が「太陽を曳く馬」にあるようです・・・
Unknown (Unknown)
2016-10-25 01:33:04
「論理の整合性」って平ったく言えば、或る人が言っている言葉には矛盾が無い、という意味に成ると思います。

>(論理の整合性は)因果とは違う気がする。因果の対偶を取ると、果の後に因が出て来る・・・(のはおかしい??)
(注;実はおかしくない!!)

「因果」の対偶関係とは
①.「果B」が発生する【=有る】のは、「因A」が【有る】からだ(=結果Bには原因Aがある)。
例;良い成績をとれたのは、しっかり勉強したからだ。

②。(その対偶は・・・)
「因A」が【無い】なら、果Bは起き【無い】(=しっかり勉強し【無】かったので、良い成績がとれ【無】かった)

③、互いに対偶関係にある論理は整合性がある。正しい。

④、そこで「阿弥陀仏を信じているから、阿弥陀仏が在する」の対偶は
「阿弥陀仏が在しないから、阿弥陀仏を信じていない」で、それは当然論理の整合性が有る。別に【まずく】はない。

⑤、「阿弥陀仏を信じるから、阿弥陀仏が在する」は個人的な脳内知覚現象(思い込み現象)として論理性がなりたつ。なにも【まずく】無い。幽霊を信じている人には幽霊は脳内で実存しているというのと同じ論理であり論理の整合性がなりたっている。阿弥陀仏は私の中に生きている!!

⑥、【まずい】のが「阿弥陀仏が実在すると知っている(=信じている)のに阿弥陀仏を信じない」という論理だろう。この場合は「論理の整合性」に欠ける。一方で居るって受容しているのに、他方でその存在を信じない(=拒否する)と言う自己撞着をおこすからだ。

⑦.遺産が対比的に言うような「阿弥陀仏が存在しているが故に阿弥陀仏を信じる」という文章は対偶を構成している訳でない。

⑧.「阿弥陀仏が実存しているのを見る故に、阿弥陀仏を信じる」というのは阿弥陀仏は史実だといっている訳で、遺産流に言えば、【信】じる(という行為をする)必要はない。事実なんだから当然です…となる。「はいそうです」といって素直に受け入れるだけでよい。

⑨.両者(⑤&⑧)は全然異なるシチュエーチョンを設定している。⑤は脳内現象的映像、⑧は史実的実像を意味する)。
Unknown (Unknown)
2016-10-25 02:32:13
1.胃酸のはなしは、まあいいや
2.因果と論理的整合性がわからない
  努力したから結果が良かった
  努力しなかったから結果が良くなかった
  これでも「真」なの?
  努力と結果の整合性なんかそもそもなくない?
Unknown (Unknown)
2016-10-25 03:04:47
あ、論理的整合性って
例えば胃酸の話が途中で変わってないかとか、そういうこと?
努力したから結果が良かった
といっていたものが途中から
たいして努力もしなかったけどちょろいもんだったよ
みたいになってないかっていう、そういうこと?
Unknown (Unknown)
2016-10-25 03:06:32
じゃあ阿弥陀仏の話はなんなんだ?
阿弥陀仏やイエスと胃酸の関係?



それは、正直どうでもいい
Unknown (Unknown)
2016-10-25 03:13:32
頑張ったから銀メダルだった
頑張ったけど銀メダルだった

努力と結果の整合性はどうなるの?
Unknown (Unknown)
2016-10-25 03:35:13
いや、やっぱりわからんな。
「命題が成立」して「対偶も成立」したら論理的整合性がある、それだけ?
Unknown (Unknown)
2016-10-25 05:44:13
皆さんもなかなかやりますね。感謝いたします。
実は「対偶」という言葉を最初に持ち出したのは私ではありません。
私はその言葉を利用させてもらったに過ぎません。

でネットで調べ直しましたが、

命題「AであればBである」=「A・・・>B」が正しい時は、

①.対偶であるところの、
「BでなければAでない」=「notB・・・> notA」は常に正しい。

しかし命題の「逆」や「裏」は常に正しいとは限らない、というのが論理学のようです。

②.「逆」とは「BならばA]と言う言い方に変える事、つまり「B・・・>A]と命題を変化させる事。
命題「AならばB]が正しい命題であっても、その「逆」の「BならばA]は必ずしも正しいとは限らないと言っている訳です。

③.「裏」というのは「AでなければBでない」=「notA ・・・>notB」と言う事で、これもいくら最初の命題「AならばB」が正しくても、
だからといってその「裏」の命題が常に正しいという事にはならない、という意味です。

ここで仏教で問題になるのは、
「色即是空」と言う命題が正しい時には「不空即不是色」という命題ならば対偶関係だから常に正しい。

しかし「空即是色」は「逆」命題だから必ずしも正しいとは言えない・・・という論理学上のジレンマがある。

で私が「逆も又眞なり!!」を成立させる条件はどのようなモノか考える時、
曹洞宗西光寺和尚の説話
「色」が概念(=現象)でその「色」の本質、即ち実体が「空」なのです、と言う説明を利用させてもらって、

南さんは「色」という「現象」でもあり、しかも同時に「空」という「実体」なのだ、としたわけです。

仏教世界には「実体」というものは存在しないというのが通説らしい様なので、
曹洞宗西光寺和尚の「異見」が皆様からどのように受け取られるのか評価を聞きたかった、ということです。

それによって「空」とはなにか。実体か、現象か、まさか「無」だとはいわんだろ~とか!!自性・無自性と「実体・現象」との関係性はどうなっているのか、いろいろ考える手がかりを得たいと思った次第です。

今回の私自身の認識の変化は、
南さんという肉体が分解した時をもって「空」の世界に旅立つみたいに思っていたけど、そうでは無くて、今そのままの肉体を持って、此処に息をして存在(実在??)している南さんさんの、この今という瞬間も「空」として此処に存在(実在)しているんだな~と(フウ~~とため息で)、「空」をいやに身近に感じるようになったという事です。これが「空即是色」としての南さんの実存、すなわち実体としての両方の性質があるんだとかね・・・ちょうど「光」には粒子性と波動性の両方の性質を兼ね備えているように・・・ね。

そゆことです。

追加 (Unknown)
2016-10-25 07:08:19
まあ南さんも、
ちまたの仏教界ではこういう見解だが、私の見解は違います、とか言いだすのは常々だから、私がこういう新説を唱えてもバチは当たるまいという居直りですね。

般若心経の「空即是色」については、S長老とか、苫米地英人氏なんかの痛烈な批判がある訳だけど、私の新説に論理的整合性があれば、彼らの口を塞げて、モヤモヤがスッキリするのにな~とかいう願望があるわけですが・・・。それともやっぱり無理筋か、とか。。。
Unknown (透明人間)
2016-10-25 10:09:16
⑤、...阿弥陀仏は私の中に生きている!!
これはおかしい。
中とか外とかはいってない。
ただ存在するとだけいってる。
論理飛躍してます。
「われ」といった時点で内と外の概念化は不可避。
そもそも私は無いという意味での無我であれば「われ」といった時点で矛盾する。
無我の無は絶対無の無。(この解釈も正しいかどうか知らない)
だから絶対がきになってくるわけです。
絶対他力っていいますよね。
ここになにかある。

あと即。
即ちとなるわけですが空即是色の即は即ちと単純に適用していいのでしょうか。
無我の無と同じように有無の二元を超えた云々のような地雷だとおもわれますがどうでしょう。
相対するようでそれぞれが包摂するような微妙な関係性を示唆する橋渡し的意味合いのような。そうでないような。
意味深な言葉。
御坊哲さんへ (透明人間)
2016-10-25 10:25:02
ブログみましたけどどういう根拠でそう結論付けたのか不明です。
思惑どおりにはならない偶然であり無情であるとはおもしろいとは思います。
しかし個人的解釈の域をでない。
大乗仏教とは~と大きな枠組みでおっしゃるならそれなりの根拠は提示しないと説得力がありません。
これは仏教なのかなと疑問に感じまし
取り敢えず「⑤.阿弥陀仏は私の中に生きている」について (Unknown)
2016-10-25 12:45:38
この言葉を言ったのは遺産です。

遺産はキリストの復活が、死んだ肉体の蘇りではないという論理の証拠として、
使徒ポウロの言葉「復活したキリストが私の中で生きている。私は死んでしまった」@(1021,12:09:04)と言う言葉を出し、それと、

大谷大学学長の曽我量深師の言葉を対比させて「私が阿弥陀仏を信じているからこそ、阿弥陀仏が存在している。阿弥陀仏は自分の中にある」と話を引っ張り、

@10-21,15:50:24で、曽我師の考え方は、(大学生レベルの)仏教者トップには「正統な信仰として受け入れられているが」、(小学生レベルの)末端では理解するのは無理だろう・・・と断じた訳です。

なぜなら@10-21,08:59:57で、「日本人は、日本の神様がいるので(本当の仏教が理解できずに)浄土の実在、阿弥陀仏の実在に落ちてしまう。実在の阿弥陀仏に救ってくださいと頼む。これは偶像礼拝であり、仏教では無い」と彼(=遺産)の信念を披露しています。

で私の様に「論理の整合性」を問う人間は仏教には縁がない。なぜなら私のような人間は「阿弥陀仏が実在している。だから阿弥陀仏を信じる」タイプだからだとしたわけです。

何故なら遺産の思考方式では;
阿弥陀仏の実在を見て初めて阿弥陀仏を信じるのが「論理」の世界、

「私が阿弥陀仏を信じるからこそ阿弥陀仏がいる」、とするのは「論理の無い」世界だからだ・・・と言うに至った訳です。

(注。)私が彼の自己矛盾(自己撞着)を感じたのは、

彼自身が新旧約聖書の超自然的事象を【信】ぜず(=作り話に過ぎないと断じた)、
ただ人間キリストの史実を研究すれば救われる・・・とする思考方式が、

まさに彼自身が「実在する阿弥陀仏を見たから信じるのだ」という形に嵌り込んでしまっている、

つまり、彼の中のその二通りの思考方式には「論理の整合性が無い」と感じるからですね。

(まあ他人の事、どうでもいい訳ですが・・・)

他の返コメは後程いたします。
Unknown (Unknown)
2016-10-25 13:49:00
阿弥陀仏を信じているから、阿弥陀仏がいる。

というを、量子力学的にイメージしてみたらどうでしょう?

見てない時に、猫はいるのかな?
Unknown (透明人間)
2016-10-25 14:07:51
おかしいと思うのは
阿弥陀仏を信じているから、阿弥陀仏がいる。
の阿弥陀仏がいる(と信じる)
と信じるが隠れていることなんです。
原因と結果かどうかしらないけど
結果に原因が含まれるところがおかしいと思うんですけどどうかしら。
Unknown (透明人間)
2016-10-25 14:11:03
むーん。
信じるとは自分が信じるではないから
他力によって信じさせてもらう意味だし。
じゃあれか無限遡及して岩をも硬い信心が得られるというわけなんですかね。
どうもチンプンカンプンになってきました。
Unknown (透明人間)
2016-10-25 14:20:03
無限遡及じゃなくて循環論法っていうのかこれ。
追加 (Unknown)
2016-10-25 14:29:53
今自分の文章を読み返してみてハタとわかったことは、

「論理の整合性」とは?に関する遺産の誤解的解釈として、

遺産としては、「何かが実在するから信じる」が「論理的」で、

「空想的思考を信じる」が「論理無し」という判断基準で考えている様であります。

しかし私が意味する「論理の整合性」とは、実在・空想・実話・作り話等々一切関係なく、誰かが「話す内容の筋立て」が論理的に辻褄が合っているか合っていないかを問うている、ということです。
作り話やウソ話であっても、話としての内容に矛盾的言及が無ければ、「論理の整合性」が取れていると判断する訳です。

まあウソの上手な人にはコロッとだまされるばあちゃんの場合(@オレオレ詐欺)、あとでフッと考えて見ると、
電話をかけて来た「俺」ちゃんの本物は、ばあちゃんの隣の部屋で「寝ている最中であった!!」とか。

Unknown (Unknown)
2016-10-25 14:53:13
>「信じる」とは自分が「信じる」では無くて、他人に「信じさせて貰う」~~

とかの難しくてややこしい話にしないで、

「自分の脳が、言ってる(聞いた・思った・見た)内容が本当・本物だと判断した!!」ということでスッキリさせられるのではないでしょうか。現実に阿弥陀仏が実在するしないは関係ないわけです。
幽霊を信じている人は実際幽霊を見てしまうわけです。本当はススキだったのに、彼の脳の中には、幽霊の姿として認識されてしまっている、という事です。それ以上、それ以下でありません。
Unknown (Unknown)
2016-10-25 15:15:09
シュレーディンガーの猫の「生きてもおり、死んでもいる」ですね。コメ者の方がどういうストーリーを展開するのか米してみてくださう。(私の理解し難い???です)
Unknown (Unknown)
2016-10-25 15:42:23
釈迦が言ったのは、(無我でなく)「非我」であった(多分!、高い確率で!)

釈迦の言う「我」とは魂とか不変のアートマンの意味であった。
釈迦の観察する限り、人の中にはアートマン(不変な、二元的な魂の様なモノ)は存在してないと解った…と言った訳です。

それが後世の仏典作家によって「無我」という絶対性を付して語られた。

日本仏教もそれを引き継いだ。
しかし日本仏教に於いては、この言葉は「自我を滅した人」というニュアンスで取り扱われるようになった。
(と私は理解してます・・)
 (Unknown)
2016-10-25 16:25:07
「色即是空」
今私の目の前に見えている形(色)は、すなわち、「空」と同じなのだよ・・・
(色とはすなわち空なのだ!!)

ところで、「色」は変化していくものだ=諸行無常。
(注。「無常」を「変化」と捉えてはいけないと南さんがちょっと前の記事で書いていたが・・・)。

で、或る人は「実体」とは「変化してはいけない」モノであるして、「色」は「実体」ではないと考えている(私はちょっと違うが・・・)。

よって「色」は日々変化するから、それに当てはめる言葉は「現象」という言葉だとした。

曹洞宗西光寺和尚は「色」が概念だと言い換えた。

では日々変化する「色」の背後に存在する本質的なモノ(本性、持続性の或る、自己同一的なモノ)ってあるのだろうか??

その本質的なモノって言うのが定義上の「実体」ということであり、それが顕在化(可視化)したものが「実存」と定義される。(私の文献からの見解)。

で、曹洞宗西光寺和尚は、「色」の背後に存在しているのが「空」(即ち色即是空の空)で「空」は本質的存在だから「実体」という呼び名を与えた。

ここに「色=現象ないし概念」と
「空=実体」との結婚式の誓いの言葉が交わされたわけである。

しかしこの結婚に反対する人は、
「空」も実体ではない、宇宙の何処を探しても「実体」は存在しないのだ、と主張する。これが仏教者の主流らしい。

とういなら「空」ってなんだ???
「空って諸行無常か??」、
「不変でないか??、不変か??」、
「じゃあ空もまた現象か??」とかの新議論が巻き起こる!!

これが今の私の理解です。

訂正 (Unknown)
2016-10-25 16:28:59
とういなら「空」ってなんだ・・・・>

と、言うなら「空」ってなんだ
Unknown (Unknown)
2016-10-25 21:26:36
結婚式の誓いの言葉なんて、いつでも反故にできるよ(^_^)v

無常を変化ととらえてはいけない、って
前回のかな
読み返したけどやっぱり全然わからなかったわ

最初の言語化・概念化がおこる(それ自体は非言語的・概念外的・前自意識的な)事態こそ「無常・無我・非思量」

これ、なんのこと?
人類史上初の言語化・概念化?
各個人にとっての?
悟る人にとっての?

私なんかとりあえずしゃべったり書いたりして言葉を使ってるけど
最初の言語化・概念化のことなんかおぼえてないし
無常・無我・非思量なんて「それを読んだり(むじょうむがひしりょう)書いたり(文字通り)はできます」でしかないし
すると、私の世界には例えば「無常はない」の?

実存ってわからないんですけどー
私には実存がないんでしょうかー?
の「無常」編
Unknown (Unknown)
2016-10-25 21:44:48
そーかー

南さんにとっては、物心つく前の自分は、別人というか、存在しない、みたいなもんなのね?
Unknown (Unknown)
2016-10-26 00:35:22
人間が言葉を発明する前の世界が、
無常の世界!
無我の世界!
無思量の世界!

坐禅したら
それが毎日現れる
(そうなんだぜ!!)

猫は24時間それだよそれだ!!
ひとは坐禅時のみそれだ・・・
人は猫より劣るんだべか・・・

猫は幸せ、人皆不幸
かなちいねェ~エ、かなちいよ!!
あ~、こりゃこりゃ!!

(注)。ああ、そ~だよ!!
直哉君が物心つく前は幸せな猫ちゃんで、
物心ついた途端に不幸な人間!!

しゃ~ない、しゃ~ない!!
仏教にでも賭けてみッぺ!!

Unknown (Unknown)
2016-10-26 00:38:32
即是、は数式で言うイコールの事だから
色即是空、空即是色で正解ですよ

色=空、空=色
成り立たないなら、代入した概念に無理があっただけ
じゃないと、イコールが成立しないのでね
Unknown (Unknown)
2016-10-26 00:55:27
人間が言葉を発明する前の世界が、

無常の世界、無常無い世界!!
無我の世界、無我無い世界!!
無思量の世界、無思量無い世界!!


ん、俺ってどっちなんだ両方なのか??
これがおいらのかなちいサダメ
ドッコイショ~ォどっこいしょ!!
Unknown (Unknown)
2016-10-26 01:00:28
代入した概念に
無理があった蚊
無理なかった蚊

算数天ちゃいのきみ~~
証明しんしゃい・・・
ク~は何でもない (Unknown)
2016-10-26 01:13:19
「空」はクウ!!
クウ~は「何でもない」
イロもなんでもない
オレもなんでもない
オマエもなんでもない
ナオちゃんジキちゃんなんでもない

此の世のなか、
何もか~もがなんでもない
ただひょうひょうとこの世をわたれ
カゼのふくまま
キのむくままに

今日一日に賭けるノミ
かゆいかゆいと掻きながら
Unknown (Unknown)
2016-10-26 01:48:38
知りたいなら知ろうとするし、
知ろうとするなら知りたいんだろう

無理もない事だな
シュレ猫 (Unknown)
2016-10-26 02:18:24
観察者効果。。あるとしたら、阿弥陀様がいると思ったその空間は、何らかの変化が起こっているかもしれませんね。 今後の物理学に期待!
Unknown (Unknown)
2016-10-26 02:48:12
そ~か~

【観察者効果】
いい言葉だね
名言集にストックします。

確かに知ろうとしますよね。
素人だけど・・・
Unknown (Unknown)
2016-10-26 03:11:18
さっきナンカ分かったと思たんだがな~
なんだっけ??
知ろう知ろうと焦る素人もう死にソーダー水

ああソーダー
現象の事だった実体の事だった(タシカ!!)
エートー???

だからさー
現象って後に何も残らないって事じゃん。
実体って、いつまでも過去を思い出す事じゃん!!

だからね
直ちゃんの肉体は過去の自分を知らないけど
直ちゃんって人はズッと自分の過去を知っているよね(タブン!!)

そんでもってさ
直ちゃんの肉体は現象!
直ちゃんの記憶は実体!
足して二で割ると「空」
Unknown (Unknown)
2016-10-26 04:18:43
そ~言えば、
昔、瀬戸内寂聴さんが言ってたよね。

私の親は死んでない!!
私の心の中にズウ~っと生きている!!

ああ、これこそ持続的で自己同一性をもった不変の本質、つまり【実体】って事じゃな!!
Unknown (Unknown)
2016-10-26 04:21:47
俺は実体じゃないぜ・・・変態だぜ!!

(お前もだぞ!!)
Unknown (Unknown)
2016-10-26 04:43:41
だからね
キリスト教って
神の言った言葉じゃないの
信じないとド突かれて、
それで一巻の終わり!!

でも仏教はいいよね
共感したァ~??
えッ、しないのォ~??

フウ~~ん、あっソ!!
・・・それで終わり!!
👣 (Unknown)
2016-10-26 07:14:27
考えれば考えるほど「我考える👣である」やってみると、

「実体」とは、本質的で、本性で、永続的で自己同一性を有するもの!!

仏教の「実体」は「坐禅に始まり坐禅に終わる」ってことだよね。

釈迦曰く、道元曰く・・・一切考えるなだからね。

よって細かい教理は皆さんお好きにど~ぞ!!
共感あればお立ち寄り下さいませ!!

Unknown (透明人間)
2016-10-26 09:07:08
>即是、は数式で言うイコールの事だから
色即是空、空即是色で正解ですよ
即にご用心って南さんの記事あるけど
http://blog.goo.ne.jp/jikisaim/e/3806354fbe8e15a1ebd4b941ef336af4
>「即」の字解釈の要点は、このような「空」の概念化や、無批判な概念使用の拒否にあります。

>「空」は言語批判の様式でしか言及できません。
これってブラフマンは「~でない」でのみ規定されるに酷似してるんですけど。

どうしても二諦に分割している以上実体のような思想に解釈してしまう。
また無根拠、無概念ということはそれもまた根拠になり、無概念という概念化が避けられないわけで虚無主義になってしまう。

コップの水がなくなったら、空であるというか水の0が在るというかどっちもどっちだなぁ。
合わせ鏡の自分みて無限にちっこくなる自分の点はあるのかないのか。
どっちでもいいけどどっちでもよくない。
単細胞さえつくれない人の知性であるとかないとかナンセンスな気がしますけどそれもまた意味だというオチ。
Unknown (Unknown)
2016-10-26 12:24:10
記事とコメント欄の解離が激しい
コメントする人たちが記事の内容を完全無視している
Unknown (透明人間)
2016-10-26 14:32:26
>耳にタコどころか、顔中にタコができるほど繰り返し聞かされて、心底から辟易しきっています。

こういう表現ってどうなのって感じます。
意地悪で陰湿な印象をうけます。
だからあえて触れず黙ってましたけどね。

記事の内容に2元であるとか非思量など
それを意味するところがわからずにいる人もいます。
私もその一人です。
それはなにかと問うわけですので無関係でもないと考えます。

教育では哲学と宗教が除外されます。
哲学になじみがなく言葉でつまづく人が多い現状です。
仏教用語も専門的で現代の意味と違うものも多くあります。

疑問を解消できない人がお互いをヒントにするのが作者の意図を無視するとも思えないのですが。
しかしわからないもの同士がいうことでヒントにするどころか余計混乱してる感は否めません。

書いてほしくない見たくないならそう率直にいっていただけるとありがたいです。
迷惑でしたら一切書きません。
解離現象 (Unknown)
2016-10-26 14:40:59
「乖離現象」・・・此れも又、相依性縁起の中の出来事。すべてが複雑に絡まっているんだからいいんじゃないかな!!

削除したいと南さんが思えば削除するだろうしね。コメ者は自分の気持ちに素直になって発言すればいいだけの事だと思うよ・・・。

「解離即是調和」ナリだね。
この場合の「即」も透明人間さんの紹介してくれた南さんの過去記事(2013.9.30)の場合の「即」と同じ使用法、即ち逆説的肯定法で、
修行によって転換を成し遂げた者だけが結果的に言える場合での【即】だよね。
なんか「悪人正機説」に似てるよね。

でも色即是空での「即」は逆説的事象を結ぶと言う事ではなく、「色」の本質は何かという敷衍(ふえん)文だから「即」の通常の用法だと思うよね。
「空」@南師記事2013,9/30 (Unknown)
2016-10-26 15:09:23
透明人間さんの疑問の繋がりで、2013年の南師の記事が引っ張り出されてきた・・
ホント縁起が働いていますよね。ありがたいです。

南師のこの過去記事で、
「空」は真理(=仏教究極の奥義)だとか「真如」だとかと「概念化」することは間違いである、
「空」は「それ自体に内容を持たない」、
という南説が開陳されていた訳だから、
南さんが今もそう思い続けているのなら、此れで結論が出ましたね。

釈迦以降の仏教僧侶群がとても難しい言い回しをして、自分の格を持ち上げる、乃至神秘化して見せて僧侶の飯の種にする・・・という現象を取り払って、

「空」を庶民的に再定義すると、
「空」はただ単にクウ、くうはくう、即、ソラゴト、カラッポ、「何にもない」という意味だ。
誰かが10-26,01:13:19でコメした、
「ク~は何でもない!!」が最も正解に近い解釈のようだ(と思う、如何か?)
Unknown (透明人間)
2016-10-26 17:10:54
「空」はそれ自体に内容を持つ言葉ではない
つまり無価値は価値があることの対立を生むので価値のひとつ。
無価値ということでもない。
だから無無価値と無が連続していくのか。
無無概念。
あーだから般若心経で無がいっぱいなのはそういうことなんですかね。
これって絶対無じゃないですかね。
ああまた概念化がはじまった。
舌の根も乾かず概念化ですよ。

Unknown (Unknown)
2016-10-27 01:13:29
人間釈迦が(多分高い確率で??)言ったのは・・・、
「(人間として私が観察する限りでは)この世には【我】(=魂の如くのアートマン的なモノ)や【常なるもの】は存在していないようだ」
と言ったと考えた方が慎み深い知性派の人間思考であろう。したがって此の範囲内(=神格化・絶対化されない人物像内)では、

釈迦の言葉としては、(絶対性のない)「非我」「非常」と言う言葉を当てる事が最もふさわしいと思われる。

ところが後世の仏典作家(群)は釈迦に「はく」を付けさせる為に「宇宙的絶対性」を意図した【無我】、【無常】という言葉に置き換えた・・・という事では無いだろうか???

それで、過去から現代に至るまで、
無、無無、無無無、無無無無・・・、の(透明ちゃん曰くの)永久遡及(いや循環論理化)が起こり、
頭のよい透明ちゃんを悩ませ続ける、んかな??

道元さんの「心身脱落」だって比喩的に言った訳であろう。もし言葉に「絶対性」を付与したら「心身脱落」が永久に起こってしまい人間として立ち直る事が出来ないわけだ。
つまり「絶対的心身脱落」即是「人間廃業=無人間=死と同意語」と言う事になるだろう。

かくの如く「無」という言葉に【絶対性】を付すと、
絶対性を求めて快楽を感じたい「脳」のサンスカーラは極限まで迷走するようだ・・・。

仏教の本質は「坐禅に始まり坐禅に終わる」という単純明快な本質的な枠組(=釈迦の実践)を超えて、
頭の良い人達の「思考活動」は宇宙の果てまで迷走し続ける。

他人の迷走思考から出た「悟り・涅槃」解釈が、南さんの耳のタコを顔じゅうの吹き出物的タコに変質させて行ったのだ!!南さんは「全顔性タコ症」と言う重病にかかっているのだ(ご愁傷様でござりまする!!)。。
ㇺとヒの違い!! (Unknown)
2016-10-27 01:41:10
無はㇺㇺㇺㇺㇺの無、頭をかしげて永久遡及。永遠のしかめっ面!!

非はヒヒヒの非、笑い出して話は打ちきり。
ケンカもそれまで、「笑うから幸せになるのだ」型!!
「絶対化」はアレルギー反応を引き起こす!! (Unknown)
2016-10-27 03:33:14
今回の南師の記事は、

「悟り」「解脱」「涅槃」を「絶対化」する脳の「快楽」追求型論理に対する反応(=反論・反発)として、

南師が「全顔面タコ症」の急性アレルギー発作をおこした事が「痛烈なアイロニー」という病状となって現れたのだと解釈される。

現代仏教者に於いては「絶対化」はいけないという常識の内にあるが、

古代の仏典作家たちにとっては、何かを絶対化しないと釈迦に「はく」が付かないと考える事は自然の成り行きと思える。

であるならば・・・、
「一切皆苦」は絶対性を帯びた言葉なのか、比喩的な相対性を持った言葉なのかは改めて吟味する必要があるだろう。

【絶対的】な「一切皆苦」には「苦」から抜け出る道が備わっていない(と思える)。

【比喩的・相対的】な「苦」であればこそ、「苦即是楽」であり、
修行を成し遂げた者が達せられる境地と言う事であり、
修行を成し遂げた者にとっては「苦」が「苦で無くなる」と言う事であろう。

従って釈迦が【絶対性】を付しての【一切皆苦】と言ったのではないとする論理性が成立するわけだ。
「一切皆苦」即是「苦楽混在」
乃至「一切皆苦」即是「一切皆楽」なのだ。

修行したら分かるよ!!
封建封土制下の頭脳集団のワザ (Unknown)
2016-10-27 05:53:29
当初、釈迦が息子誕生と同時に家督を息子に譲って自分は出家出来たように、

経典作家たちが若くして出家僧侶になったとすれば、彼らは次男坊・三男坊の優秀な男たちで、当時唯一の学問であった宗教界に飛び込んだと推理される。
古代・中世では宗教界のみが優秀な頭脳集団を構成していた筈だからだ。

だからそういう才能を花咲かせた連中が
諸々の仏典(仏教教理)を独創していったと考えられる。
今でいう学者の研究論文の発表である。

そういう状況下では、【絶対性】を強調することはその宗教を存続させる為の
必須条件(=わが身の保全)であったのだと思われる。
書(記事)評(私感) (Unknown)
2016-10-27 09:21:47
私は南師の今回のエピソード【全顔性タコ症】の急性アレルギー発作は充分正当であると思う。

それはキリストがユダヤ教の律法学者群であるパリサイ人に対して激しく激怒した事に類似していると思うからだ。

即ち旧型仏教団の作り上げた、【絶対性】的思考に南さんが激しく反応せざるを得なかったからだ(と思う)。
やっぱりパリサイ人に対するキリストの怒りに瓜二つに映る。

考えて見れば自らを(曹洞宗?、仏教全般?)のアウトサイダーだと自認する南さんの「ちまたの仏教解釈は○○だけど、私はそうではなくxxであると思う」と言う口癖は、

多数派である絶対論&(矛盾的)二元論混在の既存仏教概念に対する激しい疑問から発生しているのではという感じを私は感じ取る。
きっと昔の釈迦の立ち位置もそうだったんだろうと思う。(私見!!)。
振り出しに戻って…『坐禅という身体技法を使って、言語機能と自意識を低減させることによって』 (イエスちゃん)
2016-10-27 14:37:08
生物進化で、
「言語」と「自我」とが、脳内に、
情報として、生み出されて来た。

脳内で、外部世界も心的な内部世界も、両方とも、膨大な脳神経の脳細胞の一つ一つが、活性と非活性との「ON」と「OFF」の二値で写し取られた。

眼を考えても、そこからの入力情報は、
色彩情報、形体情報(線分、丸み…)動作情報…に分解されて、情報処理され、後に総合されていく。
更に、外界には、赤外線もある。紫外線もある。

耳からの情報も、振動数と強度に情報が分解されて、ニューロンで情報処理される。


『坐禅という身体技法を使って、「言語機能」と「自意識」を「低減させる」ことによって』


「言語」の世界を実体と考える、それが原因の「害毒・苦痛」から、そこから解放する。

「私」「本当の自分」「国家」「真理」…

だから、釈尊の仏教、道元和尚の仏教、竜樹菩薩の仏教では、「言語」批判が重要となる。

「無明」とは「言語」である。
新刊、読みました! (Unknown)
2016-10-27 15:32:46
「僧侶が語る死の正体」の南さんの章、読みました。相変わらずの南節、ぐっと来ます。

キムタクのくだりは大爆笑でしたが!南さん、腕上げましたね!
Unknown (Unknown)
2016-10-27 20:40:40
即是はイコールと言った者ですが、

昨日、あれこれ考えてみて、
確かに、即と是で分けた方が適切ですね。

分かってると思ってたけど、
分かった気になってるだけなんだな~と、実感しました。

透明人間さんに感謝です。
Unknown (Unknown)
2016-10-28 00:31:35
「色即是空」
イロとは、すなわち、クウ、がただしい。
イロとは、すなわち、クウ、なり。
イロとは、クウ、だ。

依って色即空=色即是空
でいいんじゃないの??
だめ??
どこがちがうの??
Unknown (Unknown)
2016-10-28 00:41:03
そ~か~

無明とは言語の事だから、
言語を批判して、人が言語をしゃべらない様に取り締まれ、ってことだね。

しゃべる南ちゃん初め、ここにコメしているヤカラはみんな刑務所にほうりこめ!!

後は坐禅する無口のみが残る!!
こりゃ確かに有明の志のみ残るわな!!

Unknown (Unknown)
2016-10-28 01:31:30
なんか、やっぱり思ったけど
人間て(っていうか生命?)論理的整合性の産物じゃないと思うし、
話の筋が合ってたとしても本人と合ってないってことはあると思うし。

だから南さんの、こんなふうに書いてるものって
「なんのことなんだろうなあ」って感じなんだろうな、私にとってはね。
もっとも、南さん本人に会ったこともないので、本人と言ってることの乖離とか、どのくらいあるのかないのかよくわからないけど、
記事を読んでると、なんかへんだなって思うことはある。
だって南さん六道輪廻で喰ってるじゃん、みたいな。

上の方に「ススキを見て幽霊だと思った人にとっては幽霊はいる」みたいなコメントがあったけど、
「南さんの『幽霊話』」なのかなあって。
Unknown (Unknown)
2016-10-28 01:40:32
俺は日本人の信仰って、あまり好きじゃないんだよね。

現世利益とか、テルテル坊主とか、
当たれば賞賛、外れたら非難されるみたいな?

中東の過酷な砂漠で生まれたユダヤ、イスラムの神は全く発想が違っていて、人の命なんて理不尽で、過酷な自然に弄ばれるだけだから、神と契約を結び、身を慎み祈りを捧げる。
殆ど無視され続けるからこそ、全てを捧げて祈り続ける。

信仰って物々交換じゃないよね。
殆どが理不尽なことばかりだけど、俺は無心に祈り続ける。
時に素晴らしいものも見せてくれるからね。

ブレずに祈り続ければ、きっと良い事があるはずと、そう信じ続けてる。
神は絶対にして唯一のものだと。

Unknown (Unknown)
2016-10-28 02:26:42
ニューロン、新しい回路をつくる。
ニューロン (Unknown)
2016-10-28 04:03:21

脳は神経細胞の巨大なネットワークである

脳を構成する主役は「神経細胞」である。神経細胞は、電気信号を発して情報をやりとりする特殊な細胞だ。
その数は大脳で数百億個、小脳で1000億個、脳全体では千数百億個にもなる。

一つの神経細胞からは、長い「軸索」と、木の枝のように複雑に分岐した短い「樹状突起」が伸びている。
これらの突起は、別の神経細胞とつながり合い、複雑なネットワーク「神経回路」を形成している。
神経細胞は、細胞体と軸索と樹状突起で一つの単位として考え、「ニューロン(神経単位)」とも呼ばれる。

クウちゃ寝て待つ!! (Unknown)
2016-10-28 06:52:08
もうすぐ、次の記事がでるよね。
「空」の続きが知りたいよね。

2013.9.30日の記事で、
南派学僧本舗塾長南直哉師のたまわく

「空」の概念化はいかんよ、君!!
「空」とはだな、それ自体に内容を持つ言葉じゃ無いんじゃよ!!
「空」を真理だとか真如だとかという概念と結び付けて、そこに意味や内容を与えては行かんのじゃよ、お分かりかな、皆の衆!!
何故って、「空」は言われるような意味や内容の【無根拠性】しか指示しておらんのじゃ!!
どうじゃ、まいったか!!


ハイ、お師匠様、では一つだけ質問させて下さい。「色即是空・空即是色」って、
「これ自体に何の内容も持つ言葉ではない」って言う事なのでありましょうか?
此の名文は単なる迷文で、全然【無根拠】なシロモノなのでありましょうや?
訂正 (Unknown)
2016-10-28 06:55:40
与えては行かん・・・>与えてはいかん
Unknown (Unknown)
2016-10-28 07:07:48
>神は絶対にして唯一のものだと・・・

アッ、それは誤解だね。
日本のキリスト教会では、神の成す【奇跡】みたいなモノは単なる作り話で、信仰の範囲から除外するらしいよ。
Unknown (Unknown)
2016-10-28 07:21:49
>幽霊話(ハなし)
幽霊ハ無し、幽霊は歯が無し

しかし飯の種にはなるよ。
無明=言語 (Unknown)
2016-10-28 07:39:22
それって、算数的等式ってこと??
言語はすべからく無明である・・・とか、
言語が主語で、補語が無明という絶対式が存在してるわけ訳???

だったら、南ちゃんや道元ちゃんの吐く言葉も言語だから、彼らって「無明」のヤカラってことに成るんじゃない??

本当の処、いったい「無明だ」の主語って誰よ(何よ)??・・・言葉?人?
実存 (いわし雲)
2016-10-28 13:25:51
いつも、ありがとうございます。
しかし、私は未だに「実存」というものが分からない状態です。
実存 (Unknown)
2016-10-28 15:52:30
トラックバック(1)を見た感じでは、

「南直哉師はそういう名前も持った人間として実存している」・・・で正解らしいね。
実際そういう名をもった人間としてこの世に存在している事には間違いないからね。

南直哉と言う名の人間は「死して(も)【名】を残す…永遠に」。

つまり生身の南直哉さんは近いうちに消えちゃうから、ただ今は【現象】中だけど、

【南直哉】という名前を持った人物像は、生まれて以来の過去も、今も、未来も(大袈裟に言えば)永遠に存在する、永続的な、自己同一性をもっている本性(特質)を意味しているから、
言葉の定義上「実体」という事な筈でありまする。

「実体」とは、色々変化していくモノの背後にあって、その本質的な本性を現す、永続的で自己同一性を持ったもの(概念的なモノ)を指し、
その「実体」が顕在化(可視化)したものを「実存する」と言う、と定義されてるようだからね。

トラックバック(1)で「空海」による
解釈法を見た限りでは、空海もそんなような事を言ってるようだよね。
Unknown (Unknown)
2016-10-28 16:39:10
なぜ、「言語」って言わなかったのかね?

一切皆苦にしても、釈迦から見た世の中って意味かもしれないよね?だとしたら少し理解が変わってくるなぁ。
俺達が「苦」を語るって事は、お漏らししてる奴が、「何か臭くね?」って言ってる様な物じゃない? 「いや、お前だし!」
Unknown (浅野)
2016-10-28 17:31:44
本当の自分や悟りを表現する人は、その際の、よい感覚やカタルシスを体感として覚えといて、その実感を「悟り」、と評し、それを本質として、島にして生きているのではないでしょうか。
けど、必要なのは、生き抜く力やその方法であって、ありのままや本当の自分なんて、意味不明、無意味なんですよね。
南さんは、そこで安住したり、居着きやすいところを独自の方法論で突破したように思うんです(悟りではなく、非思量を使い)。
Unknown (浅野)
2016-10-28 17:41:20
悟りって、一丁上がりのイメージがあるんですけど、日常は続きますし、死は抱えてるし。悟りではなく、非思量にして、また自己と世界を再構築する、繰り返す。無常ですよね、それこそ。
Unknown (Unknown)
2016-10-28 19:36:15
いや、そんなのさ、南さんじゃなくて(当たり前だけど)、南さんの言ってることがさっぱりわからない(無常も非思量もぜーんっぜん)私の日常だって「そう」だよ(と思うよ)。
Unknown (Unknown)
2016-10-28 19:43:08
あと、【南直哉】という名前を持った人物像
になんか、同一性ないと思うけど。

私が思う恐山院代南直哉ってものと
胃酸が思うそれと
浅野氏?のそれと
南直哉ってものの師匠だった人のそれと
奥方のそれと
義父のそれと
実父のそれと
  ・
  ・
  ・
  ・
違うと思う。
Unknown (Unknown)
2016-10-28 19:46:31
まあ、恐山院代南直哉ったら
「あんな顔の人」ぐらいの同一性はあると思う。
南さんの顔と名前が一致してる人が本人を見たら「あ、恐山院代南直哉だ」って思うっていう、
そういう同一性ならあるんじゃないかな。
でもそんなの「人物像」っていわないでしょ?
いうんだっけ?
Unknown (Unknown)
2016-10-28 19:47:33
ああ、でも
そっくりさん見ても思うかもな、それ。
Unknown (Unknown)
2016-10-28 19:55:36
・・・・日本のキリスト教会では、神の成す【奇跡】みたいなモノは単なる作り話で、信仰の範囲から除外するらしいよ・・・・

いや、あるらしいよ
カルト臭きついとこみたいだけど
原理主義的な集団が日本にも
同一性 (Unknown)
2016-10-29 00:56:00
「同一性」って、彼が「私は南直哉です」って自己紹介をした時に「ああ、貴方ですか」と認識出来るって事が「同一性」が有るって言う事だと思うよ。

「吾輩は猫である」だけでは同一性が確立していないけど、「吾輩は夏目漱石家の猫である。其処には一匹しかいない。その猫が俺なんだぜ、以後お見知りおき願いやす!!」と猫が表明すれば、完全な同一性が確立して、実存的姿が現れている実体と分かる。しかしその猫は今この時間此の世で現象している・・・

こんな関係性なんだと思うけどね。

でも猫ちゃんにとっては概念なんてど~でもいいわけさ。ただ喰っちゃ寝、喰っちゃ寝するだけで幸せなんだからね。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 01:20:32
浅野さん見解に「総論賛成・各論反対」

或るタイプの人Aは、
修行らしき事をして、良い感覚やカタリシスを感じ、その実感だけで生きていける。それが「生き抜く力」となる。別名「楽天家」。
「イージーゴーイング」な私「それが何か??」

別のタイプの人Bはいくら修行しても「究極に」楽な気分になれない運命にある人の群れ。だから毎日「修行で原点に戻って考え直さにゃならん」と常に苦悩する・・・しかしその「疑惑」のプロセスが「生きる力を生み出している。
日々「言語批判」するのが楽しみであり・・・まあそれが趣味ってとこだね。
そういう宿命であり、定めであり、本質であり本性であり、自己同一性であり・・まあDNAのなせるワザだね!!

互いに相手への言語批判は止めようね・・・と言いたい処だけど、言語批判が「生きるバネ」になっているようだから、仕方ないか?
では大いにやってください!!・・・・
原理主義 (Unknown)
2016-10-29 01:41:53
砂漠(荒野)の過酷な環境から生まれる宗教は原理主義的にならざるを得ない。永遠的に神の奇跡に頼らざるをえない。

豊饒な恵まれた土地で生まれる宗教は自然信仰アミ二ズム的になる。その豊饒さは常に自然の暴走にもてあそばれるからだ。だから人は運命論者になっていく。神を怒らせてはいけないと祀る。神の御慈悲に頼らざるをえない、喉元熱い間だけ…

そんな関係性があるようだ。
原理主義的キリスト教が日本では奇異にみられる事と関連性がありそうだ。
「臭くね」の発生源 (Unknown)
2016-10-29 02:04:18
>臭くね??・・・いやお前だし!!

これに一票!!
自分の視野を転換すれば苦が苦じゃ無くなる。
でもそれが出来る人と出来ない人がいる。
出来ない人は「いやお前だし!!」が宿命的に理解できない!!

でも外圧で「苦難」を押し付けられる人もいるから「いや他人だし!!」も有り得るからね。
そこは智をもって識別&個別対応が必要だって事だね。
トラックバック(1)での空海の【あ】論 (Unknown)
2016-10-29 02:41:49
注;これは南師の書いた日本仏教論(評)です。ご参照あれ。

只今コメ者うろ覚え部分あれど・・・、

空海が言うには、
あいうえおの【あ】は「あ」として永遠的に存在しており、それ以外の何物でもなく、誰も「あ」でないと否定する事は不可能だ。

だから【あ】は実存しており実体である。

【あ】は現象(=変化するもの)では無い。【あ】を言語批判する余地も無い。【あ】は「あ」であり、常に「あ」だ。(四の五の言うな!!
南直哉は南直哉だ、つべこべ言うな!!)。

そんな感じだったと記憶する。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 02:50:11
ナンカ「おれだよ、オレオレ!!」と似てるな~。
実存する俺に実体たる金をかっさらわれちゃうからなァ~。
言語批判 (Unknown)
2016-10-29 03:39:45
言語批判って、総合知識(情報の蓄積)からの結論って事だから、その内コンピューターに敗ける運命にあるよね。

コンピューターのAI技術が「有明」となって、人間が貧弱的「無明」に留まるという構図だよね・・・・

もし「【無明】とは言語の事だ」というならば、
【無尿】のコンピューターが言語戦で優位になる筈だよ・・とても近い将来に
追加 (Unknown)
2016-10-29 03:43:33
IBMが社運を賭けて開発している「ワトソン」というAI技術がそれを予見してるよね。
村上春樹が世界的作家の理由 (Unknown)
2016-10-29 04:07:06
byバーンバウム(アメリカ人60歳、村上春樹作品の翻訳者の言)要約;

日本的とはこういう事、文学も仏教も!!

日本文学は(日本仏教も??)・・・暗いなァ・・世の中の不条理を嘆くものばかりで・・・どうもウエットで・・・

それに反して村上作品は軽快で、明るいユーモアにあふれていて、とても日本人離れしていて・・・村上さんはたまたま日本語で書いているアメリカ(人)の作家ですね・・
十二支縁起が『「二元パラダイム」解除によって「自己」「世界」を初期化して、いわば「非思量」の現場を開いて一切を「問い」として露わにし』 (イエスちゃん)
2016-10-29 04:23:52
『「二元パラダイム」解除によって
「自己」「世界」を初期化して、
いわば「非思量」の現場を開いて
一切を「問い」として露わにし』

十二支縁起で、人間世界を再構築していく。


坐禅の禅定で、頭脳の進化の最新部分の薄い1mm大脳皮質のしわくちゃの膜で働く「言語生成機能」「自我意識機能」を、極限まで低下させて、
古代の脳、小脳、脳幹だけの働きに還元しながら、
釈尊は、浅い禅定から深い禅定まで、何度も往復している。
(涅槃経で、亡くなる時も、禅定を往復している)

つまり、「自己の消滅プロセス」とそこからの「自己の無状態から再構築プロセス」とを体験して、
「自己」とは、「構成されたもの」「言語で虚構されたもの」を発見した。

ここで、「自我機能が消滅した状態から、自我が生成される」プロセスを、
教えとして集大成したのが「十二支縁起」である。

最初は「非思量」状態である。
「行:混沌の無形のエネルギー、カルマ」
から、徐々に「欲望の明確化、意識」、更に、それが「自我・自己」を生み出し、
最後は「死:自己の消滅の発見認識とそれへの恐怖、死苦」となる。

そのプロセス、最初は「非思量」状態である。
2.行(saṃskāra) - 志向作用。物事がそのようになる力=業
3.識(vijñāna) - 識別作用=好き嫌い、選別、差別の元
4.名色(nāma-rūpa) - 物質現象(肉体)と精神現象(心)。実際の形と、その名前
5.六処(ṣaḍāyatana) - 六つの感覚器官。眼耳鼻舌身意
6.触(sparśa) - 六つの感覚器官に、それぞれの感受対象が触れること。外界との接触。
7.受(vedanā) - 感受作用。六処、触による感受。
8.愛(tṛṣṇā) - 渇愛。
つまり「思量の世界」を構築していく。
「人間世界・社会機構・自己」

釈尊の仏教は、「信じること」でなく、「体験する・知る・解ること」である。
だから、「あの世」の事は不要である。
「この世」で決着がつくのだから。

輪廻転生は「自己・自我」への執着である。
空海は、インド密教に洗脳されたから「言語」にリアリティーを感じていた。「シンボル」こそが「実在」であった。 (イエスちゃん)
2016-10-29 04:45:00
インド密教は、
釈尊の仏教を否定するものであり、
インド固有の、インド思想史上の正統派、多数派であるヒンドゥ教そのものだから、
「言語」にリアリティーを感じ、
「言語」が「現実」であり「実在」であった。

「真言・陀羅尼」「加持祈祷」…
「シンボル」が全世界・全行動を支配した。
空海はあらゆる「シンボル」を自在に操作し支配した。
病気もシンボルで治した。

そして、この「シンボル作用」は「言語作用」そのものである。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 04:52:34
成程成程、理屈はそ~なってんのかァ・・・

とかは、小学生信徒にとってはどうでもいい事で(全然聞いていなくて!!)、・・・ただ黙って座れば全てが開ける・・・

一方外患攻撃に遭った時は坐禅だけじゃダメだね。行動しないとね。理屈も役に立たない・・・行動だよ!!
Unknown (Unknown)
2016-10-29 05:02:25
そ~そ~
実践場では、あ~だこ~だとノウガキばかりいうインテリが真っ先にへこたれるって言うよね。!!
訂正 (Unknown)
2016-10-29 05:04:52
実践場・・・>実戦場
ただし実践の意味も含む
Unknown (Unknown)
2016-10-29 05:18:20
もともと大乗非仏説は仏教学者の共通認識らしいから、空海が好きで、空海に共感する人はそれでいいんじゃない??

釈迦は神様じゃあ無いんだから空海の事を罰して地獄に落とすなんてしないと思うよ!!
Unknown (Unknown)
2016-10-29 06:00:07
・・・・「同一性」って、彼が「私は南直哉です」って自己紹介をした時に「ああ、貴方ですか」と認識出来るって事が「同一性」が有るって言う事だと思うよ。・・・・

それ、何を認識したのかわからないんだけど。
恐山院代南直哉、著作も色々あり、その著作に載ってるプロフィールくらいは知っていて顔も知っていて
そんな顔をした人が目の前で「恐山院代南直哉です」って言って、書いてあるような話を始めたら
そっくりさんでも「ああ、あなたでしたか」と思うから「同一性がある」?

つまり、本人のやってることと言ってることは大幅にずれてるけど
言ってることにはスジが通ってるから「論理的整合性がある」みたいなこと?

やっぱり私には「実存」とか、ないのかもしれないわー。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 06:07:30
誰にとっての同一性なんだろうなあ

「本人」ていうのは周囲が認めてこその「本人」だから
そっくりさんの同一性で全然OKってこと?
Unknown (Unknown)
2016-10-29 06:08:45
なんだっけ、総理大臣と出来の悪い息子が入れ替わっちゃうドラマ
Unknown (Unknown)
2016-10-29 06:14:39
「本人」ていうのは周囲が認めてこその「本人」だから
そっくりさんの同一性で全然OK

ってことなら、そしてそういうのが「実存」なら
南さんが「じつぞんじつぞん」っていうの
なんとなく「ああーー」みたいな感じはする。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 06:38:38
此の世には二種類の人がいる。

言語批判に命を賭ける人と、
言語批判何て俺の人生には関係ないと言う人だ。

どちらが良い悪いの問題ではない。単なる趣味の問題である。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 06:41:50
「あ」は実存であり実体である

ふーん
これもなんか、へー?って感じ。

音だったり文字だったり点字の突起だったり
するじゃない?

Unknown (Unknown)
2016-10-29 06:44:45
どちらが良い悪いじゃなくてー

「実存」てこういう感じかなあって
わからないなりに思ってみたけど、どのぐらい合ってるか違ってるか
を聞いてみたい。
ソックリさんの同一性 (Unknown)
2016-10-29 06:53:53
コロッケのものまねが何故面白いかと言うと、
彼がわざと本人像(例、五木ひろし)をデフォルメ(=大袈裟な変質)して見せる処に、
かえって(現象である)五木ひろしの本質が浮かび上がってくるから、なんだとか。

表面に隠れた五木ひろしの実体が姿を見せるから・・・

そう言えば、誰かが南直哉師のものまねをやったら大向こうをうならせられるかもね。なんか彼って癖がありそうだからね、やりやすいんじゃあないかな??
それが彼の持つ自己同一性ってことだね。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 06:55:29
あれ?
出も周囲が認めてこその本人なら
やっぱり周囲を構成する要素(それぞれの人)によって
「南直哉という人物」の認識の仕方が違ったりして
やっぱり同一性が、ない
とか…
またわかんなくなりました。
ソックリさんの同一性、其の2 (Unknown)
2016-10-29 07:08:50
ソックリさんが「恐山院代南直哉」を演ずる。
皆全員がコロッと騙される(全く疑う事なしに・・・)。

幽霊を信じる人には幽霊は実存するのだから、
眼の前のそっくりさんを南さんの実存だと君の脳は確信してしまう。

いわゆる、シュレ猫の「観測者効果」ってことだね。
すでにここでは南直哉の同一性が達成さている。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 07:11:19
ソックリさんの同一性

特徴的な要素の抽出と変形と組み合わせ?

(^_^) これが人の笑顔にみえる、みたいなこと?

特徴的な要素の抽出と変形と組み合わせ
によって、
周囲に「あーそんな感じー!」と思わせられるものが
「彼の本質」で「同一性」

そういうことならなんかちょっとわかる気がする。
でも
・・・・【南直哉】という名前を持った人物像は、生まれて以来の過去も、今も、未来も(大袈裟に言えば)永遠に存在する、永続的な、自己同一性をもっている本性(特質)を意味している・・・・
は、やっぱりわからない。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 07:17:10
・・・・眼の前のそっくりさんを南さんの実存だと・・・・

こういう日本語がわからない
目の前のそっくりさんは「実存」なの?
「実在」なの?
まあ、どっちも私にはわからない、んだけどね(^_^)
Unknown (Unknown)
2016-10-29 07:18:15
南直哉と言う人物に対する理解は人それぞれ異なっていて当然だよ。

しかし皆一様に「それ」を南直哉だと思っている。

五木ひろしだとは思って居ない。森進一だとは思って居ない。美空ひばりだとはおもっていない。釈迦だとも思って居ない。道元だとも思って居ない、斯くの如く「~~だとも思って居ない」と永遠につずく。

やっぱり南直哉だとしか思って居ない。
Only Oneの南直哉だ。それでも同一性が無いっていうの??
Unknown (Unknown)
2016-10-29 07:27:46
あ、そういうわけで
私は神の似姿としての人間から始まる宗教より
仏教の方が好みなのかも
Unknown (Unknown)
2016-10-29 07:28:27
遺産流に言うと、
「復活したキリストが私の中で生きている。私(=ポウロ)は死んだ・・・・」

ソックリさんは「南直哉が私の中で生きている。わたし(=ソックリさん自身)は死んだ」という演技をしている訳だから、
南直哉としての人物像の同一性が現成し成就している・・・という言い方も出来ると思う。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 07:35:51
ああー!
恐山院代南直哉を知っている(と思っている)人にとっては
「他との区別がついている」(と思っている)ということだから
その意味で(他ではない誰かだと思っているという)同一性はあるね。

恐山院代南直哉というものがある(あった)と知る人がいる限り、その時々の「同一性」をもった「恐山院代南直哉」がいる、と
そういうこと?
Unknown (Unknown)
2016-10-29 07:40:00
でも、それって、なんのこと?


…振り出しに戻るって感じだなあこりゃ
Unknown (Unknown)
2016-10-29 07:45:38
ああー

さむらごーちにいがき記事って「そういうこと」かー?
でもあの話も「ええ?」って感じで、
「へんなの」って思ったわ。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 08:04:48
あなたの脳のなかに記憶として存在する南直哉のイメージは、

肉体現象で実存している南直哉を離れて、

貴方の脳の中でずっと存在し続けている。脳のなかでは彼は同一性をもって永遠に実存している。(注;永遠は比喩語)

(注;)南さんも有難くてうれし涙にくれているかも??俺って頑張って実存した甲斐が有ったな~、とかね。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 08:26:04
これが遺産が引用した曽我量深さんの、
「私が阿弥陀仏を信じているから、阿弥陀仏は実在する(ましますなり)」とかいう言い回しが成立する根拠になっているよね。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 08:32:15
あの、わるいけど

私は本気で実存とかわからないのね。

だから「永遠」とかなると
「実存と言ったときに永遠なんか比喩に決まってるだろ」
とかは通じないから、よろしくね。
最後の注とかも、またわからないのね。
私の理解による恐山院代南直哉と「俺って頑張って実存した甲斐が有った」のつながりとか。
あ、あと、「貴方(私)の脳の中」っていうのも比喩語なの?
すると、つまり、どこにいつ誰がいるの?
Unknown (Unknown)
2016-10-29 08:45:37
実存には人は必要ない、の?
Unknown (Unknown)
2016-10-29 08:47:37
人がいなければ実存も必要なさそうだけど
Unknown (Unknown)
2016-10-29 08:51:02
ああー
「永遠」自体、比喩かー
Unknown (Unknown)
2016-10-29 08:53:26
でもそしたらそれって
「いるときはいて、いないときはいない」
「思い出したときはいつでもいるよ」
「忘れてるときはいないけど」
なわけで

「永遠」という比喩をしたい人の志向は「そういう系」なんでしょ?
Unknown (Unknown)
2016-10-29 08:55:28
やっぱりどうしてもひとこと言っておきたい

竹鶴、初めてのんだけど
うまかったよ
Unknown (Unknown)
2016-10-29 09:05:20
竹鶴、のんだの二回目だけど
あんまりうまくなくなってた

変わったのは、竹鶴か、私か
Unknown (Unknown)
2016-10-29 09:06:36
それとも
竹鶴と思ってのんだものが
じつは違うものだったのか
それは1回目か2回目かどちらもか
Unknown (Unknown)
2016-10-29 09:08:18
ブランディング?
Unknown (Unknown)
2016-10-29 09:09:54
修行とはブランディングである?
Unknown (Unknown)
2016-10-29 09:23:17
思い出したときのことだけで
忘れてるときのことはなかったことになるなら
「永遠にいる」よなあ確かに。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 09:26:04
で、
「えー?それって永遠なのー?」
ってさっぱりわかりどころをつかめないのが私
Unknown (Unknown)
2016-10-29 09:34:26
今この瞬間息をして肉体として実存(=現象でもよい・・・私的には)している南直哉と、

貴方が自分の脳の中で構成している南直哉は並立して存在している訳だよね。
ちょうど、実際の風景をガラケーでパチリと映像ファイルに納めたみたいにね。

現象としての肉体の南さんはやがて滅失する運命にあるけど、

貴方の脳の中に彼の事が記憶として存在している限りは、
例えば彼の本が目につけば、ああそんな人がこの世に生きておったな~と貴方の脳は認識するじゃない。彼ってへんちくりんでちょっとひねくれていたっけなァとかね(ごめんね、南ちゃん!!)。

それが阿弥陀仏は「私の心のなかで生きている」、と同じ事だと私は思うのであるのである!!という事だよ。

南ちゃんが「俺の事覚えていてくれてありがとう、おれも悔い無いよ!!」って感謝の臨終って言うのも、おおいにあるわけだよ。
まあそれまでは、せいぜいっぱい南流「言語批判」を聞くのも悪くないかもね。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 09:57:27
例えばあなたが認知症になって記憶が飛んじゃったら、南さんって誰ですか??って言うんじゃない??

記憶がある限り「永遠」だけど記憶が無くなれば(死ぬことも含む)南さんの事も消えちゃうから言葉の「永遠」って比喩的に使ってることに成る訳だよね。

また永遠って、時間的継続を意味してないからね。将来的に時たま「思い出す」のも永遠だからね。
「私はお母さんの事を永遠に忘れない」とかいう用法と同じだよ。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 11:15:00
ふーん。
なんとなく、ああそういう感じ?って気はした。

でもね、やっぱり
実存とか実在とか、そういうアイディアって
結局何?的わからなさは相変わらずだわ。

だって南さんがいて私がいて
南さんが思う(というかやってるつもりの?)南さんと
私が思う南さんが違っていても
他の誰かの思う南さんと違っていても
そんなの普通にたぶん全部そういうものだし
で、実存とか実在って何?みたいな。
それがあると何がわかるの?みたいな。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 11:19:19
2016-10-29 09:34:26
2016-10-29 09:57:27

で言ってることは、ほとんど私が思ってることと違わないと思うのね。
あなたは、わたしが思ってることは(=あなたが「このコメントに対してコメントしよう」と思った、そのコメントのことね)
あなたの思ってることと違わないと思う?違うと思う?
Unknown (Unknown)
2016-10-29 11:20:36
あ、なんかわかりにくいことになったな

時刻の最初は「あなた」の言ってることじゃなく
「わたし」の投稿の時刻だからね(^_^)
補足説明 『曽我量深』我、如来を信ずる故に、如来在ます也 (イエスちゃん)
2016-10-29 11:21:28
遺産・胃酸です。ハイ。

補足説明・・・・・・・・

今回のお陰様で、有り難いことに、再び、
『曽我量深』 (こころの本シリーズ) 1985/3 曾我量深 (著)
を読み直している。

90歳の師が、親鸞聖人を、本当に平易に説いている。
昔読んだ時よりもすんなりと、こころに入る。まったく有り難いことです。

そもそも、釈尊の仏教は「教・行・証」の3部分で構成されている。
「ブッタの教えを基礎に⇒修行し⇒結果としての悟り」である。

しかし、親鸞聖人は、悟りの前に「信」を挿入した。
主著は「教・行<信>証」で構成され、
<信>を大変重視し、この信によって、結果である「証」の差異を、明確にした。

阿弥陀仏の浄土教は、
西方ペルシャの宗教が仏教に入り、
中国で発展したが、法然上人は、中国のままであった。
しかし、親鸞聖人は、<信>を重視しして、まったく変えて、
西方からインド、中国との浄土教を、
この日本において、完成体・最終体に導いた。
そに達するには、親鸞も、釈尊と同じ80歳になっていたが。

『教行信証』は、一旦50歳代には完成させていたが、ご自分が育成した関東の教団から離れ、一人京都に戻り、
一切経と格闘すること(巨人と対話)で思想を深めていった。

親鸞聖人ご自身は「法然上人のまま」というが、
その結果・内容は、まったく異なっている。

主著「教・行・信・証」の構成上では、
前半で完結・完成していて、
インドの祖師・法然上人においては、まったく、これだけで十分だった。

しかし、親鸞はこれに満足せずに、
「信・(それに因る2種類の)証」の部分をわざわざ追加した。

『曽我量深著作集』第12巻:目次
自信教人信
浄土と本願
☆信に死し願に生きよ
始めに行あり
☆法蔵菩薩
☆我如来を信ずるが故に如来在ます也
往生と成仏
愚痴にかえる
横超の菩提心
深く信ずる心
真実の教え
宿縁と宿善

上記の「☆印の講義」が、以下に含まれている!
『曽我量深』 (こころの本シリーズ) 1985/3 曾我量深 (著) 春秋社¥1500-
紀野一義による解説もすばらしい。

「我、如来を信ずる故に、如来在ます也」

「如来ましますがゆえに、われら衆生はこれを信ずることができるのであるか、
そうでなくて、
われら衆生に深い願あり信あるがゆえに、
如来はあらわれたもうのであるか。

「衆生の信」が先であるか、
「如来の本願」が先であるか。
・・・

「とにかく、信ずるということを離れて、如来ましますということは考えられない」

「…極楽往生が目的である。信心も安心アンジンも念仏もそのための手段にすぎないものである。…こういうように我々は思うておる。しかるに親鸞聖人は…」
「これを見るというと、
仏に成る、成仏ということが、阿弥陀仏の本願の眼目ではない。
信心を獲るということが本願の眼目である。
また、もう一つ言うならば、
浄土往生だの、成仏だの、そういうことはどうでもいい。
仏にならんでもいいし、浄土往生せんでもいい。
本願を信じる信心を獲ればいいのだ。
信心が究極の目的である。
こうゆうことを述べてありますね。」

注:
現生正定聚(げんしょうしょうじょうじゅ)とは、現生不退(げんしょうふたい)とも言い、
阿弥陀如来より回向された信心を受容すれば、浄土に往生することが定まった身となり、悟り(覚り)を開いて仏に成ることが定まること、もしくは仏の覚りと等しい位に定まることをいう。
:注終了

「現生正定聚とは、一つの心境、正しい宗教の信というものによって、新たなる心境というものが開けてくる。」

「善とか悪とか、そういうものから解放されるということが現生正定聚である。」
Unknown (Unknown)
2016-10-29 13:14:59
遺産、貴重な資料教えて頂いて有難うございます。
何度かじっくり読み返してみます。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 13:43:03
>10-29,11:19:19
同じことをいってるらしいよね。私はしつこく敷衍して明確化を試みているというところかな。

「実存」とは結局の処、【実】際に【存】在する事、現実に存在する事、だから、実在と同じ意味で、

南さんは実在している人間だ、と皆が認めている(空想上・架空の人間ではないという意味で・・・)。

それと同時にあなたの脳の中の南直哉像もあなたの脳の中で実在している。二つは併存している、という言い方でいいと思うよね。

思い出したけど、南さん自身の脳の中では、南さん(=自分)の肉体のイメージが(小人のプラモデルみたいに)脳の中で存在していて、例えば右足の親指の先が痒い(虫に刺された?)時には(末梢神経で脳迄つながれた)その脳内小人の南ちゃんの右あし親指の先が痒いと知覚・認識・反応するから、南ちゃんは実際に何処が虫に刺されたか分かる、とか言うわけだよね。

あなたの脳回路で南ちゃんと言う同一性人を認識する回路が出来あがっているという事だよね。だから南直哉を南直哉と言える【同一性】が達成される、という言い方も出来るよね。(続)
(続) (Unknown)
2016-10-29 13:55:41
ところで仏教では実存を認めるか認めないかだけれど、

仏教の「無常・無我」観と「実存」はどういう関係になっているのかという事は気になるよね。

「実存で無い」と言う事は即ち「幽霊だ、妄想だ」という事だから、

釈迦が「無常・無我」を説いた時、「私は幽霊である」と言ったとは到底思えない訳だよね。(私観ですが・・・)。

釈迦は単に、
人間は変わりゆくものだ、「常」に留まる事はできないのだ、「定」なる魂(=アートマン)が如きの実在は私には認知する事が出来なかった。

と言ったというだけで、それゆえ「自分は幽霊だ」という極端な事を言う筈ないと思うよね。
訂正 (Unknown)
2016-10-29 13:58:13
定なる魂・・・>常なる魂
追加 (Unknown)
2016-10-29 14:10:17
「自分は幽霊だ」なんていったら、

幽霊は(多分?)変わらない、年取らない、死なない、、つまり不変だから・・・
幽霊=アートマンの一体形って事で、
無常・無我の哲理が総崩れになるよね。

そこで出て来るのが「空」だけど、南さん曰く「空にはそれ自体、内容が存在しない」っていってるからね・・・。
再追加 (Unknown)
2016-10-29 14:28:42
じゃあ釈迦は「私は現象に過ぎないのだ」といったのか??

言ったとしても「現象」とは何をさすか??
現象とは「実存し無い」という意味なのか??

そうではなく単に「無常・無我」を言い換えたモノにすぎず、実存との対語(あれかこれかの二者択一の反対語)として「現象」という言葉が存在している訳では無い。
結局のところ、現象も実存も同じく「実際の存在」を意味している。

さもなければ「現象」とは「実存して無い幽霊」だという自己撞着に陥ってしまうから・・・・これが私の考え方です。
あしからず、ごめん下さい、最終便!!
「自己」とは、現象である。「川の流れ」に対して、その「流れ(動き)」である。 (イエスちゃん)
2016-10-29 21:21:44




「自己」とは、現象である。
「川の流れ」に対して、その「流れ(動き)」である。
決して、流れる「水(物質)」ではない。

そして、その「川」は、「言葉」だから永遠である。
人間は、自分を「川」と錯覚して、永遠と思い込む。

そして、「自己」の消滅を錯覚し、苦悩に陥る。
Unknown (Unknown)
2016-10-29 23:38:49
言葉は永遠だって言うけど、宇宙からすると言葉なんて関係ない。っていう宇宙も人間が決めた言葉だけれど・・・まあ人間の進化、便利ですけどね。

今回記事のコメント欄、大変勉強になりました。

逆説的肯定法、現生正定聚、シュレーディンガーの猫。
対偶、命題が正であっても裏は必ずしも正にはならない、とか。みなさん、教えて下さり有り難いです。

化学や心理学、論理学等、仏教に内包されているのですね。
Unknown (Unknown)
2016-10-30 00:17:33
>流れ(動き)

動きとは(運動)エネルギーの事だよね。例えば【光】みたいなね。

「光」は実存するよね。(注;実存とは『実際に存在する』の意味)
実存しないなら【光】は見えない筈だし、
実存しなければ【火(=炎)】も見えない筈だし、
川の【流れ】も見えない筈だし、
【人間】も「実存」しなければ、見えない筈だし、

だから「現象」と「実存」は対立語を構成してないって事になるよね???
追加 (Unknown)
2016-10-30 00:31:48
それに、川って「永遠に流れる」モノを意味しているから(=流れない水は川と呼ばない)、

流れ(動き)は永遠に続くって言っている事に成って、

無常・無我とは矛盾し無くね??
(言葉通りの【永遠】って無常・無我とは相性が悪いからね!!)。

まあ俺の人生にゃあ、全く無関係だけどね!!
Unknown (Unknown)
2016-10-30 02:55:29
空気はどうなるんだろね?

見えないけど。
Unknown (Unknown)
2016-10-30 03:07:32
永遠なんて、
輪廻と同じくらい
インチキ臭いよね。
Unknown (Unknown)
2016-10-30 03:42:14
空気は見えないけど、空気銃で人にショックを与える事ができるからね。実存する事が確認できるね。

まあ分かり易く言うと風は空気の運動(流れ)で、それによって空気が実存している証拠でもあるね。

太陽風は機器がキャッチできるし・・・。
現象とは「無」で無いし「空(くう)」でないし、じゃあ何??
残るは「有」でしょ!!
輪廻 (Unknown)
2016-10-30 04:04:20
さる原始仏教ブログ管理人の知見では曰く、

「バラモン教においては、
人間存在における【不滅の魂】(=実体、アートマン)は、
輪廻によってこの世に生まれ来る前の事は何も意識していない、覚えていないとされます。
つまり、不滅の実体は、自らの死後のことは何も知らない状態で又この世に生まれ変わることになる・・・」

とそのへんちくりんでひねくれた論理を言語批判していますね。

永遠に続く輪廻!!
インチキ臭いか、
しゃあない、飲み込んでしまえ、ブラフマンさんのお達しだから、

の二者択一問題となりますね。
Unknown (Unknown)
2016-10-30 18:40:47
私は実存とかはぜんぜんわからないから
何とも考えられないけど

「川」だったらそれは普通名詞でしょ?
でも荒川とか多摩川とかは固有名詞でしょ?
普通名詞「川」ってのは実際に日常的に「ある」のか?
Unknown (Unknown)
2016-10-30 18:42:26
うちの近所の川(もちろんナントカ川って名前あるよ)は
よっぽど雨が降ったときしか水がない、最近。
でも「ナントカ川」ってなってるよ。
Unknown (Unknown)
2016-10-30 18:47:41
あ、「よっぽど雨が降ったときしか水がないナントカ川」っていうのは私視線だけどね。
もうちょっとちょくちょく見てる人だともっと水の流れてるときを見てて
私とは違う感じでいると思うけど。
Unknown (Unknown)
2016-10-30 20:54:15
川にも、川が無い。とすれば

無川?

Unknown (Unknown)
2016-10-30 21:10:53
ていうか、
「川」なんて「ない」んじゃない?
Unknown (Unknown)
2016-10-30 21:29:04
水が流れている状態だけを「ある」ものとするなら
水が流れていない状態だけを「ある」ものとしてもいいじゃない?
Unknown (Unknown)
2016-10-30 21:34:51
そこが川だと知らなければ
水がないときは石ころだらけの何かだったり
どこかよその国だと、乾期の時は車が走ってて、雨期になると川で
でもよそ者にとっては乾期の時はそこが川なんてわからない
なんかちょっと低くなってる感じの道でしかないみたいな
Unknown (Unknown)
2016-10-30 21:41:03
で、土地の人だと、両方の状態を知ってるから
「雨期には川で乾期には道」でしょ。
私だと「ナントカ川は近頃ほとんど水がないなあ」だし。
Unknown (Unknown)
2016-10-31 01:38:40
なんだか
奥深い話になってきたね!!

無水、無川、無我…

つまり無常?
Unknown (血圧自己測定のススメさん)
2016-10-31 21:42:11










トリック・オア・トリート!
Unknown (透明人間)
2016-11-01 02:03:14
>釈迦が「無常・無我」を説いた時、「私は幽霊である」と言ったとは到底思えない訳だよね。

悉有仏性 如来常住 無有変易

仏性は常住不変って道元さんいってます。
世界は仏性だと言い切ってます。
一切が無常だったら如来が常住し変易あることなしっておかしい。

天上天下唯我独尊ということはただ如来のみがあるってことなんでしょうか。




Unknown (Unknown)
2016-11-01 06:12:46
「ある」といったらそれはすべて「仏性」ってことだ
「如来」といったら「常にいる」ってことだ
そゆことー

っていう読み方は文法的に不可って感じ?
Unknown (Unknown)
2016-11-01 10:51:44
如来がわからないことには、オカシイとは言えないよね?

あちらからしたら、こちらがオカシイんだろうね。
Unknown (Unknown)
2016-11-04 01:49:49
不器用な凡人さんって、リンクまで貼り付けて、何をされたいのだろうか?
Unknown (Unknown)
2016-11-05 19:00:04
仏教の教義?を吟味すると、
より真実に近くなるというより
分裂に次ぐ分裂に、なるんじゃないの~?

めんどくさいよね
特別でありたいけど
一人はいやなんだ
っていう

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