6月公開の『ジェーン・エア』は、『闇の列車、光の旅』のキャリー・ジョージ・フクナガの新作。 もちろん、シャーロット・ブロンテのあの『ジェーン・エア』。どんな映画になっているのか愉しみです。
監督/園子温
埼玉愛犬家殺人事件をモデルにした暴力と殺戮のドラマ。
映画の内容、結末に触れています。
死体を処理するための場所として、教会のような外観の家が出てきます。マリア像のごときオブジェや、色とりどりな電球で飾り立てられているものの、そこにはでたらめな異常性しか見えず、これはまるでトビー・フーパーの世界。日常の生活圏から完全に切り離された場所ではないのに、まるで異世界のように閉じられた空間。その佇まい。『悪魔のいけにえ』や『悪魔の沼』の一軒家やモーテルが頭に浮かびました。実録風な映画を想像していたのですが、フーパーの世界と接触していると思った瞬間に、実録犯罪路線な空気は消え去って、露悪的なホラー映画へと変貌してしまいました。人の良さそうなでんでんが豹変し、相手を恫喝し、恐怖させる暴力性によってのみ、リアルな居心地の悪さが存在するものの、己の論理に基づいて生き抜いてきたオヤジの信念が勢いよく描かれていくうちに、それすらも希薄なものとなってしまう。突き抜けてしまった人、という描写は、いわば、でんでんやその妻である黒沢あすかや顧問弁護士の渡辺哲らを怪物視してしまっており、その辺にいる狂気の人、心の無い人、という恐ろしさから実は結構遠いところに彼らを置いてしまうことになっているのが惜しい。よって、悪趣味なまでの人体解体の場面も、人間ではなく怪物によるものということになり、意外にも凄惨な印象は無く、80年代のホラー映画にありがちな、やり過ぎて笑いに抜ける、という今までに何度も目にしてきたことを再現するだけに終わっている感じがしました。狂った論理を徹底させるでんでんも、それを受け入れている妻の黒沢あすかも(ちょっとかっこいいくらいですな)、キャラクターが立ち過ぎ。絵に描いたような悪役ぶりで、無茶苦茶な暴力と合わせて、ホラー映画の怪物としては間違いがないですが、ちっとも薄ら寒い気にはならないのは、どこか漫画的だからでしょうか。まあ、期待していたものとはちょっと違っていましたね。
ホラー映画として割り切れば、なかなかに気合の入った出来栄え。愉しめる作品になっていて、そういう意味では不満はなし。力作。
監督/ウィルソン・イップ(2010・香港)
1950年。佛山から逃れたイップ・マン一家は、香港で道場を開く。弟子が引き起こしたトラブルがきっかけで、洪家拳の師であるサモ・ハンと次第に固い絆で結ばれていくが、その先には、暴利をむさぼり悪逆の限りを尽くす、統治国家のイギリス人との戦いが待っていた…。
前作(未見。現在まだ日本未公開。続編である本作品の観客動員が、5000人を超えれば劇場公開の予定)は、明らかに反日映画であったわけですが、今回も中国人の国威高揚という意味では、映画の向かう先は一緒。ですが、矛先が日本ではないとなると、やはり見易くなるのは有難いです。
徒に国威高揚をドラマの基礎とはしていないのが良かったです。イップ・マン(ドニー・イェン)は、終始、寡黙な人で、決して表向き、激昂することはありません。無論、内側には熱い誇りが脈打っているのですが、クライマックスのボクサーとの決戦においても、淡々と戦っている印象があります。弟子や妻や息子に対して、世話になっている人たちに対しても、常に謙虚です。中国武術は戦うためのものではない、という自負があって、それを体現する人。なので、激しいアクションの部分を抜いてしまうと、50年当時の香港の、少しのんびりとした空気や猥雑さが描かれて、ごく普通の市井の人々の映画にも見えてしまう。ウィルソン・イップは当然、牧歌的な雰囲気をかなり意識して描いているし、撮影のプーン・ハンサンも、さすがの仕事ぶりで、ノスタルジックな空気感を出しています。洗濯物を干しに来るおばちゃんとのやりとり、弟子たちとの交流(月謝を取ることが出来ないとか)などがそうで、一方、部屋代を払えないので居留守を使うとか、留置場に入れられて保釈金を払って出るものの、弟子ホァン・シャオミンには出してくれる人がいない(家族がいない)ことが判るところなども、のどかさの反対の厳しさを感じさせ、結果として町の人々のさまざまな生活を感じさせる描写になっています。その平穏な部分と、戦いの部分の差が激しければ激しいほど、見る側の感情移入も強くなるというもので、おそらく中国人のみならず全アジア人にとって、燃える映画になっていると思われます。まあ前作のことがありますから、日本人はちょっと辛いですが。が、ラストには、身分の違いはあれ人間に貴賎はなく、きっと判りあえるはずだ、というメッセージがイップ・マンによって訥々と語られて、それにイギリス人観客が拍手で応えるというシーンがあり、単純に中国万歳に終わらせずグローバルな視点を入れてあります。そこは、中国映画ではなく、香港映画としての意地なのかもしれません。
アクションの見せ場もたっぷりありますが、地元の師匠連中と勝負しないと武館を開けないというルールがあり、仕方なくそれを受けるシークエンスが愉しい。大きくそして不安定な丸テーブル上での対決は、実は劇中一番アクションとしても変化に富んでいて面白い。最初に戦うロ・マンとフォン・ハックオンも有名なクンフー俳優らしいですが、確かに年の割には動きが達者。あそこを凄いという声はあまり聞かないような気もしますが、正直、相当凄いんじゃないんでしょうか?『カンフー・ハッスル』のブルース・リャンを持ちだすまでもなく、ずっと体を鍛えておられるんでしょうなあ。去年、倉田保明がブルース・リー特番で香港を訪ねたときもリャンが出演していて、さっそうとした動きを見せていましたからねえ。で、そのあとで御大、サモ・ハンが登場。個人的にはここが、クンフー映画としては最大の見せ場。ワイヤーワークの使い方も堂に行ったもので、戦ううちにテーブルの盤面が浮いてしまい、お互いがバランスを取るために、その縁をぐるぐると走りつつ、しかも戦い続ける場面など、本当はここで劇場内は拍手喝采になるはずです。あまりの激闘に、これを見ていた師匠連中も弟子たちも一斉に拍手をするのも至極当然。素晴らしかった。他にも魚市場みたいなところで、何十人という敵と、ドニーとホァン・シャオミンが闘うのもテンションの高い見せ場。そしてサモ・ハン対ダーレン・シャラヴィ(イギリス人ボクサー)、クライマックスのドニー対ダーレン、と盛り上げます。後半のアクション演出はあまり派手ではないのですが(いや充分派手でもあるけれど)、よりシリアスに展開することに合わせての計算なのは明白。ドニーの俊敏でしなやかな動きに、ぐいぐい乗せられてしまいます。燃えます。
サモ・ハンって良い役者だなあと思ったのは『野獣の瞳』のボクシングのトレーナーくらいから。『SPL』では黒社会のボスで、これも貫録の芝居でした。今回も渋くて良かった。ドニーにしても、サモ・ハンにしてもまず姿勢が良いので、立ち姿が美しい。体を鍛えるのは大切ですなー。それと川井憲次の音楽も素晴らしかった、これがなければ映画の興奮度はかなり下がっていたかもしれない、それくらいに圧倒的な力になっていました。しかしこの作品で一番興味深かったのは、ドニーの嫁、リン・ホンが、ドニーよりも背が高かったことです。

上の写真は多少地面に段差があるのかもしれませんけど。自分より背の高い女と結婚する男はいないことはないけれど、それほど頻繁に目にするほどのことでもない。ましてこれはシリアスなアクション映画であり、ドニーはヒーローとして描かれているのにもかかわらず。木村拓哉だってリン・チーリンと並ぶ場面ではかなり気を使ったと思うのに、ドニーは平気な様子で、つまりは、出来る男は、そんなことは気にしない、ということか、と。かっこいい、ドニー!ついでに、リン・ホンの彼氏はアーロン・クオックらしいですが、現実でも自分より小さな男がお好みなんでしょうかね。
監督/トニー・スコット(2010・米)
映画の内容に触れています。
後ろから接近し、連結してブレーキをかけても速度が抑えられず、結局列車が町の中へ突っ込んで行く先には、急カーブの高架!どうなるのか!という場面を見ながら思ったのは、『平成23年のカサンドラ・クロス』!でした(落下はしませんが)。CGを使っているのは惜しいのですが(個人的にはミニチュアでなんとかしてほしかった)、片側が浮き上がって走る場面など、おおっと声が出そうなくらいに興奮させられました。
列車を止めるための策が次々と失敗していくのがサスペンスたっぷり。最初はこれでなんとかなるだろう、くらいのことが段々取り返しのつかない方向へと突き進み、手を尽くしたそこで主役二人のこの事態への介入が始まります。何も関係のない人間がたまたま近くにいて、様子を見るうち使命感に駆られて、一か八かの賭けに出る、というシチュエーションはやはり燃えますね。事件当事者や関係者、警察や報道関係でない人間たちが、それも叩き上げと新米のコンビが反目しあいながら事態収拾に動く、なんて娯楽パニックサスペンスの王道ではないですか。そのために彼らのドラマが前半綴られるのは当たり前の話で、暴走する列車と、主役コンビの話が一向に結びつかない前半ですが、それはそれで意味がある。結びつかないからこそ、平凡な生活をしている人間が、とてつもなく大きなトラブルを抱えるサスペンスが生きてくる。これもパニックものの常道ですけれど、こうあるべき、というものです。というわけで、今の若者よりも、かつてのパニック映画ブームを経験している世代の方が、この映画を面白がれるような気がします。
使いきれていないキャラクターもちらほらと見受けられたし、もう少しハッタリを効かせてくれてもいいのに、というところもあります。特にクライマックスはちょっと疑問を抱きました。クリス・パインが手すりに取りついた瞬間にスリルもサスペンスも後退するのはどういうことなのか。『マイ・ボディガード』の盛り上がらないクライマックスを思い出してしまいました。まあ、あれはあれで好きなんですけれども。ブレーキをかけて停車していくところまで、疾走感を持続させてほしかったなあ。でも、その直前、そこに至って猛烈に並走してくる車のところは凄い盛り上がり方でした。割と最初の方から走っていたこの車、途中でその存在を観客が忘れるように作られているようで、そこで一気に飛び出すリズムと呼吸はさすがトニー・スコット。燃える瞬間でしたなー。
過剰な期待はせずに、軽く見たい一作。ふらりと映画館へ出かけて、軽くお茶して帰る、みたいなことが似合う映画。
今年見た映画は40本。非常に少ないのですが、ここ数年は大体こんな感じ。週に一本、映画館で映画を見る、という年頭の誓いが守られていれば、最低でも50本をクリアしているはずなのですが…。でもまあ、その中で、心に残った映画10本を選んでみたいと思います。あくまでも私個人が2010年に見た映画、ということで、2010年に公開された作品、ということではないです。
1 ライブテープ
2 第9地区
3 冷たい雨に撃て、約束の銃弾を
4 ぼくのエリ 200歳の少女
5 彼とわたしの漂流日記
6 闇の列車、光の旅
7 インビクタス 負けざる者たち
8 アウトレイジ
9 ゲゲゲの女房
10 黒く濁る村
上位4位まではスラスラ選べましたが、そのあとが難しい。どの作品も好きなので順位にはほとんど差がありません。1位の『ライブテープ』は、とにかく驚いた作品でした。ドキュメントの手法で劇映画のような空気を作りだしていることの衝撃。しかもラストは意味もなく泣けてしまう。不思議な映画だったなあ。こういう映画は見たことがない(単に不勉強なだけな気もするが)、と思える作品が未だに出現してくることの喜びもありました。2位の『第9地区』はおそらく世評でも高評価だと思うのですが、これも驚いた。元々、想像の埒外に話が進んでいく、という展開が好きなもので、ドキュメントタッチで始まった映画が問答無用の大娯楽SFアクションへと変貌していく後半には興奮しましたね。3位『冷たい雨に撃て〜』は、ジョニー・トー映画の言わば集大成として、これは自分が褒めなくてどうする、といった作品でした。4位『ぼくのエリ』。冷ややかなタッチの中で、感情が薄く燃える様子が素晴らしい。内容も勿論ですが、とにかく雰囲気が好き。5位『彼とわたしの漂流日記』は、これも発想の凄さにまずやられました。都会の中のサバイバル生活なんて、とても想像出来ないシチュエーション。面白過ぎる。6位『闇の列車、光の旅』の見せる現実の過酷さ、その中に輝く青春の煌き、その切なさ、そして美しさ。7位『インビクタス』は、80歳を超えてもまだ衰え知らずの、監督イーストウッドの力量に圧倒されました。『ヒアアフター』も愉しみですなー。8位『アウトレイジ』は、北野バイオレンスの変わらなさを、ただただ愉しく面白く見ました。続編にも期待したいところ。9位『ゲゲゲの女房』は、大規模シネコンでかかるような作品ではなく、本来はもっと小さな規模でひっそりと公開される作品だったのでしょうが、テレビのヒットでこういう形で公開されたのは、良かったのか悪かったのか。鈴木卓爾は自主映画出身であり、また幾多の映画でさまざまな経験を重ねて来たものが色濃く出ている、そんな作品に仕上がっていると思いました。如何にもインディーズ、自主映画的な雰囲気も強いですが、そこが魅力だと思います。10位『黒く濁る村』はこれはもう単純に好きな映画だったので。映画の出来栄えとしては多少不満は残っても、映画の進む方向にはゾクゾクする面白さがありました。ミステリとしては『瞳の奥の秘密』の方が段違いに素晴らしいんですけどね。以下、『アイガー北壁』『ボーイズ・オン・ザ・ラン』『瞳の奥の秘密』『ゾンビランド』『ダンプねえちゃんとホルモン大王』『イエローキッド』なども印象深いです。特別枠としてはカナザワ映画祭の無料野外上映で見た『シェラ・デ・コブレの幽霊』。良き夏の思い出。
大体こんな感じですが、これら以外でも、数本のがっかり映画を覗けば、まずまずの1年だったなあ、と思いますね。来年もこの調子で面白い映画を見たいです。あと、もうちょっと本数を多く見られるように頑張ろう。

監督/カン・ウソク(2010韓国)
音信不通だった父の死を知った青年は、葬儀の為に、ある小さな村へと向かう。父の死因について多くを語ろうとしない村人の反応に不審をを抱いた青年は、そこに住みながら、死の真相を追いかけ始めるが…。
以下、映画の内容、結末に触れています。
横溝正史的なミステリーを想像させるような宣伝をされており、見た人の感想の多くにもそういう意見があると思うのですが、はっきり言ってミステリーではありません。監督のカン・ウソク自身も、ミステリーではなくスリラーと言っており、個人的にはサスペンス映画、という感じ。ミステリ趣味もあるにはありますが、その辺に関して、特に本格ミステリ的な期待をするとがっかりすると思います。それよりも、父の死の真相を追いかけるうちに見えてくる、村長とその取り巻きたちのどす黒い人間関係にこそが、この映画の面白さ。161分という長尺にもかかわらず、退屈させずに見せるところはさすがベテラン職人らしい技といいますか、カン・ウソクの圧倒的な力量を感じました。自然光を使った撮影も良くて、パク・ヘイルが手斧をもったオヤジに追いかけられる所はその白眉。あんまりにも穏やかな空気の中で、緊迫した状況になっているそのギャップが激しい恐怖感を覚えさせるシーンになっており、盛り上がります。村をひとつをセットで作ってしまったことによる、村そのものの存在感も素晴らしい。村長宅から、村の全てを見下ろせる作りになっていることの不気味さなど、全体をきれいに計算しないと表現出来ないもので、その手間をかけただけの説得力が確かにありました。
にもかかわらず、映画としてはいまいち整理が行き届かず、そこが惜しい。本来ならばクライマックスで明かされて、観客がええっと衝撃を受ける筈の部分が、ちっともそうなっていないのは、何かがおかしい。集団自殺事件や、父の死の真相など、話の持って行き方で、いくらでももっと重く衝撃的になるはずですが、これは物語の構成上でのミスとしか思えない。このどこか話の肝をずれている感じは、終盤で急速にねじ込まれてくるユソン の視点もそうで、それまで主に、ヘイルや、村長のチョン・ジェヨンの視点で語られてきた物語が、突然別の視点に移るのも違和感がありました。しかもそれが話の核の部分に係わっている。どうしてこの段になって?と思っていると、ラストショットでは、全てがユソンによって仕組まれたことではなかったのか、と匂わせてあり、実は最初からそこを念頭に置いた物語の作りだったのか?と、そこに衝撃を受けました。そう思えば、妙にあやふやな作り方になっているのも、意外と計算高いものがあったのかも…と思わなくもないのですが、まあ例によって考え過ぎでしょう。
しかしカン・ウソクは『シルミド』でもそうでしたが、顔で語りますね。特にクライマックスでは、顔のカットの切り返しばかりで構成されていて、アップも多く、強引なまでの老人メイクにこだわっていることも含めて、顔そのものこそが重要だ、と言いたげで面白いと思いました。だからこそ、イイ顔のオヤジたちがキャスティングされてるんだなあ。

監督/ブレック・アイズナー
映画の内容、結末に触れています。
ウィルスパニック映画がこれほどまでに世間に蔓延してしまった現在、ロメロ作品のリメイクであることは、全く意味がなくなってしまいました。極秘に開発されていたウィルス兵器が漏れ出して、限定された地域で蔓延、人間が凶暴化してパニックになる…と言う話は、『28日後』とその続編もそうだし、ゲームだと『バイオハザード』シリーズが繰り返しているし、ゾンビ化しないとなれば『アウトブレイク』などのような作品もあり、何よりも今年だと既に『フェーズ6』もあり、もう何一つとして新鮮な面白さはない題材です。にもかかわらず、ロメロのリメイクという、謳い文句になるのかならんのかわからないような一点だけが企画の成立理由としか思えない映画なのですが、何もないなりに頑張っており、普通の娯楽映画になっていました。
野球の試合の最中に、ライフルだかショットガンだかを持った酔っ払い風情の男が、グラウンドに進入。保安官のティモシー・オリファントが彼を宥めようとするものの、男は銃を持ちあげ、保安官はとっさに彼を射殺してしまう、というオープニングはなかなかの緊張感。そのあとも、家族を閉じ込めて家に火を放つ男や、電動カッターで襲いかかる葬儀屋、鹿か何かのように獲物として人を射殺しまくるハンター3人組、などなど、バラエティに富んだ殺人鬼が次々と登場し、まるで飽きさせません。むしろ楽しい。大筋はこれまでにあった話と同じなので、他にいじるところといえば、個々のキャラクターしかないということなんでしょうけど、それがもうこのジャンルの映画が終わっていることを示していると思います。それでも、ここから脱出しようとする主人公たちの心理はそれなりに描かれており、平常心を取り戻そうとするかのように、干したままだった洗濯ものを取り込もうとするラダ・ミッチェルの姿は印象的だし、感染して徐々におかしくなっていく保安官補の描写も、恐ろしくありつつも悲哀を感じさせて悪くなく、狂う前に自ら死を選ぶ姿も悲しくてやりきれない。演出も脚本も、なかなか手を尽くして愉しませてくれるのは、娯楽映画としては素晴らしいことだと思うものの、全体の既視感は如何ともしがたく、愉しいなあ、と思いながらも、まるで面白くない、というなんとも残念な映画の見かたになってしまいました。
ティモシー・オリファントは学生時代は水泳の選手だったらしいですが、背も高いし、体のラインの均整がとれていて美しい。立っているだけで絵になる。ラダ・ミッチェルもやっぱり、スッとしたスタイルが映えますね。『サイレント・ヒル』の立ち姿がとてもきれいだったのを思い出します。また、荒野の一本道を横一列で4人で歩くショットなど、あまりにもかっこよくてため息がでそうなくらいでした。保安官補のジョー・アンダーソンも実は結構男前なんですよね。4人がやがて3人になり、並んで歩いていたのがずれはじめ、最後は二人になり…という画面上の変化の付け方も悪くなく、小さな田舎町の風景や暮らしぶりも良い感じで、映画としてはそれほどケチのつけようがないのですが…。今年一番、残念だった映画かもしれない。

監督/長江俊和
監督の長江俊和は、テレビの「放送禁止」シリーズを作ってきた人です。フェイクドキュメント映画としては史上最大規模のヒットとなった前作に(まあ「クローバー・フィールド」もあるけどちょっと意味が違う)、そのテイストが入ってきたらどんな映画になるのだろう、という期待はごく自然なもの。当然、長江監督が何をやらかしてくれるのか、というのがこの作品の一番の期待どころです。
以下、映画の内容、結末に触れています。
驚くべきことに、ほとんど前作と同じことが繰り返されます。舞台が東京であることや、カップルでなくて、姉と弟が主人公であることなど、勿論変更されたところはあっても、何でも撮ろうとする弟の鬱陶しさや、霊的なものを見る力のある知り合いの登場など、確かこれは前作にもあったような…という場面が次々に描かれます。そうか、これはリメイクなのか、と密かに納得しつつ見ていると、後半で突然、リメイクではなくちゃんとした続編だった、と知らされて更に驚きました。そうだったのか!前作の恐怖はそのまま続いていたんだ!こういう仕掛けは愉しいですね。
予告篇にも出て来ますが、今回は定点カメラが2台に増え、姉と弟の寝室それぞれに設置され、スプリットスクリーン的に、二つの画面が並んで描かれるのが面白いところ。設定を姉弟にし、部屋を別々にしたことで、2台のカメラを使うというアイディアがちゃんと生かされる怪奇現象が起きるのも愉しい。前作に倣い、何かが起きるときには、ズゥーンンン…と低く唸る音響効果も恐ろしい。場内が、本当に水を打ったように静かになり、観客の集中力が異様に高まっているのを感じられるのも、映画館で映画を見る醍醐味。何かあればはっと息を飲み、何もなければほっと息を吐く、前作共々、アトラクションとしては上出来だと思います。ただ、この調子だと同じことをやっているだけで、いまいち盛り上がらない。不安になっているときにやってくるクライマックス、これは怒涛の展開。ここに至って「放送禁止」の監督であるということが、ぐわっと一気に噴き出して来て、前作とは違った方向へ突っ走ります。
このクライマックスが怖いのは、定点カメラではなくて、弟の主観カメラが決定的な場面を録画している、ということです。この主観カメラは、姉の寝室の窓ガラスが割れて十字架が燃え上がる、という超常現象もとらえていますが、それは役割としては定点カメラと同じです。弟がその場にカメラを置いて行って、それで撮れてしまう。それは単なるカメラの主観映像に過ぎず、撮っている人間の主観ではありません。しかしこのクライマックスでは、弟自身がカメラを回し、その眼の前で衝撃的な事態が起きてしまいます。恐怖そのものに直接触れてしまう。その動揺と恐怖がそのまま、後ろで見ている観客にダイレクトに伝わる仕掛けになっているのが素晴らしい。客観に過ぎなかった映像が、最後に至って主観になってしまう、傍観者だった弟=観客が当事者になってしまう瞬間です。客観による恐怖を主観に置き換えるという作業は、前作にはなかったアプローチであり、本当に真実は見えているか?とクライマックスで問いかけることで世界への積極的な没入を誘う(傍観→主観)「放送禁止」が、ここで繋がっています。その見事な移行の演出力と、前作が完成させている構成を、自分のフィールドに力技で持ち込む力量に、監督の意地を見た気がします。オーレン・ペリより、全然上だと思いました。

監督/ウケ・ホーヘンダイク
アムステルダム国立美術館の改装・改築をめぐるドキュメンタリー。現在に至っても未だ閉館されたままという、この状況に至るまでの経緯が描かれており、非常に興味深く見ることが出来ました。
映画の中では、現代美術の展示は必要か、ということが問題になる場面があり、びっくりしました。こんなに歴史と権威のある美術館であっても現代アートはまだまだ認められていないのか、ということが。いやしかし監督のホーケンダイクは舞台監督出身ということもあり、この映画の冒頭、解体作業中の美術館を捉えたショットの積み重ねは、現代アート的表現以外の何物でもない、という描写になっているのがまず面白かった。暗い画面に小さな光がひとつ、ふたつみっつと増えていくと、それが解体で開いていく穴だと判るところ。穴から入る光が作りだす模様、天井からコンクリートの塊が水溜まりに落下していく場面のリズムは音楽的ですらあり、さらに飛び散る火花も美しい。最初はそういうところに魅力がある映画なのか、と思っていたのですが、それは本題ではなく、改築に関わる人々のさまざまな人間模様が主題となります。興味深いのは、大きなプロジェクトが動くときには、トラブルがつきものなのだ、ということ。それは日本であろうとオランダであろうと変わらない。館長、建築家、役所の人間(公務員というか官僚というか)、市民団体、美術館員、などなど、関わる人々は本当にさまざま、それぞれが主張を譲らない。話は平行線を辿り続け、まるでかみ合わない(建築家は、民主主義の弊害だという)。結局開館などは夢のまた夢、映画のラストではそんな幸福な結末は訪れず、現実に開館予定は2013年というはるか先の話になっています。そんな人間模様を、面白い、と言うことが充分可能なほど、波瀾に富んだ展開ではあるのですが、正直滅入るな、という気分の方が大きかったです。
本当は、そういうトラブルめいたことを主題にするつもりはなかったでしょう。アジア美術に猛烈な愛情を寄せる美術館員の姿などは微笑ましく、到着した力士像の梱包が解かれていくときの彼の子供のような表情は、美術品に対する愛があふれだす素晴らしい場面だし、修復師による作業の様子なども見せ場の一つで、その修復のテクニックが見られるところもさることながら、くすんだ色合いが鮮やかに甦る瞬間の感動などは、修復師ならずともなんとも言えぬ興奮があります。ひと気のない改築中の美術館をひとりで管理する警備員や、学芸員たちの絵を選択する様子など、本来は美術館に直結する人々の喜怒哀楽が描かれるはずだったのではないか。しかし現実はそう甘くなく、事態は周辺を回り続けるしかなく、ちっとも本題に入れないまま、混沌としたまま映画は終わりを迎えます。が、現実は終わっていません。戦いは今も続いているでしょうし、ホーヘンダイクも撮影を続けているでしょう。何年後かにきちんと開館されて映画も完成することを祈ってやみません。
リミット

監督/ロドリゴ・コルテス
映画の内容、結末に触れています。
木の棺桶に閉じ込められ、埋められた男。手元にあるのは、ライターと携帯電話。どうやって外に出るか?必死のかけひきが始まる…。というようなお話。『CUBE』とか『SAW』とか、閉じられた空間からの脱出、というシチュエーションの映画は色々あると思いますが、この作品もその系譜に並ぶものといえましょうか。
ただ、この作品が特異なのは、出てくる俳優は、基本的には生き埋めにされた男、ライアン・レイノルズただひとり、というところ。まあ他にも携帯電話に転送されてくる映像に女性が出て来たり、ライアンがかける電話の向こうには何人かの人物が出てきますから、完全にひとり、というわけでもないですが、ほぼ彼の一人芝居といってもいい内容になっています。助けを求めて電話をかけても、部署が違うと、次々にたらいまわしにされる緊迫した状況と、死にたくなければ金を払えという犯人とのかけひき。回想や、外部の様子といった、客観的状況を全く描かず、あくまでもライアンの主観のみで展開させ、最後までそれで徹底させているのは、なかなか勇気のいることだし、ある種実験的なところもあって、その心意気は素晴らしいと思いました。
しかしながら、映画がクライマックスに近づいても、一向に脱出の手立てが見えず、最悪の事態が迫ってくるころになってようやく、もしかしてこの映画は、脱出ということに主眼は置かれていないのではないか?と、うっすらと頭をそんな想像がよぎりだし…。『フローズン』にしても、誰もいない助けも呼べない空間に置き去りにされた人たちの話ですけれど、あの映画からトリッキーな方向での生還、というのはあまり考えないと思うんですが、この映画もそういうタイプの映画でした。『SAW』ではなくて、『オープン・ウォーター』なのでした。そういうものだ、と判って観る分には納得出来るし、イラクで襲撃されて拉致されるという設定や、たらいまわしの件や、無理やりでっちあげ(かどうかは不明ながら)て契約を切ってうちとあんたは無関係と言い放つ会社側の非情さ、契約社会の恐ろしさ、なども面白い。充分にサスペンスとして成立していると思います。
ただ、それは勝手な思い込みだろう、と言われたらそれまでなんですけれども、こういう映画とは想像していませんでしたので。どうやって脱出するのか、というところに映画の力点がかかってるんだろう、と思っていましたので。バッドエンディングがダメなのではなく、あまりにも普通にするすると終わってしまうので、え、これで終わり?と思ってしまったのも事実。マーク・ホワイトの名前を四角で囲んだ意味は何なのかと色々深読みしている意見もありますけれど、ぼんやりしている観客は、映画が終わる頃にはマーク・ホワイトという名前が出てきたことを忘れるんじゃないか、という作り手の配慮じゃないですかね。ライアンの笑い声も、電話の向こう側のFBI(だったかなあ)に「本当にすまない…」と、死を宣告されてしまえば、そりゃ笑うしかないよなと。さんざん期待持たせてこれか、という絶望感の表れ。そのあとに流れ出す能天気なエンディングの音楽も、呆然自失感を煽って良い感じでしたけど…。観方を間違えたなあ。










