菅井滋円 作品集

絵を始めて半世紀以上の歳月が流れた 絵に向かう時何時も満たされないモノがある その場がここになりつつある。

彷徨いて 1

2018年06月29日 | 菅井滋円 作品集
彷徨いて 1
掲載した写真は4~50年以前の日々を語る写真であり 当時のカメラが街を拾った様子がそのままを語っている。
そのカメラもイマはない ここでは古色を帯び街の様子を語るのみである。
その後街は変わり人も変わる  あちこちと彷徨よい歩いた足跡も同時にいまは失われ 残されたセピアを帯びた写真が 名残を留めるのみである。

いまは古き家に昔日へのノスタルジーとなった  イマはむかしの今昔物語となった。




                      旧高瀬川



                      紙屋側上流




                      漬けモノやさん

待合室

2018年06月15日 | 菅井滋円 作品集
待合室
病院で辛いことの一つは長時間待たされることである
F病院で消化器内科の前で その後ろに待つのが常である その様な外来患者が 二階は三人掛けベンチが前後ありそれが60~70あるだろうがほぼ満席 そこで予約していても3時間待つのであるから それは難儀なことである 多くは人生の晩秋を感じさせられる人たち その晩秋を迎える顔々々 3か所の椅子が2~30並べられているが それらが8階建のビルイッパイであっちにもこっちにもある。 病院はいつもほぼ満席で よくこれだけ病人が居るものだと呆れる 病院の待合室はわたしに忍耐を教えて呉れた。

3時間も待つのは辛い ちょっとした小説を読んでトキを過ごすのもその一つだが この日は病院前のバス停から 乗ったことのないバスのコースに行ってみよう 先は何処へ行方知らず 時間を潰そうと 京都市バス4番に乗ることにした 酔狂なことだが ここで「来た時任せ」にそのバスに乗ることにした 待つことなく4番のバスがやってきた。

バスの乗客はやや少なく 中にはちょっとカッコよいオネイさん 50~60歳かくらいだろうかが2人いた。  そのオネイさんは運転手さんに
「このバス銀閣寺へ行きますか・・?」
と尋ねていた 尋ねられた 運転手さんも丁寧に答えていたが たまたま進行中のバスで わたしの前の席に 彼女達の席があった。
わたしは前方を示しながら 彼女に目の前の一群の人が屯しているところを指示して
「前に人が並んでいるでしょう アチラがバス停です 次ぎで降りてあそこでお待ちなさい・・」
と云った バスは今出川の橋を東へ渡り 北へ曲がり 出町橋の袂で停まった。 カッコよいオネイさんは 軽く会釈して降りて行った。
このバス同乗の客は少なく 加茂川西へ再び渡り北上しながら 知ってる地名 辛うじて知ってる地名 まったく知らぬ地名を 左へ右へと回って行く わがままな町内会の声が このわたしの耳に聞こえて来る バスを通せ! ここに停車場を造れ! 同じ街に住みながら ことの成り行きが新鮮に見えてきた。

このバスの終着点は上鴨神社であった 約20分で上鴨神社の白砂を踏んだ バックの中より小銭を取り出し 先ずは神社に賽銭を供え 二礼二拍手。
ここには鴨氏一族に残る神話がある それには 川上から丹塗りに矢が流れ 乙女はその矢を持ちかえった すると乙女は懐妊したと云う話しがある その神話の鴨の小川の畔を彷徨い歩いた 長袖のシャツは着ていたが暑い もうボチボチ時間が来たと病院の待合室が呼んでいる。  この彷徨のひと時を閉じることにした。

上鴨神社の西 鴨の橋を西へ渡り ハテこれから・・バス停は・・
その辺りにはバス停はない 閑々として尋ねる人も居ない 鴨川の西岸の木陰を求めて歩く 貴方・・本当に病人? と何方(どなたか)がオッシャル   オヤオヤ暑い中で誰か働いている人が居る
「オジサン バス停は何処?」
コチラを振り返ったカオ。  渋紙にベンガラを塗りつけた様でまるで鬼瓦 それは赤鬼だ
「ああバス停か? バス停はアッチ!」
とシャベルの先が示していた
「ありがとう!」
シャベルの示している先に 前方からバスがやって来る わたしは手を挙げながらバスに向かって走った。






北山

2018年05月25日 | 菅井滋円 作品集
北山
4月も末になりバスの窓外は晩緑となっていた 南は御所と北窓は同志社の校舎の間の木々の梢は晩緑の中を行く われわれは京都大学総合博物館での覧会を見るために出かけた われわれと云うのはI氏と同道していた 程なく百万遍で下車して 徒歩で南へ凡そ100m 博物館へと入る 館内は外の明るさと反対に閑静で心地よい冷たさ われわれの外に2~3人の鑑賞者が居る位でまことに贅澤な時間であった。

この度の展覧は「足もとに眠る京都」―考古学から見た鴨東(おうとう)の歴史―というタイトルである。
京都はどこを掘っても歴史があると云われているが 建築するのはその下にある歴史とお付き合いであり 鴨川の東に縄文時代から今日までの歴史がある 東京の隅田川の東を墨東と云う言葉があるが 鴨川を挟みそれより東を鴨東というのであろう。 多くは京都大学の校舎建造の際発掘したものの展示で縄文時代の家を想像させる発掘址 また「六勝寺」(りくしょうじ)平安末期貴族の館が軒を並べるていたのではなかろうか。
学舎の地から掘り出した考古学は京都大学の縄文から室町時代にかけて発掘された古代の資料展示であった。
学生の頃林屋辰三郎先生が講義されていた動物園の中にあったと云う法勝寺(ほっしょうじ)にあったという 八角九重の塔は 白河法皇が建てたとの講義を思い起こされた おそらく遊牧文明の西遼の塔をモデルにしたものであろう。
京都市動物園がその地であったが二度の災禍で失われたという 往時の瓦や発掘したモノも多く それらの実像から想像した絵図が展示されていた。
縄文の土器から発掘した人々の喜びが伝わってきた 発掘に参加したであろう辛苦と喜びを3時間ほど拝見できた。
暗い館内から外へ われわれは京都大学の食道で憩った 瞼を洗うような緑 コドモがスケートボードを楽しんでいる。 学生食堂の午後である わたしたちは百万遍からバスで帰宅した。


ゴールデンウイークからは抗癌剤の副作用のため入院しなければならなくなり 病院の7階の北窓から北山を遠望することになった。
副作用の薬剤はこれまで2種類あり 初めに受けたのはネクサバールと云う薬で足の裏が白くなり歩行困難になり薬のテストであり このゴールデンウイークに受けることになったのは新しく出来たレンピマと云う薬剤であった。

わたしはネクサバールの反応は足の裏に出た薬害で新しく出たレンピマと云う薬のテストのための入院であった。
入院は10日ほどの予定で この薬のわたしの体に与える影響を調べるためのものであった。

わたしは幸い窓際のベッドでウイリアム・フォークナの文庫本「響きと怒り上・下」と云うモノを読んだ  また病窓から北山過ぎ去ったコトの繰りごとから何も生まれない 寂寥の過去は病人に与えられた試練であろう。

孤独でないと独創はあり得ない 病は薬の調整の場所と思われる。
10日の入院生活を終え 再び「考古学資料館」と「京都大学総合博物館」を訪ねた 更に足を伸ばし またたまたま入った白峰神社で蹴鞠が模様されていた 白峰神社を北へ 本阿弥光悦が生まれたというところに井戸の残っていた 歩き疲れ公園のベンチで休んだ 光悦由かりの本法寺と云う古寺に入った 本阿弥光悦の作庭した「巴の庭」 廊下の杉戸に放たれた二羽の鶴 剥落しようとする羽に僅かに残る胡粉の白。  わたしはそれらに酔っていた  突然足が攣り こむら返りを発症させてしまった。
病後間もないのに8時間に亘り病人が憑かれた様に歩きとうした余りにも向う見ずであった。

タクシーで帰宅 横臥した。







回帰 3

2018年04月27日 | 菅井滋円 作品集
回帰 3
バスを待ちながら若い日のことを思い起こしていた。
今出川大宮で乗り換へるために下車したが そこは西陣の問屋の工場があった そこは嘗てアトリエにしていた。
多量の画材を持ちこみ まことに独善的な絵を描いていた場所で そのときの二階からの窓外景色がいまも残されている。  いまの考古学博物館の前である。 二十歳の半ばより十余年当時の西陣織物会館があったのである。

バスを待ちながら気になることがあった 隣で不安気な顔で地図を見ている青年である。
「どこへ行くの・・」
と声をかけた。
彼は以外なところからの声であったのだろう チョト間をおいて
「大将軍と云うところなのですが・・」
その返答はわたしの予想外の観光客である。
話して見て一昨日新潟から夜行バスで独り旅で京都へ向かってきたというのである。
バスと同じ方向なので案内しようと この珍客を北野神社前で下車して大将軍八神社へ案内した。
大将軍八神社は平安京鎮護の方位の神で歴史は古い わたしは久しぶりに賽銭を供え二礼二拍手 彼もわたしに摸して頭を垂れて拝み オガタマの木 裏の大碇を 集印帳を買い印を押してもらい 帰路に就いた。
わたくしには案内人ばかりはしていられない 彼を椿寺を案内しながら コンビニでお粥を買いに行く話しをした。
彼はそこにも付いて来た。
結局はわたしの家へも来た そして銭湯へも行った。
八時を過ぎて彼が帰った。  春の珍事は暮れた。


   



回帰 2

2018年04月13日 | 菅井滋円 作品集
回帰 2
命長ければ恥じ多しという言葉がある。
徒然草の言葉だが 著者だと云う吉田兼好がどのタイミングでこの言葉を記したのか 前後の文体を忘れてしまった。
「命が長い」のと「恥が多い」の二つの言葉は長寿の結果恥が多いのであろうか?  わたしにはそうは思えない。
若い時のことを思い起こして感じた事柄を 著者は自嘲と揶揄が含まれて恥ずかしいので アンテナの鈍い人は持たないシナヤカな感受性と云うことだと思う。
全ての長寿者が恥じることではない。  命が長いので若い日のことを恥じたのであろう 改めて嘆くことになったのだろう。
それにしても誰に恥じているのか?  そう云えば最近しみじみと身辺にいた人々が 何処へ行ったのか 居なくなっている。  そして恥じる人のいないコトに年齢を感じ寂しく やるせなさだけが残り 生きていて自らに恥じているだけだ 恥じている。
病院へ通うのが週に何回も重なると 絵を描くことに専心出来ず気力も萎える 無理にこれまで何度もして来たことだが 絵を描くことへの沢山の習作のである。
空いた時間を埋めるとき絵の整理をし出した。  余計なモノを数多く描いてきたものだと呆れる いつも集中して絵を描いてはいられないわけである。
キャビネットの中に残された習作を目にすると これも亦恥ずかしいことだ。
デッサンやエチュード・水彩・パステル・墨 その他いろいろな山が出来ている。  内容も多岐にわたる   2~3日整理した たちまちゴミ袋の30Lの袋5~6ケ出来た それらの袋を何週かにわたり捨て去った そして自らに恥じるわけだが 病の身でいくらも出来るわけではない 瞬く裡に陽は落ちて行った。

孤老は夜に入っても紙を裂いていた。