今日テレビを見ていたら、いじめ問題の特集をしていて、「菊池先生の「ことばシャワー」の奇跡 生きる力がつく授業」と言う本が紹介され、その菊池先生の集会に取材に行くと言うことでした。
私がこの本に興味を持ったのは、「生きる力がつく授業」という、「生きる力」というところです。
孫に「勉強してますか」という質問をすることは、勉強をしなければならないという前提があり、本人も勉強はしなければならないと思っている場合は、それでいいと思いますが、本人が勉強って面白くない、何故勉強しなければならないのか・・・と思っていたら、「勉強してますか」と聞くことは苦しみを与えるだけと思います。
そこで何故勉強しなければならないのかを書こうと思って書き始めましたが、政治問題が出て筆が進んでいません。
私の結論は、「生きる力をつけるために勉強をするのだ。」と言うことです。その「生きる力」をつける授業と言うことは、若しの考えた結論に通ずると考えたので、一度読むべきだと考えてここにメモを残すことにしました。
「菊池先生の「ことばシャワー」の奇跡 生きる力がつく授業」菊池 省三/関原美和子:著(講談社)
本書は、少々毛色の変わった教育書です。教育ジャーナリストである、関原美和子さんが書いた菊池学級の記録(ノンフィクション)部分と、菊池先生が書いた「ことば・シャワーメソッド」の2部構成になっています。いわゆる「教育書」では、通常後半部分のみですから、本書を読み始めるまでは、こうした構成が有効なのかどうか、疑問がありました。
けれども一読してみると、この構成は必然でした。「コミュニケーション能力の育成」という本書の主張を伝えるためには、この方法しかなかったのではないかと思えます。
ある教育実践が成果を上げたとき、それはメソッドがよかったのか、環境が良かったのか、はたまた別の要素か、ということがしばしば議論になります。教育の営みが、基本的には一度きりのものであり、再現不可能なものである以上、それは永遠に答えがでない問題です。
それでも、せっかく成果が上がったのだから、なんとか記録しようとすると、実施したことの積み重ねと実践者の考察とならざるを得ません。教育書というのは、こうしたジレンマがあるなと常々思っておりました。
その点本書は、冒頭に関原さんによる菊池学級の客観的レポートがあることによって、「ことばシャワー」の実践が、子どもたちにどのように受け止められたのかということがよくわかります。一言で言ってしまえば「受け止められた」わけですが、そうした結論に至るプロセスこそが大切です。このレポートの価値は、子どもたちの「変化の途中」を記録したところではないでしょうか。たとえばこんなところ。
子どもたちが伸びようと必死になっている姿は、痛いほど伝わってくる。それでも(中略)今年度の子どもたちは、まだのびのびと自分を表現し切れていないと菊池教諭は感じていた。「○○さんのいいところ見つけ」も、どこか評論家のようで表面的だ。表面上は変わってきたが、まだ自分の成長にせいいっぱいで、本心から相手を思いやる気持ちにまではいたっていないのかもしれない。
また、折々の話し合いの授業の中で、子どもたちから出された意見(板書)が記録されているのも参考になるのではないでしょうか。1学期の内容と3学期の内容、違うのは当然ですが、こうして改めて提示してもらうと、子どもたちの変化が実感できます。
ノンフィクションと教育書の合体。本書は、そう単純な構成ではありませんが、そのように見てみると、なかなか興味深い編集方針だと思いました。菊池先生がおっしゃっている「子どもたちの心の成長」というのは、教科教育の成果以上に定量的評価が難しい分野です。それだけに、第三者の視点を加え、成長の様子を記録することでその点を明らかにしようとした本書の企画は、成功しているように見えました。