黄昏叔父さんの独り言

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 散歩コースに有る「野神さん」の由来

2016年10月08日 14時48分31秒 | その他

           


 私が天気が良ければ保々毎日出掛ける散策コースの途中に「野神さん」と言われる祠が有ります。我家から那賀川の堤防を1.5Kmほど上流に向かった堤防の中段の周囲に何も建っていない寂しい場所に其の祠はひっそりと立っています。私は此の在所の生まれでは無く世間で言う所の「来たり人」で此の地には何の縁も無い人間なので此の「野神さん」の由来については全く知りませんでしたが定年退職して健康の為に堤防近くを歩く様に成った初めての春に此の場所に見事に咲いた大木の桜の花に魅せられて散歩の帰り道に一寸休憩に寄った時に写真の看板で其の由来を知りました。


 丁度此の場所は河川が山間部から下って平野部に出た直ぐの場所で所謂広大なデルタ地帯の「扇の要」の様な場所で山から流れ出て来た肥沃な土と山からの綺麗な水で昔から美味しい米の産地として有名で阿波の殿様は此の「大野米」を毎日食して居たと言われています。反面、平野部に出た直ぐの場所ゆえに川幅も狭く落差がある為に洪水に悩まされる事が多かった様で看板の説明文に寄ると堤防を暴れ川から守る為に人柱を立てる事を決めて人選をした様だが地元では成り手が無かった様で「そりゃ当り前の事で幾ら人の為、村の為と言えども誰も生き埋め等には成りたく無いわな・・・・・」其処で苦肉の策として事前に決まった日に通り掛かった一番最初の女人を人柱にする事にしたらしいが此の様な話は昔では良く有る話、結局は地元の住民でなく事情を全く知らずに通り掛かった人が犠牲に成ったのであろう。当人としては幾ら説得されても納得が行く話しでは無いので半ば強制的なものだったのかも知れない。


 此処でお遍路姿の女性だったと言う言い伝えも少し気に成る所、現代のお遍路さんは信仰心も勿論だがどちらかと言えば物見遊山を兼ねた旅行の様な物だが昔のお遍路は今と違い生活で食詰めた人や不治の病に掛かったり色々な事情で生まれ在所で居られない人が心の安住を求めて一生涯、八十八箇所を参り続けて何れかの地で亡くなるまで回る人も少なく無かったのである。四国を御接待の国と言うが八十八箇所を回りながら各家庭の軒先でお経を唱えると(托鉢の様な行い)家に寄ってはお茶碗一杯のお米が貰え(貰えるまで立ち去らない人も居る)各墓地の近くには庵(おわんと言っていた様に思うが質素な宿泊設備が有り)自炊が出来た様で何とか生き続ける事は出来たのだがお遍路の途中で亡くなったり墓守をしたりして定着する人も居た様で大きい墓地に成ると四国以外の・・・国の・・・・住人と書き込まれた旅の途中で亡くなった人の墓石を見掛ける事はそう珍しい事では無い。


 此の様なお遍路の流れは大東和戦争に負けた日本が極貧の時代の昭和20年代の初期にも結構有り私が小学校3年生近くまではお坊さんで無い人が白装束を身に纏い庭先でお経を唱えて何か食べ物を貰えるまで立ち去る事無く延々とお経を唱える人も結構居た。身形は貧しそうな姿で私は子供心に農家なので米櫃には幾らでもお米が有るのに何故あげないのだろうか?と子供心に心を痛めたが子供には解らない大人の(其の当事はお米は非常に値打ちが有ったので成りすましや計算された行動)表裏の世界があった様で当時は其の人達をお遍路さんとは言わずに(へんど)と少し蔑んだ様な響きで呼んでいた。従って子供時代の遍路(へんど)と言う言葉から来るイメージと最近のお遍路さんと言う言葉の響きには随分相違を感じるので其れ寄りも遥かに古い昔の話だと其の様な事も有り得他のかなぁ~?と考えてしまう。


 此の写真の説明文が正しいものなのか如何なのかは?私には知る由も無いが万一本当の話だと御本人にとっては御気の毒な話だと思いながら静かに両手を合わせた。四国には御接待と言う言葉や行いが有るが此れは単なる物を差し上げて御迎えしたり接待する行いだけで無く色々な事情で四国の地で不幸にして旅の途中で亡くなられた人達の最後の御世話も含めた行いも含まれて居る様に思えて成らない。


 
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