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石井孝 『近代史を視る眼』1996 吉川弘文館 田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980 NHKブックスほか 1-5-1

2016年10月29日 | 幕末・明治維新

              ▲ ねずまさし 『天皇家の歴史』 1976年 三一書房 当時定価580円×2

 

石井孝 『近代史を視る眼』1996 吉川弘文館 田中彰『明治維新の敗者と勝者』1980 NHKブックスほか 1-5ー1  今回はねずまさし 『天皇家の歴史』 下巻 第28章 を中心に

 

今回は、前回から引き続き、孝明天皇の死に関わる問題について触れた、論考の紹介である。

入手が遅れたので、この問題について、戦後最初に口火を切ったねずまさしの紹介が、最後になったのだが、ようやく手元に届いた。まずは、これまでの例にならい、本のタイトル・刊行年・出版社・価格、目次などを紹介。

 

 ▲ねずまさし『天皇家の歴史』 上・下巻  1976年 原著は1953年新評論社 で、最初は単行本3冊。

上記の三一書房版は、新書2段組で、上下の2冊で刊行される。1953年版に若干の誤字訂正と2、3の史料を追加したと、まえがきで記している。定価580円×2冊 まだ文字数を数えていないが、小さな活字2段組で、上巻304頁+下巻318頁で総頁数622頁である。日本が戦後独立して、自由な言論全開という、熱気に満ちた本であると思う。

ねずは、京都大学の考古学の浜田耕作に学んだが、その師の姿勢に飽き足らないのか、あるいは彼の強烈なイデオロギーのせいか私はわからないのだが、戦後は、日本史に潜む権力史の解明に精力を傾けるようになっていくようだ。戦前の京都大学・浜田考古学研究室のねずの勉学ぶり、研究室の内容も興味があるのだが、いまのところ書くだけの材料に欠け、それはまた史料を収集した後、別の機会に譲る。

 

 

ねずまさしの『天皇家の歴史』 下巻 の第28章は以下のように2つの項目に分かれている。

第28章 孝明天皇の毒殺 

1 典医の報告でも毒殺を暗示する

2 ただちに毒殺の世評おこる


さて、早く読みたいのはやまやまだが、あせらず、急がず、未来の日本を考える、これからの読者のために、まずこの本の目次詳細を紹介


▼ねずまさし 『天皇家の歴史』 上巻目次 1

▲ 『天皇家の歴史』 上巻目次1

 

 ▲上巻 目次2

▼ 上巻 目次 3

 ▲ 上巻 目次3

 

▼下巻 目次 1

 ▲ 下巻 目次 1

 ▲ 下巻 目次 2

 ▼ 下巻 目次 3

 ▲ 下巻 目次3

▼ 下巻 目次4

▲ 下巻 目次 4

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では、ねずまさしの『天皇家の歴史』 下巻 第28章の抄録 

ねずまさし の本文は茶色の「 」内の部分です。

ねずまさしの『天皇家の歴史』 下巻 の第28章は以下のように2つの項目に分かれている。

第28章 孝明天皇の毒殺 

1 典医の報告でも毒殺を暗示する (今回 その1 10月29日~)

2 ただちに毒殺の世評おこる 


1 典医の報告でも毒殺を暗示する

まず、公式の宮内省編纂の

「『孝明天皇紀』は病死説の根拠として、『非蔵人日記』、『御痘瘡之記』、『中山忠能日記』などを引用し、全く疑惑のおこらないように説明している。」 (235頁)

「これをもとにして、文部省維新史料編纂会の『概観維新史』『維新史』(第四巻)もまた病死説を記している。こうして病死説は、明治以来天皇国家の公式の意見であって、もし毒殺説を主張するものがあれば、不敬として処分されたに違いない。」 (235頁)

「それにもかかわらず、国民の間においては、ひそひそと天皇の毒殺説が語られ、ほとんど全国にわたってさやかれてきた。」 (235頁)

「これを公然と発表した文書は、英人サトウの『日本における外交官』であったが、うわさの程度を出なかった。それにしても、、サトウは、「その間の内幕によく通じている、一日本人によって、私は帝が毒殺されたのだと、ということを信ずるようになった」とのべ、このうわさの出所が、信頼できるものであることを、ほのめかしている。しかし塩尻氏の訳書ではこの項をけずっている。国民はうわささえ(ブログ主 ※注※ 戦前においては)知らされなかったのである。」 (235頁) 

昭和15年

「大阪学士会クラブで開かれた日本医史学会関西支部大会に陳列された孝明(天皇)の典医の一人伊良子光尊の日記を、医史学の大家佐伯理一郎博士が検討し、「孝明天皇の症状が二十二、三日(十二月)頃順調な経過をとっているというところで、記事が中絶している」のをみて、ただちに、「天皇が痘瘡がにかかられた機会をとらえて、岩倉具視が、女官に出ている姪をして、天皇に一服毒を盛らしたのである・・・・・・・伊良子氏の史料に於いて、肝心のところで、筆が絶たれているのは、わざと誌すのを憚ったのか、箝口令によって筆を折ったのか、この一大事にしめ出しを食らって、他の一、二の典医だけしか関与しなかったので、詳細を知らなかったために、日記が欠けたのか、理由はわからないが、岩倉の天皇毒殺を裏書きする一つの貴重な傍証であると思う」と遠慮することなく、論断した。」(235-236頁)

「列席者は時が時だけに、驚いたが、同時に博士の学問を追究する熱意と勇気に感激したという。これは特殊な学会でもあり、列席者のなかに憲兵隊なり、警察に密告する人もなかったため、博士は弾圧を受けることもなかった。日本人が、とにかく公開の席上で毒殺説を発表した最初の機会として、注目に値する。」

「しかし、この講演のことが、文字として記録されたのは、中野操博士が敗戦後になって発表した時(中野操「佐伯先生の事ども」(『日本医事新報』第1522号、昭和28年6月27日) にすぎないから、結局毒殺説が、文字として記述されたことは未だかつてなかったといってさし支えない。このように毒殺説は、民間が外人にさえも、口伝えに広がっていたにもかかわらず、禁断の木の実であった。」 (236頁)

このように、ねずまさしは、昭和15年、言論統制が厳しい中、佐伯理一郎が、大阪の日本医史学会関西支部大会での小さな会合であったことが幸いして、憲兵・警察の監視下になく、講演した。戦後、独立をした早い時期に、貴重な講演の模様を記録してくれた人物・中野操の記事から、その真相の一端を知るてがかりを入手したのである。

このような情報から、ねずまさしは、『孝明天皇紀』その他、史料について、詳細に検討を加えていくのだ。


つづく

次回は、ねずまさしによる『孝明天皇紀』その他、史料の読みについて

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