Jerry Emma Laura

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LPレコード紹介 (No.065) ラプソディ・イン・ブルー(1969.10)

2016年11月20日 | LPレコード紹介

録音中の一号機(RT-1050)、再生中の二号機(RT-1050)。実は三号機(RT-1020H)は右チャンネルの出力が上がらず、部品どりのための予備機で待機状態。1970年代の代物なので、だましだまし使っているが、とうとう痛みがきている。ただ、もう替え部品はないので捨てるわけにもいかない。

久々に電源を入れて、大丈夫という確認をして「ヨシヨシ」と声をかけ、再び眠りについてもらう。ゆっくり聴いてあげたいが、他にやることもあるので、仕方ない。

 

さてと、ついでにLPの紹介をもう一枚。解説は、ジャケットの内容を原文どおり記載します。

 ジョ一ジ・ガ一シュインは.1898年ニュ一ヨ一クの下町ブルックリンで、貧しい商人の子として生まれた。少年時代のジョージは、野球やローラースケートに熱中し、音楽にはあまり興味をしめさなかった。16歳のとき、楽譜出版社にピアノひきとして雇われたのが音楽の道に飛び込んだ最初であった。流行歌をとことんまで研究したかれは、自ら作曲のペンをとり、20歳のときに名作「スワニ一」を出版して評判をとった。25歳のころまでには売れっ子の作曲家となったが、ジャズの大御所ポール・ホワイトマンと知り合い、そのすすめによってジャズと純音楽との結合をめざした作品「ラブソディインブルー」や「パリのアメリカ人」を書き、シンフオニック・ジャズという独特なスタイルを編みだした。晚年の歌劇「ボギーとベス」は、ガーシュインの名を不朽のものとした傑作である。脳腫ようのため1937年、38歳の若さでこの世を去った。

ストラヴィンスキーの「3大バレエ音楽」が、ロシア・バレイ団の主宰者ディアギレフとの友情によって産みだされたように、この「ラプソディ・イン・ブルー」と次の「パリのアメリカ人」の2大名作もガーシュインとポール・ホワイトマンの友情によって産みだされた。最初、この曲を書く自信のなかったガーシュインは、ホワイトマンのすすめがあまりにも熱心だったため、しかたなく作曲にとりかかった。しかし思うようにはかどらず、演奏会の1週間前になっても完成しなかったため、やむをえず、有名な組曲「グランド・キャニオン」を作曲したグロフエに手伝ってもらい、1924年の212日の初演にようやくまにあわせた。このときの初演は大成功をおさめ、一夜にしてガーシュインの名を世界的に広めたのであった。

「ラプソディイン・ブルー」

この作品は、かれ自身ピアノの名手であったので、ピアノとオーケストラのために作曲されているが、純音楽でいう「ピアノ協奏曲」ではない。しかし、全体が3つの部分からできているところをみると、かれはある程度、古典的な協奏曲の様式を念頭において筆をすすめたのであろう。

1部はモルト・モデラート(ごく中庸の速さで)まず、この曲を有名にしたサイレンのようなクラリネットソロからはじまる。続いてトランペット、そしてピアノがゆっくりとあらわれ、しばらくして技巧的なカデンツァにはいる。速度がテンポ・ジエスト(正確なテンポ)に変わると、弦楽器とピアノのかけあいがはじまり、やがてトランペットに明朗な旋律が歌われる。ピアノと管楽器の対話。管楽器のカデンツァふうのエピソード、とくにトランペットとトロンボーンが弱音器をつけて奏する「ホワー・ホワー奏法」は圧巻である。

2部はアンダンテモデラート(ゆっくりと、中庸の速さで)低音楽器に新しい旋律があらわれてからピアノのカデンツァにはいる。ここは抒情的で美しい。オーケストラはあまり活躍せず、ピアノがつねに主導的なのがこの部分の特徴である。

3部はアレグロアジタートミステリオ一ソ(急速に、激しく、神秘的に)「ラブソディ・イン・ブル一」というのは「憂うつな狂詩曲」という意味だが、その憂うつさはこの部分を聞けばよくわかるであろう。ホルンで反復される暗い動機、ヴァイオリンやオーボエに出る悲しげなエピソード、このあたりは全曲を通じてもっとも優美な部分である。ふたたびピアノのカデンツァ、最後はオーケストラとピアノが渾然一体となってクライマックスを築き、華麗に終わる。

「パリのアメリカ人

ラプソディ・イン・ブルーの大成功は、かれを多忙な生活に追い込んだ。流行歌はもちろんのこと、ブロードウェイのミュージカル・コメディー、映画音楽の作曲etc . . . 。経済的にはじゅうぶんみたされたが、かれは精神的にも、また、肉体的にもズタズ夕になってしまった。まさに花形作曲家の悲劇である。そこで、かれは、そうした多忙な生活から逃避するためにパリへ旅行することになった。1928年、30歳のときである。そのパリで、フルに遊び、思うぞんぶん空気を満喫したことによって作曲されたのがこの「パリのアメリカ人」なのである。その年の1213日に初演されたが大あたりをとり、かれの地位は不動のものとなった。

この曲は本格的な管弦楽作品で、標題的要素のすこぶる強い一種の交響詩なのである。曲は「ラプソディイン・ブルー」と同じく3つの部分からできている。

1部はアレグログラツィオーソ(急速に、やさしさをもって)好奇心の眼をみはりながら楽しげにパリの街を闊暴するひとりのアメリカ人。心はうきうき、足どりも軽い。弦と木管であらわれる最初の旋律は、そうした感じを実に、うまく描いている。大通りに出ると、自動車の警笛がうるさく、まるでニューヨークの大通りにいるような感じである。しかんアメリカ人の眼に映るもの、耳にはいるもの、ことごとくが楽しいものばかりである。

2部はアンダンテ。ひとごみと騒音に疲れはのであろうか、甘いヴァイオリンソロが聞えてくる。しかしそれもつかのま、曲想は一転してにぎやかな舞曲となる。しだいに明るい気分になってくる。この第2部は、全曲を通じてもっとも変化があり、実に愉陕である。

3部はアレグロ。いつも陽気で屈託のないアメリカ人の性格を、フォックス・トロットでみごとに描いている。終結部は第1部の冒頭にもどって、ふたたび自動車の警笛と楽しい行進曲。アメリカ人は、すれちがったセンスのよいマドモアゼルに胸を高鳴らせながら、群集のなかに消えてゆく。

ウィリアム・スタインバーグは、1899年ドイツのケルンで生まれたが、1938年アメリカに渡り、トスカニーニの率いるNBC交響楽団の副指揮者に就任。1952年にピッツバーグ交響楽団の常任に迎えられ現在にいたっているが1969年から70年にかけて名門ボストン交響楽団の常任指揮者を兼任することがすでに決定している。かれの指揮は、ひじょうにオーソドックスですぐれた音楽性をもっている。ピッツバーグ交響楽団は、1870年に創立された。途中で突然解散するという憂き目にあったが1927年ふたたび編成され、クレンペラ一、ライナーらが指揮し、アメリカ一流のオーケストラに育けあげた。実にみごとなアンサンブルと弦のつややかな音色をもつオーケストラである。ピアニストのヘスス・マリア・サンロマはプエルトリコに生まれ、ボストンとパリでピアノの勉強をした。古典派、ロマン派の作品はもちろんのこと、現代音楽の演奏にも力をそそいでいるピアニストで、かつてガーシュインはこのサンロマの演奏をきいて絶賛したといわれる。(解説=志鳥栄八郎)

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