キンちゃんの「マイコレ」partⅤ

果樹栽培、自然観察、・・・そして時々人間観察等です。

呉越春秋 湖底の城 第七巻

2018-01-05 19:02:32 | 
この巻からの主人公は、盗賊団に襲われて楚の宛の大商人だった父・家族・財産を12歳の時に失い、魯の施氏を供の開・臼とともに訪れていたため難を逃れ、父の親族の范季父を頼って越の会稽へ移り住んだ「范 蠡」(はん れい、生没年不詳)に変わる。
尚、Wikiには
「范蠡がどこで生まれたのか、どのような経緯で越の允常(勾践の父)に仕えるようになったのか、彼の経歴による明確な確証がない。」

范蠡は20代なかばにして越の太子・句践の側近となる。
Wikiでは
「紀元前496年に允常が逝去し、太子の勾践(こうせん、? - 紀元前465年)が父の後を継いだ。允常の訃報を聞いて喪中に服している越に対して、闔閭は出る杭を先んじて叩いてしまおうと判断し、欈李の戦いを起こして攻め込んできた。しかし、欈李(現・浙江省嘉興市)で、范蠡はこれに対して奇計を持って迎えた。その奇計と言うのは決死隊(『左伝』では罪人。こちらが正確か)を集めて敵の目の前まで行かせてそこで自ら首をはねさせると言う物で、呉軍が仰天している隙を付いて越軍は呉軍を撃破した。越の武将霊姑孚が射た矢で片足を破傷したのが原因で闔閭は陣没し、太子の夫差が立った。」
となっているが、本書では孫子の兵法を学んだ胥豻(ショカン 豻は本書ではケモノヘン)が策を主導したことになっている。

そして、呉をさぐる間人の報告は、「即位した夫差は、おとなしく喪に服さず、越への報復をおもいつめているようです。・・」、即ち「臥薪」。

この巻では重要人物「西施」(せいし 生没年不詳)も登場する。
その生涯は諸説あるようだが、本書では以下のように書かれている。
・范蠡が難を逃れたのは、12歳の時親の決めた婚約者の西施(嬰児)の親に挨拶に行っていたから。
・養蚕業と製糸業を営む施氏
・伍 子胥が黄金の盾の製作を范蠡の父親に依頼に来た時、范蠡と顔を合わせている。
・盾を入れる箱を入れるキヌの袋を施氏に頼んだ
・欈李の戦いでの大勝を東方の諸侯に知らせる使者が摘んで持ち帰り越王の後宮に活けた花が「西施」

「象潟や雨に西施がねぶの花」

(17/12/31撮影)
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