仙人をめざして

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憲法記念日

2017年05月03日 | Weblog

Gotch 後藤正文さんのブログ記事 転載しました

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憲法記念日に思うこと  http://gotch.info/post/160242954422/

 北朝鮮からミサイルが飛んできたときに憲法9条は守ってくれるのか。と聞かれたら、普通に考えて、何らかの条文が国会の辺りからメキメキと合体ロボのように立ち上がって、飛んでくるミサイルをガシリと握り潰したりはしない。

 だから、まあ、そういう聞かれ方をするならば、守るのは無理だと思う。ただ、問いの立て方が子供っぽいような気もする(ちなみに金政権はミサイルを他国に撃ち込むとどういう結果が待っているのかよく知っている。なので実験はするが実際には撃てない、と俺は考えている)。

 憲法9条の力のというのは、そういうマッチョなエネルギーや方法とは別のところにあると俺は考えている。

 その力とは何か。それは為政者に高い知力の保持を強いるということだ。

 何しろ、軍隊も持てないし戦争もできない。ということは、隣国と緊張しないような外交努力を弛まずに行わなければならない。近くの海にミサイルやロケットを飛ばして国威を示したり愛国心を発揚したりしないで、実直に、ときには煮え湯を飲まされるような気分になることがあっても、内外からの圧力に耐えて、狡獪な相手とも交渉し、もういいやと投げ出さずに平和な状況を維持しなくてはならない。高い知性と判断力が必要な仕事だろう。

 という文脈において、憲法9条は十分に国民を守ってくれているのではないかと俺は思う。憲法9条が政治家や国民に問うことを思えば、「敵国の軍隊がやってきて銃を突きつけられても同じことが言えるのか」という問いはほとんど屁理屈のレベルだろう。そこに至るまでの知的な活動をすべて放棄しなければ、成り立たない問いなのだから。

 つまり、憲法9条自体が、思考停止を許さない巨大な「問い」そのものであると、俺は思うのだ。もちろん、難問だろう。あの手、この手を尽くさなければならない。

 憲法9条を捨てるということは、70年に渡って政治家たちや国民が保持し、受け継いできたある種の知性を捨てることでもあるだろう。

 その知性によって、絶対に先制攻撃することのない、ArmyのようでArmyではない「自衛隊」という組織は発明された。そうは思えないという人がいるかもしれないけれど(もちろん、賛否はある)、俺はとてもラディカルな存在だと思う。武力などないほうがいいけれど、せめて世界中の軍隊が「JIEI-TAI」になったら良いと思う。KABUKIやSAKEのように世界的な日本語になる可能性だってあると、俺は考えている。

 多くの戦争や紛争は相手の先制攻撃を口実に開始される。ゆえに、憲法に先制攻撃ができないことが明記されていて、それを遵守している国がいかに戦争に巻き込まれ難いのかくらい、アホな俺にでも分かる。日本を相手にした攻撃の正当性を国際社会に証明することは、こちらが憲法を遵守している状況ならば不可能だろう。そういった意味では盾でもある。

 が、こうした条文が有名無実化されようとしている。

「普通の国」というもっともらしい称号(どの国もそんな言葉で褒めてくれはしないだろうけれど)と引き換えに失うものについては、もっと深く議論されるべきだと思う。

 
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