日々の覚書

MFCオーナーのブログ

追悼・栗本薫

2009年05月28日 01時15分01秒 | 時事・社会ネタ

作家の栗本薫が亡くなった。享年56歳。膵臓癌だったとか。驚きながらも、冷静に受け止めている自分が意外だ。慎んでご冥福をお祈り致します。

かつて、僕は栗本薫の小説を読み漁り、好きな作家の筆頭に挙げていた時もあったのだが、ここ何年かは熱心な読者とは言えなかった。それどころか、彼女の作品にはなんとなく距離を置いていた。とはいえ、やはりそれなりにショックである。栗本薫の作品に興味が薄れていただけに余計だ。訃報に接して、なんというか、彼女に対して悪い事をしたような気がしている。

栗本薫の小説をポツリポツリと読み始めたのは、今から20年ちょっと前だろうか。「この人は凄い」と初めて思ったのは、『十二ヶ月』という短編集を読んだ時だ。ミステリーからハードボイルド、時代物に青春小説、SF風から私小説風に至るまで、同じ人が書いたとは思えないバラエティ豊かな短編が12編収められたこの短編集は、栗本薫という作家の守備範囲の広さ、素養の深さ、そして探究心の旺盛さを、十二分に思い知らされる傑作である。凄い人がいるもんだな、と驚嘆した僕は、それ以来栗本薫の小説を読み漁るようになった。そして、行き着いたのが『魔界水滸伝』である。

ま、いわゆる伝奇ファンタジーだ。邪悪な神々(宇宙生命体?)と、古来から地球で生き続けてきた先住民及び人間たちとの戦いを描いた長編である。とにかく面白いし、スケールがデカい。冗談ではなく、夜の更けるのも忘れて読み耽ったものだ。この手の伝奇物を読むのは初めてだったせいもあり、人間ではない生命体と人間たちとの戦い、というコンセプトも新鮮だった。ここに登場する邪悪な神々は、H・P・ラブクラフトというアメリカの作家の作品に登場するキャラクターだと聞いて、一時ラブクラフトやその門下による『クトゥルー神話シリーズ』も読んでいた事もある。もちろん、そんな邪神たち以外にも、栗本薫が生み出した登場人物たちも魅力的で、ストーリー展開といい、コンセプトといい、第一級のエンタテインメントであった。

また、栗本薫のもうひとつの傑作が伊集院大介だろう。彼女の推理小説に登場する名探偵だ。名探偵だから、当然頭脳明晰なのだが、探偵らしからぬ漂々とした佇まいである。が、眼鏡の奥の瞳は優しく暖かい。この伊集院大介を主人公にした『優しい密室』『天狼星』『絃の聖域』『鬼面の研究』『仮面舞踏会』といった作品は、どれもお薦めだ。決して、伊集院大介のキャラクターに寄りかかることなく、ストーリーもトリックも構成も見事な本格ミステリーである。

さらに、栗本薫の得意分野といえば、『真夜中の天使』『翼あるもの』といった作品に代表される、美しく才能ある者たちの孤独や悲しみをテーマにした、一種の青春小説とも呼べるジャンルだろう。『真夜中の天使』は、美少年が見い出され芸能界にデビューするが、その美しさゆえ周囲の者たちを破滅させていく話で、青春小説とは言い難い気もするが(笑)、要するに、一部のマニアの間では“やおい”と呼ばれているタイプの小説でもある。確かに、初めて読んだ時は、それなりに衝撃的でした(笑)

栗本薫自身、実は美少年好きだったようで、様々な小説を書き分けていたようでも、そこいらの趣味が見え隠れするのが特徴と言えば特徴であった。横溝正史みたいな耽美的な小説も多く書いている。

あと、なんといっても栗本薫を語る時に忘れてならないのは、『グイン・サーガ』であろう。100巻を超えても今尚未完の超大河ヒロイック・ファンタジーだ。一人の作家が書いたものとしては最長の小説として、ギネスに載ってるとか載ってないとか。彼女は、この超大作を未完のままで、世を去ってしまったことになる。

と、こういった栗本作品を、僕は読み漁っていた、20代後半から30代前半だったのである。『グイン・サーガ』は、最初の5巻くらいとか読んでないけど(汗) しかも後追いで(滝汗) 本当に、凄い人だと思っていたし、実際凄い人なんだけど、ある時期から徐々に熱が冷めていった。その理由は大きく分けると3つある。

ひとつは、その作品が観念的になり始めた事だ。『魔界水滸伝』にしても、巻が進むにつれ、最初の頃の血湧き肉踊るストーリー展開は影を潜め、登場人物がその世界観や歴史観を語ったり論じたりする話になってしまった。禅問答と言ってもいい。異次元の世界を理屈で説明されても面白くないのだ。さては栗本女史、ネタに詰まったか、なんて思ったりなんかして(笑)

ふたつめは、前述したけど、その美少年趣味が、やたらと前面に出てくるようになった事だ。ストーリーも何もなく、男が男に溺れる様を、事細かに描写する小説が目立ち始めた。好きな人にはいいだろうけど、僕は男色には全く興味ないので、美少年同士のベッドシーンなんて、気持ち悪いだけなのだ。

そしてみっつめ、それは伊集院大介に頼りきってしまうようになった事だ。ストーリーの中に伊集院がいるのではなく、伊集院のキャラクターで成り立つ小説が増えてきた。魅力的なキャラクターを生み出した作家が陥る落とし穴と思うが、栗本薫の場合、それを確信犯的にやってたような気がする。つまり、伊集院大介を偏愛するあまり、伊集院大介さえ出てくれば、それで満足という感じ。なにしろ、自分の息子に“大介”と名づけたくらい、伊集院大介に惚れ込んでいた栗本女史である。ファンの要求云々以前に、自分が伊集院を見たいのだ。ストーリーは二の次。これではついていけない。まぁ、そういった“伊集院モノ”が、それなりのクォリティを保っているのが救いではあるが。

それと、栗本女史自身が、作家という仕事を離れて、音楽活動をしたりミュージカルを作ったり、という活動が目立つようになったのも、僕のとっての“栗本離れ”に拍車をかけたような気がする。多才なのは結構だが、作家である以上、小説を書くという行為に集中して欲しいのだ。ま、作家に限らず、ミュージシャンでもスポーツ選手でも、本業以外にあれこれ手を出す人を、僕はあまり好きではない。

この栗本薫という人、かつてテレビの『ヒントでピント』にレギュラー出演していた事でも分かるように、目立ちたがりでもある。また、「ある曲を気に入ると、何十回とその曲ばかり連続再生して聴きまくり、そのうち飽きて聴くのもイヤになる」という発言でも察せられるが、偏執狂の割には飽きっぽい、という人でもある。ただ、その何十回もヘビー・ローテーションした曲が、ジャーニーの「セパレイト・ウェイズ」やワム!の「ケアレス・ウィスパー」だった、なんて話を聞くと、結構俗物じゃん、なんて思ったりもするけど。自分が書いたのと同じ事件が実際に起きた、と聞いて、わぁ~すごい、第六感かなぁ、呼ばれてるよねぇ~、なんてはしゃいだ発言をしてるのを見ても、結局自分大好きの勘違い女、という見方も出来るかもしれない。そういうのも、栗本薫の愛すべき部分なのだろう。僕は苦手だけど(笑)

反面、中島梓名義でのエッセーや文芸評論を読むと、深く頷いてしまうとこもあったりして、確かに只者ではなかった。敢えて、他人と違う角度から物事を見る、という姿勢は大切だ。そして、誤解を恐れずに自分の考えを述べることも。けど、「セパレイト・ウェイズ」が好き、とは言えないなぁ(笑) でも、「食べる事に執着はないが、料理には自信がある」という発言には、美学を感じます。

ま、結論すると、個性的な人であった、という事になるのか(笑)

それにしても、56歳とは若過ぎる。もし、この事をきっかけに、栗本薫を読んでみようという人がいたら、ま、なんでもいいけど、頭脳明晰なデブと男を誘惑するのが趣味という、2人の大食い女を探偵役にした『グルメを料理する十の方法』なんて、誰もお薦めしないだろうから、敢えてお薦めしたい(笑)

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想い出のアルバム-HOME IS WHERE THE HEART IS

2009年05月24日 12時27分41秒 | 想い出のアルバムシリーズ

Davidcassidy

青春の館/デビッド・キャシディ(1976)

1.ぼくは燃えている
2.これが恋でなかったら
3.ジャニュアリー
4.フール・イン・ラブ
5.トゥモロー
6.青春は悲しみ
7.恋のかくれんぼ
8.心のさびしさ
9.グッバイ・ブルース
10.ベッド・タイム

一応、これを読んでいる若い人たち(笑)のために説明させて頂くと、デビッド・キャシディは70年代初頭、人気テレビシリーズ『パートリッジ・ファミリー』に出演してアイドルとして大人気だった人である。『パートリッジ・ファミリー』出演中から、ソロ歌手としても活躍していた。やはりアイドルとして、70年代後半に人気を博したショーン・キャシディは実の弟である。ちなみに、この『パートリッジ・ファミリー』、日本でも放送されており、僕もよく見ていた記憶があるのだが、内容はほとんど覚えていない(笑)

『パートリッジ・ファミリー』終了後、デビッドはRCAとレコーディング契約を結び、1975年から76年にかけて、3枚のアルバムを発表する。今回紹介する『青春の館』は、その3枚のうちの2枚目だ。ちなみに、RCAとの契約は、金は出すけど口は出さない、プロモーションの為のツアー等はやらなくていい、等デビッドにとっては実においしい内容であったらしい。

という訳で、デビッドはブルース・ジョンストンを共同プロデューサーに迎え、好き放題(笑)にアルバム制作に取りかかったのであるが、実際発表されたアルバムは、実にグレードの高いポップ・アルバムだった。最初のアルバムにジョンストン作の『歌の贈り物』が収録されているのも、ポイント高い。この曲、翌1976年バリー・マニロウが歌って全米No.1となり、グラミー賞(ソング・オブ・ザ・イヤー)まで獲った名曲であるが、それより前にデビッドがヒットさせていたのだ。バリー・マニロウは、デビッドのバージョンを聴いて、この曲を取り上げたというのは、その筋では結構有名な話。

この『青春の館』は、ブルース・ジョンストンとタッグを組んでの2作目で、これまた素晴らしい出来栄えである。なんたって曲が良い。デビッドのオリジナルでは、一曲目の「僕は燃えている」でしょうね、やっぱり。アップテンポの、血湧き肉踊る名曲である。イントロのアコギのカッテイングから歌になだれ込んでいくあたりで、既にこの曲のとりこになってしまう。♪あもんぱや、と一緒に歌ったもんです(笑) シングルになった「トゥモロー」は、なんとポール・マッカートニーの曲だ。『ワイルド・ライフ』に収録されているそうだが、残念ながら僕は本家のバージョンは聴いた事ない^^; が、デビッドが力強く歌う「トゥモロー」実に素晴らしい。分かりやすく格調高いメロディも、途中で雰囲気の変わる構成も、いかにもポール・マッカートニーという感じで、こんなに良い曲なのに、何故世間に知られてないのか、当時から不思議だったくらい(笑)。

他にも良い曲目白押しで、当時FMで小出しにかかるのを、一所懸命録音していたのを思い出す(笑)。あの頃、日本ではデビッド・キャシディはかなり人気あり、FMでよくかかってたし、『ポップス・ベスト10』の常連でもあった。カーペンターズやベイ・シティ・ローラーズと1位争いをしてたのだ。今となっては、とても信じられないが^^; ほんと、この頃『青春の館』欲しかったです。買えなかったけど(笑) 当時の僕にとって、デビッド・キャシディは、クイーン、キッス、スイートあたりと全く同列だった。

当時、ミュージック・ライフをはじめとする音楽誌では、“アーティストとアイドルの境界線はどこか?”なんて特集をよくやってた記憶がある。そういう特集で、必ず俎上に乗せられるのが、クイーンとデビッド・キャシディだった。両者とも、当時の人気は音楽性よりルックス先行であったのは否定出来ない所で、そこを捉えてアーティストではない、と断定する評論家もいたし、見た目に惑わされてはいけない、中味で評価するなら彼らは立派なアーティストだ、と主張する人もいた。ルックスが良いとアーティストとしては認められないのなら、当の本人からすると、じゃどうすりゃいいんだ、ってな所だろうね。認められるために顔を潰すわけにもいかないし(笑)

ただ、この当時、デビッド・キャシディが単なるアイドル歌手から脱皮して、本格的なミュージシャンとしての評価を得ようとしていたのは事実だと思う。ブルース・ジョンストンと組んだのも、ウィリー・ウィークス、ラス・カンケルといった一流セッションマンを呼んだのも、全てはグレードの高いレコードを作る為だ。その成果が、『青春の館』を含むRCAでのアルバムたちなのだが、グレードの高いレコードは作ったものの、日本とイギリス以外では売れなかったらしく、彼はミュージシャンとしての正当な評価を受けることは出来なかった。ま、たとえアメリカで売れたとしても、アメリカ人は“天は二物を与えず”という格言を頭から信じ込んでいる国民なので(笑)、正当な評価を受ける事が出来たかどうかは疑わしい。

僕としては、当時はともかく、今となっては、デビッド・キャシディがアイドルだろうとなんだろうと、どうでもいい。ただ、彼が素晴らしい作品を残したのは事実なのに、後の世代に知られる事もなく、長い年月が過ぎてしまったのが非常に残念である。実際、『青春の館』をはじめとするRCA時代のアルバムは、単体では21世紀になるまでCD化されなかった。LPですら、その後再発された、という話も聞いてない。1996年に、RCAでの3枚のアルバムからセレクトした『When I'm A Rock'n'Roll Star : The David Cassidy Collection』という編集盤が出たので、かろうじてそこで聴けただけだ。でも、この編集盤は貴重だったなぁ(笑) 『青春の館』からは6曲収録されており、個人的にはずせない「僕は燃えている」「トゥモロー」が聴けるのは嬉しかったけど、「恋のかくれんぼ」とかは未収録だったし、やはりアルバムとしてちゃんと聴きたい、とずっと思っていた。

しかし、ついにその願いが叶うときが来た(笑) 今年になって、RCA時代の3枚がCD化されたのだ。しかも、3枚のうち2枚(『青春の館』と次作の『恋の大通り』)は、世界初CD化だそうで、正に“ついに”という言葉がふさわしい(笑) リマスターではなさそうだし、ボーナストラックもないが、それでもCD化されて、今またデビッド・キャシディのアルバムを聴く事が出来るのだ。長生きはするものである(爆)

とまぁ、手放しで喜ぶべきなのだが、ちと問題がある。それは...

 

 

 

 

 

紙ジャケなんだよね...(-_-#)

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Rumours In The Air

2009年05月23日 00時49分22秒 | 時事・社会ネタ

神奈川の男性感染
神奈川県は○○日、同県茅ヶ崎市の男性会社員(46)が、新型の豚インフルエンザに感染した、と発表した。男性は、今年3月まで大阪府に居住しており、4月に茅ヶ崎市に転居したが、その後4月中に2回いずれも一泊で大阪へ出かけていた。発症したのは○○日朝のことで、茅ヶ崎市民病院に入院し、現在は熱も下がり症状も軽いという。男性は、この10年渡航歴もなく、大阪へ出かけたのも感染者が確認される一月前という事もあり、県は大阪ではなく神奈川県内で感染したものと見て、感染経路について調査を進めている。

ある朝目覚めたら、こんな記事が朝刊一面に。そりゃ驚くよな。「あ、オレだオレだ」って感じ(爆) 筒井康隆の小説みたい(爆爆) でも、なんとなくありそうなのが怖い(核爆) なにせ、今月から来月にかけて、何回か関西方面に行く予定だしね(爆×10)。

てな訳で、巷の話題は新型インフルエンザなのである。決して、昨日始まった裁判員制度ではない(笑)。

なんというか、ここ数年、毎年のようにインフルエンザ関連のニュースが世間を騒がせているような気がする。なんだか、インフルエンザ自体が新しい感染症のような気がしてしまうが、昔からこんなに騒いでたっけ? 毎年、インフルエンザに罹る人はいたと思うんだけど。それとも、近年新種が多いのか? 今回の新型豚インフルエンザは弱毒性という事で、感染したからといって死に至る訳でもないし、タミフルも有効なので治療も受けられる。そんなに大騒ぎしなくても、とも思うけど、かつてのスペイン風邪(1918年から19年にかけて流行したそうな)も、最初は弱毒性だったけど、後で強毒性に変異したそうなので、安心は出来ないのかもしれない。対策するに越したことはなかろう。

とはいえ、マスクが売れに売れて品薄になる、という事態は異常だ。ネットのオークションで、法外な値段で取引されてるとも聞くし、何が皆をここまで煽っているのか。多数の感染者を出したニューヨークでは、それほどマスクしてる人は多くないという話だ。日本人が神経質なのか、アメリカ人が無神経なのか、一体どっちなんだ?(笑)

ま、とにかく、新型とはいえインフルエンザなんだし、神経質になり過ぎではないか。聞く所によると、大阪では感染者が出た学校の関係者が病院で診察を断られたり、タクシーに乗せて貰えなかったり、レストランの予約が出来なかったり、といった扱いを受けているらしい。すぐにそういう行動に出る人がいる、というのが嘆かわしい。感染した人をいじめてどうするのだ。村八分にされるのがイヤなので、症状が出ても保健所に届け出ない人も大勢いるのかも。関東で感染者が少ないのは、実はそういう理由があるからではなかろうか。冗談ではあるものの、本当に↑の記事が新聞に出たら、我が家に石が投げ込まれるかもしれない(笑)

新種の感染症などが見つかった時、一番怖いのはウィルスではなく、人心だという気がする。

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焙煎

2009年05月17日 13時48分35秒 | モバイル投稿
焙煎

2回続けてのコーヒーネタという訳ではなく(笑)、今回はビールネタである。ちなみに僕はサッポロ派だ(聞いてないって)

偶然コンビニで見つけたのだが、焙煎が再発されている(ビールで再発と言うのもヘンだが)。焙煎である。今から17~8年程前に、1年くらいの期間限定で販売されていた名酒(名ビール?)だ。それが現代に甦ったのである。いつから再発されてたのだろう?

もちろん迷わず買いました(笑)。やはり、美味かった。コンビニ限定だなんて、実に勿体ない。

願わくば、このままずっと販売を続けて欲しいものだ。そして、出来たら他の銘柄、たとえばキリンのゴールデンビターとかも、是非再発して貰いたい(あれ、サッポロ派ではなかったの?)

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これもアート

2009年05月16日 21時47分50秒 | 与太話

僕はカフェオレよりカフェラテ派であるが、そんなことはどうでもよろしい(じゃ、言うなよ)。

近頃、“ラテアート”なんてものがあるらしい。皆さんご存知の通り、カフェラテとはエスプレッソに暖めたミルクを注いだ飲み物であるが、このミルクを注ぐ時にエスプレッソの表面に絵を描く訳だ。最初は遊び心で始めたんだろうけど、今や世界大会まである本格的なアートになってしまったらしい。確かに、実に見事なものではあるけど...

壁の落書きなんかもそうだが、ほんの遊びで、或いは衝動のままに、技巧とか芸術性とかは関係なく、好きなように絵を描いたりしてるうちはいいけど、それをアートなんて呼ぶようになると、急に敷居の高いものになってしまうし、何よりただ描き殴っていた連中が勘違いし始めるような気がする。「オレは巨匠なんだぞ」てな感じ(笑)

落書きなんてものは、下らんものもあるだろうが、型にはまらない自由奔放な表現というのが、本来の魅力であったはずだ。しかし、アートになってしまうとそうもいかない。アートとして認定された時点で、“型”が出来てしまう。巨匠が生まれれば、そのスタイルは模倣の対象となる。弟子入り志願者も現れるだろう。そうなると、遊び心なんてどこへやら、結局芸術を極める為の“修行”になってしまうのだ。なんというか、本来の趣旨からはずれてないか? ウォールアートの巨匠が人間国宝に、なんて違うような気がするけど。

ま、ラテアートもいいけど、それより美味いカフェラテ入れて下さい(笑)

所で、前述したように、カフェオレとカフェラテは、厳密には違うものだ。しかし、以前僕は、ドトールでカフェラテを注文したところ、「カフェオレお待たせしました」と言われた経験がある。その時は、カフェオレとカフェラテって同じ物なんだっけ、と真剣に悩んでしまった。飲んでみたら、カフェラテだったので、余計に混乱したし(笑) ま、考えようによっては大した違いはないし、どうでもいい事なんだけどね(だったら、言うなよ)

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