パンの仏道日記

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『十地経』第八地の概要

2009-07-11 23:21:00 | 仏教
私は先の記事で、大乗経典の説く無生法忍は、玉城康四郎のいう終地と同じとしていい、と述べました。ざっくりと理解ですが、それでいいと思います。
大乗経典は、玉城康四郎が道程の最高とする終地以降の道程を説いています。これがきわめて重要です。
玉城康四郎は『十地経』を重視したことは周知のとおりで、大乗経典をきわめて優れたものと評価しています。原始仏典のブッダ以上の器の持ち主によるものであろともいっています。そのことは先にも述べました。
今回は、『十地経』第八地の概要を紹介したいと思います。

(以下、5年まえに書いたものです。)

『十地経』第八地の概要

 『十地経』の第八地の説法の冒頭に、「第八地において無生法忍が得られる」とあります。「このとき修行者はこれまで積んできた業の果報のままに無生法忍に安住している」といいます。

 その無生法忍を実現した修行者のところへ諸仏が現れて、その修行者が無生法忍の悟りを実現したことを褒め称えつつ、次のようにいいます。
 「まだ、仏の能力を獲得していないのだから、仏の能力を獲得するまで求道し続けよ。ただし、その悟りから離れてしまってはならない。」
 さらに諸仏は、「如性に達することは声聞、独覚ですら、可能である。如性のみでは仏となることができない。仏智を実現することがないがきり、仏となることはできない。」
 また、「無生法忍を実現した菩薩に対して、仏が仏智の実現をめざして求道するように導くことをしないのであれば、たちどころに、この菩薩はまったき涅槃に入ってしまって、衆生のためになすべきことをやめてしまって、安堵するだろう。」といっています。

 続いて、経典は次のようにいいます。
 「無生法忍を実現し、仏智の実現をめざし求道を開始したものは大乗の船に乗って(仏乗に乗っての意味)仏智へと進んでいく。七地以下まではたった一つの身体のみの菩薩行であったが、この菩薩は無量無辺の身体によって菩薩道が実践される。また、七地以下の菩薩行では苦労に苦労を重ねていかなければならなかったのが、八地では無功用に仏智の実現へと進みいくことができるようになっている。それも、以前には比較にならないほどの速さで進むことができる。かつての菩薩行ではどんなに努力しようと、このようなわけにはいかない。」

 「無生法忍を実現し、仏智の実現をめざし求道を開始したものは三界についてよく知り、さまざまな衆生の世界があること、その衆生の身体がさまざまであることなどを知る。浄土や穢土の違いや、衆生身、業報身、国土身、声聞身、独覚身、菩薩身、如来身、法身(経典には、その他を説きますがここでは省略)の身体があると知る。そのように学ぶとき、自身の身体を自由自在に変身させることが可能となる。この身体の自在さが獲得されているからこそ、衆生に対して不思議な働きをなすことができる。衆生の道心を知って、衆生の身体であるように自身の身体を現す。また、衆生の道心に従って教化に相応しい身体を現す。その身体変現が自在であるとき、相手の身体をも変えることができる。このとき、修行者は、第八地にしっかりと定まっているということができる。衆生に対して働きをなすことができる。」

 「また、この菩薩は行住坐臥、如来の働きに従っている。常に如来に加護されている。常に般若の光明を放っている。千世界を支配する大梵天が千世界いっぱいにゆきわたるように光明を放つように光明を放っている。その光明は衆生の燃えさかる煩悩の火をつぎつぎと消滅させ、満身に満ちあふれるまで歓喜させる。」とあります。

以上、第八地の重要なところだけを趣意によって紹介しました。詳しくは荒牧典俊訳『十地経』を参照してください。

(以上、終わり)

この概要だけ読んでも、その意味はよくわからないものと思います。
次回以降に、以前に書いた、その解説を紹介します。

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