見もの・読みもの日記

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規範?能率?/国語審議会(安田敏朗)

2007-12-11 23:13:26 | 読んだもの(書籍)
○安田敏朗『国語審議会:迷走の60年』(講談社現代新書) 講談社 2007.11

 イ・ヨンスクさんの本から「国語」つながり。ただし、本書は、敗戦から現在までの60余年を主に扱ったものである。

 敗戦直後の文化的混乱というのは、いまの我々には、ちょっと信じがたいものがある。「漢字=封建制=非能率=軍国主義」に対置された「ローマ字=能率=民主主義」。昨日まで「八紘一宇」などと言い立ていたマスコミは、こぞって「ローマ字採用=民主化(アメリカ化)」に雪崩を打った。なんなんだ、この軽薄さは。

 やがてGHQのアメリカ教育施設団が派遣され、教育改革に関するさまざまな提言を行う。その中には、日本語のローマ字化も提案されていた。それから国語審議会では、現在派と歴史派の長い攻防が繰り広げられたが、つねに主導権を握っていたのは現在派(簡易化・表音化・漢字廃止論者)だった。何しろ、ローマ字論者の土岐善麿が会長をつとめていたのだから。

 1961年、歴史派の5委員が、ついに抗議の脱退行動を起こす。すごいなあ。たかが国語政策に、大のオトナがここまで熱くなれたというのが凄い。昨今の行政改革論議も顔負け。しかし、その後は、日本国民(と知識人の)国語に対する思い入れは、急速に冷めていく。

 国語の技術面(表記・漢字制限・送り仮名)に対する関心やこだわりが薄れるにつれて、2000年代から抬頭するのが、「国語は文化であり、伝統である」「郷土愛ひいては祖国愛は、国語によって作られる」という倫理的・情緒的な主張である。ああ、胸クソ悪い。とりわけ悲惨に感じられるのは「敬語」に関する物言い。敬語は「自己表現」であり、「主体的な選択」に基づく「相互尊重」だと説く。目を覆いたくなるような自己欺瞞。まったく著者の言うとおり、敬語は規範であり、上手く使いこなせないと社会的不利益をこうむる、となぜ素直に言明しないのだろう。

 本書には、現在派・歴史派・倫理派(?)入り乱れて、さまざまな有識者が登場するが、いちばん衝撃的だったのは、倉石武四郎。岩波『中国語辞典』の編著者としておなじみの中国語学の泰斗だが、一貫して漢字制限・廃止の方向を堅持し続けた。吉川幸次郎も、確か漢字制限派だったと記憶しているが、倉石はもっと徹底していて、「オンセツをダイヒョーするカナとガイネンをダイヒョーするキゴーとをテキトーにまぜるとゆーのがわたくしのゆめなのである」などと綴っている。うーむ。論評する言葉を失う...私としては、こういう国語の時代に生まれなくてよかった、としか言いようがない。

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