お盆と正月は民族大移動が相場とだいたい決まっている。
我が家でもその例に漏れず、昨日(12日)家内の親戚(姉の遺児たちで若夫婦と子供二人)が富山県からはるばるご来訪。別府は初めてとのことで、泊まり込みなので日程に余裕があり「サファリパーク」などの案内を予定している。
それはさておき、我が家のオーディオルームをご覧いただいたところ「ワーッ!」と驚かれたのはいつものことだが、「まるで実験室みたいですね。」にはガックリ!
せめて「コンサート ホールみたい」と言って欲しかったが(笑)、やっぱり誰がどう見てもこれは「実験室だよねえ」と得心がいった。
「コンサート ホール」という言葉から醸し出されるイメージは「音楽を楽しむ場所」であり、「実験室」からは「音楽ではなく音を楽しむ場所」という印象をどうしても受けてしまう。
そうか~と、まるで我が精神の荒廃振りをまったくの素人さんから指摘された思いがした。
「音楽ではなく音を楽しむ」こともそれはそれでけっして悪いことではないが、これは自分が思い描いている姿ではない。一生懸命にオーディオに取り組んでいるのも、「いい音」で好きな音楽を聴きたい一心からだが、そうこうしているうちにどうも音の方に偏ってしまったようだ。
11年前の現役時代までは少なくとも真剣に音楽に向き合っていたのでこういうことはなかった。いったいどうしてこんなことになったのか。
少しばかり分析してみよう。
原因は二つありそうで、一つは自由時間が豊富に出来たのでオーディオ機器を弄り散らすクセができたことだが、この理由は大したことはない。
もう一つの理由が本命だろうとおよそ推測はつく。それは何といっても若い頃の感受性が歳を取るにつれ薄れてきたことにある。
たとえば、オペラ「魔笛」(モーツァルト)を聴きながら、その宇宙的な広がりに目頭が熱くなって何度感涙に咽んだことか数知れないが、悲しいことに近年その感動する力がハッキリと薄れてきたのである。
一番狼狽しているのはこの自分である。昔の夢よもう一度とばかり、もっと音質が良くなれば再びあの感動を味わえるかもしれないとここ数年「粉骨砕身」してオーディオ機器の充実に取り組んできた。
おかげで、ようやく自分なりに90点のレベルには到達したと思っているが、これから先でもどんなに音が良くなったところでおそらくあの感動は蘇ってこないだろうとだいたい想像はつく。
失われた感受性はもう永遠に戻ってはこないし、それを機器ごときでカバーしようと思っても所詮は「はかない抵抗」に過ぎないのだ。
考えてみると、人生はまことに皮肉なもので若い頃の感受性が豊かなときはお金がないので粗末なシステムでショボイ音を聴き、歳を取って小金が出来てそこそこのシステムで聴けるようになると、そのときには大切な感受性がもう失われている。
しかも、若い頃にショボイ音で聴いた音楽の方が現在聴く音楽よりもはるかにイメージ的にいいのだから何ともはがゆい(笑)。
それかといって現在のレベルを落とそうとは夢にも考えていないし、これからも前進あるのみで分っちゃいるけど音弄りは止められそうにないのが何とも矛盾しているところだが、こればかりは因果というのかどうしようもない~(笑)。
以上、諸説あるでしょうがこれはあくまでも個人的な考えです。