イエスの言葉は続きます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(ルカ9:24)と、逆説めいた表現が流れます。イエスの用いる対比はいつも強烈です。極端な対比もあります。しかし、だからこそ神の真理が強く襲います。そして、それを単なる比喩として受け止めて満足することを許さないものがあります。果たして私たちは、文字通りにこの表現を受け止めているでしょうか。何かの比喩として、大袈裟に言っているだけだ、と高をくくっていないでしょうか。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(ルカ9:25)とイエスはたたみかけます。マルコが、自分の命を失うというようにしているところを、ルカは自分の身を、としています。前節で、「命を失う者は救う」とあるのに、続けて「命を失ったら何にもならない」としたのでは、意味が通らないと思ったのでしょう。ギリシア人の論理からすれば、これは奇妙なことですから。なお、この辺りの動詞をルカは独自に二つ重ねて用いていますが、文法的に訳しにくい面があります。前節の「失う」を記した上で、これではやはりまずいかな、という躊躇いによて、言い換えてもう一つ動詞を重ねている、というのが心理的な説明であるように私には思われますが、果たしてどういうことであるのでしょう。
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