エウアンゲリオン

新約聖書の福音書研究です。マルコ・ヨハネ・マタイに続いていよいよルカの福音書。聖書は新共同訳聖書を標準としています。

文字通りに

2012-03-31 | ルカによる福音書1〜10章
 イエスの言葉は続きます。「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを救うのである」(ルカ9:24)と、逆説めいた表現が流れます。イエスの用いる対比はいつも強烈です。極端な対比もあります。しかし、だからこそ神の真理が強く襲います。そして、それを単なる比喩として受け止めて満足することを許さないものがあります。果たして私たちは、文字通りにこの表現を受け止めているでしょうか。何かの比喩として、大袈裟に言っているだけだ、と高をくくっていないでしょうか。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の身を滅ぼしたり、失ったりしては、何の得があろうか」(ルカ9:25)とイエスはたたみかけます。マルコが、自分の命を失うというようにしているところを、ルカは自分の身を、としています。前節で、「命を失う者は救う」とあるのに、続けて「命を失ったら何にもならない」としたのでは、意味が通らないと思ったのでしょう。ギリシア人の論理からすれば、これは奇妙なことですから。なお、この辺りの動詞をルカは独自に二つ重ねて用いていますが、文法的に訳しにくい面があります。前節の「失う」を記した上で、これではやはりまずいかな、という躊躇いによて、言い換えてもう一つ動詞を重ねている、というのが心理的な説明であるように私には思われますが、果たしてどういうことであるのでしょう。
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毎日の生活の中で神を感じること

2012-03-30 | ルカによる福音書1〜10章
 むしろここから内容的な段落を分けてもよいと思われますが、「それから、イエスは皆に言われた」(ルカ9:23)として、イエスの重大な言葉が始められます。ところが、この日本語にすると何気ない個所に、ルカがマルコを大いに変えてしまっている証拠があるといいます。マルコがここを「そして」で結んでいるのに対して、ルカは「だが」と逆説あるいは対比的な接続小辞に変更しているのです。小さなことのようですが、わざわざ変えるとあっては、ルカが「ここはこちらの意味でないといけないじゃないか」と思いこんでいたことを意味します。つまり、ルカがマルコとは無関係に、自分で理解していた考え方が強く反映されていると思われるのです。新共同訳では、残念ながらこのマルコとルカの違いが訳出されていません。全く同じになっています。ただ、さすがに原文の大きな違いは出しており、マルコでは、「群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた」(マルコ8:34)となっています。マルコは、弟子たちにも次の言葉を告げたことを強調しているのに対して、ルカでは、それを出さずに「すべての者に」言ったことにしています。弟子たちはすでにイエスについてきているのであり、次の言葉を言う意味がない、とルカは考えたのだと思われます。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)から始まるフレーズです。しかもここでもマルコでは「日々」が入っていません。ルカが「日々」を入れたのです。マルコだと、あのゴルゴタにおける惨い磔刑に目が向きます。つまり十字架にかかるほどの身を考えよということなのですが、ルカの「日々」はそれを連想させません。毎日の日常生活の中の辛いこと、という程度の意味です。その意味を考えてはいけないなどとは申しませんが、明らかにパワーが落ちます。ゴルゴタの十字架が根底にあれば、日々のことも乗り越えられますが、日々を想定していたならば、大きな十字架は担いきれないように思われます。しかし異邦人にはこれが分かりやすいのです。日常の道徳を説くからです。ルカは、つねに今ここでどうかという救いのあり方を問題にしています。神の国はここにあるのであり、きょうパラダイスにいるのであり、日々十字架を負う精神が必要だとするのです。ユダヤ民族がつねに未来に目を向け、未来こそ神の栄光を、という視点が見事に崩れ去っています。それを描かないわけではありませんが、ルカにとり大切なのは、毎日の生活の中で神を感じること、そのためには罪を意識し、それを悔改め、神に祈り、平安な心を与えられることでした。だからまた、おそらく日本人にも受け容れやすい道徳と重なっていたと言えるのではないでしょうか。
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人の子は必ず

2012-03-29 | ルカによる福音書1〜10章
 しかしこのキリストなる点については、さしあたり秘密にしておくべきだということにしておきます。あるいはこの後、弟子たちはこのことをすっかり忘れてしまっているようにさえ見えないこともないのですが、そこは全体の構成にも関わることです。ルカはこの辺りで読者に、イエスがキリストであるということをいわばはっきりさせておかなければならないと決めたのです。イエスは、先のペトロの告白について、肯定否定を明確にはしていないように見えます。それは読者が決めなければならないことでもあるのです。秘密は、個人的な信仰に基づく故である、とも考えられます。そして「イエスは弟子たちを戒め、このことをだれにも話さないように命じて、次のように言われた」(ルカ9:21-22)と、他の福音書でも幾度となく繰り返された内容を明かします。「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちから排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(ルカ9:22)という、十字架の予告です。「人の子」のフレーズはやはりこの言葉が定着していたのではないかと思われます。殺されること、復活すること、これは福音書のクライマックスです。いったいそれは何のために、ということになりますが、ここからイエスの口を通じて出て来る教えもまた、その目的を抜きにしては理解されなくなっていくことを予感させます。推理小説ではないのですから、最後になって初めて中心的なことが明らかにされる、ということを狙いにしているわけではありません。ここからエルサレムへ向かう歩みが、どこへ集約していくのか、目的は何であるのか、それを読者に明確にしておくのによいタイミングだとすべきでしょう。ルカはここから、多くの長い譬え話をも紹介することを用意しています。ですから分量としてはまだ半分に満ちていない中途ですが、内容項目からすればおよそ半分という感覚であるかもしれません。ここから眼差しは、はっきりと十字架へ向かいます。ただここでは、その死を「十字架」とは示していません。苦難のしもべ、そして復活です。
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キリスト

2012-03-28 | ルカによる福音書1〜10章
 問題はしかし、世間の噂ではありません。あなた自身はどう思うのか。福音書が読者に問いかける鋭い言葉です。「イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」ペトロが答えた。「神からのメシアです」」(ルカ9:20)と描かれています。「あなたがたは」とキリストは強調的な主語を入れて問うています。質問が真正面から向かってくるにあたり、ペトロがそれをキャッチして代表して答えています。教会におけるリーダーとしての位置が確定していたのは間違いないでしょう。「メシア」は原語では「キリスト」。ユダヤ人の望んでいた姿を示すときには「メシア」とわざわざ訳し戻すことに新共同訳は決めています。マタイは「神の子」のような言い方ですが、ルカは思案してか、「神のキリスト」と表します。あるいは「神であるキリスト」と読めないこともないからくりなのでしょうか。いずれにしても、ペトロがこのときここまで自覚していたのかどうかは、怪しいかもしれません。この辺り、イエスとは何者であるのか、何のためにこの旅を続けているのかに焦点が集まろうとしているわけですが、旅の事実をそのまま掲載するというよりも、イエスの真実、教会の信仰の証しといったものを盛り込んでいるという状況を否定することはできません。
 なお、ここでイエスはひとりで祈っていたと書かれていますが、これはルカの特徴です。ルカのイエスは、とにかく何かと祈ります。マルコではそういう書き方をしないところでも、祈っていた、ということに何でもしてしまうのがルカの特徴の一つです。異邦人にはそれがまた分かりやすかったのかもしれません。
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正体を明かす

2012-03-27 | ルカによる福音書1〜10章
 エルサレムに向かうイエス。そろそろ、その正体を読者にも明かす必要があるかもしれません。「イエスがひとりで祈っておられたとき、弟子たちは共にいた。そこでイエスは、「群衆は、わたしのことを何者だと言っているか」とお尋ねになった」(ルカ9:18)というエピソードです。マルコにもマタイにも同様の記事があります。しかし「群衆」を持ち出すところが、やはりルカの徹底です。烏合の衆と弟子たちとは常に対比されて置かれています。しかしこれもまた、テオフィロの視点からすれば、やはり群衆に過ぎないと考えると、そのような意図の中でルカが描いているのかもしれないと思えるようになります。イエスとは何者か。これはマルコが読者に問いかけたものでした。弟子たちはこのイエスの問いかけに対して、「『洗礼者ヨハネだ』と言っています。ほかに、『エリヤだ』と言う人も、『だれか昔の預言者が生き返ったのだ』と言う人もいます」(ルカ9:19)と答えます。イエスが当時どのように見られていたかを示す資料ともなります。すでに世を去ったヨハネが生き返ったのだ、というのは先のヘロデの懸念した点でありました。ルカによればそれは怯えている様子はありませんでしたが、それはやはり権力者の手による処分を悪く書くことができない政治的事情による可能性があるでしょう。だから責任はえてして群衆にあるし、判断しているのは下々の者であるのです。噂によると、というようなレベルで、キリストは、あのヨハネではないかと思われている、あるいはエリヤか、などとの声を載せています。エリヤは、そもそも死んでいません。旧約聖書の記事では、天に巻き上げられていっただけで、死を見た者はいません。ですからユダヤ人は、死ななかったあのエリヤが再び地上を訪れるという思いを抱くことができたのです。それは、復活とは関係がありません。ただ、それとは別に、昔の預言者が誰がよみがえったのだ、という声もあったらしいことがここに記されています。復活の希望は、いわゆる旧約聖書続編の中には自然に見られるもので、特にファリサイ派を中心としてでしょうけれども、復活の思想が色濃く反映するようになってきました。
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大割落

2012-03-26 | ルカによる福音書1〜10章
 ところでここでルカを理解する上で非常に大きな問題が起こることになります。ルカ独自の観点からの編集を交えながらも、概ねマルコを資料としてそれなりに辿ってきたルカでしたが、ここでマルコの記事をかなりの長さにわたって完全に無視してしまうことになるのです。マルコによるまるまる2章分が完全にカットされてしまうのです。神学者たちは「大割落」と呼んでいると田川建三は記していますが、このゆえに、ルカの資料の問題や異邦人伝道への意図などを推測する素材が提供されていることになり、大きな議論の対象となっているのです。そもそも欠落したマルコ書が存在したのではないか、などと、ここからルカの見ていた資料を当てようとする向きもありますが、一つの推理ではあっても、確実性には乏しいとされるべきでしょう。むしろ、意図的に省略したと見なしたほうが自然のようです。となれば、ルカの意図があります。それも推測に過ぎなくなりますが、ユダヤ社会ならばともかく、異邦人には強調しなくてもよいのではないか、という部分をルカがカットした心理は理解できます。また、落とした部分には、シリア・フェニキアの女のように、異邦人を見下していると受け取られかねない話も含まれています。また、ごっそり削ったこの部分から、後に取り上げているのではないかと思われる部分もあるなど、ルカは自らの意図を盛り込んでいるように考えられます。やはりルカは、異邦人伝道という目的を考えて、そして忘れがちですが、テオフィロというローマの人物に捧げている大義からして、見せる記事として相応しいかどうかを常に頭に置いて、このようなルカの心情を察しておくことも必要なのではないでしょうか。
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神の兵士

2012-03-25 | ルカによる福音書1〜10章
 この奇蹟は、四つの福音書すべてに描かれています。よほど重要な意味があったと思われます。メシア運動が危険視されてさえいた時代、イエスは男たちを組み分けして並ばせます。それはまるで、軍隊を組織するかのようにも見えます。先に弟子たちを遣わすときにも、何か軍隊的な空気を感じさせるものがありました。そうして集められた男たち五千は、小部隊に分けられていきます。そこにはわずかな食糧しかないように見えても、十分に行き渡るものにイエスは変えました。神の国の福音は、すべての派遣される兵士たちに十分に伝えられ、満たされていきます。飼うもののいないばらばらの群れであった人々が、今やイエスの前に集められ、整えられ、ひとつの霊によりひとつにまとめられていきます。群衆は、神の兵士として立てられていくことになります。それぞれが、それぞれに神の国を受け容れ、神と個人的な交わりを経て、生かされた者として、それぞれの役割を果たしていくのです。これは、イエスの後の教会の一員として期待されたあり方でもあったと言えるでしょう。
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3×4=12

2012-03-24 | ルカによる福音書1〜10章
 このようなありさまから、イエスの業が始まります。「すると、イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで、それらのために賛美の祈りを唱え、裂いて弟子たちに渡しては群衆に配らせた」(ルカ9:16)のでした。「讃美の祈りを唱え」たというのは、原語では「祝福し」となっています。つまり「それらを祝福し」と書かれています。異邦人ルカにしてみれば、言葉の使い方からしても、とにかく「それらを祝福し」とするしかなかったのですが、ユダヤ的な発想からすれば、これは言葉に出さずとも神の祝福であるはずです。だから新共同訳の訳語は、意味合いとしては適切ではあると言えるでしょう。ただ、「賛美」が歌をイメージさせる日本語は、ここでは避けたほうが無難かもしれません。いずれこれが具体的にどういう状況であるのか、誰かがはっきりと定めるように解説して戴ければよいと願います。パンと魚は割かれて配られます。分ければ分けるほどに増えていくのは、まさに福音によりもたらされる命のようです。このことにより「すべての人が食べて満腹した。そして、残ったパンの屑を集めると、十二籠もあった」(ルカ9:17)という事態が起こりました。マルコでは魚も残っていたのですが、他の福音書記者はパン屑だけにしています。合わせて七つという神の数、さらに魚という初期キリスト教集団の象徴、パンというイエスの裂かれた肉、さらに五つという数は人間そのものを表すとともに、五つのモーセの律法書を思い起こされる数であることなど、ここには象徴的配慮が様々にあると受け止められる余地を残しています。ここでは十二籠の余剰が、イスラエル民族への完全さを示すとともに、神の3と人の4とを掛け合わせた12であることが、人へまんべんなく行き渡る神の救いの福音をイメージさせるものともなっています。
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買いに行かないかぎり

2012-03-23 | ルカによる福音書1〜10章
 これに対して、イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」(ルカ9:13)と命じます。与えるのはあなたがたですよ、と文の最後に置いて強調しています。これは又、福音を伝えるのがイエスの弟子たる読者自身だよという意図もこめていることなのかもしれませんが、今はとにかくこの現場の弟子たちの困惑を受け取ると、「わたしたちにはパン五つと魚二匹しかありません、このすべての人々のために、わたしたちが食べ物を買いに行かないかぎり」(ルカ9:13)という言葉はまさに正論です。つまりは弟子たちは、イエスに、食べ物を買いになど行けるはずがないじゃないですか、行かなくてよいですよね、当然! とイエスに迫っているわけです。買いに行くしか方法がない、と言っているように翻訳では受け取りそうですが、買いになんか行けるわけないとその線を消してほしく尋ねているのです。ただこのあたり、ルカは、マルコやヨハネのような脚色を省いて、シンプルに事の成り行きを示すだけです。マタイもその傾向がありますから、マタイやルカの描いた資料は、あるいはその時期の教会の考え方として、ここは偶々シンプルな伝わり方であったのかもしれません。
 どうして弟子たちはこのような反応をしたのでしょうか。ルカはこの背景に「男が五千人ほどいたからである」(ルカ9:14)と説明をします。果たして、これは「男」だけなのか、「人」として五千人であったのか、表現は微妙です。どちらを表すことも可能だからです。しかし大群衆であったことには違いがありません。その人々を目の前にしてイエスは「人々を五十人ぐらいずつ組にして座らせなさい」(ルカ9:14)と弟子たちに命じます。野菜の束であるかのように表したマルコとは異なり、ルカは、座る場所をイメージさせる言葉を用いています。「弟子たちは、そのようにして皆を座らせた」(ルカ9:15)は、日本語としては短いのですが、ギリシア語は二つの文が結合した形になり、丁寧な表現になっているためにやや長く感じられます。
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分かりにくくなってしまった

2012-03-22 | ルカによる福音書1〜10章
 ここで「日が傾きかけたので、十二人はそばに来てイエスに言った」(ルカ9:12)とあるのですが、場所は確かベトサイダだったはず。それとも、その町に退いていく過程で、人里離れた場所がこの舞台だった、と言いたいのでしょうか。要するにルカはマルコの話の一部を省いて編集したために、分かりにくくなってしまったのです。ベトサイダは実のところ、もう少し後であったのではないでしょうか。「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。わたしたちはこんな人里離れた所にいるのです」(ルカ9:12)は、ベトサイダという町にいる情景からは出てこないセリフだと思うのです。ルカはギリシア語を駆使して、微妙な言い方あるいは言葉を選んでいるようです。群衆の解散は、弟子たちにとってもうっとうしい気持ちがしたのかもしれません。しかし、こうした舞台背景の故に、イエスの給食の奇蹟が輝くようになってゆきます。ここに五千人いるというのは、もう少し後で明かされます。
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使徒

2012-03-21 | ルカによる福音書1〜10章
 マルコもここでは「使徒」の語を用いていました。それは珍しいことでした。マルコにとり彼らは弟子ではあっても、地位的な使徒というものではありません。地上生涯を送ったイエスに従いつつも理解しそこねた、霊の鈍い者たちです。そして復活とともにガリラヤに戻ることで、今度は読者をイエスに従う旅に誘います。そこでマルコがここで用いた「使徒」は、役職的な意味ではなく、その原意である「使わされた者」というような感覚で捉えられるべき言葉であったとする必要があります。ルカにとってはこの弟子たちは最初から選ばれた「使徒」です。使っている感覚が違います。さて、イエスは「自分たちだけで」とありますから、おそらく十二弟子の他にも人はそこらにいたことでしょうが、群衆を避けてベトサイダに引っ込んでいったのでしたが、「群衆はそのことを知ってイエスの後を追った」(ルカ9:11)のでした。群衆は相変わらずあまり好意的には描かれていません。それでも「イエスはこの人々を迎え、神の国について語り、治療の必要な人々をいやしておられた」(ルカ9:11)のでした。ルカのイエスは「神の国」を語ります。使徒言行録において弟子たちが語ったのは神の国でありましたが、ルカはそれをイエスにも色濃く反映させます。マタイにしても、「神」を「天」と言い換えるユダヤ式発想ではありましたが、同様に神の国を語りました。時代が過ぎるとともに、マルコの精神からは外れ、後の教会の宣教方針に沿う面が強調されていったことが窺えます。
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ベトサイダ

2012-03-20 | ルカによる福音書1〜10章
 しかしイエスの側ではそのような事情とはお構いなしに、イエスの業を続けていくばかりです。「使徒たちは帰って来て、自分たちの行ったことをみなイエスに告げた。イエスは彼らを連れ、自分たちだけでベトサイダという町に退かれた」(ルカ9:10)と、遣わされた弟子たちがイエスのもとに再び集まってきます。しばし時間が経過していることが想像されます。そしてこの各地での弟子たちの活動が、容易にヘロデの耳に入っていったということも考えられるでしょう。さきほどから「すべて」とか「みな」とかうるさいものですが、もちろんこれは表現の手段。100%そうだという数学的データを示しているのではありません。私たちが「いろいろ」と言うようなところを、そのような言葉を使うのです。これを聞いてイエスがどういう反応をしたのか、ここには記されていません。あるいは、その反応が、ここからベトサイダに連れて行ってそこで見せる業であったということなのでしょうか。
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領主ヘロデ

2012-03-19 | ルカによる福音書1〜10章
 話題が転じます。すでにヨハネの話は3章で終わらせているルカですが、いよいよ宣教活動がなされると、メシアとしてのイエスの働きが為政者に怪しく響きます。あるいは、良心の呵責というものがあった故であるかもしれません。「ところで、領主ヘロデは、これらの出来事をすべて聞いて戸惑った」(ルカ9:7)と記されています。自分の権力を脅かすものに対して、為政者はつねに警戒するものでしょう。「というのは、イエスについて、「ヨハネが死者の中から生き返ったのだ」と言う人もいれば、「エリヤが現れたのだ」と言う人もいて、更に、「だれか昔の預言者が生き返ったのだ」と言う人もいたからである」(ルカ9:7-8)とその理由が明らかにされます。ヘロデ自身が、あれはヨハネだ、と言い始めたようにマルコは記していましたが、ルカは人の噂として取り上げられています。どちらでも大差はないでしょう。ヘロデにとり、ヨハネが生き返ったなどとは認めたくなかった心理の裏返しです。「しかし、ヘロデは言った。「ヨハネなら、わたしが首をはねた。いったい、何者だろう。耳に入ってくるこんなうわさの主は。」そして、イエスに会ってみたいと思った」(ルカ9:9)と気を取り直します。かつて父親は、イエス誕生の折りに王の登場を恐れ、幼児を虐殺したとルカは描いています。その息子は、そこまではできませんが、とにかく会ってみたいという思いを抱くようになりました。会って自分の目で確かめたならば、どのように扱うか自分で判断することができます。それが権力者としての威厳を表すことにもなることでしょう。ここでのヘロデは堂々としているように見えます。何かしら正義の味方の登場に怯えたというのではなく、そういう噂が振りまかれて世間が動揺しているというのが困るわけです。あらぬ噂に世の中が落ち着かないというのは、為政者としての実力を疑われかねない事態です。ヘロデは「戸惑った」とありましたが、実のところ、困ったのであり、弱ったものだと溜息でもついたのではないでしょうか。しかし、会ってみようというのは、会見を望んだというふうに誤解しかねない訳しかたですが、「見る」の語です。「見る」には「会う」の意味で使われる場合もありますが、やはり「ひとつこの目で見てやろう」という意図がありありと窺えます。そして少しでも怪しいところがあれば、捕まえて処理してしまおうという腹があったに違いありません。
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一語の動詞

2012-03-18 | ルカによる福音書1〜10章
 こうして「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした」(ルカ9:6)のでした。それぞれの村を通り抜けていきます。まだエルサレムには遠い地で、いくらか安全であったかもしれません。しかしこの辺りは、エルサレムのユダヤ教とはまたかなり違った信仰の土壌であったことでしょう。福音は、ファリサイ派との対立という先鋭なものではなく、自然で素朴ないやしと恵みのよい知らせとして伝わったことが推測されます。それぞれの村で歓迎されたことでしょう。それは、信仰を理解している知的なムードではありません。ルカは群衆とそれを呼び、いわば無理解で粗野な姿だと描いていますが、軽蔑しているかどうかは別だと思われます。そこには確かに神の業が現れたのです。神はつねにそこにいたのです。なお、ここの「福音」も名詞ではなく、「福音を伝える」一語の動詞です。日本語には相応しくありませんが、いわば「福音する」という感じです。案外これを用語として使ってみるのもよいかもしれませんけれども。
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寄留民の伝統

2012-03-17 | ルカによる福音書1〜10章
 もうひとつは「どこかの家に入ったら、そこにとどまって、その家から旅立ちなさい。だれもあなたがたを迎え入れないなら、その町を出ていくとき、彼らへの証しとして足についた埃を払い落としなさい」(ルカ9:4-5)というものでした。旅人は民家を頼りとします。それを迎え入れるというのは、旧約聖書からも分かるとおり、当地のひとつの文化です。旅人をもてなすことは、自ら寄留民であったイスラエル人の伝統でもありますから、中東の厳しい自然環境の中で助け合う自然な福祉感覚のなせる思考法でもあったことでしょう。今もイスラム文化はそのようであると言われます。しかし、それさえもしてもらえないということは、はっきりと敵対しているということでもあるでしょう。それよりも、ここで注目するのは、そこにとどまるということです。つまり一人の人を信頼し抜くということです。あるいはまた、そこでのもてなしに不満を覚えてあちこち家を換えるようなことをすべきでない、ということなのかもしれません。その方が、持ち物を持つなという最初の注意とつながるでしょうか。気になるのは、「だれも」です。迎え入れない人は複数です。複数であることと、すべてであることとは違います。むしろ単数であれば、だれ一人として迎え入れないことを示唆することになるでしょうが、ここでは、迎え入れない人が何人かいたとしたら、その何人かのことはやはり神がきちんと決着をつけてくださるであろうから、裁きを宣言すべきなのだというような方向性で捉えたほうがよいのではないでしょうか。埃を払い落とすのはこういうときのやり方です。塵一つ、そうした悪は自分の身には及ばせないという証しでもあったでしょう。
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