エウアンゲリオン

新約聖書の福音書研究です。マルコ・ヨハネ・マタイに続いていよいよルカの福音書。聖書は新共同訳聖書を標準としています。

だれが隣人になったか

2012-05-21 | ルカによる福音書1〜10章
 これで状況設定は示し終えました。大切なのはイエスの最後の問いです。「さて、あなたはこの三人の中で、だれが追いはぎに襲われた人の隣人になったと思うか」(ルカ10:36)というのが、この一連の話の流れのいわば結末です。問いかけですから、読者もまた、突きつけられていることを思うべきです。かの律法の専門家は、「では、わたしの隣人とはだれですか」(ルカ10:29)と問いました。しかしイエスの返した問いは、「だれが隣人になったか」でした。このような視点の変換が、キリスト教の重要な点ではないかと思われます。初めの問いでは、隣人というものが、ある制限された中に留まっています。いろいろな人がいますが、その中に隣人と呼べる人は限られている、それはいったい誰なのか、と。しかしイエスの視点は違います。すべての人が、そしてここではいわば敵でさえも、隣人になることができるという例を挙げます。私たちも、時折立派な人の話を聞きます。その無私な行為に感動し、すばらしいと称えはしますが、はたして自分はとなると、自分は聖人君子ではないからできない、と言って笑ってごまかします。確かに、大きな犠牲は払えないかもしれません。しかし、この宿屋の主人のように協力はできるのではないでしょうか。サマリア人ほどにはできないから、という理由で、一切の協力を渋るのは明らかにただの逃げです。私たちもまた、隣人となることから逃げてはいけないと思うのです。誰がこの瀕死の旅人の隣人になったと思うか。宿屋の主人もまた、ビジネスであるにせよ、隣人となりうる立場にあったとは言えないでしょうか。
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連帯して助ける

2012-05-20 | ルカによる福音書1〜10章
 このサマリア人は主人に告げます。「そして、翌日になると、デナリオン銀貨二枚を取り出し、宿屋の主人に渡して言った。『この人を介抱してください。費用がもっとかかったら、帰りがけに払います』」(ルカ10:35)と。負傷者への憐れみだけでは終わりません。それを全うするために、世話を頼んだ宿屋の主人に対しても責任を果たします。当然だろうなどと傍観者の私たちは口走るかもしれませんが、見ず知らずの他人、しかもいわば敵であり自分への加害者の一人に対して、これだけのことができるというのは、まともな常識では考えられないことです。翌日ということから、2日分の代価がここに払われています。ただ、もしかするとこんな視点をもつこともできるかもしれません。それは、この人は、自分の手でこの負傷者を介抱し、面倒をみることはできなかったのか、と。そこまで要求するのは他人の無責任さの故の意見なのでしょうが、このサマリア人は、後半では金で解決しようとしています。自分の手を汚していないではないか、という考え方もあろうというものです。ただ、前半では明らかに自分の手で助け起こし、治療を施し、代わりに歩いて、安全な場所まで連れて行っています。そして、おそらくユダヤ人の許に任せています。つまり彼は、自らも助け、他の人とも連帯して助けるように動いています。自分ひとりの手で何もかもをするのだということで自己満足をしようとするのではないのです。助けるとなれば、いわばみんなで助けることが望ましいとしているのかもしれません。私たち自身がサマリア人になることができなかったとしても、せめて宿屋の主人にはなることができるのではないか、と思わされます。言葉としては全く異なりますが、イエスの誕生の折りに、宿屋にとまるスペースがなかったことを思い返します。イエスはその宿屋にさえも入れなかったのですが、そこにこのイエスの分身であるかのようなサマリア人は、瀕死の敵を委ねました。この伏線は、もっと注意されてよいのではないかと私は感じます。多くの人が様々な形で、人を助けることに関わっていくことのほうがよいのではないか、と。
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近寄る

2012-05-19 | ルカによる福音書1〜10章
 三人の登場は、「そして」でなく、「また」「しかし」の軽い接続小辞を交えています。それぞれが、それぞれに登場したのです。流れるように三人が現れたのではなく、一人一人が一人一人の人生を背負いながらその場に通りかかったのです。読者の一人一人が、自分はどれだろうかと自問する余地を残しています。尤も、二番目のレビ人の場合には、「またそして」と、先の祭司と同様であることが示してありますが。
 三人目は違います。「ところが、旅をしていたあるサマリア人は、そばに来ると、その人を見て憐れに思い、近寄って傷に油とぶどう酒を注ぎ、包帯をして、自分のろばに乗せ、宿屋に連れて行って介抱した」(ルカ10:33-34)と淡々と述べてありますが、その一つ一つの行為が重く、手間のかかるものです。そもそも最初の「近寄る」ところから、大きな勇気の要る一歩であったかもしれません。それぞれの行為が当時の治療行為であることについては、ここで逐一調査をする必要はないと判断します。ただ、治療法として適切なものであったことは確かでしょう。新共同訳では、原文の順序を逆転して常識的に分かりやすくしていますが、原文では包帯のうとにぶどう酒を注いでいます。そういう言い回しをするのだそうです。比較には当たらないかもしれませんが、私たちも「湯を沸かす」「穴を掘る」と言います。今から沸かすその対象は水であり、掘る対象は地面であるはずなのですが、目的をすでに先取りして言うのですね。この宿屋は、誰でも受け容れる態勢を調えたものだそうです。むしろこの文で注目したいのは、「憐れに思い」というところかもしれません。キリストは群衆やあるいは困惑した人を見て、このように憐憫の情を垂れています。それがただの情に終わらないのが、またその救いの業となっていく契機たる所以なのですが、サマリア人がユダヤ人をあわれに見たところが特筆すべきなのです。彼は、自分がろばから降りて歩くことまでして、負傷者をろばに乗せました。この身代わり行為にも注目しておきたいと思います。
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避けて通る

2012-05-18 | ルカによる福音書1〜10章
 登場するのはまず「ある祭司がたまたまその道を下って来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った」(ルカ10:31)という姿です。祭司が下っていたことも味わいがあります。祭司です。神殿が職場です。職場から帰宅するか用事があるかでエリコに向かうのです。たとえば牧師が教会と少し離れた牧師館に住んでいるとして、教会での礼拝を負えて自宅に帰る途中であるのです。たった今神に仕え、神の愛を語ってきたばかりなのです。今から職場に向かうのでもないので、職の障害になるわけでもないという状況です。この人が、瀕死の同胞を見つけたとき、近くを通りかかろうともしないで、わざわざ離れて傍にも近づきたくないという思いを表すかのように、避けて通るのです。死体に触れると汚れるから仕事に差し支える、という理由も今は説得力がありません。汚れはあるにしても、緊急の職業問題には関係がないのです。「同じように、レビ人もその場所にやって来たが、その人を見ると、道の向こう側を通って行った」(ルカ10:32)も、繰り返しの妙を表しているだけです。レビ人は、祭司よりは低い身分ですが、やはり教会の副牧師なり伝道師なりをイメージ致しましょうか。重傷者を見て、それと知り、意識した上で、意図的に離れて歩いたのです。2011年、隣国で、事故に遭った少女が往来に倒れていたとき、それを通行者が次々と見過ごして通りすぎる様がインターネットの動画投稿サイトに公開されて、大きな問題だとされましたが、そのとき報道する側も、おそらく自分がその場にいたら、果たして助けただろうか、と立ち止まる思いがあっただろうと思われます。下手に助けようとすると加害者扱いされる、などという社会的空気があったなどとも言われますが、それだけで説明されてよしとしてしまうことも難しいものでしょう。この祭司やレビ人の登場と重なるものが感じられてなりません。
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ユダヤのエリート

2012-05-17 | ルカによる福音書1〜10章
 ここは「イエスはお答えになった」(ルカ10:30)から始まります。「答えた」という語から始まりますから、この前の受け答えを踏まえて読まなければならないことになります。また、単に答えたのではなく、ちょっと相手の言おうとする流れを断ち切って割り入るような感覚が伴うかもしれないということです。その話題に関して、イエスがイエスなりに滔々とその立場から言える考えを述べていくのです。こうしてこの物語が始まります。「ある人がエルサレムからエリコへ下って行く途中、追いはぎに襲われた。追いはぎはその人の服をはぎ取り、殴りつけ、半殺しにしたまま立ち去った」(ルカ10:30)というのです。首都エルサレムから、死海湖畔のエリコ。歴史のある町です。標高差が千メートルもあるわりには水平距離は大したことがなく、猛烈な下り坂となっているそうです。必ずしも物寂しい道だとは言えず、そもそも当時は道々すべて商店街が並ぶわけではありませんから、今の基準から言えば寂しいものなのかもしれませんが、やはり要路ではあったわけですから、この人はこの道を避けて通ることもなかったでしょうし、偶々運が悪かったような面もあろうかと思います。重要な設定は、これがユダヤ人だと前提されていることです。明言していませんが、ユダヤのエリートが隣人云々を考えてもたらされたこの話の中で、まともに「人間」だとして呼ばれるのはユダヤ人に違いありません。しかも、追いはぎが、この人を半殺しにまではしたにせよ、命までは奪わなかったというさりげない表現にしても、それが同胞であったからだ、という説明がよくなされます。この追いはぎという呼称は、ローマ帝国側からの常識として、ユダヤの革命グループを呼ぶことがあったといいます。つまりあの熱心党系の輩に手を焼いたローマ軍側から見て、あいつらは追いはぎだというように呼んだというのです。ルカの時代にはその言い方で十分伝わったことでしょう。そのように追いはぎがユダヤ人であることは明白ですから、この被害者もユダヤ人であったという暗黙の前提がここに流れていると理解されるのです。こうしてこの事件そのものは、必ずしもありえないことではなく、ありがちなことであったことだろう、と思われます。
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善きサマリヤ人の譬え

2012-05-16 | ルカによる福音書1〜10章
 これに対してイエスが回答を示すのが、ここからしばらく続く、いわゆる「善きサマリヤ人の譬え」です。私は個人的に「善き」というここにはない語を補う必要は全くないと考えています。善いことを提示しているのでもないと思うからです。しかしともかく、イエスの物語が始まります。それは、どこかの資料にあったのでしょう。ルカはその取材をここに混ぜて生かす方法を考えたのです。今それを提供する時がきました。どんな資料に基づいているのか、それは誰も知りません。ギリシア語としても非常につながりのよいもので、ルカはおそらくルカ自身の手をやたら加えることなく、備えられた資料をそのままここに掲載しているとさえ推測されています。マルコの手直しなどという意識もありません。イエスの口から本当に出た言葉であるのか、という疑いさえ起こりますが、内容的にはまさにイエスの思想そのものでもあり、ここを否定するのも淋しいものです。これはやはりキリストの教えの根幹を示す資料だと受け止めておくべきだろうと考えます。
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正義

2012-05-15 | ルカによる福音書1〜10章
 神の国から遠くない、と褒めたように描かれているマルコとは違い、ルカにおいてこの律法家は、より人間くさい反応を示します。「しかし、彼は自分を正当化しようとして、「では、わたしの隣人とはだれですか」と言った」(ルカ10:29)のです。テーマがはっきりします。「隣人」とは何か、です。この「隣人」は、普通の感覚とは異なる思い意味が含まれています。というのは、これはユダヤ人にとって、同じユダヤ教を信じ、律法を守り暮らす同志たちをこそ意味するものだからです。しかし、異邦人にはそのようには捉えられていません。それでもなお、誰であっても、「隣人」となると、嫌いな奴や敵対する者を含めて考えてはいないものと思われます。ルカにとり、これは人類一般に共通する感覚でも十分考えていけるものだと理解したのではないでしょうか。ところでこの「正当化する」という語は、邦訳においては様々な表現がとられています。「正義」を望むようなニュアンスの原語ですが、訳しにくいだろうと思います。前節の「正しい答えだ」というときの「正しい」は、まっすぐに線を引くという語に関連した語です。「正義」ではなく、まっすぐなものだというような意味です。ところが「正当化」のほうでは、確かに「正義」です。まっすぐで素直なところ、きっちり線引きができているような段階とは異なり、彼は自分を正義そのものと見せようと思って、イエスにくってかかるような真似をしてしまうのです。いったい「隣人」を愛するとは、正しく定義するとどうなるのだろうか、と。それは、イエスの真意をはかるため、イエスの腹の底を探るためであったかもしれません。実行するとなると、その隣人という対象にどのような存在が想定されているか、あなたの意見を明確にしてもらおうというのです。それがあってこそ、実行するという言葉もどうなるのかはっきりしようというものだからです。
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人間の不真実

2012-05-14 | ルカによる福音書1〜10章
 イエスは「正しい答えだ。それを実行しなさい。そうすれば命が得られる」(ルカ10:28)と言い、一見その答えを受け容れたかのようにも見えますが、口先の言葉を人間は平気で吐きます。神にとっては、言葉は存在と同一ですから、そうとは限らない人間の言葉は、不真実であり、不誠実極まりないものに映るはずです。ですから、それを実行に移すことが真実の言葉としての最低条件になるわけです。それを突きつけます。それが永遠の命を受け継ぐために必要なことになるのです。これは皮肉のようにも聞こえるかもしれませんが、意地悪であるという意味ではないと私は思います。人間の不真実を鋭く突き刺す問いであることは間違いないでしょうが、悪意のように捉える必要はないと考えるのです。あなたのその答えは正しい。正しすぎる。ただ、それが実行を伴っているとすれば、の話なのだ。イエスのこのときの眼差しを見たいものです。
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プシュケー

2012-05-13 | ルカによる福音書1〜10章
 するとこの律法家は、「『心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい』とあります」(ルカ10:27)と答えました。これは立派な回答です。なお、この四つは、本来の申命記と比べてみると、一つ多くなっています。「思い」が多いのです。ところが面白いことに、この「思い」はマルコが加えたのです。ではルカはマルコをそのままもってきたのかというと、これがまた違うのです。マルコの語順は「心・精神・思い・力」でした。「思い」の扱いについてルカは丸写しではないわけです。また、この「精神」は新共同訳に限らず多くの訳でそう訳していますが、魂をも意味する「プシュケー」であることは気にしてもよいかもしれません。私たち現代人の感覚でいう「精神」には違いないのですが、かつての人々は、そこに霊魂的な意味を含ませていたのです。神を愛することは、必然的に隣人への愛につながります。こうして、次の譬えのための「隣人」がセットアップされることになります。ルカがどこから仕入れたか分かりませんが、サマリア人の譬えを提供するに絶好の空気が流れ始めました。
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永遠の命

2012-05-12 | ルカによる福音書1〜10章
 彼はイエスを試そうとしています。「先生、何をしたら、永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(ルカ10:25)という質問です。マルコやマタイでの類似の質問とは、律法の中で最も大いなる戒めを尋ねることでした。この問いは、ユダヤ人たちにとり関心の大きかった問題を表しています。律法は数あれど、ではその重要性からランク付けをするならば、どこに重きがあるのだろうか、ということです。ルカはその問いを、専ら「永遠の命」というところに焦点を当てて展開します。ルカは、異邦人に対しては、律法という環境の中でのトップを話題にするよりも、異邦人にも共通に理解しやすい、そして異邦人が宗教に求める最大の関心事を中心に据えることで、すべての人が自分自身の問題として受け容れやすくしているものと思われます。
 これに対してイエスは「律法には何と書いてあるか。あなたはそれをどう読んでいるか」(ルカ10:26)と返します。ラビは、安直に答えるのでなく、質問者に投げ返す問いを持つことがしばしばあります。これはユダヤ的にはノーマルなことのようです。しかしまた、読者自身がどのように受け止めているか、という神から突きつけられた質問であると私たちは受け止めることもできます。読者は自分への問いとして捉えることもできるのです。
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