エウアンゲリオン

新約聖書の福音書研究です。マルコ・ヨハネ・マタイに続いていよいよルカの福音書。聖書は新共同訳聖書を標準としています。

福音はローマへ

2012-02-24 | ルカによる福音書1〜8章
 波は静まりました。「イエスは、「あなたがたの信仰はどこにあるのか」と言われた。弟子たちは恐れ驚いて、「いったい、この方はどなたなのだろう。命じれば風も波も従うではないか」と互いに言った」(ルカ8:25)というやりとりがあります。溺れてしまう、という弟子たちの不安と焦りには、信仰がないという考え方が表されています。ところが神の言葉はその命じるところによって、風も波も従うのです。しかしマルコでは、「まだ」信じないのかと問い詰めており、弟子たちに厳しいイエスの姿が明らかにされていますが、ここでは淡泊に、信仰がどこにあるか、とだけ尋ねています。イエスに従うことを重視し、弟子たちはまだこのときには従うに価しないと見なしているマルコでは、弟子たちに本当の信仰があるとは言えないことが前提となっています。十字架と復活を経て、再びガリラヤに戻りイエスに会うとき、弟子たちは本当の意味でイエスに従う者となるのです。そして読者がまさにそのようにしてイエスに従うのだという誘いになっています。ルカでは、福音はもうローマへ向けて広がっていっています。エルサレムで一つのクライマックスを迎えた後、現在進行形というあり方で、福音がアジアからローマのほうへ広がっていっている最中の出来事です。信仰はどこか。そう問われて、この方はどなたなのか、というマルコの言葉を同じく語らせながらも、答えは見えているルカの描き方がこぼれてきているようであります。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

先生、先生

2012-02-23 | ルカによる福音書1〜8章
 この辺りは、例の「そして」では繋がれていません。事態がちょっと違うものに展開していくことを感じさせる語が代わりに頻繁に使われています。「弟子たちは近寄ってイエスを起こし、「先生、先生、おぼれそうです」と言った。イエスが起き上がって、風と荒波とをお叱りになると、静まって凪になった」(ルカ8:24)には二度も用いられています。ルカが弟子たちの言葉の中で用いている「先生」は、律法学者たちの呼びかけるときの「ラビ」とは異なります。「主人」というような語で、指揮官のように上に立てられている人に対する呼びかけです。この区別で、いわば悪意をもつ者であるかどうかをはっきり示しているのかもしれません。この語をこのように呼びかけるのは、ルカ独自の使い方のようです。マルコのように湖に向けて命じたのではなく、ルカは荒波に向けて命じているようにしてあります。細かなルカの感覚がうかがえます。湖は大きすぎると思ったのでしょうか。マルコはしかも、言葉としては「海」として指していましたから、ルカがいくら「湖」と直したにしても、やはり現実に命じた相手は波だったということでしょうか。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

イエスは眠ってしまわれた

2012-02-22 | ルカによる福音書1〜8章
 ここからもマルコの記事を採用していると思われます。「ある日のこと、イエスが弟子たちと一緒に舟に乗り、「湖の向こう岸に渡ろう」と言われたので、船出した」(ルカ8:22)との動きが始まります。ちょっとした場面転換の意気込みでルカが書き始めています。どういうつもりでイエスがこう言い始めたのか、それは分かりません。すべてが分かっていていわば仕組んだかのようにこの船出を促したという見方もできますし、次にあるゲラサでの役割を果たすために動いたのかもしれません。そこまで考えることなく、たんにあちこちに行こうということなのかもしれません。私たちにはちょっと魅力的です。「向こう岸に渡ろう」というフレーズは、私たちのためらう心を動かそうとします。勇気を出して漕ぎ出でようという気持ちを促します。ここにとどまり、動かないままにしているよりは、自分を待つ向こう岸に出て行くという気持ちです。
 ところが「渡って行くうちに、イエスは眠ってしまわれた。突風が湖に吹き降ろして来て、彼らは水をかぶり、危なくなった」(ルカ8:23)と事態が転じます。マルコだと、イエスの眠りが嵐より前なのか後なのか分かりづらくなります。ひょっとすると嵐が来たのにそれから眠ったのではないか、と怪しむ人が現れるかもしれません。ルカはその曖昧さを回避しました。イエスは冷たい無責任な方ではない、と言いたい印象を与えます。この突風は地理的にも確かにありうるようですが、ルカにとってはそれはあまり関心がなかったことでしょう。マルコを、ルカなりのイメージで描き直そうとしているように見えます。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

だめ押し

2012-02-21 | ルカによる福音書1〜8章
 イエスの答えの中にも、マルコのような否定的な部分を省いた様子が窺えます。「するとイエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とは、神の言葉を聞いて行う人たちのことである」とお答えになった」(ルカ8:21)とあり、母や兄弟とは誰のことだ、とはもう訊かなくなっています。マルコは、イエスに従うことが大切なのだとはっきり示していましたが、もはやそうではなくなっているのが分かります。異邦人にも分かりやすい、ちょっとした道徳的な表現のようにも見えます。さきほどルカのここでの意図が不明だと考えましたが、このあたりを見ると、あるいは、たとえという「神の言葉」を話したところで、これを聞いて行うように、というだめ押しのようなつもりだったのかもしれません。たとえ、すなわち神の言葉、これを実行せよ、という流れを作りたかったのかもしれません。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

母と兄弟たち

2012-02-20 | ルカによる福音書1〜8章
 マルコを踏襲するかのようでありながら、ルカはここでたとえのことについては一つのまとめを得たと理解して、出来事のほうに移ります。マルコであれば一つ前の章に戻るようなことをします。ルカなりの意図があったのでしょうが、果たしてそれが何に基づくのか、これは安易に決めることはできないようになっています。若干話題が変わるような勢いで、「さて、イエスのところに母と兄弟たちが来たが、群衆のために近づくことができなかった」(ルカ8:19)が唐突に始まります。マルコの順序を崩しているのは、何か意図があったのかとも思われますが、たとえについての一連の発言が一区切りついたところで、場面の転換に挿入したという印象をも与えます。つまりは明確な意図はよく分からないということです。「そこでイエスに、「母上と御兄弟たちが、お会いしたいと外に立っておられます」との知らせがあった」(ルカ8:20)というのは、マルコだったらイエスの気が変になったというような、さもありなんという当然の情景の中で描かれているのに対して、あまりにスマートです。イエスの家族のイメージを悪くしないような配慮なのかもしれません。マルコはイエスひとりに光を当てますが、時代とともに教会の内部では、やはりイエスの関係者もまた聖人化するというか、立派な人物に描かれなければならないような雰囲気になっていくものです。マタイですら、弟子たちを見事な人物たちとして描き直しています。ルカもまたそうでしょう。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

持っていると思うもの

2012-02-19 | ルカによる福音書1〜8章
 なぜか。「隠れているもので、あらわにならないものはなく、秘められたもので、人に知られず、公にならないものはない」(ルカ8:17)からだといいます。ここはほぼいじっていません。むしろ読みやすく工夫したという程度です。それは続く「だから、どう聞くべきかに注意しなさい。持っている人は更に与えられ、持っていない人は持っていると思うものまでも取り上げられる」(ルカ8:18)で、「持っていると思うもの」と表現を替えているところにもルカの思いが現れています。マルコは「持っていない人は持っているものまで」とありました。これはギリシア的な論理を好む人から見れば非論理的ではないか、ということでしょうか。持っていない人が持っているのは変だ、と。日本語だったら、何も不自然に思わず理解しているところでしょう。「何もありませんがどうぞ……」を日常としている文化では、このくらいは普通のことです。とにかく、ここではたとえのことが語られているのであって、イエスの語るたとえは、ちゃんとあからさまに輝かせているようなものであるし、人はそのように受け止めなければならないのに、それさえも目に入らず耳に入らないような態度であっては、あらゆる宝を失ってしまうことになるのだ、という基本を受け止めておけばよいかと思います。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

ともし火

2012-02-18 | ルカによる福音書1〜8章
 ルカはマルコを参照しているようです。たとえの説明の展開はここではマルコに沿っています。「ともし火をともして、それを器で覆い隠したり、寝台の下に置いたりする人はいない。入って来る人に光が見えるように、燭台の上に置く」(ルカ8:16)はマルコにもあります。しかし、この辺りでマルコを丸写ししているというわけでもなく、ルカなりによく考えて編集がなされています。異邦人に分かりやすくという配慮なのか、ルカ自身の理解がそうであったのか、恐らくそのどちらも背景にあっただろうとは思いますが、やはりルカ伝の味付けというものは感じることができます。「升の下」というマルコは「寝台の下」にしています。「入って来る人に光が見えるように」という説明を施してもいます。灯りは隠すことはない、という主旨をルカが理解したままに記しています。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

ありきたりの道徳

2012-02-17 | ルカによる福音書1〜8章
 弟子たちの質問への正式な答えがここから始まります。ちょっと区切りを入れてもよかったかもしれません。「このたとえの意味はこうである」(ルカ8:11)といきなり質問の内容に戻るかのようにしています。子どものためのお話としてもよく語られる個所ですし、多くの人にとりなじみのあるたとえです。それは、イエス自身が明確にその意味を解説しているという特殊事情によるとも言えるでしょう。「種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである」(ルカ8:11-15)と一気に挙げましょう。「種」とは神の言葉のことだ、とまず主題が示されます。ここにはもう狂いはありません。イエスの語る言葉も当然その位置を占めることになりますが、神の言葉は人々の中に確かに播かれています。畑の宝のように隠されている神の国に対して、神の言葉は明らかにされているというのです。踏みつけられるというイメージに加えて、鳥に食べられるというのが悪魔と重ね合わされています。鳥は霊や魂をイメージさせるものです。空中を自由に動くところからそうなのでしょうか。しかしまた、それは常に良い霊だとは限りません。悪魔もまた、鳥のように自由に訪れ、自由に去って行きます。干からびた日射の下の種は試練で神の言葉から遠ざかってしまう人を指すといいます。そこには根がないから、いわば試練に出合うことにより、レースから脱落してしまうのです。続く茨の方が試練のようにも感じられますが、人の心を覆うどちらかというと自分の側の心理的原因のようなものに割り当てられています。御言葉を聞いてキリスト者としての歩みをせっかく始めたのに、自分の中で成長を妨げる心になってしまうのです。しかし、良い土地に落ちた場合は、実を結びます。なんだか最後のフレーズが、妙に子どもの道徳の時間のようになってしまったのは迫力がない感じがします。マルコは締まった表現でしたし、三十倍・六十倍・百倍という具体的な展開を見せていました。マタイもそう大きく変わりません。だのにルカだけが、ここの雰囲気を大きく変えています。分かりやすさという点はあるかと思いますが、無難なありきたりの道徳にも聞こえてしまう点が残念です。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

理解できない

2012-02-16 | ルカによる福音書1〜8章
 イエスは譬え一般のことをまず言います。「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、聞いても理解できない』ようになるためである」(ルカ8:10)と、マルコを受け継いで「たとえ」がそもそも使われる理由が説明されます。「悟る」というよりは「知る」の語ですが、訳の上で意図があるのでしょうか。神の国のミステリーを知ることがなかなか人々には許されていないのです。人々は見ているようで大切なことは見えておらず、聞いてもそれは音だけで意味を解しているとは言えない、というイザヤ書を自由に引いたマルコを踏襲しています。これはパウロも引いて語ったことがあるほど、頻繁に用いられた個所であると思われます。ここの「ためである」は目的として訳されていますが、理由のように「からである」というような受け止め方、また結果として「になる」という考え方など捉え方はいろいろありそうですが、研究者は目的を適切としているようです。ルカは同じ引用でも若干コンパクトにしている観があります。神の国のミステリー、それはその言葉を自分の問題として受け止めるときに開かれます。他人事ではどうにも理解できません。客観的真理のように対象化して観察するような態度では、何も分からないし、その言葉が力になることはありません。命になることがありません。その意味でも、「知る」という言葉を用いて、聖書の「知る」が「体験する」であることを弁えていく道を取りたかったものだと残念に思います。
コメント (0) |  トラックバック (0) | 

このたとえはどんな意味か

2012-02-15 | ルカによる福音書1〜8章
 後にいわばプライベートに、弟子たちはイエスにその意味を尋ねたことがマルコの福音書で描かれていますが、ルカはその辺りは気を配りません。群衆に向けて語ったことは、悟る期待が薄である中でなされており、弟子たちへ向けてこそ、真の説き明かしがあるのだというふうに窺え、群衆は無視されるような扱いになっています。「弟子たちは、このたとえはどんな意味かと尋ねた」(ルカ8:9)といきなり質問が始まっています。しかも、よく見ると、弟子たちは種まきのたとえについて質問をしています。そもそも譬え一般について質問したマルコとは異なっています。イエスはこれに対して回答します。これは種まきだけではなく、譬え一般のことを答えていますから、ルカの修正は、ここだけを見るとやや合わなくなっていると言えます。ルカはルカなりに、イエスがまず一般的な答えをしてから、弟子たちの要求に応じて種まきのことを話した、と考えているのかもしれませんけれども。
コメント (0) |  トラックバック (0) |