日本古靴資料館

日本の靴の歴史についてのデータベースです。
日本の古靴やメーカー等の情報提供お待ちしてます。

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スタンダード靴の歴史 その2

2017-06-27 21:10:00 | スタンダード靴
大正15(1926)年春から全国靴市場は機械靴の進出と、これに対抗する手工靴との競争で混乱状態に陥り、消費者の中では格安品が歓迎される傾向が顕著になっていました。

これに対し東京スタンダード靴は高級素材使用の高級靴だけを製造、販売してきましたが、水牛革に加工した底革を保証底と名付け、これに保証券を付けて販売するなどの対応策を取りました。

翌昭和2(1927)年1月、宮澤胤勇は新興財閥の野村家に運転資金の援助を求める為に家長の野村徳七と面談しました。

当時既に各種の事業に資金を固定していた野村家は資金的に相当窮屈でしたが、野村徳七は製靴事業の将来性を理解し、野村家の直系事業として東京スタンダード靴の経営にあたることに決定しました。

4月7日、有楽町の鉄道協会で臨時株主総会が開かれました。
役員人事では、取締役の吉田秀人、西井賢英、田上嘉八郎、監査役の大澤孚、相談役の増田義一、荻野元太郎が辞任し、新たに取締役として野村合名会社から岡崎逸平、相談役に小澤福三郎が就任しました。

18日には本店を東京府下西新井村から、東京駅前丸ビルに移転しました。

野村合名会社の援助工作の大任を果たした宮澤胤勇は6月に取締役を辞し、代わって野村合名理事の小澤福三郎が取締役会長に就任し、経営の実態は名実共に野村家事業の傘下に移りました。
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日本製靴の歴史 その3

2017-06-21 14:06:00 | 日本製靴
大正13(1924)年4月、伊藤琢磨が取締役会長に就任しました。
伊藤琢磨は半年後の10月には日本皮革の取締役会長も兼任することになります。

昭和7(1932)年3月、満州国が建国され、日本製靴からも満州向けの民需靴の輸出が始まりました。
日本製靴の民需靴は三井物産横浜支店を通じてアフリカのタンザニアやケニア、少量ながらハワイにも輸出されました。

昭和11(1936)年にアゴー式と呼ばれる接着機械による機械靴を松坂屋百貨店で販売を開始しました。
しかし、当時の接着剤が粗悪なため、返りが悪く、普及はしませんでした。

昭和13(1938)年1月15日、日本製靴は陸軍及び海軍の管理工場に指定され、陸海軍から工場監督官が派遣されました。
軍管理工場になると、生産計画、資材の入手なども軍の指示により行われました。
陸軍と海軍では運営方式に違いがあり、陸軍では原材料を現物支給する加工方式、海軍では前渡金方式をとり、原材料調達から後は会社に一任するやり方でした。
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スタンダード靴の歴史 その1

2017-06-07 10:17:39 | スタンダード靴
大正11(1922)年、ロシア帝国の崩壊によって大損害を受けた明治製革は、9月に臨時株主総会を行いました。

会社側と社長の浦部襄夫の対立によって会場周辺は乱闘の場と化しましたが、社長の浦部襄夫、鈴木重成、福島松男、宮沢胤勇の三常勤重役の退任という妥協案でその場は収まりました。

大正12(1923)年12月、宮沢胤勇は製靴業界に進出することを決め、出身校の早稲田大学の校友を中心に設立資金を集めました。

資金を集めた宮沢は翌13(1924)年5月、機械の買い入れ、製作の研究、販売方法の調査のため、前田良吉、百瀬唯一をアメリカに派遣し、宮沢は製靴工場の建設を進めると同時に、桜組工業の熟練工を中心に従業員の確保に努めました。

大正13(1924)10月20日、東京駅前の日本工業倶楽部で設立総会が開かれ、「東京スタンダード靴株式会社」が設立されました。

製靴工場は東京府南足立郡西新井村、営業所は日本橋小伝馬町に設け、まず製品を三越に納めました。
11月にはアメリカから帰国した百瀬唯一を東京市内首班に、地方部首班に松野晃典を置いて、大阪地区でも卸売を開始しました。

※創業時の経営陣及び技師長など

●代表取締役専務 宮沢胤勇
●取締役 村上濱吉
●取締役 吉田秀人
●取締役 西井賢英
●取締役 田上嘉八郎
●監査役 原 安三郎
●監査役 大沢孚

●技師長 前田良吉
●技師 荻原伍市郎
●製甲主任 斉藤龍三
●製作主任 安田太郎
●購買及び底裁断主任 平松眞司
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日本製靴の歴史 その2

2017-06-06 21:13:37 | 日本製靴
明治35(1902)年1月に誕生した日本製靴株式会社は、翌36(1903)年2月13日に本社を京橋から千住に移転し、7月15日に陸軍被服廠から短靴1万組の注文を受けます。

陸軍靴は東京、大阪、広島の被服廠直営工場で製造されましたが、民間では日本製靴、東京製靴、桜組工業で機械製軍靴が日中戦争まで納入されました。

明治37(1904)年2月に日露戦争が始まり、陸海軍からの大量受注によって靴業界は好景気に湧き、各メーカーは日夜軍靴の生産に追われていました。

終戦後はその反動で業界は不況に見舞われるものの、大正3(1914)年に第一次世界対戦が始まり、ロシアからの大量発注を受けて再び好景気に湧きました。

この年の革靴輸出量は最高記録の859万円となり、このうち848万円はロシアへの輸出が占めました。

大正12(1923)年4月、大沢省三の長男である大沢亨が専務取締役に就任しました。
9月1日に関東大震災が起こり、日本製靴は工場4棟と社宅が倒壊し、死者2名、負傷者数名の被害を受けました。

関東大震災を期に庶民に洋服が普及して、それと同時に革靴の需要も激増し、グッドイヤー式による機械靴の時代が始まりました。
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明治10年の製靴番付表

2017-06-06 16:35:51 | 明治時代の靴業界
明治10(1877)年の製靴業者の番付表です。

東之方は西村勝三の伊勢勝が大関から前頭を独占しています。

西之方は前頭に大塚商店の大塚岩次郎、日陰町の金子愛三郎は明治18(1885)年版の「東京細見記」にも一流靴業者として紹介されます。

明治10年の4月に経営危機により伊勢勝は依田西村組になるので、この番付表は1月から3月くらいのものでしょうか。

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