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古田先生に次の手紙を郵送したところ、電話でお話をしました。そこでは、対馬・壱岐を中心として活動していた海士族(天照大神)のさらなる出身地のことや、阿蘇山と阿蘇部族との関連について、お話を伺いました。
手紙の内容は次のとおりです。
平成23年10月13日
古田武彦先生
『俾弥呼』を拝見して
拝啓
秋が深まり、早朝や深夜においては寒さを感じる今日この頃ですが、先生におかれましは、精力的な執筆活動をなされていることに、深く尊敬の念を抱いております。私は、大阪市平野区で行政書士をしている北東 聡(きたひがし さとし)と申します。そして、突然にこのような文書を送付しますことをお許しください。
さて、標記の著書を拝読しまして、私がこれまでに疑問に思っていることについて、次に記載させていただきます。あくまでも私は研究者ではなく、一読者としてこれまでに疑問に思っていたことですので、浅学非才の素人が疑問に思うこととして、御笑覧していただければ幸いです。 敬具
1 天孫降臨の時期について
天孫降臨の時期を「紀元前238年頃」ではないかと考えております。その根拠は、古事記の「日子穂穂手見命は、高千穂の宮に五百八十歳座しき。」とあります。これは、神武が東方移動する前の295年前に天孫降臨があったことを示すと思います。そして次に、東方移動の時期は、紀元57年に倭奴国王が後漢の光武帝に朝貢して、金印を授与された後と考えます。この紀元前238年とは、中国大陸において「秦」が「東周」を滅ぼし(紀元前256年)、始皇帝が中国を統一した年 (紀元前221年)までの間にあります。つまり、中国大陸での“下克上” が、西日本において、出雲王朝に「国譲り」を迫り、九州の博多湾岸に侵入するとういう下克上を生じさせたのではないでしょうか?
2 銅鐸文明圏内の対立について
銅鐸文明圏内において、九州王朝に対する主戦派(東奈良遺跡)と恭順派(唐古・鍵遺跡)の対立があったのではないでしょうか? そのような対立があったればこそ、五瀬命や若御毛沼命が、東奈良遺跡に奇襲攻撃を企てた動機ではないかと推測しております。つまり、唐古・鍵遺跡派の誘いと進路の誘導があればこそ、実行できたものと考えます。そして、奇襲攻撃は成功しませんでしたが、その論功行賞により、若御毛沼命は、「畝傍の白檮原の宮」を“貸し与えられた”のではないでしょうか? その土地を担保するのが、伊須気余理比賣との婚姻だと思います。この当時、女性にも土地の相続権が認められており、その女性とその女性が産んだ子供の代まで、所有が認められていたのではないでしょうか?
このことが、神武が亡くなった後、當芸志美美命が伊須気余理比賣を娶った理由だと思います。奈良銅鐸圏内の有力者の娘と婚姻しない限り、奈良では生きて行けなかったのでしょう。
3 二上山は奈良銅鐸文明の聖地か?
御存じのとおり、二上山はサヌカイトを産出します。これが、唐古・鍵遺跡派の力の源泉ではなかったでしょうか?また、二上山は現在では、「にじょうざん」と呼ばれていますが、約50年前には、「ふたかみやま」と呼ばれていました。現在も現地ではそのように呼ばれています。つまり、「二人の神」が存在した“聖地”だと考えていたのではないでしょうか?
4 祟神天皇の「初国」とは?
私は上記3のとおり、神武から8代目までは妻か母親による一代限りの土地の所有を認められていた“居候生活”でしたので、その文言どおりに「初めて国を得た」と理解しております。
5 日本書紀編纂の理由について
大和王朝とすれば、古事記で何ら不都合な点はなかったと思います。
しかし、中国大陸での唐王朝の政変で、古事記では不都合だと判断したのではないでしょうか?権力を得た玄宗皇帝にとっては、大和王権(天智)との“密約”が承継されていなかったのではないでしょうか?ここで密約とは、白村江の戦いの際に、天智が東方から九州王朝を攻撃するということです。その密約を知っていた唐王朝の則天武后の官僚は、殺害されたり、失脚したため、継承されなかったと思います。
6 8世紀前半は、“文明開化”の時代ではなかったでしょうか?
大和王朝にとって、上記5の密約を知らない玄宗皇帝による侵略を阻止するために、大和王朝は王権の権威を高め、文明の高さを誇りたかったのではないでしょうか? これが、日本書紀を編纂させた理由ではないかと思います。このことが、九州王朝の建築物を奈良に移築したり、文物を収奪(購入)した理由だと考えます。さらに、東大寺の大仏建立についても、この観点から再検討が必要ではないでしょうか?
7 天武は天智の兄だった
天武は嫡男だったために、幼くして九州王朝に人質として、送られていたのではないでしょうか?その人質時代に天智が蘇我入鹿を殺害する事件が起こったものと考えます。斉明が九州王朝寄りの態度を示すのは、我が子・天武が九州王朝の人質に取られていたからだと思います。
8 天武系勢力と天智系勢力の逆転について
日本書紀の編纂理由は上記5に記載したとおりですが、古事記編纂から日本書紀編纂の間に、天武系勢力と天智系勢力との勢力が逆転したのではないでしょうか?だからこそ、天智の「大化の改新」をでっちあげて天智を称え、その後継者から権力を簒奪したことを示すために、九州王朝の歴史を簒奪して「壬申の乱」を挿入したのではないでしょうか?その理由は、天武を落としめるためです。
9 「中大兄」という称号は奪われたのでは?
そもそも、“大兄”という称号は、九州王朝に人質だった者に対して、同王朝が与えた称号ではないでしょうか?そして、「中大兄」の称号は、中皇命が、天武に与えた称号ではないでしょうか?もし、天武が人質であれば、十分に考えられると思います。そして、中皇命は称号だけではなく、自分の娘である額田王を妻として娶らせたのではないでしょうか?九州王朝にとっても、大和王権からの人質は、他の地域からの人質に比して、最も重要な人質であったことは言うまでもないことだと思います。額田王は、九州王朝の内親王ですから、白村 江の戦いの敗北により九州王朝の権威が低下したとはいえ、7世紀後半の大和王権において、最も高貴な存在だったと思うのです。そのことが、天智が額田王を欲した理由だと思います。
以上です。
(追伸)
この文書は、古田史学の会の大下隆司様を通じて、先生に郵送されましたことを念のため、お知らせいたします。
北東 聡
大阪市平野区長吉長原西1-5-33
電話番号 (06) 7504 – 9722
携帯電話番号 090 - 8385 - 7531
手紙の内容は次のとおりです。
平成23年10月13日
古田武彦先生
『俾弥呼』を拝見して
拝啓
秋が深まり、早朝や深夜においては寒さを感じる今日この頃ですが、先生におかれましは、精力的な執筆活動をなされていることに、深く尊敬の念を抱いております。私は、大阪市平野区で行政書士をしている北東 聡(きたひがし さとし)と申します。そして、突然にこのような文書を送付しますことをお許しください。
さて、標記の著書を拝読しまして、私がこれまでに疑問に思っていることについて、次に記載させていただきます。あくまでも私は研究者ではなく、一読者としてこれまでに疑問に思っていたことですので、浅学非才の素人が疑問に思うこととして、御笑覧していただければ幸いです。 敬具
1 天孫降臨の時期について
天孫降臨の時期を「紀元前238年頃」ではないかと考えております。その根拠は、古事記の「日子穂穂手見命は、高千穂の宮に五百八十歳座しき。」とあります。これは、神武が東方移動する前の295年前に天孫降臨があったことを示すと思います。そして次に、東方移動の時期は、紀元57年に倭奴国王が後漢の光武帝に朝貢して、金印を授与された後と考えます。この紀元前238年とは、中国大陸において「秦」が「東周」を滅ぼし(紀元前256年)、始皇帝が中国を統一した年 (紀元前221年)までの間にあります。つまり、中国大陸での“下克上” が、西日本において、出雲王朝に「国譲り」を迫り、九州の博多湾岸に侵入するとういう下克上を生じさせたのではないでしょうか?
2 銅鐸文明圏内の対立について
銅鐸文明圏内において、九州王朝に対する主戦派(東奈良遺跡)と恭順派(唐古・鍵遺跡)の対立があったのではないでしょうか? そのような対立があったればこそ、五瀬命や若御毛沼命が、東奈良遺跡に奇襲攻撃を企てた動機ではないかと推測しております。つまり、唐古・鍵遺跡派の誘いと進路の誘導があればこそ、実行できたものと考えます。そして、奇襲攻撃は成功しませんでしたが、その論功行賞により、若御毛沼命は、「畝傍の白檮原の宮」を“貸し与えられた”のではないでしょうか? その土地を担保するのが、伊須気余理比賣との婚姻だと思います。この当時、女性にも土地の相続権が認められており、その女性とその女性が産んだ子供の代まで、所有が認められていたのではないでしょうか?
このことが、神武が亡くなった後、當芸志美美命が伊須気余理比賣を娶った理由だと思います。奈良銅鐸圏内の有力者の娘と婚姻しない限り、奈良では生きて行けなかったのでしょう。
3 二上山は奈良銅鐸文明の聖地か?
御存じのとおり、二上山はサヌカイトを産出します。これが、唐古・鍵遺跡派の力の源泉ではなかったでしょうか?また、二上山は現在では、「にじょうざん」と呼ばれていますが、約50年前には、「ふたかみやま」と呼ばれていました。現在も現地ではそのように呼ばれています。つまり、「二人の神」が存在した“聖地”だと考えていたのではないでしょうか?
4 祟神天皇の「初国」とは?
私は上記3のとおり、神武から8代目までは妻か母親による一代限りの土地の所有を認められていた“居候生活”でしたので、その文言どおりに「初めて国を得た」と理解しております。
5 日本書紀編纂の理由について
大和王朝とすれば、古事記で何ら不都合な点はなかったと思います。
しかし、中国大陸での唐王朝の政変で、古事記では不都合だと判断したのではないでしょうか?権力を得た玄宗皇帝にとっては、大和王権(天智)との“密約”が承継されていなかったのではないでしょうか?ここで密約とは、白村江の戦いの際に、天智が東方から九州王朝を攻撃するということです。その密約を知っていた唐王朝の則天武后の官僚は、殺害されたり、失脚したため、継承されなかったと思います。
6 8世紀前半は、“文明開化”の時代ではなかったでしょうか?
大和王朝にとって、上記5の密約を知らない玄宗皇帝による侵略を阻止するために、大和王朝は王権の権威を高め、文明の高さを誇りたかったのではないでしょうか? これが、日本書紀を編纂させた理由ではないかと思います。このことが、九州王朝の建築物を奈良に移築したり、文物を収奪(購入)した理由だと考えます。さらに、東大寺の大仏建立についても、この観点から再検討が必要ではないでしょうか?
7 天武は天智の兄だった
天武は嫡男だったために、幼くして九州王朝に人質として、送られていたのではないでしょうか?その人質時代に天智が蘇我入鹿を殺害する事件が起こったものと考えます。斉明が九州王朝寄りの態度を示すのは、我が子・天武が九州王朝の人質に取られていたからだと思います。
8 天武系勢力と天智系勢力の逆転について
日本書紀の編纂理由は上記5に記載したとおりですが、古事記編纂から日本書紀編纂の間に、天武系勢力と天智系勢力との勢力が逆転したのではないでしょうか?だからこそ、天智の「大化の改新」をでっちあげて天智を称え、その後継者から権力を簒奪したことを示すために、九州王朝の歴史を簒奪して「壬申の乱」を挿入したのではないでしょうか?その理由は、天武を落としめるためです。
9 「中大兄」という称号は奪われたのでは?
そもそも、“大兄”という称号は、九州王朝に人質だった者に対して、同王朝が与えた称号ではないでしょうか?そして、「中大兄」の称号は、中皇命が、天武に与えた称号ではないでしょうか?もし、天武が人質であれば、十分に考えられると思います。そして、中皇命は称号だけではなく、自分の娘である額田王を妻として娶らせたのではないでしょうか?九州王朝にとっても、大和王権からの人質は、他の地域からの人質に比して、最も重要な人質であったことは言うまでもないことだと思います。額田王は、九州王朝の内親王ですから、白村 江の戦いの敗北により九州王朝の権威が低下したとはいえ、7世紀後半の大和王権において、最も高貴な存在だったと思うのです。そのことが、天智が額田王を欲した理由だと思います。
以上です。
(追伸)
この文書は、古田史学の会の大下隆司様を通じて、先生に郵送されましたことを念のため、お知らせいたします。
北東 聡
大阪市平野区長吉長原西1-5-33
電話番号 (06) 7504 – 9722
携帯電話番号 090 - 8385 - 7531
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私も読みました。これまでの著作に発表されていない新説が多くあり、新たな知的興奮を覚えたところです。特に、240頁に記載されている謡曲「高砂」の高砂の場所が、中国・浙江省の寧波とは驚きです。現在の日本の米の原産地が、長江の中流または下流域が有力視されていますが、そのことを想起させました。ぜひともみなさんに読んでいただきたい一冊です。
ただ、祟神天皇が任那に赴任していて、その地から大和に進軍したという記述は、現在のところ私には理解できません。
「「論争に終止符」の総決算の書
「俾弥呼(ひみか)」ほど謎とロマンにみちた歴史的人物はいない。それ故、実証抜きで、あれこれ恣意(しい)的にイメージされることが多かった。
しかし本書によって、初めて真実の光が当てられ、「邪馬壹国」の在り処(か)(博多湾岸とその周辺)とともに、俾弥呼の実像が余すところなく明らかにされた。
その意味で、『俾弥呼』は古田史学総決算の書であるとともに、「邪馬台国論争」に終止符を打ったともいえる。
40年前に上梓(じょうし)され、学界に衝撃を与えた古田氏の『「邪馬台国」はなかった』以来の読者として、書かれるべくして書かれた本として感慨一入(ひとしお)である。
だが、もうひとつの「謎」は深まるばかりだ。なぜ、学界はずっと沈黙を守るのか。なぜ真摯(しんし)に古田理論に応えようとしないのか理解しがたいが、その解答は、意外にも読者からの次のような「声」に求められよう。すなわち、「十分な知識をもって平易な文で説得力も申し分ない。感服した。これでは学会も沈黙・黙殺せざるをえないのではないか」と。
このように評価される「古田史学」をはずした、今までの「邪馬台国論争」は私には論争とは名ばかりの、今年国民から指弾された「八百長相撲」を想起させる。
本書は「ミネルヴァ日本評伝選」の一冊として刊行されたが、古田史学の入門書としては別に「古田武彦・古代史コレクション」の(1)(2)(3)を先に読まれることをお勧めする。(ミネルヴァ書房・2940円)
ミネルヴァ書房 代表取締役社長 編集部部長 杉田啓三 」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/111008/bks11100807550005-n1.htm
ただ、祟神天皇が任那に赴任していて、その地から大和に進軍したという記述は、現在のところ私には理解できません。
「「論争に終止符」の総決算の書
「俾弥呼(ひみか)」ほど謎とロマンにみちた歴史的人物はいない。それ故、実証抜きで、あれこれ恣意(しい)的にイメージされることが多かった。
しかし本書によって、初めて真実の光が当てられ、「邪馬壹国」の在り処(か)(博多湾岸とその周辺)とともに、俾弥呼の実像が余すところなく明らかにされた。
その意味で、『俾弥呼』は古田史学総決算の書であるとともに、「邪馬台国論争」に終止符を打ったともいえる。
40年前に上梓(じょうし)され、学界に衝撃を与えた古田氏の『「邪馬台国」はなかった』以来の読者として、書かれるべくして書かれた本として感慨一入(ひとしお)である。
だが、もうひとつの「謎」は深まるばかりだ。なぜ、学界はずっと沈黙を守るのか。なぜ真摯(しんし)に古田理論に応えようとしないのか理解しがたいが、その解答は、意外にも読者からの次のような「声」に求められよう。すなわち、「十分な知識をもって平易な文で説得力も申し分ない。感服した。これでは学会も沈黙・黙殺せざるをえないのではないか」と。
このように評価される「古田史学」をはずした、今までの「邪馬台国論争」は私には論争とは名ばかりの、今年国民から指弾された「八百長相撲」を想起させる。
本書は「ミネルヴァ日本評伝選」の一冊として刊行されたが、古田史学の入門書としては別に「古田武彦・古代史コレクション」の(1)(2)(3)を先に読まれることをお勧めする。(ミネルヴァ書房・2940円)
ミネルヴァ書房 代表取締役社長 編集部部長 杉田啓三 」
http://sankei.jp.msn.com/life/news/111008/bks11100807550005-n1.htm
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