古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「王劭」版『隋書』と『書紀』

2017年07月01日 | 古代史

以前「倭国」と「俀国」というタイトルで記事を書きましたが、(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/e70075a3a7c9d40e7b8052058038abca)そこでは「王劭」という人物が「隋」の「高祖」への過度の傾倒により「無礼」な「倭国」を「俀国」に書き換えたとみたわけですが、さらに最近彼は「宣諭」される以前に交渉のあった「倭国」としての記録を「抹消」したのではないかと考えるようになりました。
 つまりこれは「俀国」と表記することの同一線上にあるものであり、彼が「宣諭」事件以後の「倭国」を「貶す」ことを目的として「俀国」と書き変えたとすると、それ以前の夷蛮の国として隋と交渉する内容としてまだしも受け入れられる時点の記録についても、これを削除(抹消)することにより記述方針の徹底と統一を図ったのではないかと考えるようになったのです。なぜなら『隋書』に「年次移動」がもしあったとしても「推古紀」の「国書記事」と整合する内容の交渉記録が『隋書』中に見られないのは不審だからです。それが見られないのはその『隋書』の参照原資料としての『王劭版隋書』の段階ですでに「なかった」からであり、それは意図的に「抹消」されていたからではなかったかと考えられるのです。
 彼は中書舎人として「起居注」に直接携わっていた人物ですから、「起居注」にあったはずの記録を書き漏らすとは考えにくく、また「国書」のやりとりなどが「起居注」に書かれなかったとは考えられず、そのことから「倭国関連記事」は「抹消」されたと考えられるのです。
 これに対し「推古紀」の国書記事では逆に「宣諭」されるに至った記事の類が見られません。これは明らかに国家の体面が汚されたとみての抹消(或いは無視)であり、そのような「不体裁」な記事をそのまま書き残すことはできなかったと考えれば、それは「王劭」の『隋書』と同様の方針による改竄であったこととなります。
 互いに自王朝に不利なことを抹消し逆に残すべきと考えたことだけを残したこととなるわけですが、加えて「隋」の秘府には「大業起居注」がなかったということから『隋書』編纂が困難を極めついには「仁寿年間」までしかなかった「王劭」の『隋書』を大々的にフィーチュアした結果、「大業年間記事」について実際の年次とは異なる年次に記事が置かれたらしいことが推察され、さらにさらに『書紀』が『隋書』を脇に置いてみながら編纂されたらしく、この両者がいわば「合体」したことにより「大業三年」の宣諭記事と「推古紀」の国書記事が同一年次として記録されるというある種摩訶不思議なことが起きてしまったと考えられるのです。 
 この結果本来開皇年間つまり六八〇―七〇〇年の間に起きた出来事が七〇〇年を超えた年次として書かれている事となり、それだけですでに10―15年程度ずれていると思われるのに加え、『書紀』の記事がやはり「不利な記事」を抹消してなおかつ『隋書』との整合をとろうとした結果、さらに数年がそのズレに加わったとみられ、およそ20年程度の年代ズレが『書紀』において生じていると思われるわけです。この「20年程度」というのはかなり重大な結果をもたらすものであり、ちょうど時代の転換点付近であったところから「仏教」の拡大の原因や時期などの理解に不都合を来すこととなっていると思われますが、それはまた別に。

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