古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「孝徳」と「倭国王」(3)

2016年10月16日 | 古代史

 既に触れたように「新羅王」と「金春秋」に関する記事から本来「孝徳紀」付近に置かれるべき記事が「持統紀」および『続日本紀』の「文武紀」に移動されていると見られることとなりました。
 その関連でいうとそもそも「孝徳」と「文武」は「似ている」といえます。
 まず、共に「女帝」からの「譲位」であり、且つその死去後再度「女帝」が皇位に即いています。
 「孝徳天皇」は「皇極天皇」からの譲位であり、「文武天皇」は「持統天皇」からの譲位です。また、死後「斉明天皇」と「元正天皇」(共に女帝)が跡を継いでいます。
 さらに両者とも即位した年の内に「改元」あるいは「王代年」の開始となっています。彼ら以外の天皇は『書紀』で見る限り即位は「前天皇」の死去した年次の「翌年」の正月となっており、異なっています。
 つまり「孝徳」の場合で見ると、「皇極」から譲位を受けたのは「皇極四年」の「六月」(十四日)ですが、「改元」は同じ月の「乙卯」(十九日)に行われています。

「天豐財重日足姫天皇四年六月庚戌。(十四)天豐財重日足姫天皇思欲傅位於中大兄。而詔曰。云々。中大兄退語於中臣鎌子連。中臣鎌子連議曰。古人大兄。殿下之兄也。輕皇子。殿下之舅也。方今古人大兄在。而殿下陟天皇位。便違人弟恭遜之心。且立舅以答民望。不亦可乎。於是。中大兄深嘉厥議。密以奏聞。天豐財重日足姫天皇授璽綬禪位。策曰。咨。爾輕皇子。云々。輕皇子再三固辭。轉譲於古人大兄更名古人大市皇子。曰。大兄命。是昔天皇所生。而又年長。以斯二理可居天位。於是。古人大兄避座逡巡拱手辭曰。奉順天皇聖旨。何勞推譲於臣。臣願出家入于吉野。勤修佛道奉祐天皇。辭訖。解所佩刀投擲於地。亦命帳内皆令解刀。即自詣於法興寺佛殿與塔間。剔除髯髮。披著袈裟。由是。輕皇子不得固辭升壇即祚。…
乙卯。(十九)…改天豐財重日足姫天皇四年爲大化元年。」

 これに対し「文武」は「持統」から「譲位」されたのが「持統十一年」の「八月」であり、その年から「文武」としての年数が数え始められています。

「(持統)十一年(六九七年)…八月乙丑朔。天皇定策禁中禪天皇位於皇太子。」(書紀)
「(文武)元年(六九七年)八月甲子朔。受禪即位。」(続日本紀)

 『書紀』では「孝徳」以外の天皇の即位(及び改元)は「前天皇」の死去した年次の「翌年」の正月となっており(「踰年改元」あるいは「越年改元」と称する)、際だった違いがあります。また『続日本紀』では「文武」以外の天皇の場合を見ると、(例えば「慶雲」の場合など)年度途中に瑞祥があり「改元」したとしていますが、紀年の数え方としてはその年の頭から始められています。(これを「立年改元」という)「文武」がその例の最初となっています。
 本来このような「立年改元」は「前王権」「前王朝」などの権威を速やかに棄却する必要がある場合に行われるものであり、この「孝徳」と「文武」の場合が「禅譲」とされていることと明らかに反します。「禅譲」の場合は一般に前王権や前王権の権威を否定するようなことはしないのが普通です。そうでなければ、その王権から継承したはずの自らの権威さえも否定してしまいかねないからです。このことは「孝徳」と「文武」の王権が本当は「禅譲」によったものではなく、新たに打ち立てた権力であったことを示していると思われますが、それは「大化」と「大宝」という「元号」が新しく立てられた理由ともなっています。
 『書紀』上では「大化」は改元とはされるものの『書紀』の中では「初めて」の元号として現われます。また「大宝」は明らかに「建元」されたとされていますから、これも「初めて」という性格があります。このような「新規性」という性格が双方の王権に共通しているといえるものです。
 
 また両者とも「明神」「現神」という「神」を前面に出した称号を使用して「詔」を出しています。
 「孝徳天皇」が出したとされる詔には「明神」という称号が使用されています。

「大化元年秋七月丁卯朔 丙子。高麗。百濟。新羅。並遣使進調。百濟調使兼領任調那使。進任那調。唯百濟大使佐平縁福遇病。留津館而不入於京。巨勢徳大臣。詔於高麗使曰。『明神』御宇日本天皇詔旨。」
「大化二年二月甲午朔戊申『明神』御宇日本倭根子天皇…。」

それに対し「文武天皇」の詔には「現神」という称号が使用されています。

「文武元年(六九七)八月庚辰十七 庚辰。詔曰。『現御神』止大八嶋國所知天皇(後略)」

 これらの称号はほぼ同じ意味であり、「自ら」を「神」の位置に置くものと思われます。つまり、「天帝」とみなされる「天照大神」からの「直系」という意識が言わせる用語と考えられ、彼らに共通しているのは、自らを「皇祖」「瓊瓊杵尊」と同格な存在と規定していることではないかと考えられるものです。これも上の「新規性」につながるものといえるでしょう。自らを「神」になぞらえる「逼迫性」があったと言う事の現れともいえます。

 さらに重要な共通点として共に「皇子」時点の名称は「軽」でした。
 「孝徳」は即位前「軽」皇子でしたが「文武」も即位前「軽」(可瑠)皇子でした。「名前」が同じなのです。(ただし、「文武」については『書紀』にはその皇子としての名前は出てきません)同様な「軽」が付く名前としては「木梨軽皇子」がおりますが、彼には「木梨」という地域を表すと思われる名前がつけられており、特定性がありますが、「孝徳」と「文武」にはそれがなく、一見区別がつきません。
 また、共に予定された「皇太子」ではなく、また予定された「即位」でもありませんでした。
 「孝徳天皇」はそもそも皇太子ではなく、「皇極」譲位の際に「中大兄」「古人大兄」両者から譲られて、「予定外」の天皇即位となったとされます。これに対し「文武」は「草壁」の子供ですが、いつ「皇太子」となったのか明確ではありません。『書紀』にはそれについての記載がないのです。
 父である「草壁」は「皇太子」でしたが、他に「高市」「川嶋」「舎人」など多数いる中で、その「天皇」にもなっていない「草壁」の子供が「自動的に」皇太子になるようなシステムはこの時点では存在していませんでした。(『懐風藻』に書かれた「日嗣の審議」に拠ったという考えもあるようですが、そこには人物を特定する表記がなく、そこに書かれた皇子が「軽」皇子であるとするには別途検証が必要です)

(さらにさらに続く)

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