古田史学とMe

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「新羅王」の死去記事に対する疑問(3)

2016年10月16日 | 古代史

 『持統紀』と『文武紀』の「新羅王」記事に「移動」があるとした場合、先の三名の「新羅王」が誰が該当するのかを考えてみると、「善徳女王」の死去に関する事情が注目されます。

 「善徳女王」の死去は死去した年次の『三国史記』の記事内容を見ても、当時の「新羅」国内の政治情勢の変化と何らかの関係がありそうであり、明らかに「急死」であったと思われます。
 推測によれば「善徳女王」は「高句麗」と「百済」が連係して(「麗済同盟」)「新羅」に脅威を与えるという可能性を考え、それから逃れるために「唐」に接近していったものと見られます。しかし、「唐」からは「援助」が欲しければ「唐」から「男王」を迎えるようにという「内政干渉」があり、これを受け入れなかったことで「唐」に支援を仰ぐべきという内部勢力との間に緊張関係ができていたと考えられます。このことから「女王」の地位を脅かすような国内勢力に対抗する意味でも、「倭国」への関係を持続させるために「調使」が送られていたものであり、そのような中で「反乱」が起き、その対応の中で(原因不明ではありますが)死去したものと見られるわけです。
 「善徳女王」の死は「春正月」とされていますが、もし『持統紀』の「新羅王」が「善徳女王」であるとすると「喪使」が到着したのが「二月」というわけですから、「倭国」への「喪使」は非常に速やかに派遣されたらしいことが推測されることとなります。注目されるのはこの時ほぼ同時に「唐」へも「喪使」を派遣していたらしいことが『三国史記』から読み取れることです。
 『三国史記』によればこの時「唐」から「使者」が「新羅」を訪れ「前王」に対し「光祿大夫」を追贈すると共に「新王」の「真徳女王」を「新羅国王」と認め、「楽浪郡王」に封じています。

「二月 拜伊閼川爲上大等 大阿守勝爲牛頭州軍主 唐太宗遣使持節 追贈前王爲光祿大夫 仍冊命王爲柱國封樂浪郡王」(『三国史記』)

 この記事でも「唐」からの承認は「二月」つまり亡くなった翌月とされています。このような早さで「国王」の交代を「唐」が認めたのは当然「新羅」から「喪使」が派遣されたことに対する反応と考えられ、そうであれば「倭国」と「唐」へほぼ同時に(二月)に使者が派遣されたこととなって、当時の「新羅王権」として整合する行動と言えるでしょう。

 また、この『持統紀』の「新羅王」が「善徳女王」を指すとした場合、『文武紀』の「新羅王」はその次代の「真徳女王」を意味すると考えざるを得なくなります。
 この「真徳女王」の時代に「新羅」は「唐」への依存と傾斜を深め、「高官」である「金春秋」親子を「唐」へ派遣し、「太宗」と懇意になるほどの関係となります。

「(貞観)二十一年,善德卒,贈光祿大夫,餘官封並如故。因立其妹真德為王,加授柱國,封樂浪郡王。二十二年,真德遣其弟國相、伊贊干金春秋及其子文王來朝。詔授春秋為特進,文王為左武衛將軍。春秋請詣國學觀釋奠及講論,太宗因賜以所制溫湯及晉祠碑并新撰晉書。將歸國,令三品以上宴餞之,優禮甚稱。」(『舊唐書/列傳第一百四十九上/東夷/新羅國』)

 この『旧唐書』の記事にあるように「真徳女王」の死に際して「金春秋」は「唐」へは速やかに「喪使」を派遣し、「唐」もそれに応じ「金春秋」を「新新羅王」として速やかに認めているように見えますが、それに比べると「倭国」へは派遣が遅れたと見られ、それは『文武紀』の「国書」の内容として書かれた文章による「今年」「昨年」という表現と、「喪使」の「到着」が新年明けた後となったため「前年」以前のこととなって「表現」が齟齬することとなったことに現われていると思われます。このように「喪使」の到着時期を見ても「金春秋」政権の「対唐重視」という政策と整合しているようです。
 『書紀』によれば「善徳女王」の時代には「新羅」との交流は活発であり、頻繁な「遣新羅使」「新羅使」の往還が見られます。しかしそこには「善徳女王」の死去記事がありません。この時代の「新羅」との友好関係を考えると、「国王」の死去を知らせる「喪使」が派遣されないというのは、明らかに不審です。
 すでにみたように『天武紀』の記事中には「孝徳」とおぼしき人物の死に際して「新羅」へ「喪使」(田中法麻呂)を派遣したとみられる内容が書かれています。そのような関係が構築されていたとすると、「新羅」からも「喪使」が送られてきたとして不自然ではありません。それを考えると、本来『孝徳紀』には「死去」記事及び「喪使」記事が存在していたことが想定できます。これが『持統紀』に移動して書かれてあると考える事ができるのではないでしょうか。そう考えた場合本来の年次から「四十六年」の年次差で移動されていることとなります。
 さらに「真徳女王」についても「善徳女王」の場合と同様、『孝徳紀』には「新羅」からの使者記事そのものは見られるものの、「新羅王」の「死去」を知らせるものはありません。これもやはり当時の「倭国」と「新羅」の関係から考えて不審であり、「記事」が移動されている「徴証」と言えるでしょう。そう考えると、(二)の記事については本来の年次から「四十八年」という年次を隔てて移動されていることが想定されます。つまり、両記事とも実際の年次と五十年近い年数の差をもって書かれていると考えられる訳です。ただし、その年数に「二年」の差があることとなり『書紀』と『続日本紀』が「連続」し、「接して」いることを考えると一見「不審」と見えますが、これについては、この両「新羅王」記事の場合、「神文王」と「孝昭王」の死去した年次に「合わせなければならない」といういわば「差し迫った」事情があったためと理解することが出来るでしょう。
 つまり、「記事移動」という「操作」あるいは「粉飾」を行うとするとその証拠を残さないようにするというのが強く求められるわけであり、「新羅王」に関する記事のような「外国」に関する記事の場合、「海外」にも史料が存在している可能性があるわけですから、それらと齟齬しないように記事を造る必要があることとなるでしょう。つまり、『書紀』や『続日本紀』編纂の際に、それらの外国史料と比較検討されることを想定して「無理に」合わせている、あるいは「合わせざるを得ない」という事情があったものと見ることが出来ます。そのため移動年数に差があるものと考えられるわけですが、逆に言うとこの「移動年数」がいずれも「五十年」に近いというのは象徴的であり、正木氏などにより『天武紀』『持統紀』の記事で「五十年移動」の可能性があることが指摘されていることと深く関係していると思われます。ただし、「五十年」の移動が過去から未来へのものだったのかその逆なのかは深く検討を要することと思われます。

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