古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

国号変更と王朝交代

2014年11月08日 | 古代史

 「中国」の歴代の史書は全て「受命」による「王朝」の交替と共に、前王朝についての「歴史」を「前史」として書いています。
 『漢書』は「後漢」に書かれ、『三國志』は「晋」の時代に書かれ、『隋書』は「初唐」に書かれているわけです。そうであれば、『日本書紀』(日本紀)が書かれた理由も、「新王朝」成立という事情に関係していると考えられ、「前史」として書かれたものと推察できることとなります。それは『続日本紀』において「大宝」という年号が「建元」されたと書かれていることからもわかります。

「大寳元年三月…甲午。對馬嶋貢金。『建元』爲大寶元年。」(文武紀)

 「中国」の例でも「禅譲」による新王朝創立の場合(たとえば「北周」から「隋」、「隋」から「唐」など)は「改元」であり、この「改元」の論理は「天子」が不徳の時、「天」からの意志が示された場合(天変地異が起きるなど)それを畏怖して恭順の意志を示すために「ゼロ」から再スタートする意味で「改元」するものです。そして、そのような「天」の意志に従わないとした場合は「天」は有徳な全く別の人物に「命」を下すものであり、このように「受命」を受けた場合は「建元」となります。
 このようなことを考えると、「禅譲」は「天」の意志に沿っているといえ、この場合は「改元」されることとなります。つまり、「禅譲」は「前王朝」の権威や大義名分を全否定するものではないため(それは「天の意志」でもない)、「改元」は妥当な行為といえるでしょう。
 たとえば『旧唐書』を見ると、「初唐」の頃に「江南地方」(旧「南朝地域」)などを中心に各所で「皇帝」を名乗り「新王朝」を始めたという記事が多く見受けられますが、それらは全て例外なく「建元」したとされています。これらの新王朝は「受命」を得たとし、新皇帝を自称して「王朝」を開いているわけですが、そのような場合には当然「建元」されることとなるわけです。このことの類推から、『日本書紀』という史書に使用されている「日本」とは「前王朝」の国号であり、それとは別に全くの新王朝として新しく「日本」が成立したと見るべきこととなります。
 「前王朝」の名前を「冠」せられた史書が『日本書紀』であり『日本紀』であった、ということは「總持朝」の時代の国号が「日本国」であった、という事にならざるを得ず、「国号」が変更されたのは「總持朝」の時代であったという『旧唐書』や『新唐書』からの解析と整合することとなります。
 時代は下がりますが中国の「清」の時代「鐘淵映」という人物が撰んだ書物に『歴代建元考』というものがあります。これはこの時点で知られていた国内外の「元号」について書き表したもので、その中の「外国編」の「日本」のところには以下のようにあります。

「持統天皇 吾妻鏡作總持 天智第二女天武納為后因主 國事始更號日本仍用朱鳥紀年 在位十年後改元一 太和」

 つまり、彼らの「知りうる範囲の知識」では「日本」と国号を変更したのは「持統(總持)天皇」である、というわけです。この記述は上に述べた『旧唐書』に書かれた事を分析した結果と合致しており、国号変更に関する推察を補強するものです。
 また、この記事では「国号変更」の時期としては「朱鳥」年号使用中(天武から引き続き)とされています。そして「紀年」つまり年次を記すのに「朱鳥」という年号を使用するというわけです。
 ただし、「国号変更」が「王朝交代」などの事象を伴わないと考えるのは不可能といえるものであり、「禅譲」であるかないかを問わず「国号」変更は「新王朝」成立と深く関わる事象です。
 「日本国」への国号変更が単に日の出るところに近いとか字が雅ではないからと言うようなある意味「些細」な理由で変更されるようなものではないことは常識的に考えても理解できるものでしょう。このことから「總持」の前代において「倭国王朝」にトラブルがあり、「總持」が新王朝として継承したと考えられます。これが「禅譲」であるかどうかは「改元」がどうかで判断できますが、「歴代建元考」では「朱鳥」を継続して用いるとされていますから、「禅譲」と推定できるでしょう。さらにそれに深く関係していると考えられるのが「大化」という年号の存在です。
 『書紀』では「大化」は「改元」と書かれています。この「改元」という表記は上に述べたように「禅譲」という「王朝交替」を裏に含んでいることを示すと思われます。このことから、『書紀』の「大化改元」という主張は「七世紀半ば」に「旧王朝」から「新王朝」への「禅譲」が行われたという事を意味するものとも考えられますが、その際に「倭国」から「日本国」へ「国号」が変更されたとみることもできるでしょう。ただし、その場合「改元」された「年号」が「大化」であったかというと、『歴代建元考』が言うように「朱鳥」であったという可能性は否定できないと思われます。それは「倭国」から「日本国」への変更の理由として「雅」ではないと言うことが挙げられていることと、「朱鳥」という年号が、『書紀』によれば「あかみとり」という「訓読み」であるとされていることがつながっていると考えられるからです。

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