古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

武蔵國分寺の礎石配置について

2017年04月22日 | 古代史

肥沼氏のブログ( http://koesan21.cocolog-nifty.com/kokubunji/2017/03/post-3175.html )において活発に「國分寺」について議論が行われていますが、その中に「武蔵國分寺」についてのものがあり、礎石の配置に使用されている「単位」について「唐尺」なのか「南朝尺」なのかが議論の対象となっていました。
それに関し国会図書館のデジタル近代ライブラリーを検索したところ、大正十二年三月に行われた『東京府史蹟調査報告書 「武蔵國分寺址の調査」』という報告書があり、そこに以下の数字が挙げられていました。
(以下全て心―心距離)、また「尺」は全て「曲尺」(303.0㎜)です。また①は心礎、②は側柱礎(南西側)、③は側柱礎(南側)、④は側柱礎(南東側)、⑤は側柱礎(西側)、⑥は四天柱礎(南西側)、⑨は側柱礎(北側)を表します。

A)②-③間距離:22尺5寸、B)③-④:10尺7寸、C)②-⑤:10尺5寸、D)④-⑧:10尺5寸、E)⑨-⑥:22尺5寸

これらの実測値から「10尺7寸」+「11尺6寸」+「10尺7寸」=「33尺」というように「復元」した後、さらに「天平尺」でいえばとして「中間」を「12尺」、「側端間」(これは端と中間の距離)「11尺」の計「34尺」であったであろうということを示しています。(昭和に入ってから行われた「石田茂作氏」を長とする発掘調査でもこれらの値を踏襲しているようです)
このようにこの時の調査では原尺は「天平尺(唐尺)」としてみているわけですが、それにしてもこの礎石間の寸法には素朴な疑問があります。それは「どの尺単位よりも「曲尺」によるものがもっとも完数値に近いのはなぜか」というものです。
内部の礎石間の寸法はあるいは帰納的に決まるものかもしれませんが、両端の礎石間距離は、これを最外寸として先に決めたものではないかと考えられ、それが「完数」としてキリが良くならないのは不審と思われるわけです。

実際に上の報告がいうように「天平尺」であるとしても、「曲尺」としての「33尺」を「天平尺」(唐尺)に換算しても「33尺6寸9分」となり、これはいかにも「キリ」が悪いでしょう。それは「南朝尺」(宋氏尺)として24.568cmで除しても同様にキリのいい数字には(近いけれども)ならない(40尺7寸)ことでもいえます。逆に言うと「曲尺」としての寸法がいかにも「キリ」が良すぎるのです。

これについては、これら「礎石」が本当に原位置にあったのかが問題となるのではないでしょうか。(報告では原位置を保っているとされますが根拠は示されていません)このように疑うのは「明治初年」に一度「持ち上げられた」という話もあると同時に、「明治二十五年」の区画整理の際に近隣の人に割り当てられ、畑地として開墾することとなったが、「妖異」が起きたので旧に復したという趣旨の碑文があったとされる点からです。

これら礎石は当時土の中に埋もれていたという報告もありますが、開墾の際に鍬を入れたところ当然のように礎石があり、心礎だけは容易には動かせなかったと思われるものの、そのように礎石が埋まっている(転がっている)状態では「畑地」として使用するのは困難と思われますから、それらの礎石は一度撤去されたのではないでしょうか。その後「妖異」が起きたので、という理由により礎石が元へ戻されたとみられるわけですが、問題はその当時使用されていた「曲尺」でキリのいい位置を選んで復元されたのではないか、本当に旧位置に復されたのかが問題と思われるわけです。

これは証拠もなく「勘ぐり」といえばその通りですが、「心礎」以外の礎石は「置かれた」だけであったから動かすことも容易であったはずです。(現にいくつかの礎石は動かされ紛失しています)もしそうであれば原尺が何であったかは容易に復元できるものではないこととなるでしょう。

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