古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「倭国軍」の陣容等について

2017年05月14日 | 古代史

 後の『養老令』中の「軍防令」の規定によれば、「軍団」は千人単位(それを構成する「隊」は五十人単位)で構成されるとされています。さらに、「将軍」の率いる「軍」の「兵員数」が「一万人以上」の場合には「副将軍」が二人配置されるように書かれていますが、五千人以上一万人以下では「副将軍」は一名に減員されるとされています。

「軍防令二十四 将帥出征条 凡将帥出征。兵満一万人以上将軍一人。副将軍二人。軍監二人。軍曹四人。録事四人。五千人以上。減副将軍軍監各一人。録事二人。三千人以上。減軍曹二人。各為一軍毎惣三軍大将軍一人。」

 これを踏まえた上で以下の「百済を救う役」及び「白村江の戦い」という軍隊記事を解析してみます。そこには「原・軍防令」とでもいうべきものがあるのではないかと推測するものであり、それは「大宝令」あるいはそれ以前の「飛鳥浄御原律令」の中のものと思われ、そこには「軍防令」に類似した規定があったと見るものです。なぜなら「飛鳥浄御原律令」は「難波朝廷」時代に制定されたと考えるからです。(詳細別途)

 後の「軍防令」では「隊」の構成人数が「五十名」であるとされていますが、これは「隋」「唐」の「府兵制」に拠ったものとも推定されます。他方「里」の構成戸数を「八十戸」から「五十戸」に変えたこととも関係があると考えられ、それになぞらえれば、「軍」を構成する「兵員数」についても、「評」の中の「戸数」と等しいのではないかと考えられるわけです。
 すでに述べましたが、「評」という制度そのものは「六世紀代」から倭国内に展開されていたと思われ各地に設置された「屯倉」の管理上の組織であったと思われますが、「隋」との交渉から「五十戸制」という村落の戸数改定を行いこれを制度とした確立したと思われ、『隋書俀国伝』にいう「軍尼」の管轄する戸数が「八〇〇」程度とされていることから、「評」においても同様の戸数が確保されていたと見れば、「軍」においても「十五隊」(七五〇名)という基本兵員数というのが「当初の」「原・軍防令」に規定されていたと仮定できると思われます。
 更に、この事から「軍団」の規定兵員数は「十二軍九千名」であったのではないかと推定されますが、この数字が「養老令」では各々「一軍千名」と「十軍一万名」に改められているものと推量します。
 
 この「軍制」は前述したように「隋」「唐」で施行されていた「府兵制」にその根拠があるものと思われ、そこでは「正丁」三人に一人の割合で「兵士」とするなどして「軍隊組織」が作られていたと考えられます。
 「倭国」でもこれを応用しているものと思われ、「里(さと)」の単位が「五十人」であること、「評」の戸数が「八〇〇」程度であることなどは、「一戸一兵士」とすればほぼ「正丁三人に一人」程度の兵士となるものであり、また「折衝府」の平均的兵員数(八〇〇人)と「評」の戸数(七五〇~八〇〇程度)がほぼ等しいのは偶然ではなく、これは「隋」あるいは「唐」など「北朝」からの影響と見ると自然です。
 このような制度改定が「高度な中央集権制」の確立というものと関係していると考えれば、「天子」を自称するなどの事績が確認できる「隋末」から「初唐」の時期がもっとも蓋然性が高いものと推量します。

 『書紀』の「斉明紀」の「百済を救う役」の記事中の「前将軍」の率いる軍に付いては「副将軍」と目される人間は一人だけであり(「小華下河邊百枝臣」)、それは「後将軍」の「大華下阿倍引田比邏夫臣」の副官として「大山上物部連熊」「大山上守君大石」の計二名が添えられているのと異なっています。これは先述した規定によって「前軍」の兵員数が「九千人」以下であり、「後軍」は「九千人以上」であるということを示すと考えられ、総員凡そ「二万人弱」ほどであったものと思料されます。

「(斉明)七年(六六一年)八月。遣前將軍大華下阿曇比邏夫連。小華下河邊百枝臣等。後將軍大華下阿倍引田比邏夫臣。大山上物部連熊。大山上守君大石等。救於百濟。仍送兵杖」

 それに対し以下の例では「将軍」としては「阿曇連比羅夫」しか書かれていません。

「(天智称制)元年(六六二年)夏五月。大將軍大錦中阿曇比邏夫連等。率船師一百七十艘。送豐璋等於百濟國。宣勅。以豐璋等使繼其位。又予金策於福信。而撫其背。褒賜爵祿。于時豐璋等與福信稽首受勅。衆爲流涕。」

 しかし、ここでは「阿曇連比羅夫」が「大将軍」と呼称されています。これについては同様に「軍防令」の中に、軍の構成が「三軍」以上の場合は一人が「大将軍」となると規定されており、それに準ずると、この時は実は「三軍」構成であったと思われ、この時の一軍あたりの兵員は(『書紀』には書かれていませんが)以下の例から考えて、各々「九千人」程度であったものであり、「規定」に定められた一軍の定員数そのものであった可能性が高いと考えられます。そしてその「兵員」を「百七十艘」の「船」により派遣したとされていることから、一艘あたりに換算すると「百六十人以上」が乗り込んでいたものと思われ、かなりの「詰め込み」状態であったものではないでしょうか。
 その後に派遣された軍の記事では、明確に「三軍構成」であることが記載されています。

「(天智称制)二年(六六三年)三月。遣前將軍上毛野君稚子。間人連大盖。中將軍巨勢神前臣譯語。三輪君根麻呂。後將軍阿倍引田臣比邏夫。大宅臣鎌柄。率二萬七千人打新羅。」

 この記事では各々の軍の「将軍」とされる「上毛野君稚子」「巨勢神前臣譯語」「阿倍引田臣比邏夫」の直後に書いてある「間人連大盖」「三輪君根麻呂」「大宅臣鎌柄」は「副将軍」であると考えられ、「副将軍」は「軍」の総兵員数が「五千人以上」「一万人未満」の場合は「一人」と決められているわけですから、この時の軍は各々「約九千人」であった可能性が強いものと考えられます。そして、それは「二万七千人」という総数ともぴったり整合するものです。
 また「三軍構成」となっているわけですから、「大将軍」が一人任命されていたものと考えられ、「蝦夷」遠征の実績などから考えると「後将軍」である「阿倍引田臣比邏夫」がこの時の「大将軍」であったのではないかと推察されます。
 また「船」の数が記載されていませんが、前回の「三軍構成」の際の数が「一七〇艘」とされていますので、これとほぼ同じ数の船が派遣されたと見られるでしょう。

 以上見てみると「軍隊」の構成において後の「軍防令」と同様の制度(令)があったと見られ、それに基づき「人員」の調達と「海外派遣」などの大々的な軍事行動が可能となっていたと思われます。
 さらに、これらは『斉明紀』の出来事であるわけですが、同じ『斉明紀』には「蝦夷」に対して「軍」を派遣している記事があり、これも同様の「軍防令」様の制度の元の行動であるのは確実であり、その意味でこの時期(つまり『孝徳期』付近)に「番匠」を含め「律令」としての内容を持ったものが存在していたことを強く示唆するものと考えるわけです。

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