古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「金光」年号の由来について

2017年07月16日 | 古代史
 山田氏のブログ(http://sanmao.cocolog-nifty.com/reki/2017/07/post-2243.html)において、「金光」という年号が「四寅剣」の輝きに関係しているということがコメントとして服部氏から投稿されていました。それは確かにそうと思いますが、その「四寅剣」の存在も含め、『請観音経』』(正確には『請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經』というもの)に強く影響されていると思います。
 この「金光」という年号につていては以前「会報」にも投稿しましたが(『「善光寺」と「天然痘」』2016年4月『古田史学会報133号』)、論旨は現在でも有効と考えています。それに沿って改めて書いてみます。
 ところで、これもすでに指摘しましたが、この「金光」年号は『平家物語』にも出てきます。

「善光寺炎上の段」
「其比善光寺炎上の由其聞あり。彼如來と申は昔天竺舎衞國に、五種の惡病起て、人多く滅しに月蓋長者が致請に依て、龍宮城より閻浮檀金を得て、釋尊、目連、長者心を一にして、鑄現し給へる一 ちやく手半の彌陀の三尊、閻浮提第一の靈像なり。佛滅度の後、天竺に留らせ給ふ事、五百餘歳、佛法東漸の理にて、百濟國に移らせ給ひて、一千歳の後、百濟の帝齊明王、我朝の帝欽明天皇の御宇に及で、彼國より此國へ移らせ給ひて、攝津國難波の浦にして、星霜を送らせ給ひけり。『常は金色の光を放たせましましければ、是に依て年號を、金光と號す。』 同三年三月上旬に信濃國の住人、麻績の本太善光と云者都へ上りたりけるに、彼如來に逢奉りたりけるに、軈ていざなひ參せて、晝は善光、如來を負奉り、夜は善光、如來に負はれ奉て、信濃國へ下り、水内郡に安置し奉しよりこのかた、星霜既に五百八十餘歳、炎上の例は是始とぞ承る。「王法盡んとては、佛法先亡ず。」といへり。さればにや、さしも止事なかりつる靈山の多く滅失ぬるは、王法の末に成ぬる先表やらんとぞ申ける。」(岩波新古典文学大系本より)

 ここには『常は金色の光を放たせましましければ、是に依て年號を、金光と號す。』とされています。ここに書かれた「金色の光」が放たれるという現象に深く関係していることが『請観音経』という経典に書かれています。
 
「時世尊告長者言。去此不遠正■主西方。有佛世尊名無量壽。彼有菩薩名觀世音及大勢至。恒以大悲憐愍一切救濟苦厄。汝今應當五體投地向彼作禮。燒香散華繋念數息。令心不散經十念頃。爲衆生故當請彼佛及二菩薩。説是語時於佛光中。得見西方無量壽佛并二菩薩。如來神力佛及菩薩倶到此國。往毘舍離住城門■。『佛二菩薩與諸大衆放大光明。照毘舍離皆作金色。』」『請觀世音菩薩消伏毒害陀羅尼呪經

 この『請観音経』という経文には「ヴァイシャーリー治病説話」があります。「ヴァイシャーリー治病説話」とは「毘舎離(ヴァイシャーリー)国」を襲った「悪病」に罹った「月蓋長者」の「娘」の病気が「阿弥陀如来と観世音菩薩、勢至菩薩」に対する信仰で治癒するという「回復譚」ですが、そこでは「世尊」(釈迦)が「長者」に説いている間に仏光中に無量寿仏及び観音と勢至の二菩薩が西方に見え、「如来」の「神力」により「毘舍離国」に至って「城門」まで来ると、「諸大衆」に「光明」を放ち、その光により「毘舍離国」は全て「金色」に染まったとされています。これは『善光寺縁起』の中にもほぼ同内容の文章があります。

「…、于時西方極楽世界阿弥陀如来知食月蓋之所念、応十念声、促六十万億那由他恒河沙由旬相好、示一尺五寸聖容、左御手結刀釼印、右御手作施無畏印、須臾之間現月蓋長者西楼門、『放十二大光照毘舎離城、皆変金色界道』、山河石壁更無所障碍、彼弥陀光明余仏光明所不能及、何況於天魔鬼神。故諸行疫神当此光明如毒箭入カ胸、身心熱悩而方々逃去。…」『善光寺縁起』

 ここでも「阿弥陀如来」は「一尺五寸」の「聖容」となり、「強い光」を放ち「毘舎離城」は全て「金色」となったとされています。
 これらは『請観音経』の伝来と「金光」という年号の間に深い関係があることを示すものですが、この『請観音経』という経典に表わされた『悪病』の治癒というものが「疫病」特に「天然痘」についてのものであり、実際に「天然痘」によって「王権」に死者が出たということがあったことは間違いないと思われますから、「倭国王」の交代ということがあったこととなり、「改元」のタイミングとしては不自然ではなく、その際に「破邪」を目的として「金光」と改元されたとみられるわけです。
 
 また「元岡古墳」から出土した「四寅剣」は正木氏のいうように「天然痘」という悪疫に対する破邪を目的としていたと思われ、「庚寅年」に作られた剣であることは間違いなく、さらに「金象嵌」という方法が、「金色」の光を放つという「経文」に沿ったものであったことも重要と考えます。
 またその日付からこの「庚寅年」とは「元嘉暦」に基づくものであること、それが「五七〇年」であることが確実視されています。この「年次」が『二中歴』の「金光元年」に一致するということであり、『請観音経』と「四寅剣」の伝来はこのタイミングで行われたものといえるでしょう。またこれら一連のことは『二中歴』の記述の信頼性に対して一定の担保が確保されたということにもなりそうです。
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2 コメント

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Unknown (山田春廣)
2017-07-25 14:25:05
James Mac さま

いつもご教示ありがとうございます。
会報133号はまだ未公開ですので、
私のブログの読者はごく少ないのですが、
この論考のアドレスをブログで紹介させてください。

今後ともよろしくご指導くださるようお願いいたします。


いただいたコメントに対して (James Mac)
2017-07-26 00:21:09
山田様

コメントありがとうございます。
当ブログをご紹介いただけるということで恐縮しています。
山田様のコメント欄に長文を投稿するのもどうかと思い、自分のブログに書かせていただきました。ご了承のほどを。
山田様の視点、観点と論理についてはいつも刺激を受けています。私のような凡庸な人間には羨望しかありません。
かえってこちらこそ今後ともご指導いただきたく、よろしくお願いいたします。

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