古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「持統紀」の「新羅」からの「弔使」に対する「勅」への疑問(3)

2016年10月16日 | 古代史

 また、この「金道那」への「勅」の中では「難波宮治天下天皇」「近江宮治天下天皇」というように「天皇の統治」を示すものとして「治天下」という「用語」が使用されています。この「治天下」という用語は『書紀』を子細に眺めると「古い時代」にしか現れません。「神代」にあり、その後「雄略」「顯宗」「敏達」と現れ、(この『持統紀』を除けば)最後は『孝徳紀』です。ただし、『孝徳紀』の場合は「詔」の中ではなく、「地の文」に現れます。
 それに対し同様の意義として「御宇」も見られます。『書紀』の中にも明らかに「八世紀」時点における「注」と考えられる表記以外には「舒明前紀」「仁徳前紀」「仲哀紀」で「御宇」の使用例がありますが、最後は(「治天下」同様)『孝徳紀』です。(ただし「詔」の中に現れるものです) 
 この『孝徳紀』の「詔」については「八世紀」時点における多大な「潤色」と「改定」が為されたものであるとする見解が多数であり、このことからこの「孝徳」時点で「御宇」という「用語法」が行われていたとは考えにくく、「治天下」という「地の文」の用語法が正しく時代を反映していると考えられます。
 中国の史書の出現例も同様の傾向を示し「治天下」は古典的用法であるのに対して「御宇」は「隋」以降一般化した用法であるようです。このことは「治天下」と「御宇」が混在している『書紀』の例はまず「隋代」以前に倭国に伝来した「漢籍」によって「治天下」用語を含む部分が先に書かれ、その後「隋代」以降に流入した「漢籍」によって「御宇」使用例が付加・補強されたことを示すものと思われます。
 そう考えると、「持統」という時代の「勅」に「治天下」という表現が使用されているのは「不審」と考えられることとなり、これも時代の位相が違うことを示します。

 この「金道那」への「勅」がずっと以前に(たとえば正木氏の主張する「三十四年」前に)出されたものと考えると、「喪使」が派遣された年次としても「伊飡」という「金春秋」の「位階」や「治天下」という表現などもその時代に合った大変似つかわしいものになると考えられます。その意味でこの記事自体が「移動させられている」と見る事に相当の合理性があることとなるでしょう。(さらに続く)

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