古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「孝徳」と「倭国王」(1)

2016年10月16日 | 古代史

 以上「金春秋」に関するものと新羅王の死去に関する記事だけを見ても、いずれも相当程度年次移動の可能性が高いことが推測できることとなっています。その推論の中で「田中法麻呂」の派遣を「孝徳」の死去に関わるものという理解をしておきましたが、それは微妙です。なぜならこの「勅」の中で触れられている「田中法麻呂」が喪使として「新羅」に派遣されたのは『書紀』では「六八七年」のこととされています。これも「三十四年遡上」とすると「六五三年」となりますが、「孝徳」の死去は『書紀』では「六五四年の十月」の死去とされています。

「(六五四年)白雉五年…
冬十月癸卯朔。皇太子聞天皇病疾。乃奉皇祖母尊。間人皇后并率皇弟公卿等。赴難波宮。
壬子。天皇崩于正寢。仍起殯於南庭。以小山上百舌鳥土師連土徳主殯宮之事。」(「孝徳紀」より)

 つまり双方の年次が合わないこととなります。どちらが正しいかと考えるとヒントとなるものが『新唐書日本伝』です。そこには「孝徳」に関する事として「白雉改元」即位とあり、その後「未幾孝徳死」という文章があることです。

 『新唐書日本伝』には「歴代」の「天皇名」が列挙されており、それを見ると「皇極」と「孝徳」の間に唐側が保有していたと思われる資料により対照された記事が「注」として書かれ、その後「未幾孝徳死」という言葉につながります。しかも「孝徳」は「永徽初」(六五〇年から二-三年の範囲と思われます)に「白雉改元」と「即位」が同時であるように書かれ、その直後にその「未幾」記事が置かれていますから、この時の「孝徳」は「六五二年」付近で死去したことを推定させます。
 「初め」が「元年」を指すかは何ともいえませんが、(例を渉猟しましたが明確ではありませんでした)この「未幾」(幾ばくもなく)という言葉は、その『新唐書』内の多数の使用例からの帰結として、「一年以内数ヶ月」の時間的範囲を示すものであることが明らかですから、そのことからも「改元」直後に死去したことが窺えるものであり、「六五二年」という「九州年号白雉」の改元直後ではなかったかという推定は不合理ではありません。

 さらに「六五三年」には「新倭国王」(『新唐書日本伝』によれば「天豊財」とされています)が即位していたこととなりますが、そのことと関連しているのが、その「六五三年」(白雉四年)に遣唐使が送られていることです。
 それ以前に起きた「高表仁」とのトラブル以来「遣唐使」は途絶えていましたが、『旧唐書』にあるように「六四八年」に「表」を「新羅」に託して(「金春秋」に依頼したと推定されます)「高表仁」とのトラブルについて「謝罪」し、その結果「起居」を通じるようになったとされています。これは「倭国王」の死去に伴う方針変更であったと思われますが、その新「倭国王」が即位後まもなく死去してしまったこととなるでしょう。そしてそれを継承した「新倭国王」により「遣唐使」の派遣という形で本格的な「唐」との正式国交を目指すこととなったものと推量します。

 これらの推定は移動年数として「三十四年」が正しいと考えられること、及び「孝徳」は「倭国王」ではないという帰結を導きます。(さらに続く)

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