古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「孝徳」と「倭国王」(2)

2016年10月16日 | 古代史

 そもそも「孝徳」がこの当時の「倭国王」であったかが「微妙」、というより「疑問」といえるのはすでに数々指摘されていることでもあります。古賀氏がすでに指摘していることですが(『古賀達也の洛中洛外日記』第549話(2013/04/11)「孝徳紀」の記事では「賀正禮」について「賀を受ける」のではなく「賀正礼を観る」とされており、主客の立場が通念とは異なっている事が指摘されています。)

「(六五〇年)白雉元年春正月辛丑朔。車駕幸味經宮觀賀正禮。味經。此云阿膩賦。是日車駕還宮。」(「孝徳紀」より)

 古賀氏もいうように孝徳紀のこの記事は、「孝徳がナンバーワンではなかったことを正直に表現していた」ものです。
 後の養老律令(儀制令)では遠方の地域王者については「元日」には「庁」(政庁建物)に向かって遙拝することを求めていますが、近隣の有力者であれば当然参列したことでしょう。この時の「孝徳」も同様であったと思われ、至近に「孝徳」の宮殿があったのではないでしょうか。というよりはそのために至近に「離宮」を作ったのでしょう。それが「子代仮宮」であったと思われ、その前身の「子代屯倉」と共に彼等の勢力範囲であったことが窺えます。この推測を裏付けるのが「東国国司詔」が出されたときの「孝徳」の所在です。
 『書紀』を見ると「鐘櫃の詔」を出した際には「離宮」にいたこととなっています。(「詔」の一週間後に「離宮から戻った」とされる)

(六四六年)大化二年春正月甲子朔。賀正禮畢。即宣改新之詔曰 …。
是月。天皇御子代離宮。遣使者。詔郡國修營兵庫 蝦夷親附。或本云。壞難波狹屋部邑子代屯倉而起行宮。
二月甲午朔戊申。天皇幸宮東門。使蘇我右大臣詔曰。明神御宇日本倭根子天皇詔於集侍卿等。臣連。國造。伴造及諸百姓。朕聞。明哲之御民者。懸鍾於門而觀百姓之憂。作屋於衢而聽路行之謗。雖芻蕘之説親問爲師。…。
乙卯。天皇還自子代離宮。

 しかしこの「鐘櫃の詔」は「東国国司詔」などと並び「改新政策」の重要な要素であり、このような重大なものを「離宮」(子代宮)から行ったとは考えにくいと同時にそのような離宮に「東門」など「本宮」と同様な構造があったというのも同様に考えにくいものです。
 ここで「離宮」を作っているのは「改新の詔」とそれに引き続く一連の詔を「承る」ために宮殿の近くにいる必要があったということではないでしょうか。
 この時年頭から「東国国司詔」や「薄葬令」その他重要な「詔」が一年以上にわたった出され続けていますから、遠方からそのたびに「上京」するのではその移動に要する費用と人手などが大きな負担であったと思われます。その場合「離宮」という拠点を「京」の至近に作った方が便利と考えたとして不思議ではありません。その意味でもこの時の「倭国王」の本拠(詔の中では「京」「朝」と表現されています)が「難波」にあったと見るのは自然です。

 またその「鐘櫃の詔」の後半では「遷都未久」と表現していますが、「離宮」は仮宮でしかありませんからそこに天皇が所在していたとしても「遷都」という表現は当たらないでしょう。このことは「遷都」が「倭国王権」にとってのものであり、「難波」が「京」となった時期からそれほど時間が経過していないことが推定できるものです。そのことは地方から上京してきた人達を目的外の労働に使役していたことが書かれており、「京」に関する土木工事がまだかなり途中であるらしいことも窺えます。
(以下「鐘櫃の詔」の後半部分)

「二月甲午朔戊申。…所以懸鍾設匱。拜收表人。使憂諌人納表于匱。詔收表人毎旦奏請。朕得奏請。仍又示羣卿。便使勘當。庶無留滯。如群卿等或懈怠不懃。或阿黨比周。朕復不肯聽諌。憂訴之人。當可撞鍾。詔已如此。既而有民明直心、懷國土之風。切諌陳疏納於設匱。故今顯示集在黎民。其表稱。縁奉國政到於京民。官官留使於雜役云々。朕猶以之傷惻。民豈復思至此。然遷都未久。還似于賓。由是不得不使而強役之。毎念於斯。未甞安寢。…。」

 これらのことから「田中法麻呂」がその「喪」を伝えたのは「孝徳」ではなく別人であり、「難波宮」にその居を構えていた「倭国王」であったと見られることとなるわけです。

(まだまだ続く) 

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