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古田史学とMe

古代史を古田氏の方法論を援用して解き明かす(かもしれない…)

「戸」と「家」の違い(追加)

2018年01月20日 | 古代史

 遅れましたが、御覧いただいている皆様、明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 ところで、すでに『「戸」と「家」の違い』(http://blog.goo.ne.jp/james_mac/e/27518e7d3ed01868110a16b22c89b0e2)などで触れましたが、『魏志倭人伝』に現れる「戸」と「家」については「戸」が制度としてのもの、「家」については「家(いえ)」と内実は異ならないとみました。今回『養老律令』やその解説書(但し公的なものではない)である『令集解』でも「戸」と「家」はほぼ同義で使用されていることを確認しましたので報告します。

 たとえば『養老律令』の「戸令」では「(戸主条)凡戸主。皆以家長為之。」とあり、「家」の長が「戸」の「主」であるとされているわけですから、「戸」の内実が「家」であることが示されていると思われます。
 また『令集解』の「戸令」の条でも「戸謂。一家為一戸也。」とあり、ここでは明確に「戸」と「家」が同義であることを示されています。
 『養老律令』やその前身の『大宝律令』でも(多分それ以前の古律令においても)その母体は隋・唐の律令にあるのは明らかですから、「戸」と「家」についての関係も隋・唐に淵源すると思われますが、その隋・唐の律令はその時点で目新しく造られたものではなく、究極的には(秦)漢・魏・晋時代の律令につながっています。その意味で魏の使者が使用した「戸」と「家」の意義と大きくは異ならないはずであり、基本的な制度あるいは構造として、いわば制度としての「戸」の構成要素の主たるものは父母妻子兄弟という自然発生的な家族関係が中心にある「家」というものであったとおもわれるわけです。 
 また先に見た『養老律令』の「戸令」にも課役の義務がないものとして「不課。謂。皇親。及八位以上。男年十六以下。并蔭子。耆。癈疾。篤疾。妻。妾。女。家人。。」とありますが、これらは「家長」の率いる「戸」の構成要因として書かれているように思われますから、「父母妻子」以外に「家」の中に寝食を共にする者がいたことを示唆するものであり、それらが一つの「戸」として行政の網がかかっていたことを示します。この状態も「三世紀」の「卑弥呼」の時代に遡上する可能性は否定できないと思われるわけです。

 ただし、この「子」と「家」が常に等しい内実を持ちまた数量的にも等しいということではなかったと思われ、それは『倭人伝』でも「…有屋室、父母兄弟臥息異處。…」とあり、「家」の実態が「父母兄弟」が基本的単位であることを示しているものの、同じく『倭人伝』には「其俗、國大人皆四五婦、下戸或二三婦。」とあり、これら「四五婦」や「二三婦」の全員が一つ屋根の下に暮らしていたとも考えられませんから、彼等が一つの『家』を形成してはいないと思われ、この時点ですでに「戸」と「家」が異なる場合もあったことが推定できます。さらに「其犯法、輕者沒其妻子、重者滅其門戸及宗族。」と書かれていることから、「妻子」というのが「家」であり、それを含む複数の「家」で構成される「門戸」というものが存在していたことを推定させますが、この「門戸」が『倭人伝』の中に多く見られる「戸」と同義であると見るのは間違いではないでしょう。

 これらからいえることは「家」の内実に関わらず「戸」と「家」はほぼ等しいと思われるものの、場合により複数の「家」を含む場合もあったらしいことと推察されるものです。いずれにしても「戸」というものがいわば制度としての形而上的存在であり、外からそれと分かるものではなかったのは確かであり、魏使が「戸」を把握できなかった場合「家」で代用せざるを得なかったというのもまた確かでしょう。

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