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結局、エコハウスは必要?
最終回となる今回は、これまで挑発的にエコハウスの問題点を論じてきた前真之氏が真意を語る。「曖昧に、当たり障りなく」から脱し、真剣に議論・検証して「本物」のエコハウスを育てなくてはならない、と。
ここまで15回にわたり、エコハウスについての考察を行ってきた。最後にまとめをしておこう。
連載の前半では、もっぱらエコハウスの定石とされる「吹き抜け+大窓」に対して、様々な疑問を論じてきた。それらは多くの問題点をもっており、住々にして不快でエネルギーを無駄にする空間を生み出しかねないことを指摘した。

これらは推測でもなんでもなく、実際に筆者や研究室の学生が実地調査で何度も「目撃」してきた事実である。建築雑誌を賑わせるエコハウスを見るときには、書いてあることを鵜呑みにせずに「批判的」なチェックをお薦めする。
エコは「様式」にあらず
これらの問題は冷静に考えれば、どれも初歩の物理原則で説明できる簡単な事象ばかり。ちょっと意義すれば、自身の実体験からも思い当たるフシがあろうというもの。なのになぜ、かくもウソがまがり通るのだろうか。
筆者の理解では「エコ」という言葉が、建築の世界では「モダニズム」や「ポストモダン」と同じように「様式の一つ」として扱われていることが問題の根幹である。構法や材料の発展を考慮していたとしても、これらは基本的に建築家と評論家の狭いコミュニティーで決定された「人による区別」。結局、現在のエコハウスの多くは「エコ様式」でしかないのだ。
しかし省エネや省CO2が切実になる中で、人の生活を守っていくためには、「様式」としてのエコは無力であり、時に有害である。人間はなぜか体毛を退化させたため、寒さへの対処のために衣類、そして建築を必要とした。建築は物理的存在として人間を保護するという、切実な「願い」をその発端としていることを忘れるべきではない。それは様式の流行などとは無関係な、建築の根源的で永続的な存在理由なのである。
まともな「暮らし」してますか
連載の後半は、太陽光発電を中心とした創エネ、あるいはゼロエネや省CO2を「批判的に」取り上げた。あれこれ曖昧なキーワードやブレる政策に振り回されては日本が疲幣しきってしまう、そして理屈やテクノロジーうんぬんの前に、根本である「生活」そのものを見直すことが先決ではないかと思うからである。
スイスに見学に行った学生が、スイス人は朝7時に学校や会社に到着して夕方4時には家に帰ると驚いていた。蓄電池に数百万円かけて夜型生活を続けるのと、明るいうちに帰り早目に寝る生活に切り替えるのと、どちらが豊かなのか、いま一度考えるべきだろう。
そして、外が明るい時刻から家で過ごすとなれば、住環境をいかに快適にするかを真剣に考えるというもの。だからスイス人は質の高い住環境の獲得に余念がない。スイスのエコハウスにこれ見よがしな吹き抜けや大窓が見られないのは、それらが見た目は良くても住環境を悪化させることをみんなが理解しているからではないだろうか。
普段の生活を大事にせずに、まともな住環境を論ずることなどできようはずがない。だから見せかけだけの「エコ様式」に気付くことができないのだ。日本人も、もっと生きること、暮らすことに「貪欲」にならねばならない。まともな住環境はただ与えられるものではなく、「獲得」するもの。何にカネを使うべきで、何に使うべきでないのか。その厳しい取捨選択の中でニセモノは淘汰され、本物だけが残っていくべきなのだ。
エコハウスは何のため?
筆者が本連載を始めた動機は、「実は誰もエコハウスなど好きではないのではないか」「真面目に考えていないのではないか」という危機感である。このままでは数十年後に化石エネルギーを使えなくなった時、日本人は本当に惨めな生活をするハメになる。良質なエコハウスのストックは日本人にとっての「箱舟」になり得るのだ。そのためには曖昧に当たり障りなく済ませるのではなく、今から厳しく議論し検証して「本物」に育てていかなければならない。
日本人は繊細な感覚で自然を感じてきた。もっとよく生きることの意義に気付けば、室内環境も繊細に論じられるはず。そして必ずや日本の風土・気候に合った、皆を幸せにする本物のエコハウスをつくれると信じている。
全連載の最後に表題に初めて「イエス!」と答えられたことをもって、本連載の結びとしたい。
前 真之:東京大学大学院 工学系研究科 建築学専攻 准教授
(日経アーキテクチュアNo.966 P90.より引用) 』
・・イツモアリガトウ
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住宅建築・住まいのリフォーム相談『日本建築倶楽部(JAC)』
結局、エコハウスは必要?
最終回となる今回は、これまで挑発的にエコハウスの問題点を論じてきた前真之氏が真意を語る。「曖昧に、当たり障りなく」から脱し、真剣に議論・検証して「本物」のエコハウスを育てなくてはならない、と。
ここまで15回にわたり、エコハウスについての考察を行ってきた。最後にまとめをしておこう。
連載の前半では、もっぱらエコハウスの定石とされる「吹き抜け+大窓」に対して、様々な疑問を論じてきた。それらは多くの問題点をもっており、住々にして不快でエネルギーを無駄にする空間を生み出しかねないことを指摘した。
これらは推測でもなんでもなく、実際に筆者や研究室の学生が実地調査で何度も「目撃」してきた事実である。建築雑誌を賑わせるエコハウスを見るときには、書いてあることを鵜呑みにせずに「批判的」なチェックをお薦めする。
エコは「様式」にあらず
これらの問題は冷静に考えれば、どれも初歩の物理原則で説明できる簡単な事象ばかり。ちょっと意義すれば、自身の実体験からも思い当たるフシがあろうというもの。なのになぜ、かくもウソがまがり通るのだろうか。
筆者の理解では「エコ」という言葉が、建築の世界では「モダニズム」や「ポストモダン」と同じように「様式の一つ」として扱われていることが問題の根幹である。構法や材料の発展を考慮していたとしても、これらは基本的に建築家と評論家の狭いコミュニティーで決定された「人による区別」。結局、現在のエコハウスの多くは「エコ様式」でしかないのだ。
しかし省エネや省CO2が切実になる中で、人の生活を守っていくためには、「様式」としてのエコは無力であり、時に有害である。人間はなぜか体毛を退化させたため、寒さへの対処のために衣類、そして建築を必要とした。建築は物理的存在として人間を保護するという、切実な「願い」をその発端としていることを忘れるべきではない。それは様式の流行などとは無関係な、建築の根源的で永続的な存在理由なのである。
まともな「暮らし」してますか
連載の後半は、太陽光発電を中心とした創エネ、あるいはゼロエネや省CO2を「批判的に」取り上げた。あれこれ曖昧なキーワードやブレる政策に振り回されては日本が疲幣しきってしまう、そして理屈やテクノロジーうんぬんの前に、根本である「生活」そのものを見直すことが先決ではないかと思うからである。
スイスに見学に行った学生が、スイス人は朝7時に学校や会社に到着して夕方4時には家に帰ると驚いていた。蓄電池に数百万円かけて夜型生活を続けるのと、明るいうちに帰り早目に寝る生活に切り替えるのと、どちらが豊かなのか、いま一度考えるべきだろう。
そして、外が明るい時刻から家で過ごすとなれば、住環境をいかに快適にするかを真剣に考えるというもの。だからスイス人は質の高い住環境の獲得に余念がない。スイスのエコハウスにこれ見よがしな吹き抜けや大窓が見られないのは、それらが見た目は良くても住環境を悪化させることをみんなが理解しているからではないだろうか。
普段の生活を大事にせずに、まともな住環境を論ずることなどできようはずがない。だから見せかけだけの「エコ様式」に気付くことができないのだ。日本人も、もっと生きること、暮らすことに「貪欲」にならねばならない。まともな住環境はただ与えられるものではなく、「獲得」するもの。何にカネを使うべきで、何に使うべきでないのか。その厳しい取捨選択の中でニセモノは淘汰され、本物だけが残っていくべきなのだ。
エコハウスは何のため?
筆者が本連載を始めた動機は、「実は誰もエコハウスなど好きではないのではないか」「真面目に考えていないのではないか」という危機感である。このままでは数十年後に化石エネルギーを使えなくなった時、日本人は本当に惨めな生活をするハメになる。良質なエコハウスのストックは日本人にとっての「箱舟」になり得るのだ。そのためには曖昧に当たり障りなく済ませるのではなく、今から厳しく議論し検証して「本物」に育てていかなければならない。
日本人は繊細な感覚で自然を感じてきた。もっとよく生きることの意義に気付けば、室内環境も繊細に論じられるはず。そして必ずや日本の風土・気候に合った、皆を幸せにする本物のエコハウスをつくれると信じている。
全連載の最後に表題に初めて「イエス!」と答えられたことをもって、本連載の結びとしたい。
前 真之:東京大学大学院 工学系研究科 建築学専攻 准教授
(日経アーキテクチュアNo.966 P90.より引用) 』












