小島と広島と私たち

島爺の倉橋島での農作業と,
広島を中心とした孫たちとのくらし

ある村の防災

2011-04-28 20:33:27 | メモ
 このたびの東日本大震災で,無傷ともいえる村落がある。
岩手県北部に位置する普代村。
おそらく漁船を見に行かれたであろう一人の行方不明者はあったが,死傷者はゼロ。
『稲むらの火』にみられる浜口五兵衛(濱口儀兵衛)といい,先人の知恵には学ぶべきことが多い。
昨日の産経新聞の記事を抜粋。


 普代村(HPより)
 
三陸大津波直後の普代村太田名部地区

村救った2人のヒーロー 《産経新聞;4月26日》
 巨大防波堤で死者ゼロ 岩手県普代村 村長の信念と消防士の献身が結実
 
昭和8年3月3日三陸大津波直後

 久慈消防署普代分署の副分署長を務める立臼勝さん(50)ら消防士3人は,地震発生直後,大津波警報の出る中,ゲートに向かった。
故障したゲートを閉めるには水門の機械室で手動スイッチを使うしかないからだ。
津波の危機感はあったが,「まさか、あれほど大きな津波がくるとは思っていなかった」。

 3人は機械室に到着するとすぐにゲートを閉めた。立臼さんは,引き揚げようと消防車に乗り込んだとき,
背後から「バキ、バキッ」と異様な音がするのに気付いたという。
普代川を逆流してきた津波が防潮林をなぎ倒し,水門に押し寄せてくる音だった。
消防車のアクセルを踏み込み,かろうじて難を逃れた。

 漁港は大きな被害を受けたものの,防潮堤に守られた村中心部は無傷。
津波は普代川をさかのぼり水門を越えたが,住宅地や小中学校までは及ばず,河原の木々が倒れた程度だった。
 立臼さんは
「水門で9割方の水は止まり,流れ込んだ波も強い雨が降った程度ですんだ。
もし水門が10㍍しかなかったら被害の多かったほかの地区と同じように壊滅していたかもしれません」
と振り返る。

津波で壊滅的な被害を受けた三陸沿岸の中で,岩手県北部にある普代村を高さ15㍍を超える防潮堤と水門が守った。
 村内での死者数はゼロ(3日現在)。計画時に「高すぎる」と批判を浴びたが、当時の村長が「15㍍以上」と譲らなかった。
 「これがなかったら、みんなの命もなかった」。
太田名部漁港で飲食店を営む太田定治さん(63)は高さ15.5㍍,全長155㍍の太田名部防潮堤を見上げながら話した。

 津波が襲った先月11日,店にいた太田さんは防潮堤に駆け上った。
ほどなく巨大な波が港のすべてをのみ込んだが,防潮堤が食い止めてくれた。
堤の上には太田さんら港内で働く約100人が避難したが,足もとがぬれることもなかった。

普代地区でも高さ15.5㍍,全長205㍍の普代水門が津波をはね返した。

 防潮堤は1967年に県が5800万円をかけ, 水門も84年にやはり35億円を投じて完成した。
既に一部が完成し60年にチリ地震津波を防ぎ,「万里の長城」と呼ばれた同県宮古市田老地区の防潮堤(高さ10㍍)を大きく上回る計画は当初,批判を浴びた。

 村は1896年の明治三陸津波と1933年の昭和三陸津波で計439人の犠牲者を出した。
当時の和村幸得村長(故人)が「15㍍以上」を主張した。
「明治に15㍍の波が来た」という言い伝えが,村長の頭から離れなかったのだという。

 今回の津波で,宮古市田老地区は防潮堤が波にのまれ,数百人の死者・不明者を出した。
岩手県全体で死者・行方不明者は8000人を超えた。
 普代村も防潮堤の外にある6か所の漁港は壊滅状態となり,船の様子を見に行った男性1人が行方不明になっている。
深渡宏村長(70)は
「先人の津波防災にかける熱意が村民を救った。まず村の完全復旧を急ぎ,沿岸に救いの手を伸ばす」と語った。


 BP net から借用

稲むらの火 (Wiki Pediaなど) 
 積み重ねられた稲の束,また稲架(はさ)に架けられた状態を「稲むら」と呼ぶ。
村の高台に住む庄屋の五兵衛は,地震の揺れを感じたあと海水が沖合へ退いていくのを見て,津波の来襲に気付く。
 祭りの準備に心奪われている村人たちに危険を知らせるため,五兵衛は自分の田にある刈り取ったばかりの稲の束に松明で火をつけた。
火事と見て,消火のために高台に集まった村人たちの眼下で,津波は猛威を振るう。
五兵衛の機転と犠牲的精神によって村人たちはみな津波から守られたのだ。

明治三陸地震津波の話から,小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)が英文の『A Living God 』で紀州有田の農村の長「浜口五兵衛」の偉業を紹介。
この作品を読んで感銘を受けた地元湯浅町出身の小学校教員中井常蔵(1907~1994年)は,
文部省国定国語教科書の教材公募(1934)にこの作品を児童向けに翻訳・再構成し,
「燃ゆる稲むら」として応募し入選した。
国語教材としてそのまま採用され,国定教科書に「稲むらの火」と題されて掲載された。

 農村の高台に住む年老いた村長とされている五兵衛に対して,史実の儀兵衛は指導的な商人であったがまだ30代で,
儀兵衛の偉業は災害に際して迅速な避難に貢献したことばかりではなく,被災後も将来再び同様の災害が起こることを慮り,私財を投じて防潮堤を築造した。
これにより広川町の中心部では,昭和の東南海地震・南海地震による津波に際して被害を免れた。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿