魔女のオペラ騎行

オペラの世界を美に入り細に入り探索する。
タイトルはヘンゼルとグレーテル「魔女の騎行」より。

演出家のスタイル

2016-10-08 18:57:11 | 進行中のお仕事

 少し遅くなってしまったが、この夏かかわった二本の大きいプロダクションの演出家の仕事について考えてみたいと思う。演出家の人間と作品がどのように関係しているかについても。
 
 兵庫県立芸術センター(佐渡裕プロデュース)「夏の夜の夢」演出のアントニー・マクドナルドはもともと舞台美術をメインにやっていた人で、有名なところではリチャード・ジョーンズの舞台の装置をよく手掛けている。今回も演出に加えて美術と衣裳のデザインも担当していた。
 アントニーは「自分な視覚的要素から入る演出家だ」と制作発表の記者会見の時に言っていた。そのとおりに彼は美的感覚にずば抜けた演出家だ。彼の舞台はとにかく隅々までこだわりがあり、品が良くて美しい。それだけではなくてシーンごとにサプライズがある。今回は盆を3分割した異なる空間が場面ごとに現れるのだが、同じ空間に戻ってくるたびに、何かが足されていたり、何かが無くなっていたりして毎回変化がある。そして3幕の劇中劇では盆に乗っていたすべてが消えて(舞台奥に収納されて)それまでとは全く違う、ヴィクトリア朝の「劇場」が現れる。さらに、それは3幕の終わりですべて舞台上部に飛ばされて無くなり、舞台は空っぽになる。シェイクスピアの戯曲にはよく人生を舞台にたとえたフレーズが出てくるのだが、まさにそれを体現し、しかも幕切れのパックの「すべては一夜の夢」というセリフともマッチしていた。

 

 ひたすら感心したのは衣裳合わせの時で、まず衣裳自体がいかにもイギリス趣味の、地味ながらセンスの良い色と生地の取り合わせで全てが品が良かったばかりでなく、仕立てとフィッティングにも細部にいたるまでこだわりがあり、ズボンのちょっとした幅、襟の開き具合、光り物の分量、本当にわずかな差を調整しながら仕上げていっていた。実際、ここまで細かく指示をする衣裳デザイナーはなかなかいないらしく、日本側の衣裳担当の方たちは作業の多さに目を白黒させていたが…。
 同じヨーロッパでも色彩感覚は国によって違う。特にイギリスとイタリアではもう全く違う。イタリアの衣裳デザイナーは傾向として、「赤!」「ピンク!」と名前をつけられるはっきりした色調をもってくる。イギリスは普段の生活から服装でもインテリアでも、少し褪せたような、はっきりと色の名前を付けられないような地味目の色の組み合わせを好む。見慣れるまでは冴えないようにも見えるのだが、イギリス感覚に目がなじんでくると、そのセンスが好きになってくる。多分、昔の日本人が着物の微妙な色の組み合わせを楽しんでいたのと似ているのではないかと思う。
 面白いのはアントニーの衣裳アイテムや生地の調達を担当しているのはローマベースのイタリア人であること。彼に「イタリアとイギリスでは色彩の好みが全く違うけど?」と訊いてみたら、「その通りなんだけど、そのデザイナーと何度も仕事していれば本人の好みがわかってくるから」と言っていた。

 アントニーはよくおしゃべりをする人だった。衣裳合わせの時などは、キャスト個人個人と雑談をする貴重なチャンスなためか、お互いの仕事の話やプライベートのこと、業界のゴシップなど、よくしゃべっていた。それももしかすると演出家として意図的にそういうスタイルを心がけているのかもしれない。

 しいて言えばアントニーの演出は、作品に何か驚くような新しい見方を投げかけるものでも、胸をえぐるようなものでもなかった。作品がストレートに、そしてとても美しく立ち上がっていたが、オペラや演劇の古典作品を観る時に私が演出家として期待する「解釈」はなかった気がする。実際、立ち稽古初日の演出プラン説明の時も、そのような話はなく、美術の説明に終始していた。そこが唯一自分にとっては物足りなかったと言えば物足りなかった。しかし「夏の夜の夢」という「一夜の夢」を純粋に楽しむためには余計な「解釈」など要らなかった気もする。キャスティングが絶妙だったし、作品の完成度としては私が過去に参加したプロダクションの中では最高だった。

 二期会「トリスタンとイゾルデ」の演出家ウィリー・デッカーの舞台は全くスタイルが違う。彼は舞台上に、最小限のそぎ落とされた要素しか乗せない。「トリスタン」でいえばそれは、シンプルで飾りのない小舟とオール。舞台奥を囲う2枚の壁以外はそれが全てであり、あとは歌手のアクションで表現する。小舟は1幕では見知らぬ外国に一人嫁がされるイゾルデの孤独と不安を象徴している。2幕ではそれが、トリスタンとイゾルデにとっての隠れ家であり、愛の果てしない航海を運ぶささやかな乗り物でもある。3幕では船は真っ二つに割れていて、二人の愛の基盤が裂けてしまったことを表すが、トリスタンが死の直前に船を一つに戻し、その中で死ぬ。イゾルデは彼を乗せたまま新しい航海に漕ぎ出す。
 彼の作品には私が期待する「解釈」がある。このトリスタンの解釈で特筆すべきは2幕の幕切れでトリスタンが自らナイフで自分の目をつぶし、イゾルデもそれに倣うこと。昼ではなく夜・闇を求め続けていた二人が物理的に世界を暗闇にしてしまう。(これはオイディプスの引用かもしれない。オイディプスは目が見えていた時は何も解っていなかったが、すべてを知った時に自ら目をつぶす。)そして3幕でトリスタンとイゾルデが再会する時、目が見えないためにお互いを見つけられずにすれ違ったままトリスタンが息絶えてしまう。
 デッカー氏は作品を作る時、美術家と合宿のように何週間も籠ってプランを練るそうだ。世界でトップのオペラ演出家の一人と言えるが、ここ数年は新演出を発表していない。それは彼が精神と骨身を削るようにして作品を作るからで、そのようにして作品を作る場合、そうそう新演出を発表できるわけはないのだ。
 実際、直接お会いしたデッカー氏は作品、芸術そのものにしか興味がない人だった。舞台稽古を止めて舞台に上がってくると、歌手を捕まえて、顔と顔をぴったり合わせるように向き合って、大事なことだけを話した。それが済むと、その日の仕事は終わったという感じで何も言わずにいなくなる。社交的なことには一切興味がないようだった。私は彼が歌手と話をする時の熱量と集中力を傍で感じるに徹した。
 作品の予備知識は全く無しで本番を観に来た友人は号泣していた。立ち稽古の大方はデッカー本人ではなく演出補のシュテファンが担ったが、演出がこれだけシンプルで明確な場合、再演であっても作品の一番大事な要素がダイレクトにお客さんに伝わるのだと思った。

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