Credo, quia absurdum.

旧「Mani_Mani」。ちょっと改名気分でしたので。主に映画、音楽、本について。ときどき日記。

「赤い風船/白い馬」アルベール・ラモリス再観

2009-04-05 22:10:38 | cinema
赤い風船/白い馬【デジタルニューマスター】2枚組スペシャル・エディション

角川エンタテインメント

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『赤い風船』LE BALLON ROUGE
1956フランス
監督:アルベール・ラモリス
脚本:アルベール・ラモリス
撮影:エドモン・セシャン
音楽:モーリス・ルルー
出演:パスカル・ラモリス、シュザンヌ・クルーティエ

『白い馬』CRIN BLANC
1952フランス
監督:アルベール・ラモリス
脚本:アルベール・ラモリス
撮影:エドモン・セシャン
音楽:モーリス・ルルー
出演:アラン・エムリイ、パスカル・ラモリス



劇場鑑賞時にはちと寝てしまったので、DVDでリベンジ。
結果的には、寝た部分はほんのすこしであったことがわかり安堵(?)


しかしステキな映画ですよね~これは。
最近の映画(=リアリズム至上主義(と仮定する))ではまずやらないような単純素朴なファンタジーに鼻白む向きもきっとあるでしょうが、そういう方々ははなからこの映画を観ない気もするし・・

この二作は、とにかくワタシにとっての「映画とは何か」に答えを用意してくれる、そんな作品なのですな。

『赤い風船』では、風船をもつことで学校のガキどもvsパスカルという対立が生じ、孤独を生きる少年が、最後には風船の仲間たちに連れられ飛び去って行く。
少年とその他大勢との間の隔たりは、風船以前にも実は存在していたのだろう。パスカルの立ち振る舞いの優雅さに対して、大勢はがさつで乱暴で悪意に満ちている。それが多数派のありかただとすると、パスカルはそのなかで耐える弱き存在である。

『白い馬』では、自由や友情という自然な感情に対して、馬飼いという大人の世界が拘束を加える。そのことに対して馬と少年が身をもってノンと言う。しかしそれは立ち向かう抗議ではなく、はかなく消え行くことによって示される声無き声だ。

どちらも弱い心をもった少年期のおしつぶされそうな心持ちと、一方で芯にそなえる超越する心との両方を、切なく描き出す点で共通している。
ワタシが長い間映画に求めているのは、このような、多数派の大声ではない、弱きものの心を映し出す鏡のような力なのであるのだなあと、あらためて思う。
そういう力を50年代にそっとパッケージしたラモリスのこの二作品を観ることが出来て、本当に幸せである。

****

『白い馬』を観ると、それはもう明らかに馬と少年の心寄せあう関係を象徴するのが、少年の上下真っ白な服であることがわかる。海辺で海産物を漁ることでくらしているらしい一家にはふさわしくないほどの清潔な白い服は、少年の無垢と無力さを象徴し、登場した瞬間に少年を特権的存在に見せる。このわかりやすい手法は、わかりやすさ故にまたまた鼻白むのかもしれないが、ワタシ的には涙腺ユルム系な手法だ。

『赤い風船』も、よくみると、学校の門をくぐる学友たちがみなあたたかそうなコートを着込んでいるのに少年だけが妙に薄着であるシーンがある。悪ガキたちは大概が半ズボンだが少年は長ズボンである。パスカル君はなにやら薄幸な風情がある。それは冒頭、そのまま観光写真になりそうなパリの丘の上で猫ののどをなでる彼の遠景によってすでに描かれている薄幸であるだろう。

と、ちょっと服装に注目してみました。


あとは、「優れた映画監督はすぐれた動物使いである」という仮説もありまして、これらの映画でも動物は実に美味しく活躍するのですね。
『赤い風船』の冒頭画面を歩く猫は、少年が近づいても逃げず、観客の期待に応え愛撫に身を任せます。
『白い馬』はいうまでもなく馬たちの絶妙なたたずまいが見事です。海辺の馬という見慣れない役回りを、浅瀬を群れで走る華麗な姿で演じ切っています。(あの移動撮影はどうやっているのだろう??)
ジャック・タチやエミール・クストリッツァのように、ラモリスもまたりっぱな動物使いなのでしょう。


ということで、冒頭から泣かせてくれるモーリス・ル・ルーの音楽とともに、うるうると楽しむのでありました。





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「西遊妖猿伝 大唐編」諸星大二郎

2009-04-05 04:44:54 | book
西遊妖猿伝 大唐篇 1 (1) (モーニングKCDX)
諸星 大二郎
講談社

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西遊妖猿伝 大唐編

新装版が出たのを機に購入。

で、すごい面白いんですけど!これを今まで読まなかったのは失敗だった~(どんな失敗だ?)
以前「巨人伝」について書いたときに、諸星氏の作風を「洗練を拒否した円熟」と評したけれど、ちょっと撤回。明らかに諸星氏の筆力は向上しており、表情豊かな人物、ダイナミックな活劇、スリリングなコマ運び、すっとぼけたユーモアなどなど、以前からの持ち味をさらにグレードアップしていて、いまやヘタウマをやや超えている。第4回手塚治虫文化賞マンガ大賞受賞だけのことはあるね~

大唐編、西域編、天竺編の3部構成の構想のようだけど、大唐編だけで83年~97年にかけて各誌に連載、その後ようやく08年から西域編の連載が開始されたというから、これは完結までにいったいどれだけかかるのだろう・・是非生きているうちに最後まで読みたいものだが。。というか諸星さんももういい歳だし、完結するのか??

*****

西遊記の物語に着想を得つつ、隋から唐への政変など中国の史実を織り交ぜ、西遊記とはまったく別の物語となっている。この妄想力は『孔子暗黒伝』などでも発揮される諸星得意の世界だけれど、まったくすごいもんである。日々こんな物語を妄想しているのかと思うと、また不思議な人生だよね~

隋の圧政下に、野人と人間の間の子として生まれた孫悟空は、虐げられた民衆の怨念をパワーにする巨大妖怪無支奇と出会い、民衆の怨みのために世の秩序を乱し戦う運命にあることを告げられる。無支奇から「斉天大聖」の称号を与えられた孫悟空は唐による群雄征伐に巻き込まれ、唐の将を仇と都で大暴れをするなど、各地で騒乱を引き起こす。普段は悪しきを挫く正義感だが、追い込まれたりすると斉天大聖のアナーキーな本性に支配され、人間離れした力で見境なく殺人・破壊をくりかえす。
孫悟空自身は斉天大聖としての定めを拒絶し自由を求めている。その気持ちに呼応するように、純真な気持ちで法の真理を探るため天竺へ向かう僧玄奘と度々出会い、天竺への旅に同行するようになる。

というのが大まかな筋なのだが、これに付随する逸話が面白い。唐の都の地下に広がる隋煬帝が残した地下宮殿にひそむ私生児が自分を真の皇帝と信じている話とか、その地下宮殿の壊滅、唐の政変である古事「玄武門の変」に悟空たちをからませて李世民の宮殿をめちゃくちゃに破壊するところとかが最初のクライマックスかもしれない。

それから、人が面白いようにばたばたと死んでゆく。昔の中国(に限らず)では人の命が今よりはるかに軽かったということもまた事実で、そういうところもなんかどこか超越的な雰囲気に一役買う。


毎晩寝る前に読むことにしているが、うっかりすると夜更かししてしまうので、眠剤を飲んで強制就眠するようにしている。そうするとあまり読み進まないので、長く楽しめるというわけさ。


講談社の新装版は全10巻の予定。



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