赤い風船/白い馬【デジタルニューマスター】2枚組スペシャル・エディション角川エンタテインメントこのアイテムの詳細を見る |
『赤い風船』LE BALLON ROUGE
1956フランス
監督:アルベール・ラモリス
脚本:アルベール・ラモリス
撮影:エドモン・セシャン
音楽:モーリス・ルルー
出演:パスカル・ラモリス、シュザンヌ・クルーティエ
『白い馬』CRIN BLANC
1952フランス
監督:アルベール・ラモリス
脚本:アルベール・ラモリス
撮影:エドモン・セシャン
音楽:モーリス・ルルー
出演:アラン・エムリイ、パスカル・ラモリス
劇場鑑賞時にはちと寝てしまったので、DVDでリベンジ。
結果的には、寝た部分はほんのすこしであったことがわかり安堵(?)
しかしステキな映画ですよね~これは。
最近の映画(=リアリズム至上主義(と仮定する))ではまずやらないような単純素朴なファンタジーに鼻白む向きもきっとあるでしょうが、そういう方々ははなからこの映画を観ない気もするし・・
この二作は、とにかくワタシにとっての「映画とは何か」に答えを用意してくれる、そんな作品なのですな。
『赤い風船』では、風船をもつことで学校のガキどもvsパスカルという対立が生じ、孤独を生きる少年が、最後には風船の仲間たちに連れられ飛び去って行く。
少年とその他大勢との間の隔たりは、風船以前にも実は存在していたのだろう。パスカルの立ち振る舞いの優雅さに対して、大勢はがさつで乱暴で悪意に満ちている。それが多数派のありかただとすると、パスカルはそのなかで耐える弱き存在である。
『白い馬』では、自由や友情という自然な感情に対して、馬飼いという大人の世界が拘束を加える。そのことに対して馬と少年が身をもってノンと言う。しかしそれは立ち向かう抗議ではなく、はかなく消え行くことによって示される声無き声だ。
どちらも弱い心をもった少年期のおしつぶされそうな心持ちと、一方で芯にそなえる超越する心との両方を、切なく描き出す点で共通している。
ワタシが長い間映画に求めているのは、このような、多数派の大声ではない、弱きものの心を映し出す鏡のような力なのであるのだなあと、あらためて思う。
そういう力を50年代にそっとパッケージしたラモリスのこの二作品を観ることが出来て、本当に幸せである。
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『白い馬』を観ると、それはもう明らかに馬と少年の心寄せあう関係を象徴するのが、少年の上下真っ白な服であることがわかる。海辺で海産物を漁ることでくらしているらしい一家にはふさわしくないほどの清潔な白い服は、少年の無垢と無力さを象徴し、登場した瞬間に少年を特権的存在に見せる。このわかりやすい手法は、わかりやすさ故にまたまた鼻白むのかもしれないが、ワタシ的には涙腺ユルム系な手法だ。
『赤い風船』も、よくみると、学校の門をくぐる学友たちがみなあたたかそうなコートを着込んでいるのに少年だけが妙に薄着であるシーンがある。悪ガキたちは大概が半ズボンだが少年は長ズボンである。パスカル君はなにやら薄幸な風情がある。それは冒頭、そのまま観光写真になりそうなパリの丘の上で猫ののどをなでる彼の遠景によってすでに描かれている薄幸であるだろう。
と、ちょっと服装に注目してみました。
あとは、「優れた映画監督はすぐれた動物使いである」という仮説もありまして、これらの映画でも動物は実に美味しく活躍するのですね。
『赤い風船』の冒頭画面を歩く猫は、少年が近づいても逃げず、観客の期待に応え愛撫に身を任せます。
『白い馬』はいうまでもなく馬たちの絶妙なたたずまいが見事です。海辺の馬という見慣れない役回りを、浅瀬を群れで走る華麗な姿で演じ切っています。(あの移動撮影はどうやっているのだろう??)
ジャック・タチやエミール・クストリッツァのように、ラモリスもまたりっぱな動物使いなのでしょう。
ということで、冒頭から泣かせてくれるモーリス・ル・ルーの音楽とともに、うるうると楽しむのでありました。
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