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北京五輪が開幕

2008年08月09日 | 瑞祥
 北京五輪が開幕した。これから十数日間は,テレビに釘付けになりそうという人も多いであろう。私たち裁判官の中にも,数多い担当事件を抱えながら,ついついテレビが気になってしかたがない人も少なくないと思われる。

 それにしても,昨日の開会式は圧巻であった。朝日新聞は「壮大な歴史絵巻」(http://www.asahi.com/sports/update/0808/TKY200808080397.html?ref=rss)と表現していたが,まったくそのとおりに感じられた。こんなショーはなかなか見られないであろう。開幕式のチケットには,かなりのプレミアムがついていたらしいが,その価値は十分にあると思われた。

 そして,今日から本格的に競技開始である。初日は,女子重量挙げ48キロ級で,三宅宏実選手が,惜しくも6位に終わった。自己タイの110キログラムに3度挑戦したが,持ち上げた顔の表情からして,私のような素人にも難しそうな印象を受けた。そのため成功はしなかった。残念,残念と,テレビの前でつい声がでてしまった。こんなに彼女のことが気になるのは,やはり彼女のお父さん,叔父さんのせいであろう。彼女のお父さんは,義行さんといい,メキシコ五輪銅メダリスト、叔父さんの義信さんは東京・メキシコ五輪の連続金メダルリストであり,いずれも40歳代以上の人には懐かしい名前である。私も,小さな頃,テレビに釘付けで応援した。そのため,「三宅」という名前を聞くだけで,つい応援したくなってしまう。その三宅さんには,あのお父さんがコーチをされているそうである。彼女は惜しくも6位だったが,アテネでは9位だったし,順調に成長してきたともいえるのではないだろうか。年齢的にはまだチャンスはあるであろう。次に期待したい。

 ところで,三宅さんと同様に,次の世代の若者をどう育てるかは,どこの分野でも重要な課題である。6月21日欄で紹介した「司法サミット」でも,「若手裁判官の育成について考慮すべき事項」というのがとりあげられている。その結果概要(裁判所時報平成20年7月15日,7頁以下)には,「裁判員裁判は刑事裁判に抜本的な変革をもたらすものであり,裁判官には,専門的知識や技量とともに国民の信頼に足る人間的な力量が求められるところ,裁判員裁判に積極的に関与していくことによってこれらの資質・能力が養われることになるので,裁判員裁判は裁判官の格好のトレーニングの場になるとの認識が示された。」とある。もっともなことである。裁判所も,変革の時代であるから,「先輩から後輩への一方的な伝承的教育」(上記裁判所時報,8頁)だけでは十分でないことは明らかであり,国民の皆さんとの具体的な接触の中で,若者を育てていく時代のように思われる。(瑞祥)

4 コメント

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Unknown (111111)
2008-08-09 16:19:19
I LOVE CHINA
絶望の虚妄なるは、希望に相同じ... (山田 眞也)
2008-08-09 21:01:59
絶望の虚妄なるは、希望に相同じ...
 魯迅が残したこの言葉を、しばしば思い出す。
 希望は虚妄かも知れない。しかし、絶望だって同じくらいに虚妄なのだ。
 魯迅は、今の中国では、神棚に祀られた文豪ではないかと思うが、もし彼がよみがえって胡錦濤体制下の人民共和国を目にしたら、彼は泣くだろうか、笑うだろうか。
 「黒い猫でも白い猫でも、ネズミを取る猫がいい猫だ」という小平のご託宣以来、成長路線を驀進してきた中国は、富強国家への道を突き進んだ代償として、日本の高度成長に伴ったひずみ、歪みなどとは比べようがない、深刻な矛盾を生み出してしまったらしい。革命によって抑圧から解放されたはずの人民は、経済発展の対価を一方的に押し付けられ、新たな支配階級の下積みとされて、浮かぶ瀬がない苦難を強いられているのではないか。専制王朝の支配下で、常に民衆の膏血を吸ってきた貪官汚吏は、共産党支配のもとにあっても、根絶されるどころではなく、ますます手に負えない本性をあらわにしているようだ。
 「秋雨秋風愁殺人」を絶命の詞として散華した秋瑾女史以来、革命の理想に命をささげた数知れぬ烈士の魂は、この現状を何と見ているだろうか。
 碩学宮崎市定が、清朝の寿命を百年延ばしたと評価した世宗雍正帝の13年の治世は、貪官汚吏の一掃をめざす苦闘に明け暮れたが、むろん中国の貪官汚吏は、どんな名君が登場しても、その一代で根絶されるような、やわな代物ではなかった。
 今日の中国は、有り難くないことだが核兵器を備え、飛躍的な経済発展も実現した強大な国家だが、同時に世界の病人とそしられ、国境を越えて公害の影響を及ぼしている国でもある。日本人の中国への敵意を煽り立てようと、いま横行している熱病のような言論は、もしその蔓延を許せば、亡国の妄言ともなりかねない危険を孕んでいる。しかし、自国の勢力を拡大するためには、地球上の最も無責任な政府にも経済支援を与えて、その体制の存続を助ける中国の外交姿勢を見ると、北京オリンピック不参加を唱える主張にも、道理があると思いたくなる。
 20年前、もし胡耀邦が失脚せず、政権を握っていたら、この状況は変っていたろうか。むろん、誰にも答えることはできまい。しかし、仮に胡耀邦が天下を取っていたとしても、一党独裁体制を捨てられない限り、将来への展望は開けなかっただろう。
 胡錦濤は穏健な指導者という印象を与えるが、言論の自由は依然として締め付けられたままである。一党独裁体制を徐々に緩めようとする意図が、胡錦濤や彼の後継者に擬せられる指導者たちにあるだろうか。もし魯迅がよみがえって、言論の自由を求める健筆をふるい始めたら、権力者たちは彼に耳を傾ける余裕を示せるだろうか。
戒厳令下のオリンピック (山田 眞也)
2008-08-09 21:13:54
 北京は今や戒厳令下にある。
 北京をオリンピックの開催地に選んだときから、中国の内と外では、オリンピックに寄せる期待の中身が、全く違っていたと認めざるを得まい。
 この祭典を北京で催すことが、中国への世界の関心を大きく広げることによって、中国政府も国内の諸問題に対して、国際的な常識が受け入れるような方針を採用するに至るだろうという期待が、国外にあったのに対し、中国政府はオリンピックを国威発揚の機会としてのみ捉え、オリンピックの政治利用を許さないと宣言し、旧い体制の維持に執着する勢力だけに顔を向け、少しでも変革への足場を築こうとする試みには、いかなる譲歩も拒否し、抑圧強化で報いる姿勢を示している。
 胡錦涛の外国記者団に対する発言も、全く内向きに、いかなる譲歩もあり得ないと宣言して、権力者への抵抗を挫こうとする以外には、何も伝えようとしていない。本音では胡錦涛も、一党独裁がもう持たないくらいの見通しは持っていそうなものだが、今は一歩でも引くことが怖いのではないか。少しでも弱みを見せれば、体制が地響きを立てて崩壊するだろうと、怖れずにいられないのではないか。
 この異常な夏の終りまでに何が起きるか。
 無防備な民衆を標的とする絶望的なテロによって体制を突き崩そうとする自爆型の暴発が、あり得ないとは断定できないが、それさえなければ、あるいは民衆の自己陶酔的な愛国心への埋没によって、胡錦涛政権の意図に沿った祭典の成功が、かなりの程度まで達成されるかもしれない。
 しかし、政権への批判者を片端から、国家転覆陰謀という類のスパイ小説的な罪名で拘束し、何年でも刑務所に放り込むような体制が変らない限り、この国の未来はあるまい。オリンピックが、それを変えるきっかけになり得ると期待したわれわれは、やはり甘すぎたと証明されてしまったのか。
 そもそも、この広大な大陸を一つの政府がまとめて統治することに無理がありそうだ。そう思わないのは世界中で中国人だけではなかったか。少なくとも、EUの実現までは。
 ヨーロッパのように、1ダースくらいの国に分かれていた方が、人民にとっては幸福だったかもしれない。
 やはり秦の始皇帝の統一が無理だったのではないか。荊軻が秦王をしっかり始末しておいてくれれば、よかったのに。
 中国人自身が「中国は一つ」と唱えている以上、どうしようもないが、オリンピックについては、開催地北京以外の地方では、醒めた見方の比率が、当然に高くなる。
 朝日新聞の上海特派員西村大輔氏の「特派員メモ」によれば...
 上海市民10人にきいた結果、8人が北京オリンピック開催を支持せず、その理由は、「金がかかり過ぎる」、「治安対策が厳しすぎて日常生活に影響を与えている」、「地震の被災地復興が第一。五輪どころではない」など。
 その余の2人のうちの1人は「どうでもいい。五輪は北京の話。上海には関係ない」。支持するという意見はたった1人。しかも、その理由たるや「政府が集めた金は庶民のために使われず、役人の懐に消える。それよりは大衆の前で派手に使うほうがよほどましだ」というものだったそうだ。 
 この10人が無作為に選ばれたのか、どうかはわからず、北京への上海の対抗心も割引すべきだろうが、こういう結果が現れたのは、挙国一致して国威発揚に燃えるほどには、中国人の良識が失われたわけではないことの証左とみてもよさそうな気がする。
 とにかく、
 あの国を 誰がどんなに けなそうと 風は西から 東へと吹く
 それがいやでも、引っ越す先がない以上、何とか中国人自身の力で、安定した国を築いてもらうしかない。

報道占拠 (jsds001)
2008-08-10 14:40:38
ここのところオリンピックと高校野球の報道で、テレビはもちろん新聞でさえも一般のニュースのスペースが奪われています。景気の下降や物価高による生活苦など、従来よりも情報が減っています。細かいことを言うと、裁判員制度の実施が近づいているのに障害者の参加に対する対応があいまいなままですが、模擬裁判というきっかけもあるのに掘り下げた報道は皆無です。最高裁の出した数字からすると、年に700人程度の障害者が裁判員(補充を含む)に選ばれることになりますが、これは無視できる数字ではないでしょう。他に先んじて欠格条項を改正した検察審議会は、障害者の参加を軌道に乗せていますが、最高裁等はこの先例を生かさないのでしょうか?

昔はいざ知らずオリンピックは(日本では高校野球も加わりますが)、平和をもたらすよりトラブルのきっかけとなることが多いようです。スポーツという、建て前は中立で純粋なものの報道の陰で、当面息をつけると胸をなでおろしている人は少なくないでしょう。

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