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【憲法施行70年目の日に】
私がまだ書記官であった頃、今からもう10年以上前の話です。 
その日は日曜日で、しかも前日には地元の有名なお祭りがあり、毎年、不良少年が逮捕されて、勾留請求されるのが恒例になっていました。
私は、令状事務の当番で出勤していましたが、ちょうど、I判事も令状当番で登庁されていました。I判事は現職裁判官として様々な意見を公にされていましたが、私はそうしたI判事の、誠実で真摯な意見に共感し、密かに憧れていたのでした。
案の定、その日はたくさんの事件がきていて、忙しかったのですが、I判事は、そうした中にあっても、勾留質問においては温厚かつ丁寧に被疑者一人一人の弁解を聞きとり、そのほかの一般令状請求にあっては細部にまで手を入れながら手際よく事件を処理され、私たち休日出勤の職員にも「お昼ご飯を食べる時間はありましたか」「慌てないでいいですからね」と色々と気を遣ってくれていました。
最後に回ってきた事件は、前日のお祭りで仲間と騒いでいたところを、巡回中の警察官に咎められ、注意した警察官に暴行を働いたとして公務執行妨害で逮捕された現場作業員の少年の勾留請求事件でした。
I判事が勾留質問で、ふてくされる少年に被疑事実を告げ、どうしてこういうことになったのかと丁寧に問いかけたところ、次第に少年の唇がわなわなと震えだし、泣き出しました。I判事が優しく諭し、理由を聞くと、取り調べの際に刑事たちに小突き回され、殴られたということでした。「俺が悪いのはわかってるけど・・・、あんな風にされて・・・」と少年は鼻をすすりながら涙をぬぐいます。どこを殴られたのかとI判事が静かに尋ねると、少年はTシャツをめくって見せました。脇腹が少し赤くなっているようでした。
I判事は、それを見て黙って頷くと、勾留質問に立ち会っていた私に向かって、裁判官室でもう一度記録を検討したい、いったん中断するので、同行の警察官に連絡してくれませんかと丁寧に頼みました。私がその旨を告げると、彼らは顔を見合わせ、ひそひそと話を始めました。
その後、I判事はなかなか戻ってこないし、警察官からはまだですかとしつこく催促されるので、私は裁判官室にそっと様子を見にいきました。休日の庁舎は誰もおらず普段はシーンとしているのですが、I判事は電話で誰かと激しく言い争っているようで、怒気を含んだ大声が廊下にまで聞こえていました。どうやら、電話の相手は検察官か警察官かのようでした。私は、いつも温厚で、誰に対しても丁寧で優しいI判事があんな大声を上げているので、何か見てはいけないものを見てしまったような気がして、裁判官室のドアをノックせず、そのまま踵を返して部屋に戻って待っていました。
I判事は、その後、何事もなかったかのように戻ってこられ、いつも通りの優しい口調で私に「書記官、すまないけれど、罫紙を1枚、うん、コピー用紙じゃなくて、ちゃんと罫線の入ったのがいいです、持ってきてくれませんか」とおっしゃられました。
再開した勾留質問で、I判事は、少年から被疑事実はその通り間違いないと聴取した後、その罫紙とペンを少年に手渡し、反省文と出頭誓約を書かせて、勾留請求を却下されました。同行の警察官たちはその結果を聞くと、慌ててあちこちに連絡を取っていました。
(準抗告はなく、そのまま少年は釈放されました。)
勾留質問の後、私に向かってI判事は「書記官、お手数をおかけしましたね。でもね、警察は実際にああいうことを時々、やってしまうんだよ」と言って眉を顰めました。
今では、勾留却下率は全国平均でも4パーセントぐらいにまで上昇しているようですが、その当時は、勾留が却下されることは珍しく、私は、初めてそれを目の当たりにし、司法の廉直性とI判事の姿勢とその判断に心動かされ、ろくに口もきけずにいました。
その日、私は帰宅する電車の中で、つり革につかまり、流れ行く夕暮れの街並みを車窓から眺めつつ、学生時代、あんなに頑張っていた司法試験を諦めて、裁判所職員となり、全てをなかったことにして無為に過ごしてきた日々を心底、後悔しました。過ぎ去った日々はもう戻ってこないし、いろいろな制度は自分が学生の頃からは考えられないぐらい、様変わりしつつありました。
I判事は人事上、あまり恵まれていなかったという人もいるようですが、私に声を潜めて「死刑判決を出さずに定年を迎えることができた、これが一番の勲章だよ」と言い残して、定年退官されました。
それからしばらくして、私は選考採用を経て、簡易裁判所判事に任官したのでした。


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