泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、「国のまほろば・大和・大宰府」の風景を紹介したいと思います!

古代の 「難波宮」跡

2016年11月02日 19時47分49秒 | 歴史

「難波宮」は、乙巳の変(645年4)の後、中大兄皇子(後の天智天皇)らによって企画され、652年に完成し「皇極天皇」から譲位された「孝徳天皇」が遷都しました。

しかしこの宮殿は、686年に火事で焼失してしまいました。これを「前期難波宮」と呼んでいます。その後は、744年になって同じ場所に「聖武天皇」によって宮殿(後期難波宮)が築かれました。

今回は、古代の「難波宮」跡を紹介したいと思います。

「難波宮」は、古代日本において難波(現在の大阪府大阪市)の地に設営された本格的な宮殿建築とされます。

「大化の改新」とよばれる革新政治は、この「前期難波宮」でおこなわれました。『日本書紀』には「その宮殿の状、殫(ことごとくに)諭(い)ふべからず」と記されており、言葉では言い尽くせないほどの偉容をほこる宮殿であったようです。宮殿は、回廊と門で守られた北側の区画は東西185メートル、南北200メートル以上の天皇の住む内裏です。その南に当時としては最大級の東西約36メール・南北約19メートルの前殿、ひとまわり小さな後殿が廊下で結ばれています。これらの内裏と朝堂院の外側(まわり)に役所(官衙)が存在したようです。内裏南門の左右に八角形の楼閣状の建物が見つかりました。これは、「難波宮」の荘厳さを示す建物でした。現在、その跡は八角形の柱に藤が植えられていました。

「後期難波宮」は、奈良時代前期の726年に聖武天皇が藤原宇合に命じ、「難波宮」に瓦葺の離宮を造営しました。744年には恭仁京から難波京への遷都が実施されました。発掘調査によれば、奈良時代の「後期難波宮」周辺には正東西南北方位(正方位)にのびる溝が広い範囲で多数検出されており、建物跡も正方位に築かれたようです。さらに、溝からは墨書土器を含む多数の土器が出土しており、相当数の人間が生活していたことが想定されているようです。

「難波宮」の遺跡は現在の大阪城の外堀南西部あたり、大阪市中央区馬場町・法円坂・大手町・大阪博物館やNHK大阪放送会館の複合施設がある一角も「難波宮」の跡です。大阪歴史博物館の地下1階では、地下遺跡の様子を見学することができます。学芸員の方に案内・説明していただきました。とても、興味深く話を聞くことができました。

大阪歴史博物館の10階へ上ると、奈良時代の「難波宮」の大極殿の復元されたものを見ることができます。原寸大に復元した空間では、直径70センチもある朱塗りの円柱が立ち並び、官人たちが整列しています。大スクリーンでは宮廷の儀式のようすをわかりやすくご紹介されていました。

また、同博物館前にある茅葺きの高床倉庫は、法円坂遺跡で見つかった5世紀(古墳時代)の巨大高床倉庫群のうち1棟を復元したものです。

現在、「難波宮」の跡地の一部は、「難波宮史跡公園」となり、大阪城の南に整備されています。前期・後期の遺跡を色を変えて元に建物の基壇などが設置されていました。公園は、市民の方の憩いの場にもなっているようです。

654年に「孝徳天皇」の没後、再び「斉明天皇」(皇極天皇が重祚)により「飛鳥の地」に宮が移されました。

今回は、飛鳥が大好きな歴史サークルの皆さんと一緒の歴史散策でした。とても楽しい時間をすごすことが出来ました!

                                                       

 

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