泉飛鳥塾

「古(いにしえ)の都・飛鳥」の原風景と共に、「国のまほろば・大和・大宰府」の風景を紹介したいと思います!

日本書紀に出てくる 「古代の寺院跡」

2016年09月15日 21時00分59秒 | 歴史

飛鳥の周辺において、日本書紀に出てくる「古代の寺院跡」を見ることができます。今回は、「古代の寺院跡」を紹介したいと思います。

〇本明寺「石川精舎跡」

本明寺「石川精舎跡」は、橿原市石川町にあります。『日本書紀』の記述の中にある寺院です。敏達天皇13年(584)9月の条に、”百済から帰国した鹿深臣(かふかのおみ)が弥勒菩薩の石像一体をもたらし、佐伯連(さえきのむらじ)も仏像一体を持って帰ってきました。この年、蘇我馬子(そがのうまこ)はこれら二体を請い受け、弥勒菩薩象は家の東方に仏殿造って安置した”とされています。さらに、”馬子は石川の家に仏殿を造った。仏法の広まりはここから始まった”とあります。敏達天皇13年(584)に蘇我馬子が石川の宅に造った寺「石川精舎」の跡と伝えられています。

境内に蘇我馬子の五輪塔と伝えられる高さ230cmもある鎌倉時代の立派な石塔があります。住宅地の中にあり、説明版もありませんので見つけるのに苦労しました。

         

〇大窪寺跡

橿原市大久保町にある「大窪寺跡」は、跡地付近に所在する国源寺観音堂(こくげんじ かんのんどう)が法燈を継承するとされ、同寺の境内に伝世される塔心礎は大窪寺のものと推定されます。大窪寺は、天武天皇朱鳥元年(686)八月条の寄進記事にその名がみえているので、天武期の創建であることが窺えます。伽藍配置は明らかではありませんが、塔心礎と伝えられる礎石の位置などから、国源寺本堂のあたりが金堂であった可能性があります。神武天皇陵のすぐ近くありました。

                    

〇軽寺跡

橿原市大軽町にある「軽寺跡」は、「日本書紀」朱鳥元年(686)8月の条に「桧隈寺、軽寺、大窪寺それぞれに30年を期限として寄進する」との記事があります。法輪寺境内に金堂及び講堂と推定される土壇を残すのみで、土壇の位置や地形から法隆寺式ではないかと考えられています。寺域は法輪寺本堂のある丘陵の一部が周辺2m~3mほど際立っており、寺域が及んでいた可能性があります。軽寺の“軽”という文字は大寺の名前によく使用されるほどで、寺域の推定は南北140m以上、東西65m程の大寺であったようです。また境内には第15代天皇応神天皇の『軽島豊明宮跡(かるしまとよあきらのみやあと)』の伝承地とされており碑が立っています。現在は往時の跡形もなく、法輪寺の境内に説明板が記されています。

               

〇保寿院「膳夫寺跡」

橿原市膳夫町にある保寿院「膳夫寺跡」は、聖徳太子妃膳夫姫(かしわてひめ)がその養母を弔うために建立した「膳夫(かしわて)寺跡」と伝えられています。
7世紀後半の瓦や柱穴のある礎石がここから出土しています。境内南に弁天神社、三柱神社が有ります。細い道の、行き止まりの所にある寺院跡でした。

                      

日本書紀を見ながらの歴史散策でした。「古代の寺院跡」は訪れる人もなく、何だか歴史から取り残されたような場所でした。でも、とても興味深く散策することができました!

 

 



 

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